シャオvsゴキブリ
放課後前の日ノ本文化部部室は、めずらしく静かだった。
旧校舎の元校長室。
重厚すぎる机、沈み込む応接ソファ、壁際の書庫、なぜか鎮座するテーブル型ゲーム機。隅には、以前の綿あめ騒動以来、誰も積極的には近づかない綿あめ機まである。
その部屋に今いるのは、王小梅――シャオ一人だけだった。
「えへへ……今日は一番です~」
シャオは応接テーブルの上に紙袋を置いた。中には、美優にもらった焼き菓子が入っている。みんなが来る前に並べておこうと思ったのだ。
「真平先輩は甘いの好きそうですし、勇馬先輩は『焼き色が美しいですね』とか言いそうですし、琴美先輩はきっと『これが令和に失われたおやつ文化よ!』とかうるさいです~」
一人でくすっと笑った、その時だった。
カサッ。
小さな音に、シャオの手が止まる。
「……パォ?」
視線の先は、綿あめ機と壁の隙間。
黒いものが、いた。
つやつやしていて、平たくて、嫌な速さで引っ込んだ。
数秒、沈黙。
「……ゴキブリです~?」
口に出した瞬間、現実味が増した。
ゴキブリ。
部室に。
しかも見失った。
「…………」
シャオは固まった。だが次の瞬間、頭に浮かんだのは自分のことではなかった。
「巫鈴ちゃん……」
あの伊勢野巫鈴が、ゴキブリだけは本気でだめだということを、シャオは知っていた。
もしこのあと巫鈴がここへ来て、これを見たら。
悲鳴。失神。部室崩壊。文化部全体責任問題。
そこまで一瞬で想像し、シャオの目つきが変わった。
「巫鈴ちゃんが来る前に、私がなんとかするです」
単独迎撃戦、開幕である。
最初は穏便にいくつもりだった。
シャオは古雑誌を一冊抜き取り、そろそろと綿あめ機へ近づいた。
「出てきたら、こうして……外へ、しゅっです~」
腰を落とし、隙間を覗く。
いた。
「パォ」
小さく鳴いた瞬間、黒い影が飛び出した。
「いたです~!」
雑誌を振り下ろす。
バシン!
床を叩いた。
ゴキブリはその一撃をきれいにかわし、書庫の下へ滑り込んだ。
「速すぎるです……!」
シャオはしゃがみ込み、隙間の奥を覗く。暗がりの中で、黒い影がじっとしている。
「そこ危ないです~。出てきてくださいです~」
説得した。
当然、通じなかった。
「うーん……平和は難しいです~」
次だ。
シャオは宿直室の炊事場まで走り、紙コップとちりとりを持って戻ってきた。
「これで捕まえて、お外へ行ってもらうです。国際的に見ても平和的解決です」
何が国際的なのかは分からないが、シャオは真剣だった。
そろそろと紙コップを近づける。
「急に行くですけど、ごめんなさいね~」
ぱっ。
かぶせる――はずだった。
その瞬間、ゴキブリは書庫の下からまっすぐシャオの方へ飛び出してきた。
「パォォォ!」
シャオは紙コップを放り上げて飛びのいた。ゴキブリはその足元をすり抜け、応接テーブルの下へ。
ころころ転がる紙コップを見て、シャオは真顔で言った。
「今のはずるいです」
ここでシャオは判断した。
平和的解決は無理。
視線が部室の隅の掃除機で止まる。
「……あなたです」
なぜか敬礼してからコンセントを差した。
ぶいん、と頼もしい音が響く。
「おお~」
少し感動した。
ホースを構えて応接テーブルへにじり寄る。
いた。
「逃がしませんよ~」
ぶいん、と吸引音が強まる。
ゴキブリが右へ走る。シャオも右へ。左へ走る。シャオも左へ。
「止まるです!」
「そこです!」
「いや、そっちじゃないです~!」
ごっ、とホースがテーブルの脚に当たり、上の焼き菓子の袋が揺れた。
「おやつはだめです!」
片手でテーブルを押さえた、その隙にゴキブリはソファの方へ逃げる。
シャオが追う。
ホースが雑誌の束に突っ込む。
ばさばさっ、と昭和雑誌が崩れた。
「やっちゃったです~!」
その時だった。
ジリリリリリリリ!!
壁際の黒電話が鳴った。
「パォォォォォ!」
シャオはホースを抱えたまま飛び上がった。
「なんで今鳴るですかぁ~!」
ゴキブリはその脇を走り抜け、今度は壁の高いところへ。
部室はもう虫一匹の規模ではなかった。
ゴキブリは古い額縁の裏へ逃げ込んだ。
「そんなところ行くの反則です~……」
シャオは木椅子を引っ張ってきた。少しぐらつく。
「大丈夫です。私は軽いです。たぶん」
椅子に上り、新聞紙を丸める。額縁の隙間から、触角がぴくっと出た。
シャオの表情が引き締まる。
「こういう時こそ、落ち着くです……」
新聞紙を握る手に力が入る。
「風を見るです……相手の呼吸を――」
そこで一瞬止まった。
「私、なんでゴキブリ相手に武術みたいなこと言ってるです?」
自分で言って、自分で困惑した。
だが、その一瞬で触角が動いた。
「今です!」
バシン!
新聞紙は額縁に命中。
額縁が斜めになる。
椅子がぐらつく。
「パォ!」
シャオは壁にしがみつき、なんとか落下を免れたが、ゴキブリは額縁の裏から飛び出し、部室入口側へ逃げた。
「待つです!」
シャオは椅子を飛び降り、ほうきを掴んで追いかける。
だが足元には掃除機のコード。しかも片隅には掃除用のバケツ。
嫌な予感しかしない。
ほうきを振る。
空振る。
膝がバケツに当たる。
がしゃっ。
「……」
水が床に広がった。
「…………パォ」
シャオは一瞬だけ遠い目をした。
しかしゴキブリは待ってくれない。水を避けて壁際を走る。
シャオも飛び出す。
つるっ。
「パォォォ!」
見事に滑った。
だが、そこはシャオだった。普通なら尻もちだが、片手をついてくるりと回り、膝立ちで止まる。
動きだけはやたら格好よかった。
「今のだけ見たら完全に勝ってる感じですけど、全然勝ってないです~!」
廊下から足音が聞こえた。
シャオの顔色が変わる。
「まさか……」
もうそんな時間だった。
巫鈴が来てもおかしくない。
シャオは部室を見回した。
散らばる雑誌。
濡れた床。
斜めの額縁。
転がる紙コップ。
部屋の中央に投げ出された掃除機。
最悪だった。
「まずいです~!」
ドアが開く。
「う~すっ」
入ってきたのは、巫鈴ではなく真平だった。
「……なんだこれ」
開口一番それだった。
真平は部室を見回し、額を押さえた。
「シャオ、お前一人で何やってたんだよ……」
「真平先輩! 助かったです! ゴキブリです!」
「は?」
「巫鈴ちゃんが来る前に何とかしようとしたら、こうなったです!」
「こうなったです、じゃねぇよ。途中経過が全部気になるけど聞きたくねぇ」
真平が壁際を見て、すぐに気づく。
「あ、いた」
「そこです~!」
「騒ぐなって」
真平は足元の雑誌を一枚拾い、二つ折りにする。すっと壁へ近づき――
ぱしん。
一撃だった。
部室に静寂が落ちる。
「……終わりです?」
「終わり」
シャオはその場にへたり込んだ。
「パォ……」
「なんでお前が一番ダメージ受けてんだよ」
「私、ずっと頑張ったです……」
「結果が戦争じゃねぇか」
その一言に、シャオは反論できなかった。
だが、悲劇はまだ終わっていなかった。
再び、廊下から足音。
今度は静かで、一定で、非常に嫌な予感のする歩き方だった。
真平とシャオは顔を見合わせる。
「……巫鈴」
「パォ」
ドアが開く。
「お兄ちゃん、先ほどから廊下まで騒がしいんですが――」
巫鈴が止まった。
部室を見たからだ。
散らばる雑誌。
濡れた床。
斜めの額縁。
へたり込むシャオ。
雑誌を持った真平。
「……何をしているんですか」
真平が口を開く。
「いや、その……ゴキブリが出てな」
「どこですか」
「いや、もう終わっ――」
「どこですか!」
珍しく声が裏返った。
真平が雑誌でくるんだそれを見せようとした、その時だった。
足元のコードに引っかかって掃除機が倒れた。
がたん。
「あっ」
真平の手から雑誌が離れる。
ぺらり、と開く。
空だった。
「…………」
三人とも無言。
そして。
カサッ。
音は、巫鈴のすぐ後ろの壁からした。
振り向いた巫鈴の目が、それを捉える。
黒い影。
ぴくりと揺れる触角。
「――――きゃああああああああああああああああッ!!」
那須塩原学園旧校舎に、伊勢野巫鈴の絶叫が響いた。
「巫鈴ちゃんだめです~!」
シャオが飛び出す。
「うわっ、待て!」
真平も飛び出す。
巫鈴は最大限距離を取ろうとして後ずさりし、水たまりで滑った。シャオが受け止めようとして同じく滑る。真平が二人まとめて支えようとして巻き込まれる。
三人そろって、派手に転んだ。
ごしゃっ、と鈍い音。
その脇を、ゴキブリが何事もなかったように廊下へ逃げていく。
「……行ったぞ」
床に突っ伏したまま、真平が言った。
「逃げたです……」
巫鈴は真っ青な顔で震えていた。
やがて真平が疲れきった声で言う。
「今日はもう部活中止だな」
「賛成です~……」
巫鈴が床に座り込んだまま、かすれ声で言った。
「……今後、ゴキブリが出た場合は、私に知らせない形で完全に処理してください」
「それが一番難しいんだよ」
真平が返すと、巫鈴がじろりと兄を見る。
「お兄ちゃん」
「はい」
「どうして一撃で仕留めた顔をしたんですか」
「いや、その……そう見えたかなって……」
「見えました」
ぴしゃり。
シャオはへなへなと笑った。
「えへへ……でも、巫鈴ちゃん無事でよかったです~」
巫鈴は少し黙ってから、そっぽを向いた。
「……無事ではありません。心が死にました」
「パォ……ごめんなさいです」
「シャオちゃんは悪くありません」
「いや、だいぶ悪いぞ」
真平が即座に突っ込む。
だが巫鈴は首を横に振った。
「善意でやったんでしょう」
「はいです」
「なら責めません」
「優しいです~……」
「ただし」
巫鈴はゆっくり顔を上げた。
「次からは一人で解決しようとしないでください」
「はいです」
「あと部室を戦場にしないでください」
「はいです~……」
その時、また足音が近づいてきた。
今度は隠す気ゼロの、うるさい足音だった。
ドアが勢いよく開く。
「みんな! 今日こそ新しい昭和企画を――って、なにこれ!?」
琴美だった。
後ろから勇馬と美優も顔を出す。
「わあ……」
「えへへ~、なんかすごいですね~」
真平は天を仰いだ。
「もう説明する気力もない……」
だが琴美は部室を見回し、なぜか真剣な顔で頷いた。
「……なるほどね」
「なにがだよ」
「シャオが一人で黒い悪魔と戦ったのね」
シャオがぴくっと反応した。
「そうです~!」
「よくやったわ!」
「よくねぇよ!」
真平のツッコミを無視して、琴美はシャオの肩をがしっと掴んだ。
「決めた! 次の部活テーマはこれよ!」
「は?」
「題して――『シャオ vs ゴキブリ』!!」
シャオの顔が引きつる。
「それはもう終わったです~!」
巫鈴が即座に言う。
「却下です」
「なんでよ!」
「なんででもです」
珍しく本気の圧に、琴美も一瞬だけ黙った。
だがすぐに立ち直る。
「じゃあ黒い悪魔と戦う昭和のカンフー映画特集にするわ!」
「もっとだめです」
勇馬が部屋を見回して、眼鏡を押し上げた。
「なるほど……掃除機、雑誌、木椅子、黒電話。かなり激しい戦闘だったようですね」
「分析するな。片付けろ」
「でも先輩、これ記録に残す価値ありますよ。文化部史における対害虫戦の記念碑的事件――」
「いらねぇよそんな歴史」
美優がしゃがみ込み、紙袋をそっと持ち上げた。
「あ、お菓子、無事ですよ~」
シャオの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか~!?」
「うん、ちゃんと守られてる~」
「よかったです~……」
その横で琴美が腕を組んで感心したように言った。
「仲間のおやつを守るためにたった一人で戦うなんて……やるじゃない、シャオ」
「そこだけ切り取ると美談だけどな」
真平が吐き捨てるように言う。
「現実は部室半壊未遂だぞ」
「半壊はしてないです!」
シャオが反射的に言い返した。
「そうね、半壊ではないわね」
琴美が頷く。
「せいぜい中破ってところかしら」
「格上がっただけだろ!」
勇馬が壊れた包囲網みたいなガムテープを見つけて、小さくうなった。
「これはすごい……」
「何がだよ」
「発想が昭和の刑事ドラマです」
「そこ褒めるな」
美優が床の濡れたところを見て、のんびり言う。
「でも、みんなでお掃除すれば大丈夫ですよ~」
巫鈴が乾いた声で返す。
「大丈夫ではありません。私の心はまだ戻っていません」
「巫鈴ちゃん、お茶いれますか~?」
「いただきます」
即答だった。
真平はそれを見て、疲れたように笑った。
「立ち直りが早いのか遅いのか、どっちなんだよ……」
琴美がぱん、と手を叩く。
「よし、決まり! 本日の活動は――」
「片付けだろ」
「……部室復興作業よ!」
「言い換えただけじゃねぇか」
勇馬が妙に真面目な顔でうなずく。
「いい響きです」
「お前も乗るな」
結局、全員で片付けることになった。
真平が雑誌を集め、勇馬が斜めになった額縁を直し、美優がタオルで床を拭き、シャオが必死に謝りながら掃除機のコードを巻く。琴美はなぜか途中から指揮官ぶり始め、巫鈴はソファに座ってお茶を飲みながら時々鋭い指示だけ飛ばしていた。
「そこ、まだ濡れてます」
「はいです~!」
「その雑誌、年代順に戻してください」
「なんでそこまで分かるんだよ……」
「見れば分かります」
夕方の光が差し込む頃には、部室はどうにかいつものひどさまで戻っていた。
真平はぐったりしながらソファに腰を下ろした。
「……もう今日は何も起きないよな」
その一言に、部屋の空気がぴたりと止まった。
沙羅がいれば間違いなく「そういうこと言うと起きる」と返しただろうが、今この場に沙羅はいない。
だからこそ、全員が一瞬だけ嫌な予感を覚えた。
そして。
カサッ。
小さな音が、部室のどこかでした。
「…………」
沈黙。
真平がゆっくり顔を上げる。
シャオが固まる。
巫鈴の湯呑みを持つ手が止まる。
琴美だけが目を輝かせた。
「第二ラウンドね!」
「違う。閉店だ」
真平は即座に立ち上がり、鞄を掴んだ。
「今日はもう帰る。見なかったことにする。全員そうしろ」
「えっ、でも――」
「帰るぞ!」
珍しく強かった。
その迫力に、全員が素直に従った。
部室の電気を消し、ぞろぞろと廊下へ出る。最後に鍵を閉めた真平は、しばらく無言で扉を見つめ、それから静かに言った。
「……明日、勇馬と二人で殺虫剤買ってくる」
勇馬が神妙に頷く。
「了解です。対害虫装備の近代化ですね」
「そこまで大げさに言うな」
シャオが小さく手を挙げた。
「私も行くです」
「いや、お前は来なくていい」
「なんでです~!」
「被害が拡大するからだよ」
美優がにこにこ笑う。
「えへへ~、なんか楽しいですね~」
「全然楽しくない!」
真平、シャオ、巫鈴の声がきれいに揃った。
その瞬間だけ、文化部の心は一つだった。




