94貴族令嬢は、バベルの塔のあとを考えます。 異世界転移標準装備の言語チートがお役立ち
第94章 貴族令嬢は、バベルの塔のあとを考えます
◇ ◇ ◇
事件から一か月ほどたったころです。
国外へ出てきた人の証言は増えていました。
首都の中でさえ役所と市場で話が通じないところがある。少し地方へ行けば、また別の言葉になる。外国人は何とか国境へ出てくる。心配して帰国したロシア人やスウェーデン人は、自分の国の人と話せず、状況だけを見てまた外へ戻ってくる。
どろちゃんの机には、そんな報告が何枚も重なっていました。
フランソワさんは向かい側で、届いた紙を地域ごとに分けています。
「スウェーデンのこの港、食料の荷揚げが止まってる」
「はい。船は着いておりますが、倉庫から先の指示が通らないようでございます」
「食べ物があるのに運べないの、いちばん困るやつだね」
「ロシア側も、遠い地域ほど状況が分かりません」
食料を送れば終わりではありません。
受け取る人と、どこへ運ぶかを決める人と、実際に運ぶ人が話せなければ、港へ袋を積み上げるだけになります。
どろちゃんは考えながら立ち上がり、事務ラックへ行きました。
いつものファイルを一冊取ろうとして、その横に見慣れない背表紙があることに気づきます。
「……何これ」
厚い本です。
一冊ではありません。
何冊かまとまって、いつもの事務ファイルの横へ普通に挟まっています。
「フランソワさん、これ知ってる?」
呼ばれたフランソワさんが近づきました。
「いいえ。拝見した覚えがございません」
「私もない」
いつ置かれたのか分かりません。
昨日だったのか、一週間前だったのか、もっと前だったのか。
神様から来るものは、ときどきそうです。大きな箱なら誰でも気づきますが、本が事務ラックへきれいに収まっていると、最初からそこにあったような顔をしています。
一冊抜くと、表紙にはこの世界の共通文字で「ロシア地域語―共通語対訳辞書」とあります。もう一冊は「スウェーデン地域語―共通語対訳辞書」でした。
「神様だね」
「そのようでございますね」
どろちゃんは机へ持っていきました。
最初の方には、共通語と地域語を並べた辞書があります。でも、どろちゃん自身には対訳の部分はなくても困りませんでした。
初めて見る文字を見ても読めます。
聞いたことのない言葉でも話せます。
書くこともできます。
どろちゃんの言葉の力は、たくさんの外国語を勉強した結果ではないからです。
一つ目の地域語で短い文章を読み上げると、フランソワさんが首を傾げました。
「申し訳ございません。まったく分かりません」
「私は普通に分かる」
「初めてご覧になったのでございますよね」
「うん」
次の言語も読めました。
その次もです。
でも、どろちゃんにも分からないことがあります。
この言葉を何と呼ぶのか。
どこで使われているのか。
何人くらいが話しているのか。
それは、言葉そのものを理解できても地図の上には勝手に出てきません。
巻末を開くと、大きな折り込み地図がありました。地域ごとの言語名、主な使用範囲、推定話者数、隣接する言語圏、使われる文字や表記まで載っています。ロシア側がおよそ十言語、スウェーデン側もおよそ十言語です。
「これが欲しかったんだ」
どろちゃんが地図へ顔を近づけると、フランソワさんも横から見ました。
「食料事情の悪い地域も重ねられますね」
「うん。港の周りで何語を使えばいいかも分かる」
そこで、どろちゃんはすぐ電信を書こうとして、少し手を止めました。
「フランソワさん、ネーザーランド放送を使わせてもらいたい」
「まずは、現在分かっている事実を各地域の言葉で伝えるのでございますね」
「うん。それと食べ物と薬を送る準備をしてること」
フランソワさんは、少し考えてから言いました。
「四か国が、どこまで何を行うかは、まだ決まっておりません」
「あ」
どろちゃんは書きかけた紙を見ました。
「そうだね。そこは私が決めるところじゃない」
「はい。ですが、外から助ける準備を始めていることと、港や道路を壊さないでほしいことは、今すぐお伝えできます」
「じゃあ、そこまでにする」
どろちゃんは新しい紙を取りました。
フランソワさんが地図を押さえます。
二人で最初の放送原稿を作りました。
◇ ◇ ◇
ネーザーランド放送の人たちは、最初、二十言語という数字を聞き間違えたと思ったそうです。
無理もありません。
昨日まで、そんな言語が国際放送に必要だとは誰も考えていませんでした。
どろちゃんはライデンへ行き、神様から届いた地図と話者数の表を放送室の机へ広げました。フランソワさんは、その横で言語ごとの原稿を順番に並べます。
「最初は話者の多いところ。それから食料が危ないところと港の周りを優先します」
「原稿の翻訳は、どうしますか」
「私が書きます」
「全部ですか」
「全部」
「読む方は?」
「私」
放送局の人が黙りました。
フランソワさんが、少しだけ笑っています。
「本当にできますので、その点はご心配なさらなくても大丈夫です」
原稿は長くしませんでした。
あなたの耳が壊れたのでも、周囲の人が急に愚かになったのでもないこと。ロシアとスウェーデンの中で地域ごとに言葉が分かれているらしいこと。国外には以前の共通語を使える人が残っていること。外国側では食料と医薬品を送る準備を始めていること。
外国人を見つけても、言葉が通じないという理由だけで危害を加えないでほしいこと。港、倉庫、道路、橋を壊さず、食料は地域で分けられるよう保管してほしいこと。病人や怪我人がいる場所は、分かるように印を出してほしいこと。
そこまでです。
政治の形については何も入れませんでした。まだ、何も決まっていないからです。
どろちゃんが一つ目の言葉で読み始めると、放送室の人たちには意味が分かりません。けれど、発音が詰まることも、文字を追って迷うこともなく、そのまま次の言葉へ移ります。
フランソワさんは、読み終わった原稿を一枚ずつ裏返していきました。
「次、こちらでございます」
「うん」
声は同じなのに、音の組み立て方が変わります。
さらに次では文字まで変わりました。
一メガヘルツの電波は、日没後に遠くまで伸びます。
その夜、ロシアとスウェーデンにある何十台もの受信機から、久しぶりに意味の分かる言葉が流れました。
最初の言語は分からない。
次も分からない。
その次で、急に顔を上げる人がいます。
ラジオから、自分の言葉が聞こえました。
数日前まで音楽しか分からない箱になっていた受信機が、もう一度、外の世界とつながります。
放送の最後に、どろちゃんはそれぞれの言語で同じことを言いました。
「次の放送まで、ラジオを捨てないでください。音楽も流します」
ニュースだけでは、ずっと聞いている方も疲れます。
どろちゃんがライデンにいる間、その日の多言語放送は時間を置いて何度か繰り返しました。言語の順番も固定します。何番目に自分の言葉が来るのか、受信する側が覚えられるからです。
でも、どろちゃんがエルレンフェルトへ帰れば、多言語ニュースはいったん終わります。
二十ほどの地域語を読める人が放送局に残っているわけではありません。ネーザーランド放送そのものは共通語のニュースと音楽を続けますが、ロシアとスウェーデンの地域語で新しい内容を伝えるには、どろちゃんがもう一度ライデンへ来る必要があります。
だから、次に作ったのは新聞でした。
ラジオは速いですが、すべての村に受信機があるわけではありません。一枚の新聞なら何人でも読めますし、読めない人がいても、その地域の文字を読める人が声に出せます。
どろちゃんが文章を作り、フランソワさんと放送局の人たちが、地図と照らしながら版を取り違えないよう整理しました。活字のそろっていない文字は、清書した原稿をそのまま版へ写して刷ります。
最初に載せるのは、放送と同じ内容です。
事実。
食料と薬を送る準備。
道路と港を守るお願い。
言葉が違うだけで相手を敵だと決めないこと。
政治の形は、まだ書きません。
紙は国境近くの町、港、戻ってきた商人、外国人の集団を通じて少しずつ国内へ入りました。
「どこまで届いたかな」
エルレンフェルトへ戻ったあと、どろちゃんが言いました。
「全部ではないと思います」
「だよね」
「ですが、昨日よりは多くの方へ届いております」
「うん。それなら次を考えよう」
フランソワさんは、机の上の別の報告をどろちゃんの方へ寄せました。
国外にいるロシア軍とスウェーデン軍の報告でした。
◇ ◇ ◇
事件が起きた瞬間、自国の外にいたロシア軍とスウェーデン軍は、部隊の中で以前の共通語を保っていました。
兵士同士で話せます。
将校の命令も通じます。
帳簿も命令書も、昨日までと同じように読めます。
外国側とも、そのまま交渉できます。
国内の役所が地域ごとの言葉に分かれてしまったあと、これほど大勢の人が同じ言葉を使い、同じ命令系統で動ける集団は、ほかにほとんど残っていませんでした。
どろちゃんは、その報告を何度か読みました。
「この人たちなら、まだ外と話せる」
「はい」
「部隊としてもまとまってる。食料を運ぶ人数も、荷車も、倉庫を管理する人もいる」
「ございますね」
「だったら――」
そこでフランソワさんが、どろちゃんの顔を見ました。
止めるような顔ではありません。
でも、どろちゃんには分かりました。
「……ここからは、私が決める話じゃないね」
「はい。ですが、お考えになったことを出さなければ、ほかの方も検討できません」
「じゃあ、父上に話す」
「それから、四か国へ、でございますね」
「アン女王陛下にも。イングランドでは時々ちゃんと上司だし」
「時々、なのでございますか」
「伯爵の仕事をしてるときは、ちゃんと」
フランソワさんが少し笑いました。
「ルイ十四世陛下には、いつもの人を通した方が早いかな」
「トルシー侯でございますね」
「うん。王様を全員ここへ呼んだら、二つの国を立て直す人より、王様のお世話をする人の方が多くなりそう」
「それは困りますね」
「電信があるんだから、必要なところだけ聞けばいいよね」
「そのための電信でもございます」
まず、お父様へ話しました。
お父様は地図と報告を見て、国外軍の人数、いる場所、補給の状態だけを確認しました。
「考え方は分かった。実務者を集めよう」
「父上は?」
「必要なところでは出る。だが、ロシアとスウェーデンの港を一つずつ私が決める必要はない」
「それもそうだね」
「アン女王陛下とフランス国王陛下にも、最終判断が要る事項だけ送ればよい」
そこで、エルレンフェルトへ集まったのは王様の一行ではありませんでした。
フランスからはトルシー侯と外交・軍務の実務者。
イングランドからは女王の命を受けた担当者。
ネーデルラントからは外交だけでなく、港、商業、船、金融を扱う人たち。
サヴォイアからも担当者が来ます。
エルレンフェルト側は、お父様の役所の人たち。
そこへ、国外にいるロシア軍とスウェーデン軍から届く報告が加わりました。
どろちゃんとフランソワさんは、神様の言語地図と、分かっている事実を机へ出します。
会議で必要なのは、王様らしい大きな言葉ではありませんでした。
どの部隊が何人いるか。
食料は何日分あるか。
帰るなら、どの街道を使うか。
途中の橋は通れるか。
どの港へ穀物船を入れられるか。
誰が代金を払うのか。
武器を持ったまま帰すのか。
投降を受け入れたあと、その武器を誰が管理するのか。
紙が増えます。
地図にも印が増えます。
トルシー侯が、国外軍へ出す文面を読みました。
「まず、戦闘停止と投降を求めます。そのうえで、各部隊の上級指揮官に、自国へ戻るための交渉代表を選ばせます」
「捕虜にして終わり、にはしないんですね」
どろちゃんが聞きました。
「それをすれば、本国へ戻せる最大の組織をこちらから壊すことになります」
「だよね」
イングランド側の担当者が言いました。
「この条件は女王陛下の承認を取ります」
トルシー侯も頷きました。
「こちらも陛下へ送ります」
ネーデルラントとサヴォイアも、それぞれ自国へ電信を打ちました。
返事を待っている間も、港の割当てと穀物の量は計算できます。
王様が返事をするまで、全員で椅子に座っている必要はありません。
数時間後から翌日にかけて返電がそろいました。
細かな文言の修正はありました。
でも、大筋は承認されました。
最終的に四か国から、国外駐留中のロシア軍とスウェーデン軍の上級指揮官へ、別々の呼びかけが出されます。
戦闘を停止すること。
投降を受け入れること。
武器を管理できる状態に置くこと。
そのうえで、自国へ戻り、住民を支えるための代表者を選ぶこと。
食料、医薬品、輸送、帰国路について四か国と協議すること。
ロシア側でも、スウェーデン側でも、返事には時間がかかりました。
当然です。
昨日まで戦争をしていた軍隊です。
しかし、本国から正常な命令はもう来ません。
帰れば、自国民と言葉が通じません。
それでも、自分たちの部隊の中では話が通じます。隣の部隊とも連絡できます。何千人、何万人という人間を同じ予定で動かせます。補給品を数え、倉庫へ入れ、街道を使って運べます。
国内のどこを探しても、これほど大きく、意識をそろえて動ける集団はほかにありませんでした。
長い協議のあと、双方の国外部隊が戦闘停止と投降を受け入れました。
そして、それぞれの上級将校を中心に、亡命軍事政権が作られます。
ロシアはロシア。
スウェーデンはスウェーデンです。
四か国が作って与えた政府ではありません。
国外に残っていた自国軍が、自国へ帰り、国を動かすために作った政府でした。
軍人しかいなかったわけでもありません。
事件の瞬間に国外にいた商人たちも、以前の共通語を保っています。外国の取引先と話せます。どこで穀物を買えるか、どの港へ船を回せるか、信用でどこまで品物を動かせるかを知っています。
国外の大学へ出ていた留学生たちも同じでした。
若く、読み書きができ、外国の制度を見ています。神様の辞書を使えば、帰った先の地域語と共通語の間をつなぐ仕事もできます。
ただし、人数が桁違いでした。
商人や留学生は重要です。
でも、国全体を支える骨組みになれるほど多数で、最初から指揮系統と輸送能力まで持っていたのは軍でした。
亡命軍事政権の周りへ、商人、留学生、国外にいた役人や技術者が加わっていきます。
軍が中心だから悪い、という話にはなりませんでした。
いま必要なのは、食料が消えず、薬が届き、会計が残り、命令が途中でなくならない政府です。
それを一番早く作れるのが、たまたま軍だったのです。
◇ ◇ ◇
軍隊を帰す前に、もう一度、地域語で知らせる必要がありました。
この放送は、エルレンフェルトからはできません。
「またライデンだね」
「はい。放送所はあちらでございます」
どろちゃんとフランソワさんは、原稿の束と神様の言語地図を持って、もう一度ライデンへ飛びました。
今度の原稿は、どろちゃんだけでは作っていません。
四か国の実務者と、成立した二つの亡命軍事政権が内容を確認しています。
どろちゃんは放送室で、それを地域ごとの言葉へ直して読みます。
フランソワさんは机の横で、地図と言語順と原稿の束を確認しました。
「こちらがロシア側、北から三番目の地域でございます」
「うん」
どろちゃんはマイクの前で読みました。
「これから、国外にいたあなたたちの国の軍隊が戻ります。外国軍ではありません」
次の原稿へ移ります。
「兵士たちは、あなたたちの言葉をそのまま話すことができません。軍隊は簡単な辞書を持っています。最初は短い言葉と身振りになりますが、食料、薬、病人、道路、宿営地など、必要なことから意思を通じさせます」
さらに次です。
「軍隊に協力してください。軍隊も住民に協力します」
そして、四か国から入る物資についても伝えました。
「食料、医薬品、輸送の支援が入ります。無償とは限りません。購入、後払い、融資になるものもあります。それでも、必要な物資を国の面子だけを理由に止めないでください」
その日のうち、どろちゃんが放送室にいる間は、時間を変えて同じ内容を繰り返しました。
翌日エルレンフェルトへ帰れば、地域語の生放送はいったん止まります。
ですから、同じ内容を新聞にもしました。
新聞なら、どろちゃんがいなくても刷れます。
軍隊が来るより前に、できるだけ国内へ入れます。
言葉の通じない武装した集団が突然町へ入れば、住民が怖がるのは当たり前です。
だから先に伝えました。
あれは自分たちの国の軍隊です。
話せないだけです。
食料を持ってきます。
撃ちに来るのではありません。
ロシア軍の最初の部隊が国境を越えました。
兵士同士なら普通に話せますが、道の脇にいる人へ声をかけると、やはり通じません。
一人の兵士が胸元から小さな冊子を出しました。
地域を地図で確認し、該当するページを開きます。
慣れない発音で、短い一文を読みました。
住民の顔が変わります。
返事をされると兵士の方は分かりません。そこから先は身振りです。荷車を指し、袋を指し、冊子にある「食料」の文字を指します。
住民が頷きました。
最初は、それで十分でした。
スウェーデン側でも似たことが起きます。
帰還した軍隊は、橋を守り、倉庫を確認し、街道を通れるようにしました。外国から来た食料を港で受け取って内陸へ送り、医薬品を病院や教会へ運びます。
何千人もの人をまとめる力。
荷物を運ぶ力。
宿営地を作る力。
命令系統を維持する力。
戦争に使えば軍隊ですが、食料を動かして道路を守れば、そのまま国家を支える能力でもありました。
国外から戻った商人たちは、外国との売買をつなぎました。
穀物を買います。
船を手配します。
支払いを組みます。
留学生たちは、辞書を抱えて役所、港、病院、学校へ入りました。
最初から流暢な通訳ではありません。
でも、共通語が読めます。地域語を学べます。外国から来た文書も読めます。
軍人、商人、留学生。
それぞれが違うところを支えました。
その中でも、一番大きな骨組みはやはり軍でした。
どろちゃんは報告を読むたび、フランソワさんと地図へ印を付けました。
「ここ、食料が動いた」
「はい。こちらの港も再開しております」
「よかった」
全部がエルレンフェルトからの贈り物になったわけではありません。
四か国から出る食料、薬、船、荷車には、購入するものがあります。後払いにするものがあります。融資で手当てするものもあります。
緊急だから会計をなくすのではありません。
先に動かして、あとで誰がいくら負担するのか分かるように記録します。
費用や返済条件は、二つの軍事政権と四か国の実務者が詰め、必要なところだけ各国政府へ電信で確認しました。
アン女王やルイ十四世が、穀物船一隻ごとの値段を見る必要はありません。
どろちゃんにもありません。
そのために、実務をする人がいます。
◇ ◇ ◇
帰還軍は、やがてそれぞれの首都へ向かいました。
王宮へ入って自分が王になるためではありません。
王宮と中央行政を押さえなければ、国の名前で食料を買うことも、港を開くことも、外国と約束を結ぶこともできないからです。
もちろん、そこでも言葉は通じません。
帰還軍の将校と、王宮に残っていた人たちは、簡易辞書を使い、紙に書き、身振りを交えながら話しました。
国外にいた自国軍であること。
国外で軍事政権を作って帰ってきたこと。
外国と交渉できること。
食料と薬が入ってくること。
王族の身の安全を守ること。
旧来の命令系統だけでは国内を動かせなくなっていること。
ロシアでもスウェーデンでも、帰還軍は王宮と中央行政の主要部分を掌握し、国外で作った政府の機能を国内へ移しました。
亡命、ではなくなりました。
でも、軍事政権であることまでやめる理由はありません。
国内で最も大きく、同じ言葉で意思を統一できる集団が軍なのです。
そこへ国外商人が入り、留学生が入り、国外にいた役人や技術者が入りました。地域側の事情を知る人たちも、簡易辞書や新しく育ち始めた通訳を介して行政へ加わります。
政府の中に軍服の人が多いこと自体は、いまの問題ではありません。
港が動くか。
食料が届くか。
薬がなくならないか。
会計が残るか。
地域同士で話をつなげられるか。
まず見るのは、そちらでした。
この体制は、一冬だけで消えるものにはなりませんでした。
言葉が分かれた国をもう一度つなぐには、何年ではなく、何十年という時間が必要になります。
その間に軍人の子が商人になるかもしれません。
留学生だった人が役所を率いるかもしれません。
商人が財政を担当し、軍人が輸送を担当し、地域語を覚えた人が地方との交渉を担当するかもしれません。
どこからを軍事政権と呼び、どこからを文官政府と呼ぶのか。
それを先に決める必要はありませんでした。
国が動くことの方が先です。
特にスウェーデンでは、冬になる前に食料を動かせたことが大きく、ロシアでは広い国土のどこで何が不足しているのかを知るだけでも時間が必要でした。
◇ ◇ ◇
そのころ、どろちゃんには別の疑問が残っていました。
ロシアやスウェーデンの人そのものが変わったのでしょうか。
それとも、国の支配に対して何かが起きているのでしょうか。
机の上で地図を見ながら、どろちゃんは言いました。
「フランソワさん」
「はい」
「国が変わったら、言葉も戻ったりしないかな」
フランソワさんはすぐには答えませんでした。
「人ではなく、国に掛かっているのではないか、ということでございますか」
「うん。国外にいた人はそのままだったでしょう。だったら、場所とか所属の方かもしれない」
「確かめるには、本当に国の所属を変えなければなりませんね」
「……研究室の実験みたいにはできないね」
「はい。そこには住んでいる方々がおられますので」
「また相談だ」
「その方がよろしいと思います」
今度は、どろちゃんも最初からそのつもりでした。
まず、お父様へ観察事実と仮説を見せます。
「国の所属そのものに掛かっているなら、その土地が正式に別の国の領土になったとき、言葉が戻るかもしれない」
お父様は地図を見ました。
「試すなら、領土を実際に動かすことになるな」
「うん。研究室みたいにはできない」
「ならば、実務者へ出せ。私にも必要なところだけ上げてくれ」
また会議室が使われました。
でも、王様は来ません。
前から残っている四か国の担当者、トルシー侯、ネーデルラントの行政・港湾担当者、ロシア側の軍事政権と連絡する人たちが地図を囲みます。
ネーデルラント側から先に確認がありました。
「名前だけネーデルラント領にする、という意味ではありませんね」
「それだと何が起きたのか分からないと思う」
どろちゃんは答えました。
「行政も港も税も、本当にネーデルラントへ移す。その状態で言葉が戻るかを見たいです」
トルシー侯が紙へ書き込みました。
「国旗を替えるだけではなく、統治そのものを移す、と」
「たぶん。神様がどこを見ているのか分からないから」
「戻らなかった場合の扱いも先に決めておきましょう」
ネーデルラント側の人が言いました。
「はい」
どろちゃんは頷きました。
そこから先は、領土、港、税、軍、借金、住民への食料供給まで一緒に扱う話です。
どろちゃんとフランソワさんが全部の表を見る必要はありませんでした。
実務者たちが案を作り、ロシア側の軍事政権とも電信と使者で詰めます。
ネーデルラント政府の最終承認が要るところは、ネーデルラントへ送ります。
フランス国王、アン女王、サヴォイア側の承認が必要な事項だけ、それぞれ電信で照会しました。
返事が来れば次へ進みます。
修正を求められれば直します。
王様一行が会議室にいなくても、国は動きました。
何度もの実務協議と各政府の確認のあと、ロシア側の支配下にあったバルト地方の一部を、ネーデルラントへ正式に組み込むことになりました。
ネーデルラントが行政責任を引き受け、関係する政府が領土の処理を決めました。港の管理、税の行き先、役所の所属まで実際に変えます。
そして、そこで奇妙なことが起きます。
共通語が戻りました。
昨日まで隣の町の言葉さえ分からなかった人が、ネーデルラントから来た役人と普通に話せます。
共通語で書かれた紙が読めます。
ネーザーランド放送のニュースも、そのまま意味が分かります。
報告を読んだどろちゃんは、思わずフランソワさんへ紙を差し出しました。
「戻った」
「本当に、戻っておりますね」
「国籍じゃない。ロシア人だったから、じゃないんだ」
「少なくとも、この結果だけを見ればそうなります」
もう一つ、違う形の領土処理も行われました。
ロシア側が支配していたケーニヒスベルク周辺、読者の世界でいえば現在のカリーニングラードにあたる地域をロシアから切り離し、別の国家として独立させます。
こちらも、もうロシアではありません。
ところが、言葉は戻りませんでした。
地域ごとに分かれたままです。
共通語の放送も理解できません。
「独立しただけじゃ駄目なんだ」
どろちゃんが言うと、フランソワさんも地図を見ました。
「罰を受けていない、すでにある国へ本当に組み込まれた場合とは違うのでございますね」
「うん。神様、看板だけ掛け替えても駄目ってことかな」
「そこまでは、まだ分かりません」
「そうだね」
どろちゃんは、そこで決めつけるのをやめました。
分かったのは、二つの結果です。
ネーデルラントへ実際に編入された地域では共通語が戻った。
ロシアから切り離して新しい独立国にした地域では戻らなかった。
それ以上は、まだ仮説でした。
ただし、この結果によって、領土を以前の形へ必ず戻す、という考え方もなくなりました。
どの地域を戻し、どこを直接管理し、どこを別の既存国家へ組み込み、どこを新しい政府の下へ置くのか。
それは各国政府とロシア・スウェーデン側の軍事政権が、食料、港、行政、治安、それに言葉の状態まで見ながら決めていくことになりました。
どろちゃんは、そこへ観察結果と地図を出し、必要なら現地へ飛んで確認します。決める材料を増やすのが、どろちゃんの仕事になりました。
◇ ◇ ◇
最低限の政府と食料輸送が動き始めてから、ようやく事件の原因を追う仕事が本格的に始まりました。
ライデン大学への襲撃を誰が命じたのか。
誰がエンジンを盗ませたのか。
返還要求を受け取ったあとも、誰が機体の完成と飛行試験を続けさせたのか。
相手国の基地を攻撃する計画を誰が決め、最後に二機ずつを国境へ向かわせたのか。
ロシア側とスウェーデン側の軍事政権が、それぞれ調査を始めます。四か国側も、ライデン大学襲撃と国際文書無視に関する資料や証言を渡しました。
記録は完全ではありません。
言葉が分かれたせいで、読めなくなった文書もあります。
でも紙そのものが消えたわけではありません。国外にいた人、事件前に命令を聞いた人、外国人、港や基地で見た人の証言も残っています。
関係者を一人ずつ確認し、命令に関わった者を役職から外し、証拠のある者を拘束して、責任の範囲を調べていきます。
その報告も、どろちゃんのところへ届きました。
ある日の夕方、どろちゃんは一枚読み終えて、椅子の背へ少しもたれました。
「長かったね」
向かいで次の書類をまとめていたフランソワさんが顔を上げます。
「まだ終わってはおりません」
「うん。でも、最初はエンジン四基だったんだよ」
「そうでございましたね」
「それが国が二つ壊れかけて、言葉が二十くらい増えて、軍隊が帰って、国境まで動いた」
フランソワさんは、少し考えてから言いました。
「最初にあの地図をご覧になったとき、お嬢様がお一人で全部お決めにならなくて、本当によかったと思います」
「私も。たぶん途中で三つくらい余計な国を作ってた」
「三つで済みましたでしょうか」
「……やめよう、その話」
自分なら速く決められることは、たくさんあります。
飛行機の部品なら、それでいいこともあります。
傷を縫うかどうかも、目の前の患者と相談して、自分の資格と責任で決められます。
でも、人の国は違いました。
アン女王にはアン女王の国があります。
ルイ十四世にはフランスがあります。
ネーデルラントにはネーデルラントの政府があります。
お父様はエルレンフェルト公国の元首です。
ロシアとスウェーデンには、軍を骨組みにして自分たちで国をつなぎ直している政府があります。
どろちゃんは、その間を飛び回って、分からないものを調べ、言葉をつなぎ、必要なものを運ぶことはできます。
それだけでも、十分に忙しいのです。
事務ラックには、神様の辞書が並んでいました。
神様は言葉をばらばらにして、その横へ辞書を置きました。
変な神様です。
ネーザーランド放送の受信機から、夕方の共通語ニュースと音楽が流れていました。
今日は多言語ニュースではありません。
どろちゃんがエルレンフェルトにいるからです。
地域語で新しいニュースを流す必要が出れば、またライデンへ行きます。それまでは新聞と、現地へ入った軍人、商人、留学生たちが情報をつないでいました。
フランソワさんが、次の紙を一枚だけどろちゃんの前へ置きます。
「本日は、こちらで最後でございます」
「よかった。読んだらごはんにしよう」
「はい」
そこで扉が軽く叩かれました。
フランソワさんが顔を上げます。
入ってきたのは、どろちゃんと同じ十七歳の女の子でした。
「あ、久しぶり」
どろちゃんには、すぐに分かりました。
フランソワさんの妹です。
黒い髪も、目の色も、顔立ちも姉によく似ています。
でも、雰囲気は少し違います。
フランソワさんは、どろちゃんのそばへ来ると、意識しなくても半歩だけ位置をずらします。相手の手が届くところ、必要ならすぐ動けるところへ自然に立ちます。
妹さんには、それがありません。
普通に姉の横まで来て、普通にどろちゃんの方を見ました。
「お久しぶりです、ドロテーヤ様」
「最近、お姉さん借りっぱなしでごめんね」
妹さんは姉の方を見ました。
「本当にそうです」
フランソワさんも妹を見ました。
「仕事でございます」
「知っています」
ずっと話には出ていた人です。
どろちゃんと同じ年に生まれて、十九日だけ遅かった人。
フランソワさんが男爵になったとき、爵位を継ぐ可能性があると聞かされて、
『姉さんが結婚すればいいでしょう』
と言った人です。
妹さんが姉の机を見ます。
地図。
電信。
辞書。
各国から届いた紙。
「姉さん、最近これをずっとしているのですか」
「ずっと、ではありません」
「家には、ずっと帰ってきません」
「帰っております」
「寝に、でしょう」
フランソワさんが少し黙りました。
どろちゃんは笑いました。
「妹さん、強いね」
「お嬢様」
「前にも聞いたけど、本当に強い」
妹さんは今度は姉を見ました。
「母から、今日は帰れるのか聞いてくるように言われました」
「帰ります」
「よかった」
どろちゃんは、机の最後の一枚を持ち上げました。
「これ読んだら終わり。今日は連れて帰っていいよ」
「お嬢様」
「なに?」
「私は物ではございません」
「知ってる」
妹さんが少し笑いました。
大きな国が二つ壊れかけたお話をしていても、エルレンフェルトでは、フランソワさんのお母さんが娘の帰宅時間を気にしています。
その方が、どろちゃんには少し安心できました。
バベルの塔は建てられてしまいました。
言葉も分かれてしまいました。
でも、そのあとの世界を支える人は、一人ではありませんでした。
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第94章の小さな説明
【神様から届いた言語資料】
事件から約一か月後、どろちゃんは事務ラックに、ロシア側とスウェーデン側それぞれ約十言語を収録した対照資料が置かれていることに気づきます。いつ届いたのかは分かりません。
どろちゃん本人は言語理解の力があるため、初めて見る言語でも辞書なしで理解し、ネイティブと同じように話し、読み書きできます。そのため本人にとって特に重要なのは辞書本文ではなく、付録の言語分布地図、言語名、主な使用地域、推定話者数、表記体系などのデータです。
対訳部分は、どろちゃん以外の人にとって重要です。帰還軍へ配る簡易辞書、多言語新聞、行政や救援活動の意思疎通に利用されます。
【一メガヘルツのネーザーランド放送】
一メガヘルツ付近の中波は、昼間より夜間の方が遠距離へ届きやすくなります。本作では、日没後およそ四時間になると実質的な国際放送として広い範囲で受信されています。
放送設備はライデン側に置かれ、大学の実験放送からネーデルラント側の国営放送へ移管されています。エルレンフェルトは飛行場などが近く土地も限られるため、大きな送信アンテナや支持線を増やさず、主に受信・研究協力側です。
専用受信機はすでに千台以上販売され、ロシアとスウェーデンにもそれぞれ数十台あります。バベル発動直後も受信機そのものは正常なので音楽は聞けますが、従来の共通語によるニュースは現地の人には理解できなくなります。
多言語ニュースは、どろちゃん本人がライデンの放送所にいるときだけ行います。どろちゃんがエルレンフェルトへ戻れば地域語のニュースはいったん止まり、通常の共通語放送と音楽へ戻ります。そのため継続的な情報伝達には、多言語新聞、帰還軍、商人、留学生なども使います。
【第94章時点のどろちゃんの立場】
どろちゃんは十七歳、フランソワさんは二十歳です。フランソワさんの妹は十二月二十日生まれで、どろちゃんと同じ十七歳です。どろちゃんとは以前から面識があり、本章末で読者の前に初めて直接登場します。
どろちゃんはエルレンフェルト公爵令嬢であり、イングランドでは伯爵ですが、エルレンフェルト条約の締約全権者ではありません。条約ではオブザーバーとして署名しています。したがって、技術的提案、医療、研究、多言語原稿の作成などは自分の責任で行えても、四か国の外交、他国軍への命令、政権承認、領土処理を一人で決定する立場ではありません。
本章では、どろちゃんが問題や解決案を見つけ、フランソワさんと整理したうえで、まずお父様へ相談し、四か国の実務者へ渡します。エルレンフェルトへ各国の王を常駐させず、トルシー侯などの実務者が二国分の食料、軍、港、会計、行政を詰め、元首判断が必要な事項だけアン女王、ルイ十四世などへ電信で確認します。
【帰還軍と亡命軍事政権】
事件時に国外にいたロシア軍・スウェーデン軍は、部隊内で従来の共通語を維持しています。そのため、国内行政が言語分裂で機能しにくくなったあとも、国外諸国との交渉、部隊内の命令、輸送計画を行える大規模な組織として残ります。
本章では、多言語放送、多言語新聞による住民への周知を先に行います。その後、四か国側が国外駐留軍へ戦闘停止と投降を求め、受け入れた部隊がそれぞれ亡命軍事政権を作ります。
国外にいた軍は、バベル発動後も多数の人間が同じ共通語を使い、命令系統、補給、輸送、会計を維持できる最大の組織です。そのため、帰国後も軍事政権を短期間で解消する前提にはしません。軍を骨組みに、国外にいた商人、留学生、役人、技術者、さらに地域側の人々を取り込みながら、数十年単位で新しい統治機構へ変化していく設定です。軍事政権か文官中心かをそれだけで善悪評価せず、食料、治安、会計、物流、司法、地域間連絡が実際に機能するかを重視します。
帰国前には、どろちゃん本人がライデンへ行き、地域語で「戻るのは自国軍であること」「簡易辞書を持っていること」「四か国から物資が入ること」を放送します。
四か国からの物資や輸送は、必ずしも無償援助ではありません。購入、後払い、融資なども使い、条件は四か国の実務者とロシア・スウェーデン側の軍事政権が協議し、必要な事項だけ各国政府・元首へ確認します。
【領土変更とバベル】
本章では、ロシア側の支配下に入っていたバルト地方の一部をネーデルラントへ正式に編入すると、その地域では共通語が再び通じるようになります。単に旗だけを替えるのではなく、行政、港湾、税などの所属も実際にネーデルラントへ移します。
一方、ケーニヒスベルク周辺、現在のカリーニングラードにあたる地域をロシア側から切り離して独立国家にしても、言語分裂は解消しません。
このため、単に「ロシア領ではなくなる」だけでバベルが解除されるわけではなく、罰を受けていない既存国家へ実際に組み込まれた場合には解除される、という現象が確認されます。ただし、神が何を最終的な条件として判定しているかまで、どろちゃんは断定しません。
領土変更そのものを決めるのはどろちゃんではありません。どろちゃんは「国家への所属を変えた場合に言葉が戻るのではないか」という仮説と観察結果を示します。実際の編入・独立・統治方法は四か国の実務者、ネーデルラント政府、ロシア側軍事政権などが条件を詰め、必要な国家承認を電信で取りながら決定します。




