第25話 黒煙の中で
黒煙が、街道を呑み込んだ。
視界が一瞬で潰れる。
朝の薄光は墨を流したような闇に塗り潰され、さっきまで見えていた敵味方の輪郭がまとめて消えた。
鼻を刺すのは、焦げた金属と薬品が混ざったような嫌な臭いだ。煙そのものに毒はない。だが目と呼吸を乱し、距離感を狂わせるには十分だった。
「っ……!」
アナが思わず息を呑む。
すぐ隣で、トウヤが鋭く声を飛ばした。
「陣形を縮めろ! 不用意に動くな!」
白い障壁がさらに重なる。
《ハクジュン》の光が煙の内側で淡く広がり、王女を囲う半球の防壁が一段厚みを増した。護衛たちも即座に距離を詰める。前へ出ていた者が半歩下がり、左右の者が間を埋める。見えないからこそ、隙間を消す判断は早かった。
セリスが小さく唇を噛む。
何も見えない。
聞こえるのは、黒煙の向こうで土を踏み鳴らす音、金属がぶつかる高い音、低く押し殺された怒号。どこから来るのか分からない。その見えなさが、戦場の緊張を何倍にも膨らませていた。
「アナさん」
トウヤの声が落ちる。
「殿下の傍を離れないでください」
「う、うん……!」
短剣を握る手に力が入る。
アナの耳はぴんと立ち、煙の向こうのわずかな音を拾おうと必死に揺れていた。目は利かなくても、聴覚ならまだ使える。だが、それでも限界はある。煙が濃すぎる。音の反響まで歪んで、位置が正確に掴みにくい。
その少し前方。
サイカは一歩も引かず、大剣を肩口に構えたまま黒煙を睨んでいた。
蒼銀の髪が、微かな風に揺れる。
《ドラグニル》の光はすでに彼女の肉体へ沈み込み、今は外側に派手な輝きとして現れてはいない。だが、その全身に満ちる張力は、むしろ先ほどより鋭かった。
見えないなら、見えないなりの戦い方がある。
気配。
呼吸。
地を踏む振動。
煙の流れ。
そして、自分の背後に何を通してはならないか。
前線に立つ者として、必要な情報だけを拾い上げていく。
右から、二人。
サイカの大剣が動いた。
見えていないはずなのに、その一撃は正確だった。黒煙を裂いて振るわれた剣腹が、踏み込んできた盗賊の武器ごと胴を叩く。苦鳴が短く漏れ、男の身体が煙の奥へ転がった。
ほとんど間を置かず、もう一人。
大剣を鳩尾へ叩き込む。呼吸を潰された相手が膝を折る前に、肩で押し飛ばした。
「浅い」
低い呟き。
見えない中でも、サイカの動きには迷いがなかった。数で押し込んでくる相手は厄介だ。だが、煙に紛れて強くなったわけではない。雑な踏み込み、荒い殺気、無理に通ろうとする力み。見えなくても、その程度なら拾える。
一方で、黒煙のさらに奥では、別種の緊張が走っていた。
火花が散る。
甲高い金属音が、短く、鋭く続く。
ユキだ。
黒煙の中で、彼は《ソラネ》を宿した黒妖族の女と斬り結んでいる。
姿はほとんど見えない。だが、音だけで状況の悪さは分かった。
一撃。
間を置かず、二撃。
さらに角度を変えて、三撃。
普通の斬り結びではない。片方が位置を変え続け、もう片方がそれを受け続けている音だった。攻め返すための踏み込みがない。斬り込む音ではなく、弾き、受け、流す音ばかりが重なっている。
「ユキさん……?」
アナが煙の奥へ顔を向ける。
不安が声に滲んだ。
黒煙の向こうで、また火花が弾けた。
一瞬だけ見えた黒い刀の軌跡は低く、守りに入っている。次の瞬間、別の位置から短い閃きが走り、ユキの影が半歩押し戻された。
セリスもそれを見た。
ほんの一瞬。
さっきまで淡々と敵を捌いていた黒衣の青年が、今は攻め込めていない。逃げているわけではない。崩れているわけでもない。
ただ、通さないために受け続けている。
それが、逆に異様だった。
「……あいつが、押されてるのか?」
誰に向けたわけでもない呟きだった。
トウヤは障壁を維持したまま、短く答える。
「視界を潰されれば、相性は悪いでしょう。相手は空間の使い方が尋常ではない」
その声にも、わずかな緊張があった。
王女側も楽ではない。
「左!」
アナが叫ぶ。
耳が拾った微かな踏み音に合わせ、トウヤが障壁を傾ける。次
の瞬間、飛び込んできた短剣が白い光へ弾かれた。別方向から斧を持った盗賊が突っ込むが、その前へ護衛の一人が出る。剣と斧がぶつかり、鈍い音が煙の中で響いた。
セリスは障壁の内側で息を殺していた。
見えない戦場ほど恐ろしいものはない。
自分が狙われていると分かっているからこそ、なおさらだった。
だが、その恐怖を押し込めるように前へ目を向ける。
前線では、サイカがまだ立っている。
それだけは、黒煙越しにも分かった。
大剣が時折、煙を切り裂く。短い衝撃音が重なる。盗賊のうめきが混ざる。一歩も下がらず、敵を寄せつけないその気配だけで、護衛側の心はまだ折れずに済んでいた。
サイカは前へ出すぎない。
だが、引きもしない。
黒煙の中では、一歩の差が命取りになる。王女の前から離れれば、それだけ抜かれる筋が増える。かといって後ろに寄りすぎれば、押し込まれた瞬間に防衛線が潰れる。
だから、彼女はそこに立つ。
最も通してはならない位置に、自分の身体ごと楔を打ち込むように。
右前方から、三人。
そのうち一人は囮。
呼吸の浅さで分かる。
サイカはまず左の剣を大剣の腹で払った。
真正面の斧は受けずに流す。
残る二人へ向けて、今度は横薙ぎ。
黒煙ごと叩き払うような一撃だった。
盗賊たちはたまらず後退する。視界がないからこそ、正面からこの女に近づく恐ろしさが増していた。どこまでが間合いなのか分からない。次の一歩で、自分の骨が砕かれるかもしれない。その圧が、確かにあった。
「来るなら来い」
サイカの声が、煙の中で静かに響く。
「その程度の小細工で、私の前を抜けると思うな」
化け物が、、盗賊の呟きと共に殺気は濃さを増す。
サイカの蒼銀の瞳が細まった。
黒煙の向こうで、また風の流れが変わったのを感じたからだ。
軽い。
地を踏む重さがない。
《ソラネ》。
一瞬、王女側へ向かう軌道を取るかと思った。だが違う。さらに奥、街道の中央寄り。そこにいるのは――
「ユキか」
低く呟く。
その時だった。
金属音が、今までより明らかに密に、激しく重なった。
火花が、煙の奥で断続的に散る。
速い。
あれは、互角に攻め合う音ではない。
片方が一方的に攻め込み、片方がそれを捌き続けている音だ。
サイカの眉がわずかに寄る。
黒煙の前のユキなら、あの程度の相手に防戦一方にはならない。
だが今は、視界が悪い。《ソラネ》の相手にとって、これ以上ない盤面だ。
そして、その時初めて――サイカは悟った。
敵の狙いは、黒煙で戦場を分断し、自分を前線へ縫い止め、ユキを《ソラネ》で封じる。
王女を奪うための布石であると同時に、ユキという厄介な刃を黙らせるための盤面でもある。
「ちっ……」
小さく舌打ちする。
正面から二人、また来た。
サイカは大剣を振るう。
だが、それで終わりではない。煙の中で、また別の足音。別の殺気。数で絡ませ、足止めするための動きに変わっている。
セヴランのやり方だ。
真正面で勝てないと見るや、盤面そのものを濁し、有利な駒へ押し込む。
だが。
だからといって、好きにさせる理由にはならない。
サイカは深く息を吸い、肺の奥まで、煙と土の匂いが入る。
鬱陶しい。
見通しが悪い。
動きにくい。
なら、消せばいい。
《ドラグニル》は身体能力強化の魔装だ。
炎も氷も雷も出さない。
だが、龍人族の肉体をそこまで押し上げた時、ただの一振りすら現象になる。
サイカは大剣を引いた。
低く。
深く。
身体全体を連動させ、踏み込みの起点を作る。
盗賊たちがその気配に気づき、思わず足を止めた。
何か来る。
本能がそう告げたのだろう。
次の瞬間。
サイカが、一閃した。
轟、と空気そのものが裂けた。
ただの薙ぎ払い。
それだけなのに、振り抜かれた大剣の圧が黒煙をまとめて攫った。
前方の煙が大きく抉れ、渦を巻きながら左右へ吹き飛ぶ。街道の中心に、一瞬だけ視界が開けた。
そして――見えた。
ユキがいた。
黒い刀を構えたまま、わずかに低く姿勢を落としている。
その周囲に、何筋もの火花の残滓。
足元は乱れ、服のあちこちが浅く裂け、頬には血が走っていた。
正面には、《ソラネ》を逆手に構えた黒妖族の女。
そして、その位置は明らかにユキの間合いの内側だった。
本来なら、すでに斬っている距離。
だがユキは斬れていない。
攻め込めていない。
押し返せていない。
ただ、抜かせないためだけに、ひたすら斬撃を受け続けている。
サイカの瞳が細まる。
同時に、ユキもまた煙の裂けた先へ視線を向けた。
その目はまだ死んでいない。
だが、余裕もない。
張り詰めた一瞬の静寂。
次の瞬間、黒妖族の女がまた風のように消える。
そこで、場面は切れる。




