昭和食堂、黙らせにくる
次の日。
部室には、いつもの騒がしさが戻っていた。
畳の匂いと、どこかで甘いお菓子の気配。
美優が持ってきた手作りクッキーが机の端に置かれていて、シャオがそれを一枚ずつ丁寧に並べ替えている。勇馬は壊れたラジカセの裏蓋を開けたまま、ネジを数えていた。
そこへ、琴美と真平が入る。
琴美の顔が、いつもより少し得意げだった。
真平は逆に、疲れた顔をしている。目だけが「言いたくない」と言っている。
「みんな、聞いて」
琴美が手を叩いた。
「この前、真平と昭和食堂に行ったでしょ」
沙羅が椅子に座ったまま、スマホも見ずに即答する。
「また変な店でしょ」
「変じゃないわよ。変なのは――」
琴美は一拍置いた。
ここで引っ張る癖は悪いが、今日は必要だった。
「――ビーフシチューが、峠の釜めしの器で出てきた」
部室が、静かになった。
空気が「はい解散」と言っている。
まず沙羅が目を細める。
「……琴美。疲れてる?」
「疲れてない!」
次に勇馬が、ラジカセから顔だけ上げる。眼鏡の奥が冷静だった。
「釜めしの器って、あの陶器の? 保温性は高いけど、デミグラスは染みるよ」
琴美が身を乗り出す。
「そうよ! 染みるのよ! なのに、成立してたの!」
美優がにこにこしながら首を傾げる。
「えへへ……釜めしの器って、あったかそうですね~」
シャオが小さく「パォ……」と言ってから、慎重に言う。
「それ、嘘。日本、そんなに自由じゃない」
「自由じゃないって何!」
真平が椅子にドサッと座って、淡々と補足した。
「俺も最初そう思った。信じたくなかった。けど、器の縁に峠の釜めしって書いてあった」
沙羅が、ぱちん、と指を鳴らす。
「はい。作り話」
「作り話じゃない!」
真平が、珍しく声を荒げかけた。
すぐに諦めたように吐く。
「……しかも、米粒が出てきた」
美優が、目を丸くする。
「えっ、米粒……?」
沙羅が即座に切り捨てる。
「出るわけないでしょ。ビーフシチューよ?」
「出たんだよ!」
勇馬が、ラジカセを閉じながら真顔で言った。
「もし本当なら、その店は器の運用思想が昭和だね」
「思想って何だよ」
真平のツッコミが弱い。
弱い時は、本当に疲れている。
琴美が拳を握って言う。
「それだけじゃないわ。コーヒーもちゃんとしてた」
沙羅が、ゆっくり顔を上げる。
「……コーヒーも?」
真平が頷く。
「粉っぽくない。後味が豆。インスタントじゃない」
シャオが椅子から半分立ち上がった。
「パォ!? 日本の昭和食堂、インスタントじゃないコーヒー出すの? それ、上級者」
「上級者って何」
美優はまだ笑っているが、目だけが少し本気になっていた。
「でも……それ、ちょっと行ってみたいです。どんな味なんだろう……」
沙羅が腕を組む。
「琴美の昭和魂が暴走してるだけ。真平も巻き込まれて幻覚見た」
「幻覚じゃない!」
琴美が机を叩く。
叩いた瞬間、クッキーが一枚落ちた。美優がすぐ拾って元に戻した。
勇馬が冷静に言う。
「証拠は?」
真平が、顔を上げて言った。
「……ない」
沙羅が勝ち誇る。
「ほら。解散」
「待って!」
琴美が息を吸って、勝負をかける声を出した。
「だったら、みんなで行こう!」
部室の空気が変わる。
沙羅は嫌そうに眉を上げるが、嫌そうなだけで止めない。
勇馬は「現地で確認できるなら」と顔に書いてある。
シャオは怖いもの見たさで目が輝いている。
美優はもう、行く気が八割だ。
真平が、最後に小さく言った。
「……やめとけ。あの店は、黙らせたあとにご褒美で殴ってくる」
「なにそれ、名言っぽい」
沙羅が言い捨てる。
真平は即座に否定した。
「名言じゃない。警告だ」
琴美がニヤッとした。
「よし。次の部活は昭和食堂・現地検証で決定!」
シャオが、拳を握って叫ぶ。
「パォ! 検証、ナイス!」
美優がふわっと笑う。
「えへへ……みんなで行くの、楽しそうですね~」
勇馬が、すでにメモ帳に何かを書いている。
「器の材質、刻印、提供温度、スプーン形状……現地で記録しよう」
沙羅がため息をついた。
「……ほんと、この部活、まともに終わったことない」
真平は机に突っ伏し、諦めた声で言った。
「言っただろ。昭和は信用ならない」
琴美が肩を叩く。
「大丈夫よ真平。今回はみんなで負けに行くんだから」
「それが一番怖いんだよ……」
放課後。
日ノ本文化部は、集団で歩いていた。
先頭は琴美。緋色の髪が夕方の光を拾って、勝手に旗になっている。
その隣に真平がいる。足取りは重い。目だけが「引き返せ」と言っている。
少し後ろに沙羅、勇馬、美優、シャオ。隊列としては完全に遠足だが、目的は検証だった。
「いい? 今日は昭和食堂・現地検証よ」
琴美が振り返って言う。
沙羅は腕を組んだまま返す。
「検証って言うなら、まず嘘の可能性が高いのを前提にしなさい」
「失礼ね!」
真平が小さく言った。
「……正常な科学姿勢だよ」
勇馬がメモ帳を取り出す。
「提供温度、器の材質、刻印、スプーン形状、付け合わせ、客層、店内音源……記録しておく」
美優がふわっと笑う。
「えへへ……遠足みたいですね~」
シャオが小さく拳を握る。
「パォ! 検証、ワクワク!」
真平が、半分だけ本気で呟いた。
「……俺は胃が怖い」
店は、普通にそこにあった。
普通にあることが、逆に怖い。
油で曇ったガラス戸。
押した瞬間、空気が一段、昔に戻った。
湯気と揚げ物の匂いが混ざって、鼻の奥が妙に安心する。
床は少しだけ傾いていて、壁の時計も少しだけ傾いている。
テレビは相撲か再放送の二択で、今日は再放送だった。
琴美が、嬉しそうに囁く。
「ほら。ここ。時間が止まってる」
沙羅が即答する。
「止まってるのは床と時計ね」
美優は目を輝かせる。
「わぁ……ほんとに、昔の匂い……」
シャオが小声で言う。
「ここ、オバケ出る?」
「出ない」
真平の返事が早い。こういう時だけ冷静だ。
カウンターに五席。四人掛けのテーブルが三つ。
客は老人が二人。新聞を読んでいる。世界線の歪みを見ないふりしている顔だ。
そして壁。
短冊メニュー。
紙は色褪せているのに、文字だけが頑固に生き残っている。
「ラーメン」
「カツ丼」
「焼きそば」
「しょうが焼き定食」
「オムライス」
「ハンバーグ定食」
勇馬が頷く。
「標準的な昭和食堂の布陣だね」
沙羅が鼻で笑う。
「はい。琴美の妄想確定」
琴美は、何も言わず、指を一番端に滑らせた。
「……これ」
全員の視線が揃う。
一番端。
申し訳なさそうに、しかし確かにそこにある短冊。
「ビーフシチュー」
その瞬間。
六人、同時に黙った。
口を閉じたというより、脳が止まった。
この店の湯気と油の匂いの中で、ビーフシチューという単語だけが別の温度を持って浮いている。
沙羅が先に復帰した。復帰の仕方が怒りだ。
「……ない。これはない。嘘でしょ」
勇馬は眼鏡を押し上げ、短冊を凝視する。
「……印刷じゃなく手書き。古い。つまり後付けじゃない」
美優が困った顔で言う。
「えっ……ビーフシチューって……おしゃれなやつですよね?」
シャオが「パォ……」と息を吸う。
「欧州…?」
真平が、低い声で言った。
「言っただろ。ここで脳が止まるって」
琴美が短冊を見上げたまま、眉だけ動かす。
「鍋あるの?」
勇馬が即答する。
「鍋はある。問題はデミグラスの出所だ」
沙羅が突っ込む。
「問題はそこじゃない。ここで、って話!」
奥から声が飛んだ。
「決まりましたぁ?」
厨房の入り口に、おばちゃんが立っていた。
年齢の判別は不可能。昭和食堂のおばちゃんはずっとおばちゃんだ。
エプロンの胸元にペンが刺さっていて、目だけがやたらと鋭い。審判の目だった。
琴美が一歩前に出る。勢いが昭和。
「ビーフシチュー、あるんですか?」
おばちゃんは何の感情もなく言った。
「あるよ」
沙羅が横から刺す。
「なんであるんですか?」
おばちゃんはまばたき一つせずに返す。
「あるから」
論破だった。
真平が小声で言う。
「……これが昭和の怖さ」
琴美が振り返り、みんなの顔を見る。
「じゃ、全員で……」
沙羅が即答する。
「頼まない」
美優が恐る恐る言う。
「えへへ……でも、気になります……」
シャオが両手を握って言った。
「パォ! 検証、行くべき!」
勇馬が淡々と言う。
「確認には再現性が必要だ。全員で同じものを食べるのが一番」
沙羅が、嫌そうに顔を歪めながらも負けた。
「……科学、嫌い」
結局。
「ビーフシチュー、六つ」
琴美が言った瞬間、真平は目を閉じた。
「……終わった」
おばちゃんは伝票にさらさら書いて、事実だけ言った。
「人気だよ」
数分後。
香りが変わる。
油の匂いの下から、濃い甘さと深いコクが這い上がってくる。
部室では信じなかった全員の胃が、先に理解し始める。
沙羅が、悔しそうに言った。
「……香りが反則」
真平が、負けの声で返す。
「香りで黙らせにくるんだよ」
そして運ばれてきた。
コトン。
置かれた器は深かった。どっしりしていて、茶色い。
湯気が立つ。横にライス。しかも量が多い。
スプーンは給食のやつ。
ここまでは、まだ受け止められた。
だが。
勇馬が、器の縁の文字を見て、完全に動きを止めた。
「……刻印がある」
琴美がニヤッとする。
「来たわね」
沙羅が目を細める。
「刻印って何」
勇馬は、世界の終わりを読むみたいに言った。
「……峠の釜めし」
全員、器を見下ろす。
丸い陶器。あの色。あの形。
しかもフタが皿みたいに横に置かれている。
美優が、笑っていいのか分からない顔で言う。
「えっ……釜めしの……器……?」
シャオが震え声で言う。
「パォ……器が強い……」
沙羅が両手でこめかみを押さえる。
「……待って。世界観が二回壊れた」
真平が低く言う。
「だから言っただろ」
一口。
琴美が止まる。
「……うまい」
真平も止まる。
「……うまい」
美優の目がきらっとして、幸せそうに言う。
「おいしい……! お肉、ほろほろ……!」
シャオは涙目で頷いている。
「パォ……勝てない……」
勇馬は、スプーンの動きだけで答えた。
理屈を全部捨てて食べている。
沙羅だけが最後まで抵抗した。
抵抗しながら食べた。抵抗は味に勝てなかった。
「……悔しい」
「悔しいね」
真平が静かに返す。
「でも勝てない」
六人は無言になって、ただ食べた。
スプーンが動く。米が消える。肉が消える。
にんじんが妙にうまい。じゃがいもが変に気品がある。
そして完食。
……と思った瞬間。
真平が、器の底をスプーンでさらっていた手を止めた。
目だけがゆっくり細くなる。
「……来た」
「なにが」
沙羅が警戒する。
真平は器の底を指差した。
米粒が一つ。
白くて、妙に堂々としている。
デミグラスの艶の中で、存在を主張している。
美優が、声を失う。
「えっ……」
勇馬が、事実として言った。
「前世が釜めしだ」
沙羅が机を叩く。
「前世とか言うな!」
琴美が天を仰ぐ。
「異世界転生、ここでやるな!」
シャオが小さく言う。
「パォ……魂、残ってる……」
そこへ、コトン。
今度は音が小さい。食器の音じゃない。余韻の音。
白いカップが六つ。
受け皿付き。小さな銀色のスプーン。
湯気が薄く、真っ直ぐ立っている。
――ホットコーヒー。
真平が、先に警戒した。
「……来た。第二波」
沙羅が目を細める。
「まさか、またちゃんとしてる系?」
勇馬が匂いを嗅いで、顔をわずかに歪める。
「粉っぽくない」
琴美がカップを持ち上げる。
「……飲むわよ」
六人、同時に一口。
……沈黙。
これは脳停止じゃない。
崩落の沈黙だ。警戒が、音もなく崩れていく沈黙。
美優が、ぽつりと言う。
「……苦いけど、甘い……」
シャオが、真顔で頷く。
「パォ……豆……」
沙羅が、悔しそうに呟く。
「……なんでこんな店が存在できるの」
真平が、カップを見つめたまま言う。
「昭和食堂は、黙らせたあとにご褒美で殴ってくる」
琴美が笑いながら怒る。
「殴り方が丁寧すぎるのよ!」
そのとき、おばちゃんが通りがかりに言った。
「うちはね、コーヒーもちゃんとしてるよ」
全員が同時に言った。
「「なんで!!」」
おばちゃんは、何事もなかったように奥へ戻った。
真平が、コーヒーを飲み切って、静かに言った。
「……次が来る」
沙羅が即答する。
「来ない。今日は帰る」
琴美がニヤッとする。
「来るわよ。こういう店は締めがある」
勇馬がメモ帳を閉じる。
「この流れは、デザートが来る」
美優が期待で笑う。
「えへへ……プリン、かな……?」
シャオが小さく拳を握る。
「パォ! プリン!」
真平が、嫌な未来を断言する。
「……固いやつ。銀の皿。苦いカラメル」
全員が、同時におばちゃんの動きを見る。
そして。
コトン。
来た。
銀の皿が六枚。
その上に、四角に近い固いプリン。
カラメルは黒くて、見るからに苦い。
沙羅が、もう笑うしかない顔で言った。
「……やっぱり来た」
琴美が震える声で言う。
「ここまでテンプレ通りなのに、なんで全部うまいのよ」
美優がスプーンを持って、ふわっと笑う。
「いただきます……」
六人が一口食べた瞬間。
全員の表情が、同時に止まった。
甘さが上品で、苦さが正しくて、固さが容赦ない。
昭和の勝ちだった。
シャオが小さく呟く。
「パォ……ハオチ……」
勇馬が、静かに結論を出す。
「……再現性、確認。店の勝ち」
沙羅が、敗北を受け入れる声で言った。
「……もう二度と、琴美の話を疑わない」
琴美が、勝ち誇って言う。
「それでよし!」
真平は机に突っ伏して、最後の抵抗を絞り出した。
「言っとくけど……ラーメンと釜めし器ビーフシチューと本気コーヒーと固いプリンを……同じリングに立たせるな……」
琴美が肩を叩く。
「大丈夫よ真平。次はもっとひどいの探すから」
「やめろ……」
外に出ると、風は現代の匂いだった。
車の音。コンビニのLED。スマホの通知。
なのに。
六人の口の中には、まだ昭和が残っていた。




