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タンブラー  作者: 小鳥遊
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使用感、高揚感。

いつも仕事で使用するのは、父が就職祝いに買ってくれた革のビジネスバッグだ。同僚には、そんな色艶の良い革の鞄は、俺らにはまだ早いよ、と、笑われたりもした。しかし、僕は身の丈に合った金額、仕様の物を身につけるのが好きではない。少し背伸びした物を身につけて、似合う為に努力するのがいいのだ。実際、十分偉くなってから良い物を選んでも、それは新品で、馴染む頃には自分自身がどうなっているかもわからない。新学期、ピカピカの上靴が妙に恥ずかしかった、あの感覚だ。馴染ませることに意味があるのだ。まだそこまで馴染んではいないが、僕の鞄は確かに”僕のかたち”になってきている。書類とノートパソコンはもちろんだが、手帳、携帯歯ブラシのケース、タンブラーと、様々な小物の形に馴染んで、初めて見た時のかっちりとしたあの感じはもうどこにもない。これは間違いなく、僕による使用感だ。この変形に僕は何の違和感も感じない。ちなみにジョンは革の匂いが嫌いなのか、僕のこの鞄には一切近寄らない。おかげで傷も付かないので、僕としては有り難い。


上司との電話を終えてジョンを探すと、スポーツジム用のバッグにすっぽりと収まっていた。以前、元彼女に付き合ってジムに通っていた時に購入した物だ。仕事用の物とは違い、2千円代で購入した安物だが、ジョンはちょっと目を離すと布団かこのバッグの中にいる。別れてジムを退会してからは一度も使用していないが、ジョンの為に定期的に洗濯をしている。着慣れたトレーナーのような感触で、これもまた馴染んでいるのだと思う。

「ジョン、今日は休みにしたよ。」

呟くように言うと、ジョンがひょこっと顔を出す。最近はまるで、僕の言葉がわかるかのように反応する。いつもは寄ってくるのに、今日は何故かジム用のバッグから出てこない。ただ、ニャァと反応するだけだ。仕方ないので僕が歩み寄る。

「ジョン、どうしたんだよ?」

バッグごと抱えると、何か違和感があった。テーブルに置いて大きく開くと、びっくりしたジョンが慌てて飛び出し僕の足元に隠れる。空になったと思ったバッグの底には、まだ何か入っていた。

「名刺入れ…?」

明らかに僕の物ではないが、良い具合の使用感ある革の名刺入れだ。ジョンは時々勝手に外に出ることがあるので、どこかで拾ってきてしまったのだろう。僕は慌てて中身を確認する。3枚のダブった綺麗な名刺と、あとは会社も名前もバラバラな名刺が大量に入っていた。ダブっている名刺が、落とし主の物だろう。


岩代文具カンパニー

広報部 上原 宗康


近所の会社だ。名前の後に住所や電話番号やメールアドレスも書いてあった。後になって考えたら、差し出し人の名前を書かずに送っても良かったのだけれど、僕の良心が許さず、会社に電話をかけることにした。

「はい、岩代文具カンパニー広報部、上原がお伺い致します。」

電話は2コールしない内に出られた。そして上原に直結の番号だと知って少し焦ってしまった。

「あ、小林健吾と申します。えっと、上原さん、最近名刺入れを落としたり」

「落としました!」

食い気味に答えられ、緊張が申し訳なさに変わっていった。緊張したのは、電話が上原に直結だと思っていなかったのと、上原の声が意外に若々しくて戸惑ったのもあるかもしれない。

「もしかして拾って下さったんですか?」

「いえ、大変申し訳ないのですが…うちの猫が、拾って持って帰ってきてしまいました。」

上原は電話の向こうでわははと声を上げて笑っている。怒ってはいない様で安心した。

「猫ちゃんが拾って下さったんですね、ありがとうございます。大事な名刺も多いので、なるべく早く受け取りたいのですが…」

「今日ならいつでも大丈夫なので、お届けしますよ。家も近所なので。」

向こうが申し訳なさそうに話していたので今度はこちらが食い気味に答えると、3回ほどありがとうございますと言われた。僕らは上原の昼休み、近所のペット可のカフェで落ち合うことになった。


普段の休日なら昼頃から掃除や洗濯を始めるが、昼に予定ができてしまったので午前中に済ませることにした。しかし、そわそわしてしまい、全ての動作に時間がかかる。緊張とはまた違う感覚だ。掃除や洗濯などを終わらせると、もう正午だった。僕は慌てて着替えを済ませ、ジム用のバッグにジョンを、ジーンズのポケットに財布と自分の名刺入れを。ジャケットのポケットに上原の名刺入れと携帯を突っ込んで家を出た。ジョンの同伴は、上原の希望だった。住宅地だけれど少し路地に入るとオフィスも多く、大通りは昼休み中であろうサラリーマンやOLで溢れていた。幸い僕の職場までは電車で1時間程かかるので、この辺りで会社の人間に見つかることはまずないであろう。10分ほど大通りを歩くと、待ち合わせ場所のカフェに着いた。約束より少し早いのでどうしようか迷っていると、後ろから肩を叩かれた。

「小林さんですか?」

上原だ。見た感じ、僕と同い年くらいの、所謂イケメンという奴だった。僕は上原に促され、店内に入る。ペット可と言っても猫は見当たらず、多くいる女性客は皆犬を連れている。スタッフに案内されたテーブルに座ると、真っ先に革の名刺入れを返却した。

「うちの猫が、本当に申し訳ないことを…」

「いえ、元はと言えば僕の不注意で落としてしまったものです。本当にありがとうございます。」

お礼にランチをご馳走させてほしいと、上原は言った。僕はお詫びにご馳走させてほしいと言った。しばらくラリーが続いたが、結局僕がご馳走になることになった。上原は、オムライスがおすすめだと言ってきた。

「今流行りの”ふわとろ”じゃなくて、今にも破れそうな薄焼きの卵でふわっと包んでて、僕好みなんですよ。」

だそうだ。聞いていると本当に美味しそうだ。僕は断然薄焼き派なので、便乗させてもらった。上原は猫用のケーキまで注文してくれた。

「猫ちゃんにも、ちゃんとお礼させてもらわないと」

そう言って歯を出して笑う。本当にイケメンだ。歯並びも良い。ジョンがバッグから頭を出すと、女子かと思う程に柔らかい笑顔を見せてきた。ジョンは持ち前のおとなしさと人懐っこさで、上原を虜にした。10分程ジョンと上原をじゃれ合わせていると、オムライスとジョンのケーキが運ばれてきた。猫用のケーキとは思えないクオリティに驚いてしまった。オムライスは本当に昔ながらの、ケチャップライスを包んだ上に更にケチャップをかけてあるタイプだ。女性はふわとろだったりデミグラスソースなんかを好むが、男性は過半数くらいがこちらの王道オムライスが好きなのではないかと思う。女性の好みや話題はコロコロ変わるけれど、男はいくつになっても怪獣やヒーローや冒険が好きなものだと、誰かが言っていた。

「男って、こういう昔ながらの物に惹かれがちですよね。」

上原がオムライスを崩しながらそう言った。心を読まれた気がして、少し心拍数が上がったのがわかる。僕は相槌を打ちながら、オムライスを口にした。ケチャップライスには少しコショウが効いていて、卵の甘さでうまくまとめ上げている感じがたまらない。はっきり言って誰にでも作れる味だけれど、絶対に自分のためには作らない、誰かに作って欲しかった味だ。

「いやぁ、本当に美味しいですね。正に昔ながらの味って感じがします。あ、そういえば、名刺入れ。上原さんの名刺入れも、なかなかシックでいい馴染み具合でしたね。」

「あ、わかりますか?嬉しいなぁ。社会人になってからずっと使っていて、ようやく馴染んできたんですよ。」

上原はまるで僕のことを知っていたのではないかと思う程、僕の心を掴む言葉を織り込んでくる。僕が仕事用の鞄の話をすると、上原はうんうんと頷いて聞いてくれた。食事を進めながら話をしていて、僕らが同い年ということも判明し、すっかり意気投合した僕らは、名刺を交換した。連絡先を交換するのは何だかノリが軽すぎる気がしてしまい、僕もそのつもりで一応名刺入れを持ってきていたので名刺にした。と言っても、お互い名刺に携帯番号が書いてあるのだが。その頃にはジョンは満腹で僕の足元でスヤスヤと寝ていた。

「もし良かったら、またランチでもしませんか。」

「是非と言いたいところなんですけど、僕、今日臨時でお休み貰ってるだけで、普段は土日休みなんですよ。」

もしかして別に予定があったのではと心配されて一瞬戸惑ったが、本当のことを話した。今朝の無気力の話だ。上原は、わかるわかると笑い飛ばしてくれた。上司に電話した時には確かにあった罪悪感が、いつのまにかぼんやりとしてしまっていることに気づく。駄目だ、社会人として、それは持っておかなくては。

「僕は隣の駅なので、今度は休みの日にでも。うちの犬も連れて来ますよ。」

それは嬉しい誘いだ。ジョンには申し訳ないが、僕は断然、犬派なのだ。


上原に礼を告げ、ジョンとまっすぐ帰宅した。カフェでも食後に飲んだが、無性にコーヒーが飲みたくなったので湯を沸かす。その間に、僕はさっき貰った名刺を見ながら上原の番号を自分の携帯に登録した。社交辞令かもしれないが、万が一、上原から連絡があった時にちゃんと対応できるようにした。自分と同い年で、しかもあんなにも似た感性の持ち主に出会えて、僕は高揚感を抑えることができなかった。そしてさっきまで赤の他人の物だった名刺が正式に自分の手元にあることに、ほんの少し違和感もあった。仕事ではよくあることだ。でも、私服で名刺交換というのは、社会に出てから初めてのことだった。これがもし異性相手だったら、僕はランチなんかしなかっただろう。もちろん僕は同性愛者ではない。だが、女性だとどうしてもお互いに警戒心が生まれてしまう。相手が同性で、尚且つあんなにも気さくで気の合う人間だったことは、素直に嬉しいと思う。そして極め付けはあのオムライスだ。あんなに僕好みのオムライスが近所で食べられるなんて、この街に4年住んでいて知らなかった。それを教えてくれたというのも、上原の好感度に繋がる。


高揚感に浸りながら、いつもより少し苦めに淹れたコーヒーを啜る。話しかけられたと勘違いしたのか、ジョンがニャァと鳴いた。

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