天才少女のウィークポイント
放課後の部室は、那須塩原学園の校舎の中でいちばん「世界がゆるむ」場所だった。
教室や職員室の前を歩くとき、巫鈴はいつも背筋を伸ばす。
言葉は武器だ。証拠は盾だ。空気は敵だ。
学校革命を推し進める毎日は、正しさと摩擦の連続で、呼吸の回数まで削られていく。
だから、日ノ本文化部の引き戸を開ける瞬間だけは――胸の奥が少し軽くなる。
「……失礼します」
巫鈴は静かに入って、机に資料を並べた。
プリントの角がぴたりと揃い、ホチキスの針は決まった位置。ペンは真っすぐ。
整頓は、彼女の心臓の鼓動みたいなものだった。
その横顔を、琴美がじっと見ていた。
巫鈴が気づいて顔を上げる。
「……先輩。さっきから何ですか。その視線は」
琴美は腕を組み、妙に真剣な顔で言う。
「いやさ……あんた、ほんっとに恐ろしいくらい落ち着いてるわよね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
巫鈴が淡々と返すと、琴美は「そこだよ!」と言わんばかりに身を乗り出した。
「ねぇ真平!」
「……嫌な流れだな」
真平は、すでに半分諦めた顔で机に頬杖をついている。
「巫鈴ちゃんって弱点とか苦手なものとかあるの?」
「ゴキブリが大嫌いなんだ」
即答だった。
巫鈴の手が止まる。
資料の角が、一ミリだけずれた。
「……お兄ちゃん」
「いや、事実だろ」
琴美が目を丸くする。
「え、マジ!? あんたが!? 知の巨人が!?」
巫鈴は、わずかに眉を寄せた。
「知性は昆虫に対して無力です」
そこへ沙羅が入ってきて、カバンを机に置いた。
「あるある。頭いい人ほど虫ダメ」
「理論化しないでください」
さらに、美優が小さな声で付け足す。
「……こわいですよね……」
巫鈴は美優を見ると、声が一段やわらかくなる。
「美優先輩、それは正常です。人類の良識です」
琴美が笑った。
「そこは優しいんだ!」
琴美は畳みかける。
「ねぇ真平、どのくらい嫌いなの?」
真平は肩をすくめた。
「夏場は夜中に台所とトイレに行くとき、必ず俺が先に確認する」
部室が静まり返る。
「……は?」と琴美。
「え、ガチじゃん」と沙羅。
「……お兄ちゃん……やさしい……」と美優。
巫鈴は顔を赤くする前に言い訳を置いた。
「……違います。これは合理です」
「合理で夜中の偵察発生しないのよ!」琴美が叫ぶ。
真平がため息をつく。
「見つけた瞬間、声が出ないタイプなんだよ。悲鳴じゃなくて固まる」
「お兄ちゃん、余計な情報まで」
沙羅が刺した。
「取り乱してないって言ってる時点で取り乱してる」
「取り乱していません」
巫鈴はきっぱり言い、資料の角を直した。
その動作が、逆に動揺の証拠みたいだった。
琴美はふっと表情を緩める。
「でもさ、いいじゃん。巫鈴ちゃん、家だとちゃんと妹なんだね」
巫鈴は一瞬だけ視線を落とす。
「……家は、戦場ではありませんから」
「学校が戦場みたいに言うなよ」と真平。
「実際そうでしょう」
冗談が一粒も混ざっていない声で言い切る。
部室の空気が、ほんの少しだけ引き締まった。
巫鈴は息を整えるように静かに言う。
「冬は……あれが存在しませんから、大好きです」
「あれって言い方がもう呪物よ」と琴美が笑う。
そのタイミングで、戸が勢いよく開いた。
「パォ! 冬の話?」
シャオだった。
巫鈴の背筋に、嫌な予感が走る。
シャオはにこにこしながら爆弾を落とした。
「台湾のゴキブリ、一年中いるし、飛んでくるよ」
巫鈴は一拍止まり、部室の隅へ歩いて壁を向いた。
そして冷静すぎる声で宣言した。
「……台湾は、敵国です」
「パォ!?なんで!? 台湾めっちゃいいとこ!」
「いい場所かどうかの問題ではありません。空から来る時点で終わっています」
「名言っぽく言うな!」琴美が吹き出す。
美優が震えながら「……飛ぶの……やだ……」と呟く。
沙羅は両手を広げた。
「シャオ、それ核。追撃しないで」
「えへへ……でも日本のはサイズ小さいから、かわいいよ!」
巫鈴が振り返る。目が冷たい。
「かわいいという概念をそこに適用しないでください」
裁判官みたいな声だった。
巫鈴は壁を向き直し、淡々と続ける。
「……台湾遠征の話が出た場合、私は改革を一時停止し、日本に残ります」
「学校革命よりゴキブリ優先!?」琴美が叫ぶ。
「優先順位が違います。これは生存の問題です」
そこで真平が、思い出したように言った。
「そういえば、以前萌香の奴がゴキブリの形したチョコ持ってきた時――」
「……お兄ちゃん」
巫鈴が低い声で呼ぶ。止めろの合図。
だが琴美が目を輝かせた。
「ちょ、待って!? それ萌香の悪ノリの最高峰じゃん!」
沙羅も頷く。
「想像つく。あいつ絶対ニヤニヤしてやる」
真平は止めるべきだと分かっている顔で、でも語り始めた。
「『巫鈴ちゃん、台湾土産~♡』って言って、手のひらに乗せてきた。
巫鈴も最初は普通に『ありがとうございます』って手を伸ばして――」
「やめてください」
「触った瞬間、固まって、無言で窓開けて外に投げた」
「投げた!?」琴美が笑い崩れる。
美優が小さく繰り返す。
「……投げた……」
「叫ばないの?」と琴美。
「叫ばない。叫ばずに処理する。……ただ、そのあと俺の背中の後ろに隠れて」
「……お兄ちゃん」
巫鈴の声が細くなる。
「小っちゃい声で『今の、何』って」
「違います」
即否定。
沙羅が即断する。
「絶対それだろ」
琴美が机を叩いた。
「かわいすぎるだろ!!」
真平は続ける。
「で、俺が片付けた。結局、俺が食べた」
「勇者じゃん……」琴美が呆れる。
巫鈴は顔を赤くしながら、平然を装って言う。
「……お兄ちゃん、そういうところだけは強いですね」
「だから言い方!」
笑いが起きる――はずだったが、真平が最後の一撃を落とした。
「巫鈴が本気で怒って、一月近く萌香と口聞かなかった」
「一ヶ月!?」琴美が叫ぶ。
勇馬が青ざめる。「うわ……ガチ裁判」
美優が心配そうに「……萌香ちゃん……やっちゃった……」
シャオが「パォ……沈黙の刑……」と小さく言った。
巫鈴はゆっくり振り返る。
目は冷たく、声は落ち着いている。
「怒っていません。制裁です」
「言い方が怖い!!」琴美が突っ込む。
真平が頷く。
「萌香が『ごめんってば〜』って絡んでも、巫鈴は視線すら向けない。あれは効く」
「萌香、無視に弱いんだよ」と沙羅。
「途中から作戦変えた。毎日、磯貝亭のお好み焼きを黙って置いていく」
美優がほっと息を吐く。
「……かわいい……」
「それとこれは別です。食べ物に罪はありません」
巫鈴はきっぱり言い切った。
琴美が笑う。
「線引き完璧かよ!」
真平が続ける。
「で、紙一枚置いていった。『ごめん。あれはやりすぎた。もう二度としない』って」
巫鈴は一瞬だけ目を伏せる。
「二度としないが重要です」
「それ読んで、巫鈴がやっと一言だけ言った」と真平。
「なに!?」琴美が身を乗り出す。
「『次はないよ』」
部室が、ひゅっと冷えた。
「ひぇ……」沙羅。
美優が優しく言う。「……でも……許したんですね……」
巫鈴は静かに頷く。
「……萌香は反省しました。だから、終わりです」
怖いのに、不思議と救いがあった。
怒鳴らない。引きずらない。
反省と約束で区切る。
琴美が、少しだけ声を柔らかくする。
「……巫鈴ちゃん。ここでは、ちゃんと笑えてるじゃん」
巫鈴は小さく息を吸った。
「……はい。ここは、安全ですから」
真平が苦笑する。
「ただし、禁忌ワード増えすぎだけどな」
「守ればいい」と沙羅。
シャオが両手を上げる。
「パォ!了解!あれの話しない!」
美優が控えめに言った。
「……お菓子……食べよ……?」
琴美が勢いよく立ち上がる。
「よし!昭和魂で甘味タイムよ!」
巫鈴は小さくため息をつき、ほんの少しだけ口元を緩めた。




