磯貝家・夏の補習戦線
磯貝亭の店先。
真平と巫鈴を見送った沙羅は、汗をぬぐいながら暖簾を下ろし、ほうきを片付けて中へ戻った。
そこで目に飛び込んできたのは、ちゃぶ台に突っ伏して半べそをかく妹の姿だった。
「お姉ちゃ~ん……助けてぇぇぇ……」
宿題プリントを抱えしめながら、まるで世界の終わりみたいな声を出している。
沙羅は眉をひそめ、腕を組む。
「萌香。あたし、何回も言ったわよね? 宿題、大丈夫?って」
「だって~! 部活の合宿で忙しかったし、夜はスマホ見ちゃったし、昼寝も……」
「要するに、やってないってことじゃない!」
奥から顔を出した母・澄子が、茶をすすりながら苦笑した。
「沙羅、今日は手伝いはいいわ。萌香の宿題、見てやって」
「……えぇぇ」沙羅は大きくため息。
「しょうがないわねぇ……まったく」
その一言に萌香は顔をパッと上げ、両手を合わせる。
「神! お姉ちゃんは女神様だよ!」
「うるさい。まずはこのプリントから片付けなさい」
沙羅はちゃぶ台にプリントを広げ、赤ペンを手に取った。
震える手でペンを握る萌香。
「パォォ!? この問題むずかしすぎるですぅ!」
「誰よ、シャオの真似でごまかそうとするのは!」沙羅が即座にツッコむ。
ちゃぶ台の上で繰り広げられる家庭内補習。
「お姉ちゃ~ん! もう頭がパンクするぅぅ!」
「泣き言言わないの! やればできるんだから」
「ブラック家庭教師だぁ!」
「うるさい! はい次のページ!」
泣きべそをかきながらも、なんとか問題を解いていく萌香。
やがて沙羅が小さく頷いた。
「ここは……よくできてるじゃない。やればできるんじゃない」
「えっ……ほんと?」
「ええ。あんた、やるときゃやる子よ」
褒められた瞬間、萌香の顔はぱっと明るくなる。
「やったぁぁぁ! お姉ちゃん、愛してるぅぅ!」
「抱きつくな、汗くさい!」
その夜。
映画館の帰り道、真平と巫鈴は夕飯を済ませようと磯貝亭へ立ち寄った。
暖簾をくぐると、香ばしいソースの匂いが二人を迎える。
テーブルに腰を下ろした瞬間――
「真平ちゃ~~ん!! 巫鈴っちも!! いいところに来たぁぁ!!!」
奥からプリントの束を抱えた萌香が全力疾走で飛び出してきた。
「なんだなんだ!? 火事か!?」真平が慌てて立ち上がる。
「も、萌香! あなたまさか……!」巫鈴の顔が険しくなる。
そこへエプロン姿の沙羅が現れ、ため息をついた。
「ご明察通り、この子――全然宿題終わってないのよ」
「ぎゃああああ! 言わないでぇぇぇ!!!」
「……巫鈴、お前の鬼教師モード貸してやれよ」
真平のぼやきに、巫鈴は目を見開く。
「ちょっと!? 私は家庭教師じゃない!」
「ねぇ巫鈴っち! お願い!! このままじゃ私、夏休み明けに黒歴史確定なんだよぉぉ!」
萌香は涙目で巫鈴のスカートにしがみつく。
沙羅が腕を組んでニヤリとする。
「ふふ、いいじゃない。巫鈴、真平の次は萌香の救済よ」
「なっ!? お姉ちゃんまで……!」
結局、磯貝亭のテーブルは夕飯のお好み焼きと、宿題プリントで埋め尽くされた。
「まず計算ドリル。一ページ目から半分も終わってないってどういうこと?」
「ひぃぃぃ!」萌香は小動物のように縮こまる。
「文化部の活動とか! 合宿とか! 色々あったし!」
「言い訳禁止!」バンッと赤ペンを叩きつける巫鈴。
「教育委員会に訴えてやる!」
「訴える前に宿題終わらせる!」即答。
泣き叫びながらも、萌香はペンを走らせた。
「もう無理ぃ……」と突っ伏すたび、巫鈴が冷徹に「あと五問」と突っつく。
その様子に真平は苦笑し、沙羅は小声で言った。
「やっぱり巫鈴、教師の器あるわね」
「うん。妹を泣かせるスパルタ教師」
二時間後。
最後の問題を解き終えた萌香は、ちゃぶ台に大の字で倒れ込む。
「おわったぁぁぁ……生きててよかったぁぁ……」
巫鈴は赤ペンを閉じて静かに言った。
「よく頑張ったじゃない」
「……え?」萌香は目を丸くする。
「追い詰められても最後までやりきった。それは立派なことよ」
「……巫鈴っち……」
「次からは追い詰められる前にやりなさい」
「うぅ……はい……」
沙羅が妹の頭を撫で、真平は笑う。
「結局、ちゃんと褒めるんだな」
「当然でしょ。叱るだけが指導じゃないんだから」
その横顔を見ながら、萌香は鼻をすすり、小さくつぶやいた。
「……巫鈴っちって、やっぱり頼れるなぁ……」
宿題の山を制覇した後。
ちゃぶ台の上は消しゴムのカスと赤ペンの跡でいっぱい。萌香はぐったりと大の字になり、巫鈴は赤ペンをしまってほっと一息。
そのとき、台所から澄子が大皿を抱えて現れた。
「はい、ご苦労様」
テーブルに並べられたのは、大きなスイカ。瑞々しい赤が輝いている。
「うわぁぁぁ!」萌香が飛び起き、スイカをがぶり。
「ん~~! 冷たくて甘いぃぃぃ!」
「ほら、喉につまらせるなよ」真平が苦笑しながらフォークを渡す。
沙羅も涼しい顔でかじりつき、「やっぱ夏はこれよね」と笑った。
巫鈴はスイカをひと口食べて、小さく頷く。
「……頑張った後の味は、格別ね」
「そうそう」澄子が優しく目を細める。
「叱るのも大事、でも頑張ったあとはちゃんと褒めてあげるのが一番」
ちゃぶ台を囲む磯貝姉妹と伊勢野兄妹。
冷たいスイカと笑い声が、夏の夜をほんのり甘く彩っていた。




