昭和食堂の反則
油で曇ったガラス戸を押した瞬間、空気が一段、昔に戻った。
昭和――と一言で言うと雑だが、ここは本当に時間が止まってる系の食堂だった。
床は少しだけ傾いていて、壁の時計も少しだけ傾いている。店の真ん中のテレビは相撲か再放送の二択で、今日は再放送だった。湯気と揚げ物の匂いが混ざって、鼻の奥が妙に安心する。
「……ここ、やばいわね」
琴美が、嬉しそうに言った。緋色の髪が照明に揺れて、本人の昭和魂まで光って見える。
真平は入口で一拍置いてから小さく息を吐く。
「やばいの種類が、あの懐かしいのやつね……」
席は四人掛けのテーブルが三つ、カウンターが五席。壁一面に短冊メニューが貼られていた。紙は色褪せて、文字だけが頑固に生き残っている。
「ラーメン」
「カツ丼」
「焼きそば」
「しょうが焼き定食」
「オムライス」
「ハンバーグ定食」
――ここまでは、想定内。
琴美は頷きながら視線を滑らせる。
そのときだった。一番端。申し訳なさそうに、しかし確かにそこにある短冊。
「ビーフシチュー」
二人は同時に黙った。
口を閉じたというより、脳が止まった。
店の湯気と油の匂いの中で、ビーフシチューという単語だけが別の温度を持って浮いていた。
デミグラス。赤ワイン。欧州貴族。日曜の余裕。そういう気配。
――ここで?
琴美が声を小さくする。
「鍋あるの?」
真平も小声になる。変なときほど声が小さくなるのは、人間の本能だ。
「デミグラス、どこから来た?」
琴美は短冊を見上げたまま眉だけ動かす。
「ていうか、ここで?」
真平は短冊を一枚ずつ確認するように見てから結論を口にした。
「ここで、ビーフシチュー?」
挑発だった。
短冊の紙は色褪せているのに、「ビーフシチュー」の文字だけやけに力強い。主張がある。意思がある。しかも悪い意味で。
その瞬間、奥から声が飛んだ。
「決まりましたぁ?」
顔を上げると厨房の入り口におばちゃんが立っていた。年齢の判別は不可能。昭和食堂のおばちゃんはずっとおばちゃんだ。エプロンの胸元にペンが刺さっていて、目だけがやたらと鋭い。審判の目だった。
琴美と真平は、ほぼ反射で顔を見合わせた。
――やる?
――やるの?
――いや、でも……
――でもさ……
言葉にする前に口が動いた。
「「……ビーフシチューで」」
二人の声がぴったり重なって、店の空気が一瞬だけ静まった。
琴美が我に返る。
「いや、なんで私たち頼んだのよ!」
真平も我に返るが、返り方が理屈側だ。
「昭和食堂にあるビーフシチューは確認義務だろ」
「そんな義務聞いたことない!」
「俺も今日できた」
おばちゃんは注文票にさらさらと書きながら、何の感情もなく言った。
「ビーフシチュー、人気だよ」
……人気。
この店で。ラーメンと並んで。人気。
琴美が壁を見上げる。
「ラーメンって、白い湯気と寸胴と人生でしょ」
真平が妙に真面目に頷く。
「わかる。今日を生き延びる味」
琴美は短冊を指差した。
「で、ビーフシチューは……デミグラスと赤ワインと欧州貴族の気配よ」
「日曜の余裕」
「それが同じ壁、同じ短冊、同じ値段帯で並んでるのよ?」
「価値観の異種格闘技だな」
琴美は肘をついて半笑いになる。
「ラーメンとビーフシチューが同じリングに立つって、どういう世界線?」
真平は店内を見回した。客は老人が二人。二人とも新聞を読んでいて、世界線の歪みに何の興味もなさそうだ。
「フライ級とヘビー級を『どっちも強いから』で同時に出すな」
琴美がすぐ乗る。
「審判いないの?」
「いる。おばちゃんが審判兼プロモーターだよ」
琴美が吹き出す。
「最悪」
「しかもこの店の怖いところは……」
「怖いところは?」
真平はわずかに声を落とした。
「選ばせるんじゃなくて、黙らせにくるところ」
琴美が頷きかけて途中で止まる。
「……それ、ちょっと名言っぽいのやめて」
「言ってる本人が一番嫌なんだよ」
それから数分。
厨房の奥から煮える音がした。香りが変わる。油の匂いの下から濃い甘さと深いコクが這い上がってくる。
真平が嫌そうに言った。
「……やめろ、香りで納得させにくるな」
「もう遅いわ。胃が理解し始めてる」
そして運ばれてきた。
コトン、と置かれた器は、深かった。どっしりしていて茶色い。
湯気が立つ白い皿とライスも一緒に置かれる。
琴美は笑いながら言う。
「ほら。普通の器じゃない。ちゃんとして――」
真平の動きが止まった。
器の縁。そこに薄く、しかし確かに文字がある。読めてしまう文字。
「……琴美」
「なに」
「これ」
「なによ」
真平は縁の文字を指でなぞって読んだ。
「……峠の釜めしって書いてある」
琴美の笑いがスッと消える。
「……えっ」
丸い陶器。あの独特の色。あの形。
しかもフタが皿みたいに横に置かれている。
琴美が息だけで言う。
「おぎのや……?」
真平は現実を確かめるみたいに呟く。
「釜めし器……ビーフシチュー……?」
世界線が、さらに歪んだ。
琴美が小声で怒る。
「……器が強すぎるのよ」
真平も同じテンションで返す。
「リングがひしゃげた。もう異種格闘技じゃない。異世界だ」
そのタイミングで、おばちゃんが何でもない顔で言った。
「それ、冷めないからいいのよ」
琴美が思わず顔を上げる。
おばちゃんは事実だけ並べる審判の声のまま続けた。
「陶器が厚いでしょ。冬はすぐ冷めるからね。昔ね、常連さんが置いてったのが増えて。もったいないから使ってる」
真平がゆっくり息を吐く。
「……合理が昭和すぎる」
琴美は器を見つめたまま半笑いになる。
「もったいないで世界観を壊すな」
「うちはね、器は器だよ」
おばちゃんはそれだけ言って奥へ戻った。振り返らない。余韻だけを残す。
まるで常連を落とす手順が身体に染みついているみたいだった。
器の中。
表面に浮いた小さな油の粒が、真面目な仕事の証明みたいに光っている。牛肉はちゃんと角が丸くなっていて、にんじんとじゃがいもが家庭の顔で沈んでいる。
デミグラスの海が、釜めしの器に収まっている。
横にライスが付いていた。しかも量が多い。
さらにスプーンが給食のやつだった。
琴美が笑いながら怒った。
「ごはん付けるなよ!」
真平がスプーンを見て低く唸る。
「給食のスプーンで釜めし器ビーフシチュー……完全にリングが崩壊した」
一口。
琴美の表情が止まった。さっきまでのツッコミが、舌の上で溶けた。
「……うまい」
真平も一口。
「……うまいな」
二人は無言になった。
スプーンが動く。米が消える。肉が消える。
にんじんが妙にうまい。じゃがいもが変に気品がある。
琴美がぼそっと言う。
「一番怖いのは、ちゃんと美味しいことね」
真平が負けを認める声で返す。
「だから昭和は信用ならない」
「反則技のくせに、ルール内で勝ってくるのやめて」
「老舗の必殺技だよ。思考停止させて『じゃあビーフシチューで』って言わせる」
「精神攻撃すぎる」
「しかも、ちゃんと勝つ」
二人は完食した。器の底まできれいになっている。反抗の余地がない。
……と思った、その瞬間だった。
真平が器の底をスプーンでさらっていた手を止めた。
目だけがゆっくり細くなる。
「……琴美」
「なに、今度はなに」
真平は器の底を無言で指差した。
米粒が一つ。
白くて、妙に堂々としている。
デミグラスの艶の中で、存在を主張している。
琴美の顔が固まった。
「……え?」
真平の声が、呆れと畏怖の半々になる。
「……転生してる」
「は?」
「釜めしの魂が、まだ残ってる」
琴美が天を仰いだ。
「異世界転生、ここでやるな……!」
そこで、コトン。
今度は音が小さい。
食器の音じゃない。余韻の音。
二人の前に、白いカップが二つ置かれた。
受け皿付き。小さなスプーンも銀色で、給食とは別人。
湯気が薄く、真っ直ぐ立っている。
――ホットコーヒー。
琴美が顔を上げる前に、真平が先に警戒した。
匂いを嗅ぐ。顔がわずかに歪む。
「……まさか」
琴美が眉を寄せる。
「なに。まさか、なに」
真平はカップに口をつけず、ひたすら匂いだけで判断しようとする。
数秒。諦めたように呟いた。
「……粉っぽくない」
琴美が、ゆっくりカップを持ち上げる。
「インスタントじゃないってこと?」
「……わからん。まだ信じない」
そう言いながら真平もカップを持ち上げる。
二人とも、同時に一口。
……沈黙。
さっきの脳停止とは違う。
これは崩落の沈黙だ。警戒が、音もなく崩れていく沈黙。
琴美が先に口を開いた。声が小さい。
「……ちゃんと苦い」
真平はカップを見つめたまま、もっと小さく言う。
「……後味が、豆だ」
琴美が自分で自分にツッコむ。
「いや、なんでこの店で!?」
真平はもう半分笑って、半分嫌そうだった。
「ビーフシチューで世界観壊れてるのに、コーヒーまでちゃんとしてるのは反則だろ」
二人の視線が、厨房の奥へ向く。
そこに、おばちゃんがいた。いつからいたのか分からない。昭和食堂のおばちゃんはだいたい忍者だ。
胸元のペンをほんの少し揺らしながら、おばちゃんは言った。
感情はない。事実だけの宣告。
「うちはね、コーヒーもちゃんとしてるよ」
琴美の目が細くなる。
「……ちゃんとしてるの方向が、いちいちズレてるのよ」
真平はコーヒーをもう一口飲んで、静かに言った。
「昭和食堂ってさ……選ばせるんじゃなくて黙らせにくる、って言ったけど……」
少し間を置いて、決定打を落とす。
「黙らせたあとに、ご褒美で殴ってくるんだな」
琴美はカップを握ったまま、呆れたように笑った。
「……最悪」
「最悪だよ。負けた気分なのに、機嫌よくなる」
おばちゃんはもう奥へ戻っていた。振り返らない。余韻だけを残す。
琴美が湯気の向こうで笑う。
「ねえ真平。これ、次来たら何されると思う?」
真平はカップを置いて、即答した。
「……プリン」
「プリン?」
「固いやつ。銀の皿に乗ったやつ。カラメルが苦いやつ」
琴美がやたら納得した顔で頷く。
「ある……絶対ある……」
真平は最後に、ぽつりと付け足した。
「そして、ちゃんとうまい」
琴美が肩を落とす。
「一番怖い言葉、また来た」




