妹に監視される夏
八月の夕暮れ。窓からはセミの声が弱まり、かわりに秋の虫の音が混ざりはじめていた。
居間で漫画を広げていた真平の背後から、鋭い声が飛ぶ。
「お兄ちゃん!宿題終わった?!!」
振り返れば、仁王立ちの巫鈴。手には分厚い参考書とスケジュール帳。
「……また始まったよ」真平は額を押さえる。
「俺は部活と合宿で忙しかったんだって」
「言い訳禁止! 〆切は迫ってるのよ!」
「お前にまで管理される筋合いは――」
「あるの!」
巫鈴は食い気味に言い放ち、机にドサッとプリントを積み上げた。
「えぇぇ……」真平はソファに沈み込む。
隣の部屋から顔を出した母が笑いをこらえる。
「巫鈴、ちょっとくらいお兄ちゃんにも自由を……」
「ダメ。お兄ちゃんの成績表、私が知ってるんだから!」
「……俺、妹に成績管理される兄ってなんなんだ」
真平は頭をかきながらも、渋々ノートを広げた。
巫鈴はにやりと笑う。
「安心して、お兄ちゃん。答えは教えないけど、ヒントくらいはあげるから」
「……結局お前に頼るしかないんじゃん」
「ふふん。だから私がいるんでしょ」
「お兄ちゃん、宿題出してみなさい。私が見てあげるから……」
「おい……手直しはなしな。去年おまえが勝手に書き直したとこ、先生に詰められて言い訳が大変だったんだぞ」
真平が眉をしかめると、巫鈴は頬をふくらませて反論する。
「だって字が雑すぎて、解読不能だったんだもん!」
「解読不能でも、俺の字は俺の字なんだよ!」
「ぐっ……」真平は言葉に詰まる。
「ほら、私の赤ペン用意してあるから。ね?」巫鈴がニコッと笑い、赤ペンを構える。
「怖いんだよ、そのね?って言い方が」真平はため息をつきながらも、結局ノートを差し出した。
巫鈴はスケジュール帳を開き、冷ややかな目でチェックを入れる。
「残り二日でここまで仕上げないと。――お兄ちゃん、覚悟はいい?」
「……夏休みの宿題って、なんで家族の共同作業になってんだよ……」
真平のぼやきに、伊勢野家の夜は笑い声で包まれた。
居間のテーブルに山積みのワークとプリント。
その前に座らされている真平は、ペンを握ったままため息をついた。
「……俺、何でこんなに監視されてんだ」
「監視じゃなくて指導です!」
巫鈴はぴしゃりと言い放ち、兄のノートに身を乗り出す。
「この問題、また同じミス。ほら、式を書き直して」
「えぇ……」
「えぇじゃない。去年も同じ間違いしてたでしょ」
真平は頭をかきながら、渋々ペンを走らせる。
「……こういうのは直感で答えたほうが早いんだよ」
「だからその直感がズレてるの! はい、やり直し!」
「また始まったよ……」
真平は机に突っ伏したが、巫鈴は容赦ない。
「ほら、時間がないのよ。お兄ちゃんの夏休みはあと三日!」
「……お前さぁ、先生より怖いんだけど」
「先生より妹のほうが本気で怒るに決まってるでしょ」
居間の隅から母の香織が笑いをこらえて声をかける。
「巫鈴、ちょっとは休ませてあげなさいよ」
「ダメ! 今休ませたら寝ちゃいます!」
「おい……俺は子どもか」
「子どもよ! 少なくとも勉強に関しては!」
真平はぐったりしつつも、結局はノートを埋め続けた。
その横で、巫鈴は冷静に進捗を確認しながらページをめくる。
「……お兄ちゃん、言うことは多いけど、ちゃんと最後までやるのは偉いと思う」
小さな声でそう呟かれ、真平は驚いて顔を上げる。
「……天下の伊勢野巫鈴に褒められたよ、アッハッハッハ」
「もぉ~茶化さないでよ!」
巫鈴が頬をふくらませ、部屋には笑い声が響いた。
最後のページにペンを走らせ、真平は大きく伸びをした。
「……終わったぁぁ……!」
机の上には消しゴムのカスと、ぎっしり埋まったノート。
夏休みの宿題――どうにか締め切り前に間に合ったのだ。
ふと横を見やると、巫鈴がテーブルに頬を寄せ、すうすうと寝息を立てていた。
眉間の皺も消え、安心したような表情。
「……なんだよ、結局お前のほうが疲れてんじゃん」
真平は苦笑し、そっとペンを置いた。
窓の外では虫の声が静かに響き、夜風がカーテンを揺らす。
机に突っ伏す妹の肩にタオルをかけてやりながら、真平は小さくつぶやいた。
「ありがとな、巫鈴……」
答えは返らない。
けれどその寝息は、どんな言葉よりも優しい返事のように感じられた。
夏の終わり、伊勢野家に流れる夜は、少しだけ静かで、少しだけ温かかった。
夏休みも残りわずか。宿題を終えた翌日、真平は巫鈴を誘った。
「昨日は世話になったからな。お礼ってことで、映画でも行くか」
「……べ、別にいいけど」
口調はそっけないが、巫鈴の耳がほんのり赤い。
二人並んで歩き出すと、磯貝亭の前でほうきを持った沙羅に遭遇した。
額に汗を浮かべ、店先を掃きながらこちらを見てニヤリ。
「なんだ、二人でデートか?」
「ち、違います!」巫鈴が顔を真っ赤にして即座に否定する。
「お兄ちゃんが勝手に誘っただけで……!」
「へぇ~、でもその格好、いつもよりおしゃれじゃない?」
沙羅がからかうように目を細める。
「そ、そんなことありません!」巫鈴は慌ててスカートの裾を押さえ、視線を泳がせた。
真平は苦笑しながら肩をすくめる。「ほっといてくれ。お礼の外出ってだけだから」
「ふーん……ま、行ってらっしゃい」沙羅は小さく手を振り、再び掃除に戻る。
歩き出した二人の間に、少しの沈黙。
やがて巫鈴が小さな声でつぶやいた。
「……ほんとに、お礼だからね」
「わかってるって」
真平は笑い、夕立前の空を見上げた。
その横顔に、巫鈴は胸の奥が少し熱くなるのを感じながら、映画館へと足を運んでいった。




