第28話 逃げ場なき空
「魔装顕現――《黒界三刀》」
音もなく、三本の黒刀が顕れた。
一振りはユキの左に。
一振りはその頭上に。
そして最後の一振りが、背後から静かに付き従うように宙へ浮かぶ。
黒く、細く、研ぎ澄まされた刃。
《黒界千刃》のように視界を埋め尽くす圧倒的な物量はない。
黒妖族の女が、わずかに目を細める。
ほんの些細な変化だった。
だが、その反応を見逃すほどシグレも鈍くはない。
(あ、今ので分かった。警戒したね)
頭の奥で、シグレが小さく笑う。
ユキは答えなかった。
ただ、女から視線を外さないまま、右手の指先を小さく、くい、と動かす。
一刀が疾く駆け抜ける。
黒妖族の女は即座に身を捻り、その斬撃を紙一重で躱した。
だが、逃れた先にはすでに二刀目が潜り込んでいる。
鋭い金属音が弾けた。
逆手に握られたナイフが黒刀を受け、火花が散る。
その閃きが消えるより早く、さらに死角から三刀目が喉元へ滑り込んだ。
黒妖族の女は空を蹴るようにして後方へ跳ぶ。
《ソラネ》による異様な機動。
重力から半歩外れたようなその身のこなしは、常人の追えるものではない。
だが、それでも遅い。
着地点へ逃れたその場所には、すでに最初の一刀が回り込んでいた。
「――っ」
短く息を詰める気配。
ここへ来て初めて、相手の呼吸がわずかに乱れた。
速さではない。
重さでもない。
逃げ道が、ないのだ。
踏み込めば斬られる。
退けば、その先に刃が待つ。
上を取っても、下へ潜っても、次に自分が選ぶ位置へ先回りするように黒刀が差し込まれる。
まるで空間そのものに見えない檻を組み上げ、その内側へ相手を閉じ込めていくような攻めだった。
(うわ、性格悪いねぇ)
「まぁな」
吐き捨てるように返しながら、ユキの額を汗が伝う。
三本。
たった三本。
一本ごとに軌道を読み、間合いを測り、相手の視線と癖を追い、三つの刃が空中でぶつからぬよう精密に制御しながら、自分自身も前へ出る。
《黒界千刃》のように物量で押し潰す技ではない。
これは、たった三本の刃に極限まで意志を宿し、一瞬の狂いすら許されないまま獲物を追い詰める技だった。
その分、消耗は深い。
集中が、削られていく。
魔力が、目に見えるように失われていく。
肺の奥が焼けるように熱い。
視界の端はじわじわと暗み、指先には鈍い痺れがまとわりついていた。
(ユキ、そろそろユキが持たない)
頭の奥に響く声は、いつもの調子を崩していない。
切迫した状況のはずなのに、その声音だけは妙に落ち着いていて、だからこそ余計に現実味があった。
「……相変わらず、燃費が悪いな」
掠れた声で吐き捨てると、
(軽口叩けるなら、大丈夫そうだね。もう一本増やそうか?)
シグレがくすりと笑う気配がした。
「悪かった」
短く返す。
それだけのやり取りだった。
だが、張り詰めきった意識の中では、その一言ずつが不思議なほど心地いい。
極限の最中だというのに、こんな時だけは呼吸が合う。
くだらない軽口を交わす、その一瞬だけが、むしろ二人にとっていちばん自然だった。
ユキの口元がわずかに上がる。
同じように、シグレもまた楽しげに気配を揺らした。
ほんの一瞬。
されど、そのわずかな緩みすら、二人には十分だった。
それでもユキは止まらない。
止めれば終わる。
次に喉を裂かれるのは、自分だ。
黒妖族の女が再び高く跳んだ。
空を足場にする《ソラネ》の機動はなお鋭い。
だが、先ほどまでのような余裕はもうない。
「取った」
低く落ちた声と同時に、ユキの左手が払われる。
頭上に待機していた黒刀が急角度で落下し、退路を潰す。
同時に右へ巡っていた一刀が胴を薙ぎ、
最後の一刀が音もなく喉元へ滑り込んだ。
三方向からの包囲。
もはや逃れようのない、完全な詰みだった。
その瞬間、黒妖族の女が初めて真正面からユキを見た。
そこにあったのは驚きでも恐怖でもない。
むしろ何かを測るような、底の冷えた視線だった。
次の瞬間、足元にわずかに残っていた黒煙が爆ぜる。
「っ……!」
視界が揺れた。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬で十分。
黒妖族の女の姿が、風に溶けるように後方へ消える。
三本の黒刀は空を裂いたまま、仕留めるべき標的を失って空を切った。
ユキは追おうとして、一歩を踏み出しかけ――そこで止まる。
街道の向こうには、まだ王女がいる。
「……逃がしたか」
低く落ちたその声には、悔しさよりも先に濃い疲労が滲んでいた。
やがて黒刀が霧散する。
張り詰めていた糸が切れたように、その途端、全身から力が抜けた。
膝が落ちかける。
その刹那、ユキはかろうじて刀を地に突き、崩れそうになる身体を無理やり支えた。
「ユキさん!」
アナの声が響く。
サイカの目が鋭く細まり、すぐに周囲へ視線を走らせる。
黒煙はまだ薄く残り、盗賊たちの気配も完全には消えていない。
ここで気を緩めるわけにはいかない。
そして、白い障壁の内側にいるセリスは動けずにいる。
その視線は無意識にユキを捉えていた。
魔女を慕う危うい男。
そう思っていた。
無愛想で、刺すような目をしていて、自分が口にした嫌悪にも容赦なく殺気を返してきた男。
理解などしたくもない相手だった。
だが今、その男は自分を守るために明らかに無理をしていた。
余裕の勝利ではない。
命を削るようにして、なお前に立っていた。
セリスは何も言えない。
言葉にしようとしたものが、喉の奥で止まる。
嫌いなはずだった。
怖いはずだった。
なのに、目が逸らせない。
地に刀を突いて立つその背は、ひどく危うく見えるのに、同時に誰よりも揺るがない。
その姿を、王女はただ見つめることしかできなかった。




