コロッケだけずるい
放課後の日ノ本文化部。
部室には、美優が淹れたほうじ茶のやさしい香りが広がっていた。
応接セットに腰を落ち着けた面々は、珍しく静かだった。
琴美は古い雑誌をぱらぱらめくり、沙羅はソファの肘掛けに頬杖をつき、勇馬は湯呑みを両手で包みながらしみじみと茶をすすっている。シャオは「お茶って落ち着きますね~」と小声で言い、美優はにこにこと追加のお茶を注いでいた。
その穏やかな空気の中で、真平がぽつりと呟いた。
「コロッケそばってあるよな……あれなんでコロッケだけなんだ?」
一瞬、部室の時間が止まった。
沙羅がゆっくり顔を上げる。
「……何その話」
「いや、前から気になってたんだよ」
真平は湯呑みを置いて続けた。
「天ぷらそばは分かる。かき揚げそばも分かる。油で揚げたやつ乗せる流れとしてコロッケも分からなくはない。でも、なんでコロッケだけ妙に市民権得てんのかなって」
「確かに」
勇馬が真面目な顔でうなずいた。
「メンチそば、ハムカツそば、アジフライそばは、定番という感じではありませんね」
「あるにはあるんじゃない?」
沙羅が肩をすくめる。
「でも普通に通じるのはコロッケそばよね」
「そうそう、それ」
真平が指をさす。
「言った瞬間にみんなイメージできるの、なんでなんだって話」
その時。
琴美の目が、すっと鋭くなった。
嫌な予感がした。
「待ちなさい真平」
琴美は雑誌を閉じ、テーブルに置いた。
「それは立ち食い文化への重大な問いかけよ」
「そこまでの話じゃねえよ」
「いいえ、由々しき問題だわ」
琴美はゆっくり立ち上がり、人差し指を突きつけた。
「なぜコロッケだけがそば界で特別待遇を受けたのか。これは単なる好みではない。歴史、経済、庶民文化、そして汁との相性――すべてが絡んでいる!」
「始まったよ……」真平が頭を抱える。
だが勇馬は、もう少し前のめりだった。
「先輩、それは興味深いです。駅そばみたいな早く食べるものだと、具にも条件があるはずです」
「ほら見なさい!」
琴美が勢いよく勇馬を指さす。
「もう同志は理解しているわ!」
「理解が早すぎるだろ」
真平が呆れる。
美優がふわりと首をかしげた。
「えへへ、でも確かに不思議ですね~。コロッケうどんって、あんまり聞かないかも~」
「おお」
真平が少し身を乗り出す。
「そう、それ。そばなんだよな。うどんじゃなくて」
「たしかにうどんだと、ちょっともたっとしそうね」
沙羅が言う。
「そばのほうが、崩れたコロッケを受け止める感じはあるかも」
シャオが手を挙げた。
「パォ、質問です。コロッケは最初から崩して食べるですか? それとも最後まで守るですか?」
「派閥が分かれるわね」
沙羅が即答した。
「派閥ってほどか?」
真平が言う。
「あるでしょ」
沙羅は真顔で返した。
「最初から汁に沈めて、崩壊寸前を楽しむ派。最後まで形を守って、サクサク感を残したい派」
「私は半分だけ沈めたいです~」
美優がほんわか言った。
「最初はさくっとしてて、最後はほろほろがいいです~」
「うわ、一番平和的だな」
真平が感心する。
「あと、カレーコロッケか普通のポテトコロッケかでも変わります」
勇馬が補足した。
「カレーは香りが前に出ますし、ポテトは汁を吸った時にまとまりやすいです」
「重い重い重い」
真平は手を振った。
「なんでそんな真面目に語れるんだよ」
シャオはさらに悩んだ顔になった。
「パォ……でも、ぐずぐずになる前に食べるなら急がないとダメです。これは料理ではなく戦いでは?」
「名言みたいに言うな」
沙羅が吹き出す。
琴美は腕を組み、高らかに言った。
「結論を出すには検証が必要ね」
「嫌な予感しかしない」
沙羅が即答する。
「日ノ本文化部、緊急企画!」
琴美が高らかに宣言した。
「コロッケそばだけずるいのか検証会を開催します!」
「タイトルからしてバカだろ」
真平が切った。
「具体的には!」
琴美は指を折りながら言う。
「コロッケ、メンチ、ハムカツ、アジフライ、春巻き――この辺りをそばに乗せて比較する!」
「春巻きは急に中華寄りすぎるでしょ」
沙羅が突っ込む。
「パォ! ちくわ天も入れたいです!」
シャオが元気よく言う。
「それはもう定番側なのよ! 今回の趣旨から外れるわ!」
琴美がぴしゃりと言った。
「急に厳密になるなよ」
真平はうんざりした顔をした。
美優がおずおずと口を開く。
「でも、部室でおそばは難しいですよね~」
全員が黙った。
そうだった。
この部は勢いで話を始めるが、実行段階で毎回つまずく。
沙羅が静かに言った。
「で、どこでやるのよ」
琴美は一瞬だけ止まり、すぐに胸を張った。
「磯貝亭よ!」
「なんでうちの店を実験場にする前提なのよ!」
沙羅が即座にテーブルを叩いた。
「鉄板もある! 厨房もある! 完璧じゃない!」
「そば屋じゃないのよ、うちは!」
「細かいことは文化研究に不要!」
「一番必要だわ!」
真平はため息をついた。
「そもそも、なんでコロッケだけなんだって疑問に対して、店で全部乗せて食ってみるのは、だいぶ頭悪い解決法だぞ」
「だが実地検証なくして真実なし!」
琴美はきっぱり言い切った。
そこで勇馬が腕を組み、少し考え込む。
「でも……理屈としては、コロッケが一番ちょうどいいのかもしれません」
部室が一瞬、静まり返った。
「……どういうこと?」
沙羅が先に聞いた。
「メンチだと肉と脂が強すぎます。アジフライは魚の味が前に出すぎる。ハムカツは逆に薄くて、汁に負けやすい」
勇馬は指先で空中に整理するように言う。
「その点、ポテトコロッケは主張が強すぎない。汁を吸ってもまとまりやすいし、そばを壊しきらないんです」
「……おお」
真平が思わず感心した。
「それっぽいわね」
沙羅も少し納得顔になる。
「確かにでかい顔しない揚げ物ではあるか」
「汁を吸ってからが本番です~」
美優もこくこくうなずく。
「春巻きは中身が事故るです」
シャオが真剣な顔で言った。
「つまり!」
琴美が机を叩く。
「コロッケは奇跡の中庸! 庶民が生んだ、そば界の名参謀!」
「結局そこまで大げさに言うんだな」
真平が苦笑する。
すると美優が、にこっと笑って言った。
「じゃあ今日は、コロッケそばがえらいってことで終わりにしませんか~?」
全員がまた黙った。
それが一番平和だった。
沙羅がふっと笑う。
「珍しく美優が一番まともなこと言ったわね」
「えへへ~」
美優は嬉しそうに湯呑みを両手で持った。
琴美は少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、やがて腕を組んでうなずいた。
「仕方ないわね。今回は理論編で終わらせてあげる」
「助かった……」
真平が本気で安堵する。
しかし、その直後。
琴美はすっと真平を見た。
「ところで真平」
「なんだよ」
「言い出しっぺなんだから、次回までにコロッケそば食べて感想まとめてきなさい」
「なんで俺だけ宿題あんだよ!」
「また始まったよ……」
今度は沙羅が言った。
部室に笑いが広がる。
ほうじ茶の香りはまだやさしく残っていて、外はもう夕暮れだった。
そして真平は、湯呑みを手にしたままぼやいた。
「……でもちょっと食いたくなってきたな、コロッケそば」
「ほら見なさい!」
琴美が即座に身を乗り出す。
「これが庶民文化の勝利よ!」
「いや、ただ腹減っただけだ」
日ノ本文化部の放課後は、今日もだいたいそんな感じだった。




