95貴族令嬢は、読めなくなった帳簿を心配します
第95章 貴族令嬢は、読めなくなった帳簿を心配します
また、ライデンへ来ました。
前に二十ほどの地域語で放送してから、それほど長い時間が過ぎたわけではありません。それでも、ロシアとスウェーデンの中では、食料の動きも、帰ってきた軍隊の位置も、役所の状態も、国境の扱いも少しずつ変わっています。
古い内容をそのまま流すわけにはいきません。
どろちゃんとフランソワさんは、夕方までに届いた電信と報告を放送局で並べ直しました。
「こちらは、スウェーデン側の港の受入れ状況でございます」
「うん。食料が届いたところを先にしよう」
「ロシア側は、街道が使えるようになった地域が増えております」
「そこも入れる。軍隊が戻っただけじゃなくて、道が通れるようになったって言った方が安心すると思う」
日が落ちてから、放送を始めました。
いつもの共通語ではありません。
言葉を替え、文字の違う原稿を一枚ずつ送り、二十ほどの地域へ同じ種類の情報を届けていきます。
どろちゃんが読むたびに、フランソワさんが次の原稿と言語地図を確認しました。話す順番は前と同じです。聞いている人が、自分の言葉が何番目に来るのか覚えられるようにしてあります。
全部を一度読み終えたころには、もう遅い時間でした。
それでも、遠くへ届きやすい夜の時間を使うため、間をあけて何度か繰り返しました。
その日はライデンに泊まりました。
◇ ◇ ◇
翌朝、放送局へ行く代わりに大学の工房へ向かいました。
持っていく物があります。
ライデン大学でまとめたソアラーのキット。
それから、お姉様の領地からライデンへ送ってもらっていた、じょうろちゃんのキット。
二つを並べると、かなりの荷物になりました。
工具もあります。
治具もあります。
予備の部材もあります。
説明用の紙もあります。
ミツバチちゃんでも運べなくはありませんが、今回は余裕がありません。
「チェブラーシカちゃんで正解でございましたね」
積付けを見ていたフランソワさんが言いました。
「うん。これで人までぎゅうぎゅうだったら嫌だもの」
積荷を固定して、ライデンを離れました。
行き先はサヴォさんのところです。
◇ ◇ ◇
サヴォさんの家では、先に地図が広げられていました。
どろちゃんたちが着くまでに、エルレンフェルトから送った概要は読んでいたようです。
「ずいぶん増えたな」
サヴォさんが、机の上の紙を見ました。
「最初は、盗まれたエンジンが四基だったんだけどね」
「それが、いまじゃ二つの国の行政と言葉と国境の話か」
「私も、どうしてこうなったのかと思ってる」
どろちゃんは、フランソワさんから受け取った紙を一枚ずつ机へ置きました。
「まず、飛行機の方。ロシア側とスウェーデン側で二機ずつ飛べるところまで作ったのは確認できてる。相手を攻撃するために国境へ向かったところまでも」
「その四機が消えた」
「うん」
「墜落じゃないんだな?」
「国境のあたりまで見ていた人がいるの。四機とも、そこでいなくなった」
サヴォさんは、どろちゃんを見ました。
「どこへ行ったかは分かってるのか?」
どろちゃんは少しだけ黙りました。
「分かってる」
「じゃあ、どうして報告に書かなかった?」
「教えると、そこへ行こうとする人が出るから」
「そんなに危ない場所なのか?」
「行ったら、星になる人が続出する場所」
サヴォさんは、それ以上すぐには聞きませんでした。
「……分かった。場所は聞かない」
「うん。その方がいい」
どろちゃんは次の紙を出しました。
「それから、バベル現象。飛行機が消えたのと、二つの国で共通語が通じなくなったのは、ほとんど同じ時期。でも、原因が同じだとはまだ言えない」
「だからといって、『神が罰した』と決めつける気もないんだな」
「できないよ。何が起きたかは見えるけど、神様が何をしたのかは分からないもの」
国内にいたロシア人とスウェーデン人には地域ごとの言葉が現れました。
国外にいた人は共通語のままです。
国内にいた外国人も共通語のままです。
さらに、領土の所属を変えると、言葉まで変わることが分かってきました。
バルトの一部をネーデルラントへ正式に編入した地域では、共通語が戻りました。
ただロシアから切り離して新しい国にしただけの地域では、戻りませんでした。
「そこまでは前の報告にもあった」
「うん。問題は、そのあと」
どろちゃんは、小さな紙を一枚出しました。
「もっと小さいところで試したの。人を一時的にほとんど外へ出して、残る人も事情を分かった人だけにして」
「何を試したんだ?」
「ロシア側だった土地を、正式にフランス領にした」
「共通語は?」
「戻った」
「じゃあ、条件は、バベルを受けていない既存の国へ入ることか?」
「そう思ったんだけど」
どろちゃんは紙の下の方を指しました。
「それを、正式にロシア側へ戻した」
「また分かれた」
「うん」
「もう一度フランスへ入れれば」
「戻らなかった」
サヴォさんの指が止まりました。
「……一度しか使えないのか」
「そうみたい。いったん戻して、またバベル側へ戻ると、そのあと何をしても共通語に戻らない」
「ずっと戻らない?」
「今のところは」
どろちゃんは、そこだけは慎重に言いました。
神様が未来永劫そうすると宣言したわけではありません。
ただ、これまで試した範囲では戻りません。
「だから、『一度どこかの国に入れて共通語に戻して、それから元の国へ戻せばいい』は使えない。やるほど危ない」
「それじゃ、国そのものをどうするかって話になるな」
「うん。スウェーデンを一度フランスにして戻す、とか、そういう使い方はできない」
サヴォさんは地図へ目を落としました。
「それを決めるのは、スウェーデン人だ」
「そう。私が決めることじゃない」
どろちゃんは、もう一枚の報告を出しました。
「それで、もう一つ気になることがあるの」
「まだあるのか?」
「言葉のこと」
「ずっと言葉の話じゃないのか?」
「そうじゃなくて、神様の方」
サヴォさんの顔が少し変わりました。
「地域の言葉を、神様が自分たちへくれた言葉だって考える人が出てきてる」
「それは、出るだろうな」
「共通語に戻りたくない人もいるの。フランス領にしたら共通語へ戻って、地域の言葉があったことまで本人は分からなくなる。でも、外の人から説明されたり、書いた記録を見せられたりすると、『やっぱり神様にもらった言葉へ戻りたい』っていう人もいる」
サヴォさんはしばらく黙りました。
「教会は、簡単には認めないだろう」
「やっぱり?」
「少なくとも、バベル以前の共通の言葉より、分けられた後の言葉の方が神聖だ、と言い始めれば話は別だ。創世記をどう読むかという問題になる」
「だから、国境の問題だけじゃなくなるかもしれない」
「宗教の問題になる」
「うん」
サヴォさんは、地図の横にあったベルを鳴らしませんでした。
まだ人を呼ぶ前に、少し考えています。
「ポルトガルへ入れた場合。西ドイツへ入れた場合。ノルウェーやフィンランドが単なる占領地なのか、正式に編入されているのか。それも調べる必要があるな」
「それ、私じゃなくて実務の人たちにやってもらいたい」
「最初からそのつもりだよ」
「よかった」
「法も税も、住民の同意も、教会も軍も国境もある。ドロテーヤ一人で試して回られたら、こっちが困る」
「私も困るよ」
サヴォさんは、ようやく人を呼びました。
会議をするのは、どろちゃんではありません。
どの地域を使うのか。
誰の同意を取るのか。
何をもって正式な編入とするのか。
どこまでを試験と呼べるのか。
それは実務者たちが決めます。
どろちゃんは、観察したことと、分からないことを渡しました。
「それと」
サヴォさんが言いました。
「この言葉と神の話、ローマにも先に伝えておいた方がいいな」
「バチカン?」
「あそこは、こういう話を何百年も考えてきたところだ」
「そうだね」
「ドロテーヤ、明日はローマへ見物に行くんだろう?」
「行くよ」
「じゃあ、その前にこっちから説明しておく」
「見物なんだけど」
「分かってるよ」
サヴォさんは、少し笑いました。
◇ ◇ ◇
その晩、どろちゃんとフランソワさんは、サヴォさんから借りている離宮へ戻りました。
ようやく、仕事の紙を机から離せます。
夕食は楽しいものでした。
温かいスープがありました。
焼いた肉がありました。
野菜もあります。
パンもあります。
どろちゃんは、昼間の国境線より、皿の上の方を見ていました。
「明日はローマだね」
「はい」
「コロッセオと、お風呂と、バチカン」
「一日でございます」
「分かってるよ」
「お嬢様の場合、見たいものが増えますので」
「今日は増やしてないよ」
「飛行機の荷物は二組増えました」
「それは昨日から決まってた」
そんな話をしていたところで、来客がありました。
この時間に来る人は、あまり多くありません。
入ってきたのはサヴォさんでした。
「まだ食べてたか」
「食べてるよ。どうしたの?」
「悪い知らせだ」
どろちゃんは、持っていたパンを皿へ戻しました。
「また?」
「今度は商人だ」
サヴォさんは、持ってきた紙をテーブルの端へ置きました。
「帳簿が読めないそうだ」
「文字が?」
「数字もだ」
どろちゃんは少し止まりました。
「何を何個買ったのか、いくら払ったのか、誰からいくら受け取るはずなのか。それが、自分の帳簿なのに分からない者が出ている」
「……それ、破産するよ」
「もうしている」
夕食の空気が消えました。
帳簿そのものが燃えたわけではありません。
倉庫の商品も消えていません。
貸した金が突然なくなったわけでもありません。
でも、昨日まで読めた帳簿を、今日の自分が読めません。
地域によっては文字が変わりました。
数字の書き方まで違います。
どの行が誰への貸しで、どれが仕入れで、どれが支払い済みなのかさえ分からない。
相手が「まだ払ってもらっていない」と言っても、自分で確かめられません。
自分が「これだけ貸している」と言っても、証明できません。
「本当にお金がないんじゃなくて、帳簿が使えないから信用がなくなってるんだ」
「そう見てる」
サヴォさんが答えました。
フランソワさんは紙を受け取り、少し読んでから言いました。
「古い帳簿は、共通語で書かれているのでございますね」
「そこが救いだ」
バベル現象が起きる前の帳簿は、みんなが使っていた共通語で書かれています。
見慣れたドイツ語風の文字です。
国内にいてバベル現象を受けた商人には読めません。
でも、国外にいた同国人なら読めます。
外国の商人も読めます。
会計を扱ってきた人なら、帳簿の形式も分かります。
「バックアップが残ってた」
どろちゃんが言いました。
「ばっく……?」
「あ。何でもない。古い帳簿が読める人は残ってるってこと」
「でも、それだけじゃ間に合わない。読んでいる間にも支払日は来る」
「うん」
「それで、ロシア側とスウェーデン側から案が来た」
サヴォさんは紙を一枚めくりました。
「王家の資産を保証に使う」
「全部売るの?」
「売らない。土地、鉱山、関税その他の収入を裏付けにして、まず支払いを止めないようにする。帳簿を読める者を集めて古い記録を確認し、貸し借りを組み直す。その間の資金を借りる」
「それなら、本当に倒産してるところと、読めないだけのところを分けられる」
「そういうことだ」
フランソワさんが紙の下の方を指しました。
「外国商人からの請求は、片側だけの申告で認めない、とございます」
「当然だ。今なら、相手が帳簿を読めないことを利用できてしまう」
「読める人が強すぎるものね」
だから、古い帳簿は一人だけに読ませません。
複数の人が確認します。
相手側の帳簿や受取証書も照合します。
倉庫に実物があるなら数えます。
不明なものは、すぐに財産を取り上げる理由にはしません。
「火事場で安く買い叩くのは止めないとね」
「そのための保証でもある。今日払えないから、明日には店も倉庫も外国商人へ渡せ、じゃ復旧にならない」
どろちゃんは、少し安心しました。
「王家のお金、役に立つね」
「ドロテーヤ、王様本人の前でそれを言うか?」
「だって、こういう時に信用として使えるなら、持ってる意味あるでしょう?」
「まあ、否定はしない」
サヴォさんは椅子の背へ少しもたれました。
「明日には、保証を前提にした支払猶予と融資の話を実務者へ回す。帳簿を読む人間も集める」
「じゃあ、今夜すぐ私が何かしなくてもいい?」
「いいよ」
「ほんとに?」
「明日は予定どおりローマへ行けばいい」
どろちゃんは、パンを取り直しました。
「行く」
「そこだけ返事が早いな」
「だって、見物だもの」
フランソワさんが小さく笑いました。
「明日こそ、本当に見物でございますね」
「うん」
どろちゃんは、今度こそ夕食へ戻りました。




