第15話 約束
夜明けは、まだ遠かった。
森にはかすかな青が滲みはじめている。
だが空はまだ夜の名残を色濃く抱え、湿った土の匂いと冷たい夜気が静かに漂っていた。
《黒界千刃》は、すでに消えている。
先ほどまで森を覆っていた無数の黒刃は跡形もなく消え、残されたのは、ただ戦いの終わった静けさだけだった。
村人たちは地に横たわっている。
深い眠りに落ちたように、誰一人動かない。
傷はない。
ただ、糸に操られていた緊張だけが抜け落ち、顔にはようやく本来の安らぎが戻っていた。
青年は、その場に膝をついたまま動かない。
肩を落とし、視線も上げず、ただ土を見つめている。
女性はアナに支えられ、静かに呼吸を続けている。
先ほどまで無理やり立たされていた身体は、今はただ重力に従っているだけだ。
自分の意思では動けない。
けれど、それでも確かに生きていた。
ユキは少し離れた場所に立ち、手の中のペンダントを見つめていた。
青い石は、もはや脈打たない。
先ほどまでそこにあった鼓動のような光は失われ、今はただ、かすかな残り火のような輝きを宿しているだけだった。
「……」
しばらくの沈黙のあと、ユキは低く呼びかける。
「……トモエ」
静かな声だった。
戦闘の最中のような鋭さはない。
責める色も、断ち切る冷たさもない。
ただ、名を呼んだ。
「魔装顕現」
柔らかく、告げる。
その瞬間、青い光がふわりと広がった。
石の奥から淡い光が溢れ、夜気の中にぼんやりと輪郭を描いていく。
やがてそこに、一人の女性の姿が浮かび上がった。
足は地に触れていない。
輪郭は曖昧で、風が吹けば今にも崩れてしまいそうなほど薄い。
それでも、確かにそこに“いる”とわかる。
年若い少女ではない。
どこか包み込むようなやわらかさを宿した、静かな雰囲気の女性だった。
その佇まいは穏やかで、支えるために生まれた力だったことを、何も語らずとも感じさせる。
トモエはユキを見上げた。
怒りもない。
悲しみもない。
責める気配も、縋る気配もない。
ただ、静かな眼差しだけがそこにあった。
そして、ほとんど風の音のような声で、ひとことだけ落とす。
(……歩けて、よかった)
それだけだった。
長い説明はない。
言い訳も、弁明も、願いの押しつけもない。
ただ、願いの残滓が、そう告げただけだった。
ユキは目を閉じる。
ゆっくりと息を吸う。
そして腰のシグレを抜いた。
目を開く。
迷いなく、刀を振るう。
刃が青い光に触れた瞬間、それは音もなく、ゆっくりとほどけていった。
無理やり断ち切られるのではなく、役目を終えた糸が解けるように。
トモエの姿が、光へ溶ける。
輪郭が崩れ、青白い粒子となって、夜明け前の空気へ静かに散っていく。
銀の石に、細い亀裂が走る。
ぱきり、と小さな音。
それだけを残して、ペンダントは静かに砕けた。
その、直後だった。
ユキの背後に、白い影がそっと差した。
金の髪が風に揺れている。
穏やかな瞳が、静かにこちらを見つめていた。
セラ。
声はない。
ただ、微笑んでいる。
責めず、急かさず、泣きもせず。
ただ、そこに立っている。
そして次の瞬間、その気配がそっとユキの背に重なった。
抱きしめるのではなく。
縋るのでもなく。
支えるように。
そのぬくもりを感じた気がした瞬間――
ユキの頬を、一筋の雫が伝う。
声はない。
表情も変わらない。
顔を歪めることもなく、嗚咽を漏らすこともなく、ただ無言のまま落ちた。
アナが、少し離れた場所からそれを見た。
「……?」
思わず目を瞬かせる。
見間違いかもしれない。
そう思えるほど、ほんの一瞬だった。
青年は何も言わない。
地面を見つめたまま、動かない。
刀の奥で、シグレも何も言わなかった。
女性は眠ったまま。
村人たちも、まだ静かに倒れたままだ。
森は、ただ静かだった。
ユキは砕けた欠片を拾い上げる。
掌の中に残るのは、もうただの冷たい破片だけだ。
それでもしばらく、彼はそれを見つめていた。
やがて低く呟く。
「約束だからな」
誰に向けたものでもない。
けれど、その言葉は確かに誰かへ届くようだった。
ユキは背を向ける。
東の空が、わずかに白みはじめていた。
夜が、終わる。




