第27話 黒界三刀
黒煙の中では、音だけが先に届いた。
風を裂く音。
刃が闇を撫でる音。
そして、それを受け止める金属音。
ユキは視界をほとんど捨てていた。
目を開けていても、見えるものはない。
見ようとすればするほど、反応が遅れる。
だからユキは呼吸を落とし、耳と肌で周囲の変化を拾った。
煙を吸い込むたび、肺の奥がわずかに痛む。
喉に苦みが残り、呼吸は浅くなる。
それでも動きを止めれば、次の刃は確実に急所を狙ってくる。
右上から、風が鳴った。
ユキは反射で刀を跳ね上げる。
ぎん、と刃がぶつかる。
だが、受けた瞬間には相手の重みはそこにない。
力を押し込む前に、ダークエルフはもう引いていた。
次は背後。
振り向くより早く、ユキはシグレを返す。
黒い刀身が、喉元へ迫っていた短剣を受け止めた。
火花が散る。
けれど、その火花すら黒煙の中では一瞬で呑まれた。
「……面倒な」
小さく吐き捨てる。
ダークエルフの動きは、黒煙に包まれてからさらに厄介になっていた。
先ほどまでは、まだ影が見えていた。
空を歩くような足運びも、刃が来る角度も、目で追える範囲にあった。
だが今は違う。
煙の中で、相手は完全に姿を消している。
そして《ソラネ》は、本来ならあり得ない場所に足場を作る。
地面を踏む必要がない。
枝を蹴る必要もない。
だから気配の起点がずれる。
人が動くなら、地面が鳴る。
草が揺れる。
体重が移る。
空気の流れが変わる。
だが彼女は、そのどれにも縛られていない。
闇の中、どこにもいないようで、どこにでもいる。
左。
いや、上。
ユキは判断を変え、刀を縦に立てた。
直後、真上から落ちてきた刃がシグレの鍔元を叩く。
速さを乗せた一撃は小柄な身体からは想像できないほど重く、受けた腕に鈍い痺れが走った。
ユキはそれを押し返すより先に、横へ身を沈める。
次の刃が、首のあった場所を走った。
紙一重。
刃先が髪を数本さらっていく。
(ユキ、後ろ)
シグレの声が頭の奥に落ちる。
「分かってる」
答えながら、ユキは踏み込まずに半歩引いた。
背後から来た短剣が空を斬り、その空振りの気配を拾って、ユキは即座に刀を振るう。
黒い刃が煙を裂いた。
けれど、手応えはない。
斬ったのは、煙だけだった。
「……ちっ」
(出た、舌打ち)
「黙ってろ」
(余裕ない?)
「少しな」
ユキは短く認めた。
状況は悪い。
こちらは守るべき場所から離れすぎるわけにはいかない。
見えない空間そのものから斬撃が降ってくる相手は厄介だった。
しかも、相手は喋らない。
呼吸も浅く、感情も殺している。
その沈黙が、黒煙の中では刃よりも不気味に思えた。
ユキの足元で、土がわずかに削れる。
次の瞬間、右の脇腹へ刃が走った。
ユキは刀で受けようとして、寸前でやめる。
間に合わないと判断した瞬間、身体を捻った。
刃が服を裂く。
浅い。
だが、皮膚までは届いた。
熱が遅れて走る。
(ユキ)
「問題ない」
(さっきからそればっかり)
「事実だ」
(ならいいけど)
シグレの声は軽い。
けれど、その奥に細い緊張が混ざっていることを、ユキは知っていた。
黒煙が揺れる。
右ではない。
左でもない。
下。
ユキは膝を抜き、身を沈めた。
足首を狙った刃が煙の底を滑る。
同時に、上からもう一撃。
完全な連携だった。
一人で放っているとは思えないほど、角度が噛み合っている。
ユキは低い姿勢のまま、シグレを頭上へ掲げた。
ぎぎ、と刃が軋む。
「……器用なことをする」
黒煙の向こうから、返事はない。
ただ、刃だけが答えた。
短剣が押し込まれる。
ユキはそれを力で弾き返すが、ダークエルフは反動すら利用して煙の中へ消えた。
姿が見えない。
ユキは息を吐いた。
「流石にキツいな」
その声は、黒煙の中でひどく小さく響いた。
(どうする?)
シグレが問う。
軽く聞こえる声。
けれど、これは確認だ。
ユキが何を選ぶか、シグレはもう分かっている。
ユキは刀を握り直した。
「仕方ない――」
そこまで言いかけた瞬間、黒煙の奥で別の音がした。
刃ではない。
足音でもない。
もっと大きく、重く、空間そのものを押し開くような気配。
ユキは一瞬だけ目を細める。
次の刹那。
黒煙が、裂けた。
横一線。
森の闇を塗り潰していた煙が、まるで巨大な布を切り払われたように左右へ割れる。
その向こうから、蒼銀の軌跡が走った。
サイカだ。
長い蒼銀の髪が煙の残滓を纏い、青銀の鎧が月光を弾く。
龍人族特有の角が闇の中で鋭く浮かび、低く揺れる尾の先には、抑え切れない闘気が宿っている。
その手に握られているのは、彼女の体躯には不釣り合いなほど巨大な大剣。
普通の戦士ならば振り下ろすだけで体勢を崩すような鉄塊を、サイカは片手で横薙ぎに振り抜いていた。
ただ一振り。
それだけで、視界を奪っていた黒煙の一部が強引に押し払われる。
「ユキ!」
サイカの声が飛んだ。
その声には、隠しきれない焦りが混ざっていた。
無理もない。
晴れた煙の隙間に見えたのは、防戦一方のユキだった。
服は裂け、頬と脇腹に浅い血が滲んでいる。
息は乱れていない。
膝も折れていない。
だが、攻めてはいなかった。
ただ、受けている。
ただ、耐えている。
ユキの周囲には、斬撃の跡がいくつも刻まれていた。
木の幹は斜めに削られ、地面には細い裂け目が走り、煙の中にはまだ見えない刃の気配が残っている。
サイカは、その状況を一目で理解した。
「……お前がそこまで押されるか」
「相性が悪い」
ユキは短く答えた。
「言い訳に聞こえるな」
「事実だ」
「だろうな」
サイカは口元だけで笑う。
だが、その目は笑っていない。
次の瞬間、煙の奥で影が揺れた。
ダークエルフが動く。
サイカの一撃で視界はわずかに開けたが、黒煙は完全には消えていない。
木々の間に残った煙の帯が、まだいくつもの死角を作っている。
その死角を、空を歩く影が滑った。
ユキとサイカの間を裂くように、短剣が飛び込んでくる。
サイカが大剣を返そうとする。
だが、それより早くユキが刀を上げた。
ぎん、と受ける。
衝撃で足元の土が沈む。
ダークエルフはまた消える。
「手を貸すか?」
サイカが問う。
ユキは煙の向こうを見たまま、首を振った。
「いやいい。お前は王女の方を見てろ」
「この状況でか?」
「この状況だからだ」
ユキの声は低い。
「こいつの狙いが、俺だけとは限らない。煙を張ったのは、俺を削るためだけじゃないはずだ」
サイカの表情がわずかに引き締まる。
黒煙は分断のためのものだ。
視界を奪い、護衛の連携を断ち、守るべき対象へ別の刃を向けるための布石でもある。
その意味を、サイカもすぐに理解した。
「……分かった」
サイカは大剣を肩に担ぎ直す。
「だが、死ぬなよ」
「誰に言ってる」
「防戦一方の男にだ」
「余計なお世話だ」
短いやり取り。
サイカは踵を返し、煙の薄い方へ駆ける。
大剣を担いだままの動きとは思えないほど、その足取りは速い。
だが、ユキにその背を見送る余裕はなかった。
次の刃が来る。
(ユキ)
シグレの声が落ちる。
(このままだと、ちょっと面倒だよ)
「ああ」
ユキは答えた。
すでに分かっている。
黒煙が薄れても、相手の空中機動は消えない。
視界が戻れば多少は楽になるが、それだけでは足りない。
ソラネは空を足場にする。
ならば、こちらも空に刃を置く必要がある。
ユキはシグレを片手に構えたまま、左手をゆっくり上げた。
指先に、黒い魔力が滲む。
それは炎のようには揺れない。
水のようにも流れない。
ただ、刃の輪郭を持ったまま、闇の中で静かに形を結ぼうとしていた。
(やるんだね)
シグレが囁く。
「ああ」
ユキは煙の向こうにいるダークエルフを見据えた。
「シグレ、三つ出せ」
(了解。今のユキなら、それくらいが限界だね)
からかうような声。
けれど、そこに迷いはない。
ユキは口元をわずかに引き結んだ。
「それで十分だ」
黒い魔力が、ユキの背後で凝る。
一本。
二本。
三本。
それぞれが、シグレと同じ黒い刀身を持つ刃となって宙に浮かぶ。
無数ではない。
かつて村人たちを無傷で縛り上げた《黒界千刃》のような、圧倒的な物量ではない。
たった三本。
だが、その三本は乱雑に並んではいなかった。
ユキの呼吸に合わせ、指先のわずかな動きに合わせ、まるで意思を持つように角度を変える。
くい、と人差し指が曲がる。
一刀が右へ滑る。
中指がわずかに沈む。
二刀目が上へ浮く。
親指が小さく弾かれる。
三刀目がユキの背後へ回る。
黒煙の中、三つの黒刃が静かに舞った。
ユキはシグレ本体を構え、左手の指を軽く開く。
その眼前で、空を歩く影が再び動いた。
ユキは低く告げる。
「魔装顕現――《黒界三刀》」




