96貴族令嬢は、ローマを見物します
第96章 貴族令嬢は、ローマを見物します
翌朝、チェブラーシカちゃんは南へ向かいました。
昨日ライデンから運んできた二組のキットは、サヴォさんのところで降ろしてあります。今日は荷物を運ぶ日ではありません。
ローマを見に行く日です。
サヴォさんも一緒でした。
今日は客室ではありません。
どろちゃんが左席。
フランソワさんが右席。
その少し後ろ、二人の間から前を見られる三人目の席に、サヴォさんが座っています。
「本当に一日で戻るんだな?」
「戻るよ」
「でも、土地を買う話までしてたよな?」
「見物のついで」
「その『ついで』が大きいんだよ」
フランソワさんは何も言わず、窓の外を見ていました。
◇ ◇ ◇
ローマへ近づくと、どろちゃんは窓の外を何度も見ました。
地上を馬車で走っていると、丘と湖に見える場所です。
でも、空から見ると違います。
丸い。
また丸い。
大きな窪みがあります。
その中に水がたまっているところがあります。
少し離れたところにも、また円い地形があります。
「……穴だらけ」
どろちゃんが言いました。
「何が?」
サヴォさんが地図から顔を上げます。
「ローマの周り。上から見るとすごいよ」
フランソワさんも窓の外を見ました。
「確かに、丸い地形が多うございますね」
「前の……」
どろちゃんは、途中で止めました。
前の世界で、イルクーツクの学校の地理の時間に、Google Mapsで火山地帯を見ていたときの景色に似ています。
でも、そんなことは言えません。
「火山の跡がいっぱいあるみたい」
「鉄道を通すって言ってなかったか?」
「やめる」
「早いな」
「水力はいっぱい取れそうだから、電車を強くするのはできると思う。でも、地震もあるし、この地面をよく知らないまま橋とトンネルをいっぱい作るのは嫌」
サヴォさんは、もう一度地図を見ました。
「まあ、統一したばかりだ。急いでローマまで線路を引く必要もない」
「うん。調べてからでいい」
どろちゃんは、その代わりにローマ北側を指しました。
「着陸するのは、ここ」
「今決めたのか?」
「違うよ。ローマへ行くって決めたときに、もうお願いしてある」
チェブラーシカちゃんで来る以上、ローマの上まで飛んできてから、
『この辺が平らだから、ここへ降りよう』
では間に合いません。
草を刈るだけでも時間が要ります。
大きな石をどける人も必要です。
穴や柔らかいところがあれば、最低限は直しておかなければなりません。
ローマ行きを決めたとき、どろちゃんは航空地図と、神様から届いているローマ市街地図を重ねて、先に着陸できそうな場所へあたりをつけていました。
川の近く。
市街地から遠すぎない。
長い直線を取れる。
周囲に大きな障害物が少ない。
その条件で選んだのが、いま前方に見えている北側の土地です。
前の世界では、ここにローマ・ウルベ空港があります。
ローマ中心部からかなり近い、小さな空港です。
今は、もちろん空港ではありません。
後世の倉庫もありません。
オペルの輸入部品を扱う建物もありません。
まとまった長い土地を、まだ取れます。
「ここ、あとでちゃんと買いたい」
「着陸場所を決めたときから、そのつもりだったんだろ?」
「うん。千八百メートルくらい欲しい」
「今日降りるだけなら、そこまでは要らないな」
「今日はね。でも、あとで短くて困る方が嫌だから」
滑走路だけではありません。
格納庫を置く場所。
整備する場所。
燃料を扱う場所。
そして、庭のある家を一軒。
「家まで建てるのか?」
「ローマに来たとき泊まれるでしょう?」
「王宮の客室なら貸すって言っただろ」
「自分の家の方が楽だもの」
サヴォさんは、もう驚きませんでした。
どろちゃんは東側も見ます。
将来、鉄道を通すなら、そちら側です。
ただし、今は線路を引きません。
駅も作りません。
建物を置かず、邪魔にならないように土地だけ考えておきます。
「もう一か所」
「まだあるのか?」
「南東にも広い土地を押さえておきたい」
「今度は何のためだ?」
「もっと大きい飛行場が必要になったとき用」
チャンピーノのあたりです。
すぐに立派な滑走路を作る必要はありません。
将来、整備、貨物、訓練、大きな飛行機を扱う場所が必要になったとき、町が広がってからでは遅いからです。
「二か所とも買う気か?」
「相談するだけ」
「買いたいっていう相談だろ、それ」
「うん」
北側の着陸予定地については、サヴォさん側からすでに地主へ話を通してもらっていました。
売買そのものは、これからです。
今日使う範囲だけは、事前に許可をもらい、草を刈り、大きな石をどけ、地面の悪いところだけ最低限直してあります。
飛行場ではありません。
広い空き地を、今日一日だけ安全に使えるようにしただけです。
どろちゃんは、航空地図で選んだ場所が目の前にあるのを確認すると、上空を何度か回りました。
風。
地面の色。
整地した範囲。
進入方向。
最後は自分の目で確認してから、チェブラーシカちゃんを降ろしました。
◇ ◇ ◇
ローマへ来た目的は、今日は本当に見物でした。
最初はコロッセオです。
知っている形でした。
でも、知っている姿とは少し違います。
石はすでにかなり失われています。それでも、目の前に立つと巨大でした。
「大きいね」
「大きゅうございますね」
フランソワさんも見上げました。
その次は、古いお風呂です。
カラカラ浴場。
もう浴場として使われてはいません。
それでも、残っている壁と床だけで、どれほど大きな施設だったのか分かります。
どろちゃんは浴槽より先に、水がどこから来て、どこへ流れ、どうやって温めたのかを見ていました。
「お嬢様」
「うん」
「今日は見物でございます」
「見物してるよ」
「設備を」
「設備も見物だよ」
サヴォさんが笑いました。
◇ ◇ ◇
午後、バチカンへ入りました。
サヴォさんは、前日のうちに教皇庁へ話を通してあります。
どろちゃんが来ること。
フランソワさんも一緒であること。
今日は美術と建築を見たいこと。
それに加えて、最近起きている二つの出来事も、きちんと説明することになっていました。
案内役として出てきたのは、普通の案内係ではありません。
教皇庁の中でもかなり高い立場にいる聖職者でした。
最初に通された部屋で、サヴォさん自身が話しました。
「海で船が消えている件は、すでに報告が届いていると思う」
「概要は承知しております」
高位聖職者は、静かに答えました。
「ただ、船が遭難したという意味ではない、と伺っています」
「違う。五か国の取り決めを破って私掠を続けた船が、一定の条件で、船体も、人も、積荷もまとめていなくなる」
「人の手によるものとは考えにくい、と」
「少なくとも、我々には同じことを行う手段がない」
サヴォさんは、次にロシアとスウェーデンの話をしました。
共通語が突然通じなくなったこと。
国内の人々には地域ごとに違う言葉と文字が現れ、国外にいた人々には起きなかったこと。
領土の正式な所属を変えると、言葉まで変化する例が確認されたこと。
そして、どろちゃんたちが便宜上、それをバベル現象と呼んでいること。
高位聖職者は、途中で遮りませんでした。
最後まで聞いてから、どろちゃんを見ました。
「あなたは、この現象を神の御業であると考えておられるのですか」
「分かりません」
どろちゃんは、すぐに答えました。
「人にはできないことだと思います。でも、神様が新しい言葉を作ったのか、前からあったものを出したのか、みんなに通じていた何かをなくしたのか、私には分からないです」
「神の御旨まで、推し量ることはしない、と」
「はい。神様が何をしたかと、人が『神様はこう考えたんだ』って言うことは、別だと思ってます」
高位聖職者は、少し考えてから答えました。
「それは、慎重であるべきところでしょう。教会も、神が常に人へ何かを与えるだけの方であるとは教えておりません」
創世記には、大洪水があります。
バベルの塔があります。
ソドムとゴモラの話もあります。
神が与えるものだけを数えていればよい聖書ではありません。
「人間の側から見れば、失われること、散らされること、滅ぼされることとして記された出来事もあります」
高位聖職者は言いました。
「だからこそ、いま起きていることへ、軽々しく意味を付けるべきではないでしょう」
どろちゃんは、少し安心しました。
この人は、分かっている。
神様がいる、と言えば何でも良い話になるわけではありません。
◇ ◇ ◇
サン・ピエトロ大聖堂へ入ってから、どろちゃんは何度も足を止めました。
見たかったものがあります。
ミケランジェロの《ピエタ》。
前の世界で知っていたものです。
写真だけではありません。
実物も見ています。
それでも、まだ三百年ほど若い《ピエタ》を目の前にすると、やはり違いました。
大理石なのに、肌のところが大理石に見えません。
薄く水をかけたように光っています。
濡れているような、ぬめっとした艶があります。
「……やっぱりすごい」
どろちゃんが小さく言いました。
フランソワさんも近くから見ています。
「同じ石とは思えませんね」
「うん。服と肌で全然違う」
どろちゃんは、しばらく動きませんでした。
誰も急かしませんでした。
◇ ◇ ◇
そのあと、ベルヴェデーレに置かれた古代彫刻を見せてもらいました。
最初に、どろちゃんが長く見たのは《アポロン・ベルヴェデーレ》でした。
「これは、いつからここにあるんですか?」
高位聖職者は、すぐに答えました。
「ローマで見つかったのは一四八九年です。教皇ユリウス二世がこちらへ移し、少なくとも一五〇八年にはベルヴェデーレにあったことが記録されています」
「そのときから、この形?」
「いいえ」
聖職者は、腕の方を示しました。
「発見された当時、左手と右手の指などが失われていました。一五三二年から翌年にかけて、ジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソリが修復しております。左腕を補い、右前腕にも手を加え、支えとなる木の幹の部分も補いました」
どろちゃんは、腕から下へ視線を移しました。
そこには、明らかに古代の彫刻そのものとは違う覆いがあります。
「この葉っぱは?」
高位聖職者は、少し間を置きました。
「教皇パウルス四世の時代に加えられたものと伝わっています」
「一五五五年から五九年の?」
「はい」
「これは、後から付けたもの?」
「そうです」
「じゃあ、外せる?」
「取り付け方を調べてからでなければなりませんが、少なくとも、古代の作者が彫った葉ではありません」
どろちゃんは、そこで一度うなずきました。
「それなら、『葉っぱを付けた』ことと、『元の石を削った』ことは分けないとだめですね」
「その通りです」
高位聖職者の返事は早いものでした。
「後世の介入をすべて同じものとして扱えば、かえって記録を誤ります。付加したもの、削除したもの、欠損を補ったもの。それぞれ分けて考えなければなりません」
「うん。そこはちゃんとしないと」
次に案内されたのは《ラオコーン》でした。
どろちゃんも知っています。
父親と二人の息子へ大蛇が絡みつく、あの大きな群像です。
「これは一五〇六年に見つかったものです」
高位聖職者が説明しました。
「発見時からかなりよく残っておりましたが、ラオコーン自身の右腕など、失われていたところがありました。これも一五三二年にモントルソリが修復しています」
右腕を見せます。
「では、これは古代の腕ではないんですね」
「はい。失われた部分を、当時もっとも適切と考えた姿で補ったものです」
「本当に、この向きだったかは?」
「分かりません」
今度は高位聖職者が、はっきり言いました。
「古い資料や別の模刻との比較はできます。しかし、失われた原物を見た者が残っているわけではありません。したがって、これは古代の作者の仕事と、十六世紀の修復者の判断が一つの像の中に共存している状態です」
「それ、すごく大事ですね」
「何がでしょう」
「どこまでが元で、どこからが後の人なのか分からなくなったら、次に直す人が困るでしょう?」
「ええ」
「だったら、修復したところも全部目録にいる」
どろちゃんは、《ラオコーン》をもう一度見ました。
「元の形に戻すための修復と、元の形だと思って新しく作ったところと、見せたくないから変えたところ。全部、別々に」
高位聖職者は、すぐには答えませんでした。
「そのような目録が、すべての作品について十分に整っているとは申し上げられません」
「じゃあ、それから作らないと」
どろちゃんは言いました。
話は、システィーナ礼拝堂にもつながりました。
「《最後の審判》もですよね」
高位聖職者が、どろちゃんを見ました。
「ご存じなのですか」
「さっき見せてもらったから。元からあの布だったのかなって」
未来から知っているとは言えません。
でも、実物を見れば、後から加えられたところがあることを聞くのは不自然ではありません。
高位聖職者は説明しました。
「ミケランジェロが亡くなった一五六四年、その年の一月に、礼拝堂の裸体を覆う処置が決まりました。翌一五六五年、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラが《最後の審判》の裸体の一部へ布を描き加えています」
「絵の上に?」
「はい」
「それも、元の絵と後から描いたところを分けて記録してる?」
「記録はあります。しかし、すべての介入について、同じ精度で追えるわけではありません」
「そこなんだ」
どろちゃんは、少し困った顔になりました。
「分かってるものだけでも、アポロンは、一四八九年に見つかって、一五〇八年にはここにいて、一五三二年から三三年に腕を直して、パウルス四世の時代に葉っぱを付けた。《ラオコーン》は一五〇六年に見つかって、一五三二年に無かった腕を作った。《最後の審判》は一五六四年に覆うことが決まって、一五六五年に実際に布を描き足した」
指を一つずつ折りました。
「これだけでも、全部同じ『修復』じゃないよね」
「おっしゃる通りです」
「だったら、ほかの像も一体ずつ調べた方がいいです。葉っぱを載せただけなのか。留めるために穴を開けたのか。元の石を削ったのか。欠けていたものを推測で作ったのか。昔の絵や版画が残ってるのか」
そこで、どろちゃんは少し黙りました。
「神様が、これを削りなさいって言ったんですか?」
今度は、すぐには返事がありませんでした。
サヴォさんも黙っています。
フランソワさんも、どろちゃんの隣に立っています。
高位聖職者は、言葉を選んでから答えました。
「少なくとも、いま申し上げた処置について、そのような直接の啓示があったという記録を私は存じません。当時の教会が、信仰と慎みのために必要であると判断したものです」
「人が決めたんですね」
「神の御旨を求めながら、人が判断したものです」
どろちゃんは《アポロン》の方を振り返りました。
「聖書では、人は神様の似姿に作られたってありますよね」
高位聖職者は、そこでは少し首を傾けました。
「『神の似姿』を、肉体の形がそのまま神の形であるという意味に限ることはできません」
「それは分かります」
どろちゃんも、すぐに答えました。
「でも、人の身体を神様が作った、っていうところは変わらないですよね」
「それは否定いたしません」
「その身体の一部を、人が『これは神様にふさわしくない』って決めて、元へ戻せないように変えてしまうのは、私は怖いです」
高位聖職者は、今度はすぐに反論しませんでした。
どろちゃんは、像を見たまま考えました。
――バーミヤンの巨大仏像を爆破したタリバンと同じだ。
全部を壊して消してしまうか。
残す代わりに、自分たちに都合のいい姿へ不可逆的に改変するか。
程度が違うだけで、やっていることは同じだ。
しかも、神様のためだと言って。
そこまで考えて、どろちゃんは急に怖くなりました。
前の世界なら、ここまで考えて終わりです。
でも、この世界には、本当に神様がいます。
何かを与えることがあります。
何かをなくすこともあります。
人にはできない規模で。
ある段階へ来ると、突然。
――これ、続けたらバチカンが消えるかもしれない。
どろちゃんは、それを口には出しませんでした。
神様が怒っているとも言いません。
神様がどう考えているのか、どろちゃんにも分からないからです。
それを勝手に代弁したら、いま目の前で問題にしていることと同じになります。
「昔の姿が分かる資料、集められますか?」
どろちゃんが聞きました。
「絵、目録、版画、模刻、石膏型。ほかの町や国に残ってるものも含めて」
「かなり大きな調査になります」
「うん。でも、最初に目録を作らないと、何を直せるかも分からないでしょう?」
「その通りです」
「戻せるものは戻したいです。でも、今度は元の石を削らないで。石膏でもいいです。あとで外せるものにして」
高位聖職者が、どろちゃんを見ました。
「後に、より良い資料が見つかった場合に備えるのですね」
「そう。今分かる一番いい形にして、もっといい資料が出たら、その部分だけまた直す」
「過去の改変そのものは、どう扱いますか」
「消さなくていいです」
どろちゃんは答えました。
「誰が、いつ、何を足したのか。何を削ったのか。分からないなら、分からないって書く。それも全部残しておいた方がいいです。壊したことを隠さないで、でも、像は戻せるところまで戻す」
サヴォさんが、そこで口を開きました。
「過去を消すための修復ではない、ということだな」
「うん」
「そして、今度の修復は可逆的にする」
「そう」
高位聖職者は、しばらく《ラオコーン》と《アポロン》の方を見ていました。
「考える価値のある提案です。ただし、作品ごとに来歴も状態も違います。何をどこまで復元するかは、一体ずつ資料と現物を調べてからでなければ決められません」
「それでいいです」
どろちゃんは、すぐに答えました。
自分が形を決めたいわけではありません。
勝手に変えた人の代わりに、今度は自分が勝手に作り直したら同じことです。
◇ ◇ ◇
そのあと、システィーナ礼拝堂も見せてもらいました。
どろちゃんは、入ってすぐ上を見ました。
そのまま、なかなか前を見ません。
「お嬢様」
「うん」
「足元も、ときどきご覧くださいませ」
「見てるよ」
「どちらをでございますか」
「上」
「そうでございましょうね」
サヴォさんが笑いました。
どろちゃんは一度だけ前を見て、それからまた上を見ました。
今日一日では、足りません。
それでも今日は日帰りです。
◇ ◇ ◇
夕方、どろちゃんたちはローマ北側の空き地へ戻りました。
朝、チェブラーシカちゃんを降ろした場所です。
将来は、ここをきちんと買って飛行場にしたいと思っています。
でも、今はまだ違います。
草を刈りました。
大きな石をどけました。
地面の悪いところを少し直しました。
それだけです。
格納庫もありません。
舗装した滑走路もありません。
誘導路もありません。
広い空き地の中に、チェブラーシカちゃんだけが待っていました。
教皇庁の高位聖職者も、ここまで同行してくれています。
どろちゃんは、機体へ乗る前に振り返りました。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、興味深いお話を伺いました。ローマをご覧いただけたことも、うれしく思います」
「見たかったもの、いっぱい見られました」
どろちゃんは頭を下げました。
それから、少し考えて、もう一度口を開きました。
「さっきの彫刻のことなんですけど」
「はい」
「もし、元の姿を調べて、戻せるものを戻すことになったら、その費用は私が出します」
高位聖職者は、すぐに礼を言いませんでした。
「修復そのものの費用を、ということでしょうか」
「それだけじゃないです。昔の目録を探す費用も、絵や版画を調べる費用も、ほかの町や国に資料を探しに行く費用も。調べる人のお給金も、旅費も。必要なものは私が個人で負担します」
「かなり長い調査になる可能性があります」
「はい」
「対象となる作品の数も、まだ分かりません」
「分かってます」
横でサヴォさんが言いました。
「この娘は、総額を聞いてから言っているわけではない」
「サヴォさん」
「違うのか?」
「違わないけど」
高位聖職者の口元が、ほんの少しだけ緩みました。
どろちゃんは続けました。
「その方が、そちらでも決裁が通りやすいですからね」
「決裁、ですか」
「お金がないから調べられません、にはならないでしょう?」
高位聖職者は、少し考えました。
「資金の有無が、調査の開始に影響することはあります。それは否定しません」
「だから、そこは先に無くしておきたいです」
「ただし、資金をご提供いただくことと、修復の可否や方法を決めることは別になります」
「もちろんです。そこは、そちらでちゃんと調べて決めてください。私が形を決めたらだめだと思う」
「承知しました。ご提案とご厚意は、教皇庁へ正式に伝えます」
「お願いします。それと、削った記録も、直した記録も、両方残してください」
「その点も含めて、検討いたしましょう」
フランソワさんは、必要な連絡先をすでに書き留めていました。
誰へ手紙を送るか。
調査が始まったら、どこへ連絡をもらうか。
費用のやり取りを誰につなぐか。
必要なことだけを確認して、紙をしまいます。
どろちゃんたちは、チェブラーシカちゃんへ乗り込みました。
どろちゃんが左席へ入ります。
フランソワさんが右席。
サヴォさんは、朝と同じ三人目の席です。二人の少し後ろで、計器板と前方をほぼ正面から見ることができます。
「ここから見ると、ずいぶん違うな」
「今日は短く飛ぶので、ちゃんとベルトしてくださいね」
「している」
フランソワさんが後ろを確認しました。
「陛下、肩のベルトもお願いいたします」
「これか」
「はい。そちらでございます」
金具が入りました。
「確認いたしました」
扉が閉じられます。
外には、案内をしてくれた高位聖職者がまだ立っていました。
ここから先は、いつもの手順です。
ただし、今日はいつもの滑走路ではありません。
舗装もありません。
格納庫もありません。
広い空き地の中で、チェブラーシカちゃんが安全に走れそうなところを選び、草を刈り、大きな石をどけ、地面の悪いところだけ直した場所です。
フランソワさんが手順書を開きました。
「それでは、始動前の確認を読み上げます」
「お願いします」
「乗降扉」
「閉鎖、ロック確認」
「貨物扉、点検口」
「閉鎖、ロック確認」
「搭載物」
「固定確認」
「座席、ベルト」
「三席とも確認」
「駐機ブレーキ」
「保持」
「燃料量」
どろちゃんは左右を確認しました。
「十分。左右差、問題なし」
「燃料系統」
「通常位置」
「電源」
「接続、電圧正常」
「警報表示」
「始動前、異常なし」
「左エンジン」
「始動します」
どろちゃんが操作しました。
しばらくして、左側から低い回転音が立ち上がります。
外で待っている高位聖職者には、それだけでも十分に大きな音でした。
フランソワさんは計器を追います。
「回転、上昇。油圧、上昇。温度、正常範囲」
「確認」
「左エンジン、安定」
「確認」
「右エンジン」
「始動します」
もう一つの音が重なりました。
「回転、上昇。油圧、上昇。温度、正常範囲」
「確認」
「右エンジン、安定」
「確認」
「発電機」
「左右、接続」
「電圧、周波数」
「正常」
「油圧系統」
「正常」
「操縦系統」
「確認します」
どろちゃんが操縦桿とペダルを動かします。
フランソワさんも外の舵面表示と計器を見ました。
「補助翼、方向正常」
「確認」
「昇降舵、方向正常」
「確認」
「方向舵、方向正常」
「確認」
「操縦系統、自由」
「確認」
「トリム」
「離陸位置」
「スポイラー」
「格納」
「フラップ」
どろちゃんは一度、外の空き地を見ました。
「短距離離陸位置」
「フラップ、短距離離陸位置確認」
「脚」
「下げ、ロック」
「ブレーキ」
「作動確認」
「飛行計器」
「確認」
「高度計」
「現地高度に合わせました」
「方位」
「確認」
「無線」
「受信、送信確認」
「窓、視界」
「良好」
「始動後確認、完了でございます」
「ありがとう」
チェブラーシカちゃんが動き始めました。
舗装路ではありません。
どろちゃんは急ぎません。
地面の凹凸を見ながら、朝着陸したときに確認しておいた離陸開始位置まで、ゆっくり進みます。
サヴォさんは三人目の席から前を見ていました。
「これが滑走路なのか?」
「まだ空き地」
「本当にここから飛ぶんだな?」
「そのためのチェブラーシカちゃんだよ」
端まで来ました。
向きを変えます。
風へ正対します。
止まりました。
フランソワさんが、もう一枚の短い手順を開きます。
「離陸前確認を行います」
「お願いします」
「客室、扉」
「閉鎖、ロック」
「三席、ベルト」
「確認」
「燃料」
「量、バランス、正常」
「油圧」
「正常」
「電源」
「正常」
「飛行計器」
「確認」
「操縦系統」
「自由、方向正常」
「トリム」
「離陸位置」
「スポイラー」
「格納」
「フラップ」
「短距離離陸位置」
「脚」
「下げ、ロック」
「警報表示」
「なし」
「風」
「ほぼ正面。問題なし」
「前方」
フランソワさんは窓の外を見ました。
「人、車両、障害物なし」
「左右」
「確認。離陸経路、支障なし」
「離陸前確認、完了でございます」
「じゃあ、行きます」
どろちゃんはブレーキを保持したまま、出力を上げ始めました。
サヴォさんが前を見たまま言いました。
「まだ動かないのか?」
「今日は、先に目いっぱいまで上げる」
回転が上がります。
音が急に太くなりました。
さらに上げます。
フランソワさんは左右の計器を交互に追いました。
「左、回転正常」
「確認」
「右、回転正常」
「確認」
「温度、左右正常」
「確認」
「油圧、左右正常」
「確認」
「離陸出力」
爆音が、もう一段大きくなりました。
「左右、離陸出力確認」
「ブレーキ離します」
外では、空気そのものが動きました。
普段の、長い舗装滑走路から余裕を持って出る離陸とは違います。
出せる力を、最初から使っています。
数倍にも感じる轟音が、一気に空き地とその周囲へ叩きつけられました。
耳に聞こえる音だけではありません。
もっと低いところ。
可聴域より低い成分は、音として聞くより先に、空気の圧力として身体へ届きました。
高位聖職者の衣が震えます。
胸の奥を、何度も低く押されます。
草が伏せ、細かな土が後ろへ飛びました。
チェブラーシカちゃんが走り出します。
コックピットでは、フランソワさんの声が続いていました。
「速度計、作動」
「確認」
「左右、指示一致」
「確認」
空き地が前から後ろへ流れます。
「離陸速度」
「機首上げます」
どろちゃんが操縦桿を引きました。
大きな機体の機首が上がります。
「主脚、離れました」
一瞬遅れて、地面との間が開きました。
「正の上昇」
「脚、上げます」
「脚上げ」
フランソワさんが操作を確認します。
「脚、格納中」
轟音を残したまま、高度が増えます。
「脚、格納確認」
「確認」
「加速します」
「フラップ、一段戻し」
「戻します」
「左右、動作確認」
「確認」
さらに速度が増えました。
「フラップ、格納」
「格納します」
「フラップ、格納確認」
「確認」
「エンジン、上昇出力へ」
「戻します」
音の質が少し変わりました。
「左右、上昇出力。温度、油圧、正常」
「確認」
「離陸後確認を行います」
「お願いします」
「脚」
「格納」
「フラップ」
「格納」
「スポイラー」
「格納」
「エンジン」
「左右正常」
「油圧」
「正常」
「電源」
「正常」
「警報表示」
「なし」
「離陸後確認、完了でございます」
「ありがとう」
ようやく、いつもの上昇になりました。
どろちゃんはローマの建物が密集する方を避けて進路を取りました。
三人目の席で、サヴォさんが息を一つ吐きました。
「なるほど。あれだけ音が違う理由は分かった」
「普段は、あんな飛び方しないよ」
「毎回あれじゃ、飛行場の周りがたまらないな」
「だから長い滑走路が欲しいの」
フランソワさんが手順書を閉じました。
「千八百メートルございましたら、毎回ここまで短く離陸する必要はございません」
「そういえば、家も建てるんだったな」
「庭付き」
「そこは忘れないんだな」
「大事だから」
少しだけ、いつもの会話が戻りました。
そのあと、サヴォさんが前を向いたまま言いました。
「ドロテーヤ、一つ聞いていいか」
「なに?」
「さっき彫像を見てたとき」
どろちゃんは、少し嫌な予感がしました。
「途中で急に顔が変わっただろ」
「そう?」
「変わってた。あの人に、神の命令だったのかって聞いたあとだ」
フランソワさんは何も言いません。
でも、右席で少しだけどろちゃんの方を見ました。
「何を考えてた?」
どろちゃんは、前を見ました。
もうバチカンは後ろです。
「……これ続けてたら、バチカンが消えるかもしれないなって」
サヴォさんが黙りました。
「消える?」
「うん」
「建物が?」
「分からない」
「どこまで?」
どろちゃんは、本当に分からないので、そのまま答えました。
「サン・ピエトロ大聖堂と、教皇庁の幹部だけかもしれないし」
少し考えます。
「世界中のカトリックの教会とか修道院とか、施設全部かもしれない」
サヴォさんは黙って聞いていました。
「聖職者ごとかもしれないし」
「人だけってこともあるのか」
「うん。もしかしたら、カトリックを国教にしている国ごと、何かあるかもしれないね」
「……ずいぶん範囲が広がったな」
「だから分からないって言ってるの」
どろちゃんは、少しだけサヴォさんの方を振り返りました。
「神様に聞いてないもの」
「バベルのときと同じなんだな」
「同じ。どこまでが条件なのか、何を見て決めてるのか、神様は説明してくれないでしょう?」
「船もそうだったな」
「うん。最初から全部教えてくれるわけじゃない。あるところまで来ると、突然起きる」
フランソワさんが静かに言いました。
「ですから、お嬢様は、バチカンが消えると教皇庁へおっしゃらなかったのでございますね」
「言えないよ。私、神様からそんなこと聞いてないもの」
「もし言えば」
サヴォさんが続けました。
「神の意思を、自分で作ることになる」
「そう。それ、今日ずっと話してたことと同じになっちゃう」
コックピットが少し静かになりました。
エンジンの音はずっとあります。
でも、さっき地上へ叩きつけていた轟音とは違います。
「ただ」
どろちゃんが言いました。
「聖書を一番よく知ってる人たちなら、神様がいつも何かをくれるだけじゃないことも、私より知ってるでしょう?」
「大洪水も、ソドムとゴモラも、バベルもある」
「うん。だから、今日のお話はちゃんと考えてくれると思う」
サヴォさんは、しばらく何も言いませんでした。
「修復費を全部出すって言ったのも、それが理由か?」
「それもある。でも、お金が理由で調べない、は嫌だから」
「目録から、か」
「うん。何をされたか分からないと、戻しようもないでしょう?」
フランソワさんが言いました。
「教皇庁から連絡がございましたら、調査費用の窓口はこちらで整理いたします」
「お願い」
「承知しております」
その返事は、いつものものでした。
◇ ◇ ◇
地上では、高位聖職者がまだ空を見ていました。
さっきまで目の前にいた十七歳の娘は、王を三人目の席に乗せ、自分であの大きな機械を動かしました。
そして、舗装もされていない空き地から、身体の奥まで揺らす轟音とともに空へ上がっていきました。
機体は、もう小さくなっています。
高位聖職者は、小さくなっていく機影を見上げたまま思いました。
――空から来て、空へ戻った。




