第303話
「……ごめん。こんな事言ってる場合じゃないよね……すぐ切り替え――」
悲しさで涙を流すのをグッと堪えた司が気持ちを切り替えようとした、まさにその時であった。キュルキオネの様子に明らかな変化が訪れたのだ。
「つ……か……さ……おにい、ちゃ……」
「……! え……」
すぐに戦闘を再開させようと思っていた司の動きがピタッと止まる。それほどまでの驚きがあったのだ。
これまで思わず耳を塞ぎたくなるような苦痛の声しか上げていなかったキュルキオネが司の名前を呼んだのだ。か細く聞き取りにくくはあったが確かに司の名前を口にしたのである。
「 (聞き間違い……? ついに幻聴が聞こえたのか……?) 」
今のキュルキオネは意識さえも來冥力に支配された暴走状態だ。テトラの呼び掛けにすら無反応を示し、レギュラオンや司に対しては牙を剝いている彼女が名前を呼ぶなど有り得ないと思った司は自分の聞き間違いなのではと疑った。
だがそんな司の心の中の疑念を吹き飛ばすかのようにキュルキオネは続けて言葉を発する。
「い、たい……くる、しい……ここ、どこ……ママに……あい、たい……どこに……いるの……」
「っ……キュルキオネ! (聞き間違いなんかじゃない! キュルキオネは意識を取り戻しつつある! でも、どうして?) 」
動揺が広がる中で司は必死に頭を回す。今彼女の身に一体何が起きているのか。何故意識を取り戻したかのような状態になっているのか。
明らかに戦況が変わった今、事態を正確に把握する事が何よりも優先される。そう考えた司がこれまで得た情報から答えを導き出そうと思考の海に潜った結果、1つの予想に辿り着く事ができた。
ヒントとなる会話はゲーテとレギュラオンが司に來冥力の暴走について教えようとした時の事だ。
『そうですか。では教えてあげましょう。來冥力の暴走というのは――』
『本来時間をかけて解放可能になるはずの來冥力が何らかの外部刺激を受けた事で強制的に解放された結果、心身共に來冥力に支配される現象だ。強制解放された來冥力の量が多いほど、その者を支配する力は強まり……そして苦しむ事になる』
「 (來冥力の暴走における支配力は強制解放された來冥力の量に依存している。キュルキオネの潜在來冥力は開花適応レベル4クラスはあるからこそ、彼女を支配する力も規格外なものになっていた。けど逆に言えば、解放される來冥力が少なければその支配力も低下するって訳だ……! つまり彼女の來冥力が限界に近付いた事で、その解放量も少なくなり……結果意識を取り戻しつつあるんだ) 」
結論を言うと司の予想は当たっていた。だが彼の考えの正誤判定をしてくれそうな存在は近くに居なく、本当にそれで合っているのだろうかと少し不安にもなる。
「……キュルキオネ……」
「こわい……こわいよ……つかさ……おにい……ちゃん……たすけ……て……」
キュルキオネの目から涙が零れ、それがそのまま頬を伝って地面に落ちる。
「……」
その光景を見た司は無言でスッと目を閉じた後、何かを決意したかのように目を再び開いた。その目にはこれまで以上に優しさの感情が宿っており、温かみを感じさせた。
「ずっと君を助けるには戦うしかないと思ってた。でも、來冥力を全部吐き出させる事がそもそもの救出方法なんだったら……それに拘る必要なんてないよね」
そう言った司は1歩ずつキュルキオネに近付く。その様子に戦いに飢えた戦士のような雰囲気は微塵もなく、ただ優しさだけを纏っていた。
「ぁ……ぁ……ああああああ……ああああああ……!」
キュルキオネは再び頭を両手で抑え、泣きながら悲痛の声を轟かせる。可能ならもう2度と聞きたくない、心をキュッとさせるような苦痛で満たされた声だ。
「今の君が最も欲しているものは一体何なのか……ここまできてようやく気付くなんてね。やっぱり僕はまだまだ未熟みたいだ」
ずっと気を張り詰めていた司の表情に微笑みが戻った。ユエルやテトラが好きな、人を安心させてくれるいつもの司の温かな笑みだ。
やがて手を少し伸ばせばキュルキオネに届く――そんな所まで近付くと、司は両手を彼女の背中に回してから自身に引き寄せ、優しく抱き締めた。




