第1話 犬耳の新人
「えぇぇっ!? じゃあ私、今クエスト受けられないんですか!?」
昼間だというのに酒と汗の匂いが抜けきらない冒険者ギルドに、少女の悲鳴にも似た声が突き刺さった。
ざわついていた空気が、ぴたりと止まる。
酒をあおっていた冒険者も、依頼書を眺めていた者も、受付で順番を待っていた者も、ほとんど同時に視線をそちらへ向けた。
その中心に立っていたのは、一人の少女だった。
栗色の髪。頭の上には、感情そのままにぴんと立った犬耳。ぶんぶんと上下に動く尻尾。
装備は冒険者見習いらしい軽装でまとめられている。だが、革の留め具にも、腰の小物入れにも、まだ使い込まれた跡はない。
いかにも、今さっき村を出てきました、と言わんばかりの初々しさだった。
「アナさんっ! 声が大きいです!」
受付の向こうで、リーナが慌てて身を乗り出した。
穏やかな顔立ちをした受付嬢だが、さすがに今の絶叫には焦ったらしい。すばやくアナの口を押さえる。
「んーっ、んーっ!」
アナはなおも抗議しようともがいた。
だが次の瞬間、自分に集まった無数の視線に気づく。
ぴたり、と動きが止まった。
数秒の沈黙。
やがて、ぴんと立っていた犬耳が、しゅんと力なく垂れる。
「……ごめんなさいぃ」
あちこちから、堪えきれなかったような笑い声が漏れた。
その姿は、どこから見ても叱られてしょげた子犬だった。
リーナは小さく咳払いを一つして、気を取り直すように説明へ戻る。
「当ギルド《灯守の会》では、新人冒険者が単独でクエストへ向かうことは禁止されています」
事務的な口調ではあるが、声音は柔らかい。
「慣れない土地で無茶をして、そのまま命を落とす新人は珍しくありません。特に最初のうちは、自分で思っている以上に周りが見えていないものです」
リーナは、受付台の上に置かれた依頼書を軽く揃えた。
「ですから、初回のクエストには必ず先輩冒険者の同行が必要になります。これは規則なんですよ」
「そ、そんなぁ……」
アナの肩が、目に見えて落ちた。
「でも私、村から出てきたばっかりで……知り合いとか、いないですし……」
語尾がみるみる弱くなる。
同行してくれる相手がいない。
それはつまり、今の彼女には何も始められないということだった。
リーナは困ったように眉を下げ、ギルドの中を見回した。
そして、何かを思いついたように奥へ向かって声を上げる。
「……アッシュさーん!」
「ん?」
奥の席から振り向いたのは、茶髪の青年だった。
腰には片手剣。軽装の上からでも分かる程度には鍛えられているが、まとっている空気はどこか柔らかい。
人当たりの良さそうな笑みを浮かべたまま、片手をひらひらと上げて近づいてくる。
「どうした、リーナ」
リーナから事情を聞いたアッシュは、「あー」と困ったように頭をかいた。
「悪い。俺、これから別件のクエストなんだよ」
「そうでしたか……」
リーナが残念そうに目を伏せる。
すると、アッシュはアナの方へ向き直り、気さくに笑った。
「俺はアッシュ。このギルドで剣士をやってる。今回は無理だけど、困ったことがあったら声くらいはかけてくれていいからな」
「は、はい! ありがとうございます!」
アナはぺこりと勢いよく頭を下げた。
律儀で素直。
その反応だけで、彼女がどんな性格なのかはだいたい分かる。
そんなやり取りの最中、アッシュがふと思い出したように口を開いた。
「あ、そうだ。そろそろユキが帰ってくる頃じゃないか?」
その名が出た瞬間だった。
リーナの表情が、ほんのわずかに曇る。
アナは気づかなかった。
だが、ギルドにいた何人かは「ああ」とでも言いたげな顔をした。
ちょうどその時、入口の扉が開く。
昼の光を背にして、一人の青年が入ってきた。
黒髪。細身の体躯。黒を基調とした軽装。腰には一本の刀。
見た目だけなら、そこまで珍しい冒険者ではない。
問題は、その空気だった。
纏う気配が、あからさまに不機嫌なのである。
気だるげな足取りで入ってきた青年に、アッシュが片手を上げた。
「おう、ユキ。おかえり」
ユキと呼ばれた青年は、ゆっくりと顔を上げる。
その目が、アッシュを捉えた。
「ちょうどいいところに――」
アッシュが言い終えるより早く、椅子が飛んだ。
ドゴォッ!! と鈍い音がギルドに響く。
「がっ!?」
吹き飛んだのはアッシュだった。
何が起きたのか理解するより早く、ギルド全体が一瞬だけ静まり返る。
ユキは何事もなかったかのように、まっすぐ受付カウンターへ向かった。
「ただいま」
「おかえりなさい、ユキさん」
リーナは慣れた口調で迎える。
「椅子はギルドの備品です」
「請求はアッシュで」
「承知しました」
床から悲痛な叫びが飛んだ。
「ふざけんな!!」
その瞬間、張りつめていた空気が一気にほどける。
あちこちで笑いが起こり、ギルドにはたちまち普段通りの喧騒が戻った。
どうやら、これがこの場所の日常らしい。
ただ一人、アナだけが完全に固まっている。
犬耳をぴくぴく震わせながら、目だけが忙しなく動いていた。
「それで、なんだアッシュ」
ユキは肩越しに、床から起き上がるアッシュを見る。
「なにか言いたげだったが」
自らを省みる姿勢は、まったく見られない。
やがて、床から這い上がったアッシュがげほっと咳き込みつつ口を開く。
「お前な……はぁ。この子、新人のアナちゃん。クエストに同行してやってくれ」
「嫌だ」
即答だった。
アナがびくりと肩を揺らす。
ユキは取りつく暇もない声音で続けた。
「新人の面倒とか柄じゃない」
「でもお前、どうせ暇だろ」
「暇じゃない」
「まだ探してるんだろ?」
一拍。
アッシュの口から落ちた言葉に、ギルドの空気がわずかに変わった。
「――《魔女の置き土産》」
それまで流れていた軽い笑いが、ほんの一瞬だけ遠のく。
ユキの視線が、静かに細まった。
冷えた、という表現が一番近い。
それまでの不機嫌さとは違う。もっと深いところにある、温度のない目だった。
アナは、その変化に気づけない。
リーナも、アッシュも、それ以上すぐには何も言わなかった。
沈黙を破ったのは、別の声だった。
(ユキ)
柔らかく、澄んだ少女の声。
だが、声の主はどこにもいない。
(面白いじゃん。新人ひとりくらい、面倒見てあげなよ)
アナの目が、まん丸になる。
「い、今、刀がしゃべりました!?」
ユキは表情一つ変えずに言った。
「気のせいだ」
(ひどい)
くすり、と小さな笑いが重なる。
(ほら。どうせ今は手がかりもないんでしょ?)
ユキの指先が、わずかに腰の刀の柄へ触れた。
その一瞬だけ、彼の目に何かがよぎる。
苛立ちか、諦めか。
あるいは、もっと別の感情か。
やがて、深いため息が落ちた。
「……一回だけだ」
「ほ、本当ですか!?」
アナの犬耳が勢いよく立ち上がる。
「ただし、勘違いするなよ」
ユキは視線も向けないまま言う。
「死にそうになっても、俺は助けない」
(ほんとは助けるくせに)
「うるさい」
反射みたいな返答だった。
そのやり取りに、ギルドのあちこちからまた笑いが漏れる。
アナだけは、まだ半分混乱したままだった。
それでも、その表情にははっきりと安堵が浮かんでいる。
こうして。
ユキの旅に、新しい面倒がひとつ増えた。
《魔女の置き土産》を壊して巡る、その道の途中。
犬耳の少女は、まだ何も知らないまま、彼の隣に立つことになる。
それがどんな旅になるのか。
その出会いが、どれほど大きな意味を持つのか。
この時の彼女は、まだ知らない。




