第30話 夜明けの再出発
夜明けは、冷えた空気と共にゆっくりやって来た。
東の空がわずかに白み始め、街道脇の草に朝露が光る。
馬が鼻を鳴らし、火の消えかけた焚き火から細い煙が立ち上っている。
簡易の野営地では、護衛たちが順に身支度を始めていた。
トウヤは裂けた袖を結び直しながら周囲を見ている。
傷は浅いとはいえ、昨夜の戦闘の痕は全員に残っていた。
サイカの青銀の鎧にも新しい傷が走り、アナの頬にも細い擦り傷が一本残っている。
その中で、ユキの顔色が明らかに悪い。
焚き火のそばに座っていた昨夜と同じ姿勢のまま、刀を傍らに置き、静かに立ち上がる。
眠っていたようには見えない。
事実、ほとんど眠っていないのだろうと誰の目にも分かった。
サイカが露骨に眉を寄せる。
「お前、本当に一睡もしなかったのか」
「少しは目を閉じた」
「それを寝たとは言わん」
「問題ない」
即答だ。
サイカは深く息を吐く。
呆れているのか、怒っているのか、その両方かもしれない。
だが今さら押し問答をしても無駄だと判断したのか、それ以上は言わなかった。
そのやり取りを少し離れた場所から見ていたセリスが、視線を逸らすように馬車の脇へ向かう。
だが数歩進んだところで足を止めた。
少し迷うような間があってから、彼女は手にしていた水袋を無言でユキへ差し出す。
ユキは一瞬だけそれを見た。
「何だ」
「見れば分かるでしょう」
「毒でも入ってるのか」
「入れていたとしたら、あなたはもう少し警戒しなさい」
棘のある返しだったが、昨夜までの拒絶の硬さとは少し違っていた。
ユキは小さく肩をすくめ、水袋を受け取る。
「……倒れられると困るのよ」
「また王女命令か」
「そう思いたいなら勝手に思えばいいわ」
言い捨てるようにして、セリスはすぐにそっぽを向く。
その耳の先だけがわずかに赤いのを見て、アナがぱちぱちと目を瞬かせた。
昨夜、焚き火の向こうで何があったのかまでは知らない。
けれど、明らかに空気は少しだけ変わっていた。
ユキは水を一口飲み、視線を前へ戻す。
その横顔は相変わらず素っ気ない。
だが、受け取った水袋を返す動作だけは妙に丁寧だった。
その頃、トウヤは自らの手甲に触れ、小さく魔力を流していた。
白い光が揺れ、薄い障壁が手の甲の上に咲くように広がる。
《ハクジュン》だ。
セリスの視線が、自然とそこへ吸い寄せられる。
トウヤは気づいていたのかいなかったのか、障壁の厚みを確かめるように一度だけ手を握り込み、それからいつも通りの落ち着いた声で言った。
「昨夜も殿下に助けられました。ハクジュンの強度は十分です」
その言葉に、セリスがわずかに目を見開く。
「……十分、なの?」
「十分どころか、過剰なくらいですよ」
「あの黒煙の中でこちらの被害が少なかったのも、この魔装の……いえ、殿下のおかげです」
飾り気のない声音だ。
慰めるためでも、機嫌を取るためでもない。
ただ事実をそのまま告げているだけの声だ。
セリスはすぐには答えられなかった。
自分の作ったものが、誰かを守っていた。
その当たり前のはずの実感が、今の彼女にはどこか遠かったのだろう。
比較されること。
怯えられること。
忌まれること。
その影ばかりを見せられてきたせいで、力が誰かを支えた瞬間を、うまく信じられなくなっていた。
ユキが横から短く言う。
「ほらな、分かりやすいだろ」
セリスはむっとしてそちらを見る。
「あなた、またその話を」
「事実だ」
トウヤは何のことだという顔をしていたが、アナだけは昨夜の焚き火の空気を知らないなりに、何となく今のやり取りの意味を察したらしい。
犬耳を小さく揺らしながら、嬉しそうに笑う。
「やっぱり、殿下の魔装ってすごいんですね」
真正面からそう言われて、セリスは言葉に詰まる。
サイカが全員の様子を一度見回し、空気を切り替えるように口を開いた。
「和やかなところ悪いが、現実の話をするぞ」
その声で場の温度が少し引き締まる。
「昨夜の連中は潰れていない。撤退しただけだ」
「黒煙、連携、退き際の速さ、どれを取っても場当たりの盗賊ではない」
サイカの青い瞳が細くなる。
「何より厄介なのは《ソラネ》持ちだ。空を足場にするような機動力、接近と離脱の速さ、気配の薄さ。昨日は黒煙と合わせて場を乱されたが、次があれば更に厳しい」
アナがごくりと喉を鳴らす。
「また、来ますか」
「来ると思え」
即答。
ユキは黙って聞いていたが、その顔色の悪さをサイカは見逃していない。
だが、そこで無理に戦力の話を突きつけることはしなかった。
昨夜の時点で、ユキがどれだけ消耗していたかは十分に見ている。
その沈黙を破ったのは、セリスだった。
「……なら、何もしないよりはましね」
全員の視線が集まる。
セリスはほんの少しだけ顎を上げた。
昨夜までの、拗ねるような棘とは違う。
まだ強がりは残っている。
それでも、その奥にあるのは逃げる気配ではなかった。
彼女はアナの方へ歩み寄る。
「あなた、武器を見せて」
「え、私ですか?」
アナは慌てて腰の武器へ手をやった。
だがセリスはその動きを見て、すぐに首を横に振る。
「……やっぱり、武器はやめましょう」
「え?」
「あなたの武器はまだ、初心者用向けの品ね」
「そういう段階で武器そのものに細工をしても、手に馴染まなくなるだけよ。初心者向けの武器っていうのは、扱いやすさが一番大事なの。余計な補助を乗せると、かえって癖になる」
言い方は少しきつい。
けれど、その内容は驚くほど実践的だった。
アナは目を丸くする。
「じゃ、じゃあ、何を……」
セリスの視線が、アナの首元へ向く。
普段から下げている、小さな金具のついた革紐の飾り。
旅の途中で邪魔にならない程度の、簡素なアクセサリーだ。
「それを貸しなさい」
アナは素直に首から外して差し出した。
セリスはそれを受け取ると、両手で包むように持ち、小さく目を閉じる。
すると、指先の間に淡い光が灯った。
白とも金ともつかない、薄い朝の光に似た色だ。
魔力は派手に脈打たない。
ただ静かに、丁寧に、編み込まれるように飾りの中へ沈んでいく。
しばらくして、彼女はそれをアナへ返した。
「魔装の名前は、ミハル」
「大したものじゃないわ。五感を少しだけ研ぎ澄ます程度よ」
「音、匂い、空気の流れ、気配……そういうものが、少し拾いやすくなる」
アナは受け取った飾りをそっと握る。
「す、すごい……」
「勘違いしないで。置き土産みたいな無茶はできない。あくまで補助。拾える情報が増えるだけ。使いこなせるかはあなた次第」
セリスはそこで一度言葉を切り、アナの耳と尾を見た。
「でも、獣人のあなたなら相性は悪くないはずよ」
「元々持っている感覚を、少しだけ前に出す。それくらいなら、今のあなたの武器より自然に馴染むんじゃない」
アナはおそるおそるアクセサリーを身につけ、呟く。
「ミハル、魔装顕現」
次の瞬間、犬耳がぴんと立った。
「……え」
焚き火の灰が崩れる小さな音。
馬が鼻を鳴らす気配。
少し離れた場所で誰かが革紐を締め直す擦れた音。
風に混じる土と金属の匂い。
いつも拾っていたはずのものが、輪郭を持って近づいてくる。
アナが目を見開く。
「すごい……なんか、音が近いです。匂いも、風も……いつもより、分かる」
「拾いすぎると疲れるわ。慣れるまでは意識しすぎないことね」
ユキが横からそれを見て、短く言った。
「……悪くない」
それだけだった。
だがセリスは、その一言にほんの少しだけ目を伏せる。
昨夜なら、素直に受け取れなかったかもしれない。
今は違う。
サイカが頷く。
「使えるな。索敵と迎撃の精度が上がるなら十分だ」
「そういうこと。派手に斬れるようになるより、生き残る方が先でしょう」
セリスの返しは、少しだけいつもの調子を取り戻していた。
やがて出発の準備が整う。
馬車が軋み、護衛たちが配置につく。
朝の街道は静かだった。
何も起きていないように見える。
だが、その静けさこそがかえって不穏だった。
再出発してしばらくした頃。
アナの耳が、不意にぴくりと動く。
「……待ってください」
その声に、前を行くサイカがすぐ手を上げた。
馬車が止まる。
全員の気配が一気に研ぎ澄まされる中、アナは首元の飾りを押さえ、空を見上げた。
「何か……います」
風の上を、何かが掠めた気がした。
音はない。
影もない。
けれど、空気の流れだけがほんの一瞬、不自然に乱れた。
ユキの目が細くなる。
サイカも同じ方向を見る。
蒼銀の髪が朝風に揺れた。
「上か」
次の瞬間には、もう何もいない。
ただ高い空の彼方に、鳥でも飛び去ったような、あまりにもわずかな余韻だけが残っていた。
アナが息を呑んだ。
「今の、まさか……」
ユキは刀の柄に手をかけたまま、低く吐き捨てる。
「ああ。まだ終わってない」
朝の光はすでに街道を照らしている。
それでも、空のどこかにはまだ火種が潜んでいた。




