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『魔女の置き土産』ーー魔女と呼ばれた聖女の遺産を、弟子の俺がすべて破壊する  作者: キョウ
第2章 奇跡の村

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第16話 朝の匂い

夜がほどけるように、森の色がゆっくりと変わっていった。


 濃い紺だった空は少しずつ薄まり、木々の輪郭が朝の光に淡く縁取られていく。


 湿った土の匂いと、草葉に残る露の冷たさが、昨夜の緊張を静かに洗い流していた。


 先ほどまで森を覆っていた圧も、糸の張り詰めた気配もない。


 地に横たわっていた村人たちは、やがて一人、また一人と目を覚まし始める。


 薄く目を開け、身を起こし、互いの顔を見て無事を確かめる。


 誰もが戸惑っていた。


 何が起きたのか、完全には思い出せない。

 ただ、何かに縛られていたような不快な感覚だけが、曖昧な名残として身体の奥に残っている。


 それでも、身体に傷はない。

 腕も脚も、ちゃんと動く。

 誰も失っていない。


 その事実だけは、静かにそこにあった。


 青年はその場に座り込んだまま、動かない。


 夜のうちに流し尽くしたのか、もう涙もない。

 ただ肩を落とし、地面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。


 女性はアナに支えられ、静かに呼吸を続けている。

 瞳は開いているが、まだ焦点は定まらず、言葉もない。


 けれど、そこにあるのは昨夜のような張り詰めた作りものの気配ではなかった。


 やがて青年が、そっと彼女の手を握る。


 確かめるように。

 包むように。

 ただ、そこにある温度を失わないように触れていた。


 ゆっくりと、彼女の身体を起こす。

 無理に立たせず、急がせもしない。

 時間をかけて、その重さを受け止めていく。

 今度は、操るためではなく、ただ支えるために。


 その様子を、アナは少し離れた場所から見つめていた。


 胸の奥に、じんわりとした熱が残っている。

 壊したはずなのに、すべてが終わってしまった感じはしない。


 失われたものは確かにある。

 元通りにはならないものもある。

 けれど、それでもなお、残ったものがある。


「……不思議ですね」


 思わず、そう呟いていた。

 ユキは荷をまとめながら、視線を上げない。


「何がだ」


「壊したのに、終わった感じがしません」


 ユキは少しだけ手を止めた。

 荷紐を締める指先が、ほんの一瞬だけ静止する。

 けれど次の瞬間には、また何事もなかったように動き出した。


「終わらせただけだ」


 短い返答だった。


 それ以上は言わない。

 余計な説明もない。

 慰めのような言葉もない。


 けれどアナには、その一言が妙に胸に残る。


 終わったのではない、終わらせただけ。

 それはきっと、壊した先に何かが残ることを知っている人間の言葉。


 アナはそっと、その横顔を見て、昨夜のことを思い出す。


 刃が振り下ろされた瞬間。

 光がほどけた瞬間。

 そして――


 頬を伝った、あの一筋。


「……」


 見間違いだったのかもしれない。


 夜露が、そう見えただけかもしれない。


 あの一瞬の光を、自分が勝手にそう受け取ってしまっただけかもしれない。


 そう思えば、それで済む。


 それでもアナは胸の奥に思う。


 この人は、壊すために旅をしている。

 だけど、きっと、一番壊したくないと願っているのは、この人自身なのだと。


「行くぞ」


 短い声が落ちる。

 気づけば、ユキはもう歩き出していた。


 青年は振り返らない。

 引き止めもしない。


 ただ、深く頭を下げた。


 言葉にはならない謝意か、悔恨か、あるいはその両方か。

 それでも、その背中にはもう昨夜の歪んだ力みはなかった。


 ユキは足を止めず、アナだけが、小さく会釈を返した。


 森を抜けると、朝日が差し込む。

 柔らかな光が大地を包み込み、昨夜の出来事が遠い夢だったようにすら思えた。

 けれど、夢ではない。

 確かにここで壊れ、確かにここで残ったものがあった。


 しばらく無言で歩いたあと、刀の中から小さな声が響く。


(……疲れた?)


「少しな」


 淡々とした返事。


(嘘)


 ユキは小さく鼻を鳴らした。


「うるさい」


(泣いてたくせに)


「泣いてない」


 アナがきょとんと振り向く。


「え?」


「なんでもない」


 即答だった。


 あまりにも早い返しに、アナは目をぱちぱちさせる。

 刀の奥で、シグレがくすりと笑う気配がした。


(ちゃんと終わらせたね)


 その言葉には、からかいよりもずっと深い響きがあった。

 ユキは少しだけ黙ってから、低く返す。


「……ああ」


 それだけは、否定しなかった。


 風が吹く。

 今度は、ただの朝の匂いだった。

 湿った土と、草の青さと、新しく始まる一日の気配だけを運んでくる。

 二人の影が、朝日に照らされて長く伸びる。


 壊したものは、確かにあった。

 それでも、残ったものはある。


 そして――まだ、壊していないものがある。


 ユキは歩く。


 次の《魔女の置き土産》へ向かって。

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