第20話 空を失った少女へ
馬車は南へ向かって進んでいた。
朝の冷たさはすでに薄れ、陽はゆっくりと高く昇りつつある。窓の外では、緩やかな丘陵がどこまでも続き、ところどころに森の影が落ちていた。街を離れてからしばらく経つが、王都へ続く街道はよく整えられており、車輪の揺れもさほど激しくはない。
それでも、馬車の中には張りつめた空気が残っていた。
村を出てからずっと続いている、静かな緊張だ。
アナはしばらく窓の外を見ていたが、やがて不安そうに視線を戻した。
「……今の王女様の潜伏先は、大丈夫なんでしょうか」
サイカは馬車の揺れに身を任せたまま、淡々と答える。
「問題ない。元々、王女殿下の信頼を得ている護衛達が残っている」
一拍置いて、視線だけを前へ向けた。
「それに、護衛に特化した魔装持ちもいる。守るだけなら、そう簡単には崩れん」
落ち着いた声音だった。
安心させるために言っているわけではない。ただ事実として、今の防備を評価している声だ。
アナは少しだけ肩の力を抜いた。
「そうなんですね……」
「ただし、“守るだけなら”だ」
サイカが静かに続ける。
「相手が引けばいいが、狙いが明確で、なおかつ逃げ足まで速いなら話は別だ」
「ユキがちょうどギルドに帰っていて本当に助かった。」
その言葉に、馬車の空気がわずかに沈んだ。
アナは唇を引き結び、それから思い出したように顔を上げる。
「そういえば……」
視線がユキへ向く。
「次の置き土産って、ユキさんご存知なんですか?」
馬車の中が静かになる。
ユキはすぐには答えなかった。
窓の外へ向けていた視線を少しだけ落とし、やがて低く口を開く。
「……《ソラネ》は、もともとナイフだ」
「ナイフ……?」
「ああ」
短く頷く。
「空で狩りをする天翼族の少女に、セラが与えた」
その一言で、アナの表情が変わる。
ただの武器ではない。それがまた、誰かの願いから生まれたものなのだと直感的に分かってしまった。
ユキは静かに続ける。
「天翼族は、生まれながらに翼を持っている」
馬車の揺れに合わせて、声もわずかに揺れる。
「だが、その少女は狩りの最中に翼を失った」
短い沈黙。
「天翼族の中で、一人だけ飛べなくなったんだ」
その言葉は、事実だけを置いているようでいて、どこか重かった。
「空を飛ぶことが、生きることそのものに近い種族だ。飛べないというだけで立つ場所を失い、彼女は群れの中で孤立した」
アナは小さく息を呑む。
想像はできない。
だが、想像できないからこそ、その痛みだけが胸に残る。
「そんな少女の願いを、セラが叶えた」
ユキの声音が、ほんのわずかだけやわらかくなる。
脳裏には、遠い記憶が浮かんでいるのだろう。
もう一度自由に空を駆けることができた喜び。
風を裂いて笑う、眩しい青髪の少女の姿。
失ったはずの高さへ、もう一度手を伸ばせた日の笑顔。
(よく笑う、可愛い子だったね)
シグレの一言に、アナは何も返せなかった。
笑っていた。
きっと、どうしようもなく嬉しかったのだろう。
サイカが腕を組む。
「元来、空を飛ぶ魔物は少ない」
低い声が現実へ引き戻す。
「そして、空を自在に駆けられる種族も限られる。天翼族くらいのものだ」
窓の外へ目を向けたまま続けた。
「つまり、それだけで厄介この上ない」
アナが小さく頷く。
「……地上から届かない、ですもんね」
「ああ」
サイカは即座に答える。
「ただし、大規模な戦闘には向かない。戦場全体を支配する類の力ではないからな」
だが、と声が低く沈む。
「盗賊、まして暗殺者の手に渡ってしまえば、この上ないアドバンテージになる」
馬車の中が静まり返る。
「接近も離脱も自由。追跡も困難。高所からの奇襲も可能。守る側からすれば、最悪に近い」
サイカの言葉には実感があった。
実際に相対した者の重みだ。
アナの耳が、わずかに伏せられる。
「そんなの……反則みたいです」
「反則だから、置き土産なんだろ」
アッシュほど軽くはないが、ユキの返しはいつも通りそっけない。
それでも、その言葉の奥には冷えた確信があった。
「願いを叶える力は、元の形のままじゃ済まない」
「サイカ、お前が相対したソラネの所有者は、天翼族ではなかっただろう」
サイカは静かに頷く。
「……あいつ本人のはずがない」
シグレが刀の中で、小さく息をつく気配がした。
(空を飛ぶためのナイフが、空から殺すためのナイフになった)
静かな声だった。
(ほんと、救いがないよね)
誰もすぐには返さない。
ユキは視線を窓の外へ戻したまま、低く言う。
「だから壊す」
短い。
だが、それで十分だった。
馬車は緩やかな坂を越える。
その先で、景色が少し開けた。
森の切れ目の向こう。
街道からわずかに外れた場所に、一軒の家が見えてくる。
大きくはない。
だが、周囲の地形にうまく溶け込むように建てられた、目立たない家だった。
サイカが視線を向ける。
「着いたぞ」
低い声が、静かに落ちる。
「あそこが、王女殿下の潜伏先だ」
馬車の中の空気が、ぴんと張った。
アナは思わず背筋を伸ばす。
ユキは何も言わない。
ただ、その家を見据えていた。
次の戦いの匂いが、もうすぐそこまで来ている。




