第29話 王女と焚き火
盗賊たちの気配が完全に遠のいた頃には、空はすっかり夜の色を深めていた。
追撃はしなかった。
サイカが即座に判断したのだ。相手が撤退した以上、今優先すべきは王女の安全と負傷者の確認である。
街道脇に馬車を寄せ、簡易の陣を敷く。
火を起こし、見張りを立て、護衛たちは順に手当てへ回った。トウヤは腕に浅く裂傷を負っていたが動けないほどではなく、アナも頬に薄い擦り傷を作った程度で済んでいる。サイカは傷こそ浅いものの、鎧のあちこちに戦闘の激しさを物語る痕が刻まれていた。
その中で、ユキだけが最後まで「問題ない」と言い放つ。
問題ないはずがない、と誰の目にも分かる顔色だったが、それでも本人が譲らない以上、無理に寝かせることもできない。
結局、最初の見張りはユキが引き受ける形になった。サイカは露骨に眉を寄せたが、押し問答を続ける余力がこちらにも残っていない。
火の番を任せ、異変があれば即座に起こせ、それだけを短く告げて自分の持ち場へ戻っていった。
焚き火が、ぱち、と小さく音を立てる。
夜気は冷えていた。
黒煙と血の匂いがようやく薄れた代わりに、湿った土と草の匂いが戻ってくる。揺れる火の向こうで、ユキは刀を傍らに置いたまま、じっと闇を見ていた。背筋は伸びている。座っているのに、今にも立ち上がって斬り込めるような姿勢だった。
だが、その横顔は白い。
肺の奥に残った熱はまだ引かず、息をするたび胸の内側がひりつく。
三本だけとはいえ、《黒界三刀》は今のユキにとって軽い技ではない。
むしろ千刃のような物量の誤魔化しが利かない分、神経を削る。
(まだ起きてるの?)
頭の奥で、シグレが呆れたように言う。
「見張り中だ」
(それは見れば分かるよ。そうじゃなくて、横にならないのって話)
ユキは答えず、火に細い枝を一本くべた。炎がふっと持ち上がり、その赤が一瞬だけ頬を照らす。
(……無茶するね、ユキは)
「お前が言うな」
(私は止めたよ?)
そうだったか、と胸の内でだけ返す。こんな時でも軽口を挟んでくるあたり、シグレはいつも通りだった。だからこそ助かる。静かすぎる夜に一人でいるより、よほどましだった。
息を深く吸おうとして、胸の奥が焼けるように痛んだ。
そのとき、背後で布の擦れる音がした。
ユキは振り返らずに言う。
「起きてたのか」
返事は、すぐにはなかった。
代わりに足音が近づいてくる。
焚き火の明かりの届く場所まで来て、ようやくその姿が見えた。薄い外套を羽織ったセリスが、少しだけ居心地悪そうに立っている。
「……まだ起きていたの」
「見張りだ」
素っ気ない返答だった。
セリスはそれ以上言葉を継げず、一度だけ視線を逸らす。
何を言うためにここへ来たのか、自分でも上手く定まっていない。そんな迷いが、その立ち尽くす様子からそのまま伝わってくる。
「中に戻れ。冷える」
「命令しないで」
「忠告だ」
「同じようなものでしょう」
火を挟んで交わされる声は、まだどこか硬い。昼間までと同じように棘がないわけではない。ただ、それでも完全に拒絶し合っていた時よりは幾分ましだった。
セリスは小さく息を吐いて、少し離れた位置に腰を下ろした。火の明かりがその横顔を照らす。整った顔立ちには疲労の色が濃く、けれど瞳だけは眠気より別のもので揺れていた。
今日の戦闘が、まだ頭から離れていないのだろう。
しばらくは、焚き火のはぜる音だけが続いた。
先に口を開いたのは、セリスだった。
「あそこまで無茶をする必要があったの」
ユキは闇を見たまま答える。
「依頼だからな」
「それだけで、あんな顔になるまで?」
わずかに、言葉が詰まる。
セリスは見ていたのだ。
地に刀を突き、崩れそうになりながらなお立っていた背を。
ユキは焚き火へ視線を落とした。
「王女を死なせたら面倒だ」
「……それ、本気で言ってる?」
「半分くらいは」
あまりにも淡々とした声に、セリスは呆れたように眉を寄せる。だが、その表情はすぐに陰った。
「私が、魔装を作れなかったら、襲われたりもしなかった」
零れた声は、先ほどまでの強気な調子よりずっと小さかった。
「ただの王女であったなら、良かったのに」
(……それは違うと思うけど)
空気の読めないシグレの声を、ユキは敢えて聞こえないフリをした。
焚き火の向こうで、ユキの睫毛がわずかに伏せられる。
セリスは続けた。
「魔装が作れた所で、魔女と比べられ、誰も私を見てくれない。何も良いことなんて無いわ。」
「守るために作ったって、どうせ誰もそんなふうには見ない。力が強ければ危険だと言われて、弱ければ価値がないと言われる。だったら私は、一体どうすれば――」
「……お前は、何のために魔装を作る」
低い声だった。
責めるでもなく、試すでもない。ただ、まっすぐ芯を問うような声音だった。
セリスは言葉を失う。
即座に答えられない自分に、かえって腹が立つ。けれど、ユキはそれを急かさなかった。
火が揺れる。
夜風が草を撫でる。
その静けさの中で、ユキは続けた。
「人を守るためなら、それでいい」
セリスが顔を上げる。
「聖女セレスティア――セラもそうだった」
焚き火の赤が、ユキの横顔を淡く照らしていた。冷えた夜気の中で、その声だけが不思議と揺らがない。
「人のために力を使え」
「それを履き違えなければ、お前は決して魔女にはならない」
セリスの喉が小さく震えた。
「……世界は、そうは言わないわ」
「言わせておけ」
即答だった。
あまりにも迷いがなく、セリスは思わず息を呑む。
ユキはそこで初めて、ゆっくりと彼女へ視線を向けた。
「セラを聖女だと、俺が知っている」
「世界が魔女と呼んでも、誰よりも優しかったことを俺は知っている」
火が小さく爆ぜた。
「だったら同じだ。お前のことだって、必ず誰かが見てる」
その声は、先ほどまでと同じように低い。けれど、ほんのわずかにだけ柔らかかった。
「たとえば、トウヤとかな」
「……何よ、それ」
思わず、セリスの口からそんな言葉が漏れる。
あまりに具体的すぎて、綺麗事として受け流すこともできなかった。
「ハクジュンは、誰かを護る為の魔装だろう」
「少なくとも、トウヤはあの魔装に護られている」
セリスが作成したハクジュンの護る強さを、ユキはこの目で見ている。
「それに分かりやすいだろ、あいつ」
「そういう話じゃないわ」
「そうか」
本当にどうでもよさそうに返されて、セリスは少しだけ唇を尖らせる。だが、そのやり取りのせいか、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
しばらくして、セリスは小さく目を伏せた。
「……分からないわ」
「分からなくていい」
「違うわ」
「違う?」
セリスは言葉を探すように沈黙して、それからようやく絞り出す。
「あなたが、そこまでして守ったのが……少し、分からなくなっただけ」
嫌いなはずだった。
怖い男だと思っていた。今だって完全にそう思わなくなったわけではない。
それでも、あの背中を見た後では、以前と同じ言葉で切り捨てられなかった。
ユキはそれを聞いても、特に何も言わなかった。
ただ火を見つめ、ややあってから短く返す。
「別に構わない」
セリスはその横顔を見つめる。
不器用で、愛想がなくて、言葉も足りない。けれど、誰かを守ると決めたら最後までそこに立ち続けるのだと、その背中が知ってしまった。
「……今日のことは、感謝しているわ」
やっとのことでそう言うと、ユキは少しだけ目を細めた。
「そうか」
「それだけ?」
「十分だ」
あまりにも簡素な返事に、セリスは思わず小さく笑ってしまう。
その笑みは一瞬で消えたが、それでも確かにそこにあった。
「変な人」
「お互い様だ」
夜はまだ深い。
だが、焚き火の向こうにあった距離は、戦う前よりほんの少しだけ近くなっていた。
セリスは立ち上がる。馬車へ戻る前に、最後に一度だけ振り返った。
「……倒れられたら困るの」
「王女に心配される筋合いはない」
「そう。だからこれは王女としての命令よ。ちゃんと休みなさい」
言い残して、彼女は馬車へ戻っていく。
残されたユキは、去っていく背をしばらく見送ったあと、ふっと息を吐いた。
(ちょっと距離縮まった?)
「知らん」
(ふふ。今のは、たぶん悪くなかったよ)
焚き火が静かに揺れる。
ユキは火の向こう、王女が戻っていった暗がりを一度だけ見てから、再び夜の見張りへ視線を戻した。
まだ終わってはいない。
夜は深く、街道の先にはなお火種が残っている。
それでも今夜、あの王女の瞳はもう、“魔女の影”だけを見てはいなかった。




