第26話 沈黙のダークエルフ
黒煙が、まだ街道を呑み込む前。
ユキは一人、木立の奥へ踏み込んでいた。
背後では、アナたちがセリスを守る位置へ下がっている。サイカは前線で盗賊たちを抑え、トウヤは王女の護衛に徹している。
ならば、自分が追うべき相手は一人。
空を裂くように動く、あの影だ。
「……速いな」
呟いた瞬間、頭上の枝がわずかに揺れた。
次の刹那、風が落ちてくる。
いや、刃だった。
ユキは半歩だけ身を引き、腰のシグレを抜き放つ。黒い刀身が月光を吸い込み、落下してきた短剣を正面から受け止めた。
ぎん、と乾いた音が森に響く。
目の前にいたのは、黒衣のダークエルフ。
褐色の肌。銀灰の髪。長い耳。細く鋭い瞳。
その手には、逆手に握られたナイフ。
だが、ただのナイフではない。
足場のない空中に立つような、不自然な姿勢。重さを感じさせない身のこなし。枝を蹴ったわけでも、地を踏んだわけでもない。
空そのものを足場にしている。
「それが《ソラネ》か」
ユキが低く言う。
ダークエルフは答えない。
刃を押し込むでもなく、引くでもなく、ただ無言でユキを見下ろしていた。
次の瞬間、ふっと姿が消える。
(上だよ)
シグレの声が、頭の奥に落ちた。
「分かってる」
ユキは即座に刀を返す。
背後の斜め上から振り下ろされた刃を、黒い刀身で受ける。衝撃が腕に走る。軽い攻撃ではない。小柄な体格に似合わず、速度を乗せた一撃は鋭く、重い。
ダークエルフは着地しない。
刃を弾かれた瞬間、空中で身体を捻り、横へ滑る。
まるで、水面を蹴る鳥のように。
「厄介だな」
(褒めてる?)
「褒めてるとしたらあれを作ったセラのことを褒めている」
(ユキはこんな時もお母さんのことばかり)
頭の奥で、シグレがそっぽを向いたような気配がした。
「戦闘中に目を逸らすな」
(誰のせいだか)
ユキは答えず、次の斬撃を受けた。
右。左。上。斜め後ろ。
ダークエルフの攻撃は、常に足場のない角度から来る。地上の剣士ならあり得ない軌道。人の関節や体重移動を読むだけでは追いつかない。
だが、ユキの刀はそれを受け止め続けた。
ぎん、ぎぎん、と刃が鳴る。
火花が闇に散り、すぐに消える。
「……誇り高いダークエルフが、何故盗賊なんぞと組んでいる」
ユキが鍔迫り合いの中で問う。
ダークエルフは答えない。
近い距離で、互いの息遣いだけが聞こえる。
「……」
「無視か」
ユキはわずかに目を細めた。
ダークエルフは無言を貫く。
ただ、刃を滑らせるように引き、ユキの喉元へナイフを走らせた。
ユキは首を傾けてかわし、刀の峰でその手首を弾く。
「その長い耳は、ただの飾りだったか」
一瞬。
ダークエルフの瞳が、わずかに揺れた。
「……」
(おっ)
シグレが楽しそうに笑う。
(今の、ちょっと効いたね)
「黙ってろ」
(耳は飾りだったか、だって。ユキ、言い方がかっこつけだねぇ)
「効けばいい」
(ふふ。そういうところ、嫌いじゃないよ)
ダークエルフの攻撃が、わずかに荒くなった。
正面から突き込まれるナイフ。
ユキはそれを受け流し、懐へ踏み込む。だが、刃が届く直前、ダークエルフの身体がふわりと浮いた。
地を離れ、ユキの間合いから逃れる。
そのまま空中で身を翻し、今度は真上から落ちてくる。
「やっぱり、反応はするんだな」
ユキは刀を上段に構え、落下する刃を受け止めた。
重い。
《ソラネ》の力で速度と角度を得た攻撃は、単純な筋力以上の衝撃を持っている。
だが、ユキの足は崩れない。
「なら、もう一つ聞く」
ユキは刃越しに、ダークエルフを見た。
「お前自身の意思で、盗賊の側にいるのか」
ダークエルフは、今度も答えない。
だが沈黙の質が変わった。
拒絶ではなく、押し殺したものに近い。
「……」
「答えないなら、勝手に判断するぞ」
ユキは刀を押し返した。
ダークエルフの身体が後方へ飛ぶ。だが、やはり地には落ちない。空中で足先を滑らせるように制動し、木々の間に静止する。
その姿を見て、シグレが小さく呟いた。
(綺麗な動きだね)
「ああ」
ユキは認めた。
「殺すための動きに、なっているのが腹立たしいくらいにはな」
(お母さんが見たら、悲しむかな)
「悲しむだろうな」
ユキは刀を構え直す。
「だから壊す」
その言葉に、ダークエルフの眉がわずかに動いた。
初めて、明確な反応だった。
ユキはそれを見逃さない。
「やっぱり聞こえてるじゃないか」
「……」
「耳は飾りではなかったらしい」
(ふふっ)
シグレが堪えきれずに笑った。
(ユキ、気に入ったの? その煽り)
「うるさい」
(二回目だよ)
「黙れ」
(はいはい)
次の瞬間、ダークエルフが動いた。
空を蹴る。
一歩。
二歩。
三歩。
地面から離れたまま、あり得ない角度で加速する。
右手のナイフが月光を裂き、左手にはもう一本の短剣が握られていた。
二刀。
ユキの目が細くなる。
「来るぞ」
「うん」
シグレの声から、笑みが消えた。
ダークエルフの刃が、左右から同時に迫る。
ユキは一撃目を受け、二撃目を身を沈めてかわす。だが、その直後、ダークエルフは空中で身体を反転させ、足場のない場所から三撃目を繰り出した。
ユキの頬を、刃が掠める。
薄く血が滲んだ。
(ユキ)
「問題ない」
ユキは頬の血を気にすることなく、踏み込んだ。
ダークエルフはまた距離を取ろうとする。
だが、ユキはその動きに合わせて刀を振るった。
黒い刃が空を裂く。
直撃ではない。
しかし、剣圧がダークエルフの外套を斬り裂いた。
布が舞う。
その隙間から、腰元に吊られた小さな鞘が見えた。
そこに収まる、細身のナイフ。
普通の武器とは違う気配。
優しく、軽く、けれど歪められた魔力。
「見えた」
ユキの声が低くなる。
ダークエルフの瞳に、初めて焦りが走った。
彼女は即座に後退しようとする。
だが、その瞬間。
森の奥で、黒い煙が膨れ上がった。
盗賊たちが仕掛けたものだ。
濃い煙が一気に燃え上がり、木々の間を呑み込んでいく。
視界が黒に塗り潰される。
ダークエルフの姿も、ソラネの気配も、煙の向こうへ消えた。
(逃げた?)
シグレが問う。
「いや」
ユキは煙の中で、刀を構えたまま答えた。
「仕切り直しただけだ」
黒煙の向こうで、微かな風切り音がした。
次の攻撃が来る。
ただ静かに、足を止めた。
「シグレ」
(なに?)
「気を引き締めろ」
(うん)
シグレの声が、ほんの少し楽しそうに響いた。
(でもその前に、頬の傷。アナが見たら心配するよ)
「この程度で騒ぐな」
(アナは騒ぐと思う)
「……」
(あと、サイカも見たら笑うかも)
「どうでもいい」
(王女様は?)
「もっとどうでもいい」
(ふふ)
黒煙がさらに濃くなる。
その向こうで、空を歩く影が動いた。
ユキは刀を握り直す。
闇の中、黒い刃だけが、静かに光を呑んでいた




