第22話 戦争の一端
家を出ると、朝の空気はまだ冷たかった。
潜伏先の周囲には、人の気配が薄く散っている。
見張りがいるのだと分かるのは、ユキやサイカのような者だけだろう。
外から見れば、ただ静かな郊外の一角にしか見えない。
だが、家の前へ出た瞬間、その気配の一つがはっきりと形を持って現れた。
「お待たせいたしました、殿下」
柔らかな声だった。
道の脇の木陰から歩み出てきたのは、一人の青年だった。
年の頃はユキたちより少し上。
陽の光を受けると淡く茶がかって見える髪を後ろで軽く束ね、涼しげな目元には人を威圧しない穏やかさがある。整った顔立ちは貴族の子息と言われても通りそうだったが、その立ち姿には隙がない。
細身に見えて芯の通った体つき。腰には剣ではなく、小型の盾を収めた魔装が下げられていた。
さらにその後方には、同じ鎧を纏った護衛たちが十人ほど控えていた。無言のまま周囲へ目を配り、気配を消しすぎず、だが目立ちもしない。潜伏先を守ってきた者たちだけが持つ、実戦慣れした静かな緊張がそこにあった。
ユキは一目で分かった。
強い。
ただし、ユキやサイカのような“斬る強さ”ではない。
この男は、前に立って守り切る側の人間だ。
セリスの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「トウヤ」
呼ばれた青年は、軽く一礼する。
「外周の確認は終わっています。すぐに出られます」
サイカが短く頷いた。
「ご苦労」
アナは小さく瞬きを繰り返す。
「この人が……?」
「トウヤだ」
サイカが答える。
「セリス殿下の護衛の一人で、殿下が作った魔装の使い手だ」
トウヤはそこで初めてユキたちへ視線を向けた。
穏やかな笑みを浮かべてはいる。
だが、目だけはきちんと相手を見ている目だった。
「トウヤです。サイカ殿から話は聞いています」
そう言って、まずアナへ、次にユキへと順に視線を移す。
「助力、感謝します」
アナは慌てて頭を下げた。
「い、いえ! こちらこそ、よろしくお願いします!」
ユキは短く相手を見る。
「……守りの魔装持ちか」
「ええ」
トウヤは気負いなく頷く。
「正面から防ぐことに関しては、それなりに自信があります」
その返しに、サイカが淡々と補足した。
「潜伏先が今まで保っていたのは、護衛達だけの力ではない。トウヤの守りがあったからだ」
セリスは腕を組み、少しだけ顎を上げる。
「当然よ。トウヤがいなければ、とっくに潜伏先なんて捨てていたわ」
口調はいつものように棘がある。
だが、その声音にはトウヤへの信頼が滲んでいた。
アナが目を輝かせる。
「すごいですね……!」
「見てみますか?」
トウヤはそう言って、腰の魔装へ手を添えた。
「《ハクジュン》魔装顕現」
小さく名を呼ぶ。
次の瞬間、彼の目の前に白い光が走った。
半透明の障壁が、空間そのものからせり上がるように展開する。
大きさは人一人を余裕で覆えるほど。
表面は滑らかで、朝の光を受けて薄く白く輝いていた。
一枚だけではない。
その背後にさらに二枚、三枚と層が重なり、見る者に“突破の困難さ”を直感で理解させる。
アナが思わず息を呑む。
「わ……」
「目の前にだけ張る分、融通は利きません」
トウヤは障壁を消しながら言う。
「ですが、通すものと通さないものを選ぶのは得意です」
サイカが続ける。
「守るだけなら、そう簡単には崩れん」
一拍置いて、声が低くなる。
「……ただし、相手が《ソラネ》なら話は別だ」
場の空気が、少しだけ沈んだ。
トウヤも表情を変えないまま頷く。
「上から来られると、こちらに“守る向き”を選ばせられます」
爽やかな見た目に反して、言葉はきわめて実戦的だった。
「正面なら止められます。ですが、空からの高速接近、死角からの離脱、複数方向への揺さぶり。そういう相手には、守りを固めるほど後手に回る」
ユキは短く鼻を鳴らした。
「厄介だな」
「かなり」
サイカが即答する。
「だからお前を呼んだ」
セリスはそれ以上口を挟まなかった。
だが、ユキとトウヤを交互に見たあと、小さく息を吐く。
「……出発するなら早くして」
その一言で、一行は動き出した。
トウヤが先に立ち、サイカが周囲を見ながら歩く。
セリスはその中央。
アナは少し緊張した様子で周囲を見回し、ユキは最後尾寄りで黙って歩いていた。
王都へ向かう道は静かだった。
朝の陽はすでに高くなりつつあり、細い街道を照らしている。
草地を渡る風は冷たさを失いはじめていたが、隊列の空気はまだ硬い。
しばらく歩いたところで、アナが小さく口を開いた。
「……あの」
誰に向けた問いか、自分でも曖昧な声音だった。
「五年前の戦争って……やっぱり、置き土産が関係してたんですよね」
セリスの肩が、わずかに止まる。
サイカが視線を前へ向けたまま答えた。
「ああ」
短い返答だった。
「関係していた、どころじゃない。戦場の形そのものを変えた」
アナは唇を引き結ぶ。
「第二王子も、その戦争で帰らぬ人となった」
今度は、セリスが答えた。
「兄上は前線にいたわ」
声音は平坦だった。
だが、その平坦さは感情が薄いからではない。
押し殺しすぎて、凍っているだけだ。
「王族だから安全な後方にいた、なんて話じゃない。あの頃は、誰が前に立とうとおかしくないくらい、全部が壊れていたもの」
トウヤがわずかに目を伏せる。
サイカは続ける。
「第二王子は、戦線の維持に出ていた」
一拍。
アナが息を呑んだ。
セリスは前を向いたまま、手をぎゅっと握る。
「みんな言ったわ」
低い声だった。
「魔女の置き土産が戦争を広げたって。兄上を殺したのも、あの戦場で使われた形見だって」
ユキは何も言わない。
だが、その沈黙が逆に重かった。
アナは恐る恐る尋ねる。
「……どんな置き土産だったんですか」
今度はユキが答えた。
「一つじゃない」
低く、静かな声。
「戦場を地獄にしたのは、《アマネ》と《ツムギ》だ」
アナがその名を小さく繰り返す。
「《アマネ》……《ツムギ》……」
ユキは歩幅を変えないまま続けた。
「《アマネ》は、本来、大勢で痛みを分け合うための置き土産だ」
アナが顔を上げる。
「痛みを……分ける?」
「ああ。元は、一人に苦しみを負わせたくないって願いから生まれた」
その言葉には、置き土産への理解と、わずかな痛みが混じっていた。
「傷ついた誰かがいた時、痛みを少しずつ分けて、皆で支えるための力だった」
優しい魔装だったのだと、説明されなくても分かる。
だがユキの声は、そこから一段低く沈んだ。
「戦場では逆に使われた」
風が止む。
「大勢の兵の痛みと負傷を、一人に集めた」
アナの目が見開かれる。
「え……」
シグレが静かに言葉を継いだ。
(本来は、一人で抱えなくていいように生まれた力だったのにね)
その柔らかな声が、かえって残酷さを際立たせる。
(戦争じゃ、“一人に全部押しつけた方が効率がいい”って形にされた)
アナの喉が詰まる。
「そんなの……」
ユキは続ける。
「そこで使われたのが《ツムギ》だ」
「《ツムギ》は、一人の傷を癒やす置き土産だ。命を繋ぐための力だった」
「……その一人を、治すために?」
「ああ」
ユキは頷く。
「《アマネ》で全軍の傷を一人に集める。《ツムギ》で、その一人を治す。治して、また集める」
短い沈黙。
「それを繰り返した」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
アナの背筋に、冷たいものが走る。
「それじゃ……」
「兵は倒れない」
ユキが言う。
「倒れても、また立つ。痛みは別の誰か一人に押しつけられて、その一人は治され続ける」
トウヤが低く息を吐いた。
「……死ねない軍隊、か」
サイカが頷く。
「不死の軍隊と呼ぶ者もいた」
セリスの指先が震える。
「兄上がいた前線にも、それがいた」
今にも折れそうなくらい細い声だった。
「何度斬っても下がらない。何人倒しても前に来る。兵が壊れてるのに、軍が止まらない」
アナは何も言えない。
優しい願いから生まれた力。
それが、戦争では終わらない地獄に変わった。
あまりにも、この世界らしい反転だった。
ユキは静かに言う。
「それが、あの人の置き土産を戦争に使った結果だ」
一拍。
「正確には、人があの人の願いを戦争に使った」
その言葉に、セリスは反論しなかった。
できなかったのかもしれない。
しばらく、誰も口を開かない。
足音だけが続く。
草を踏む音。
装備の擦れる音。
朝の風が、乾いた匂いを運んでくる。
そして、その風が不意に止まった。
ユキの足が、わずかに止まる。
サイカの尾がぴたりと静止した。
トウヤも笑みを消し、前方に障壁を出せる位置へ半歩ずれる。
シグレの気配が、刀の奥で静かに張りつめる。
(遅いね)
誰に向けた言葉でもないような、静かな囁き。
アナがきょとんとする。
「え……?」
次の瞬間、ユキが低く言った。
「……囲まれてるな」
空気が、音を失った。




