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93貴族令嬢は、バベルの塔を見ます。  ドイツ語っぽいナーロッパ共通言語がつかえない。

第93章 貴族令嬢は、バベルの塔を見ます



     ◇ ◇ ◇



 水玉船の船着場の店で、フランソワさんと肉のピロシキを食べた翌々日、エルレンフェルトの通信所から一枚の紙が届きました。


 電信なので、長い説明はありません。けれど、短い文の一つ一つが、読み進めるほど嫌な形につながっていきます。


 ライデン大学。飛行機研究棟。研究用エンジン四基盗難。警備員数名、学生数名、賊に拘束される。全員救出済み。刺創一名。その他負傷者あり。


 どろちゃんは最後まで読んで、もう一度最初へ戻りました。


「四基……」


 十基置いてきたうちの四基です。壊さないために数をそろえて、混合比を変え、温度を測り、再始動を繰り返し、大学のみんなで研究するために運んだエンジンでした。


 盗まれたことも嫌でした。でも、それより先に目へ入ったのは、やはり負傷者の方です。


「刺創一名、って書いてある」


 フランソワさんも紙を読みました。


「程度が書かれておりませんね」


「うん。昨日のうちに救出されているなら、今すぐどうこうという状態ではないかもしれない。でも、行く」


「チェブラーシカを準備いたします」


 返事が早いです。


 エンジンは逃げません。盗んだ人は逃げますが、追いかけるのは警察の仕事です。刺された人の傷は、時間がたてば勝手に昨日へ戻ってくれません。


 どろちゃんは医療用の箱を増やしました。いつもの清潔な器具、縫合に使うもの、薬、包帯。アメリカから帰ってからは、薬剤医師だけでなく医師としての資格も加わっています。発行したのはフランスですが、四か国では相互に認められているので、ライデンへ行って「外国の資格だから触らないでください」と止められることはありません。


 そんな説明を頭の中で確認したのは、資格が心配だったからではありません。


 何か考えていないと、電信の「刺創一名」という四文字ばかりが残るからでした。



     ◇ ◇ ◇



 翌朝、チェブラーシカはライデンへ向かいました。


 飛行時間そのものは、もう特別なものではありません。どろちゃんもフランソワさんも、必要な確認をしながらいつものように飛びます。ただ、今日は窓の外を眺めても、雲の形や地表の色がいつものようには頭へ入ってきませんでした。


「昨日、事情聴取は済んでいるんだよね」


「はい。大学からの追報では、そのようになっております」


「じゃあ今日は、警察の人も同じ話をもう一回聞くために学生を座らせたりはしないね」


「おそらくは」


 フランソワさんは少し間を置きました。


「お嬢様は、まず治療をなさってくださいませ」


「そのつもり」


 言われなくても分かっています。でも、言ってもらうと少し落ち着きました。


 ライデンへ着くと、飛行機研究棟の周囲はいつもの大学ではありませんでした。警察官が立ち、出入りする人を確認しています。研究棟へ続く道にも人がいて、工房の学生が普段のように工具箱を抱えて入っていくことはできません。


 どろちゃんたちは、そのまま負傷者が休んでいる場所へ案内されました。


 一番心配していた刺創は、脚でした。


 どろちゃんは傷を見て、胸の中で一度だけ大きく息を吐きました。胸でも腹でもありません。長さは五センチほどで、大きく口を開いている傷でもありませんでした。出血もほとんど収まっています。


 昨日診たライデンの医師は、傷を縫っていませんでした。


「血はほぼ止まっておりました。傷も、このまま被覆しておける程度でしたので」


 医師はそう説明してから、どろちゃんが持ってきた医療箱へ目を向けました。


「こちらで用意できる針と糸を傷の中へ通す方が、かえって危険だと判断しました」


 どろちゃんは頷きました。


 その判断は間違っていません。傷を閉じることだけを考えれば縫った方がよくても、汚れた針や糸を傷の中へ入れて感染を起こしたら意味がありません。出血がほぼ止まり、傷口も大きく開いていないなら、昨日の道具で無理に縫わなかったのはむしろ慎重な判断でした。


 でも、今日は条件が違います。


 どろちゃんが持ってきたのは、神様から届いた清潔な針と糸、それにいつもの医療用具です。傷をもう一度よく見て、周囲の状態も確かめました。五センチほどなら、このまま開いた傷として治すより、きれいにして閉じた方がいいと判断できます。


「わたしなら、これは縫います」


 昨日の医師も、今度はすぐに頷きました。


「その器具を使えるのでしたら、私もそういたします」


 どろちゃんは学生の方へ向き直りました。


「少し洗いますね。痛かったら言ってください」


「はい、教授」


「今日は教授じゃなくて、お医者さんの方」


 学生が少しだけ笑いました。


 その顔が見られたので、どろちゃんもようやく肩の力を少し抜きます。


 傷をきれいにして状態を確かめ、縫合しました。細かな処置を長く見せるようなことはしません。本人がもう十分に嫌な目に遭っています。手首には縛られた跡があり、別の学生には腕や背中に打撲がありました。警備員の一人は足首を擦りむいています。


 順番に見ていくうちに、昨日の研究棟で何があったのかが、傷の位置からも少し分かってきました。


 刺された学生は、治療が終わってから言いました。


「先生、あの人たち、エンジンのことを知っていました」


「どのくらい?」


「水玉船みたいな内燃機関には燃料と油がいる、というくらいは最初から。燃料をどこに置いているかを聞かれました」


「答えたの?」


「……はい」


 学生の顔が少し固くなりました。


 どろちゃんは、すぐに首を横へ振りました。


「それでいいよ。場所を隠して脚をもう一回刺される方が困る」


「でも、燃料も持っていかれました」


「燃料は作れる。脚は替えがない」


 そこは迷いませんでした。


 持ち出された燃料は、コウノトリさん用に用意していたエタノールです。二サイクル用の油を最初から混ぜた燃料ではありません。けれど、賊はそこも分かっていたようでした。


「混合試験の記録は?」


 学生が少し驚いた顔をしました。


「なくなっています。油の量を変えたシートも」


「やっぱり」


「それから、操縦のことも聞かれました」


 どろちゃんの手が止まりました。


「ソアラーの?」


「はい。動力を入れた機体の始動、離陸、止めたあとの飛び方、再始動。全部ではありません。でも、分かる範囲で話しました」


 どうしてそこまで、と聞く必要はありませんでした。


 目の前に縫ったばかりの脚があります。


「話して正解だよ」


 もう一度言いました。


「飛行機は作り直せるし、エンジンも作り直せる。あなたは一人しかいないから」


 学生は今度は何も言わず、少しだけ頷きました。


 そのあと、どろちゃんは縫合した場所をもう一度確認しました。


 治療は成功です。少なくとも、ここから先は昨日より良い方向へ持っていけます。


 それが分かってから、ようやくエンジンのことを考える余裕が戻ってきました。



     ◇ ◇ ◇



 昼食と会議は、飛行機研究棟では行いませんでした。


 あちらはまだ警察が押さえています。倉庫も工房も、昨日のものをできるだけ動かさず確認している最中です。学食の人まで現場保存中の建物へ出入りさせるわけにはいきません。


 そこで、少し離れたアフリカ・アジア語学研究棟の一室を借りました。


 教授、学生、警備員、大学側の事務の人、どろちゃんとフランソワさん。それに警察官も何人かいます。机には遅めの昼食が並び、警察官も同じようにパンを取りました。


 事情聴取は昨日済んでいます。


 今日は誰か一人を椅子へ座らせて「もう一度最初から話してください」と聞く日ではありません。みんなが持っている情報を一つの机へ出して、互いに話を聞く日です。


 どろちゃんはスープを少し飲んでから、なくなったものの一覧を見ました。


「エンジン四基。プロペラも四組」


 大学側の人が頷きます。


「はい」


「エタノール燃料が四缶」


「それも確認しました」


「混合試験の記録用紙は?」


「確実になくなっています。燃料へ入れる油の種類と、量を変えて試した記録です」


「指定の接着剤や機体部品は?」


「大学から販売したソアラー用部品については、事件と直接結びつく不足はありません」


 そこは、どろちゃんの胸に別の重さを作りました。


 ライデン大学のソアラーは秘密兵器ではありません。ノックダウン生産を前提に図面も部品も整理し、正しい部品と指定された接着剤を使って正しく組み立てれば飛びます。風防だってエルレンフェルト製の純正品を買えます。


 グライダーは、今のところ自己責任です。


 レーィカちゃんのようなプライマリーグライダーも、お姉様の町で買えます。ライデン大学のソアラーも同じです。間違えて組めば危ない。でも、だからといって純粋なグライダー全部へ国家の免許と完成検査を義務づけてはいません。


 動力を付ければ話は変わります。間違えれば簡単にお星様です。動力機については、どろちゃんたちとライデン大学側で操縦資格と完成検査を整え始めています。


 でも、盗む人が完成検査へ機体を持ってくるはずはありません。


「飛ばせるね」


 どろちゃんが言うと、部屋の何人かが顔を上げました。


「エンジンだけを盗んで、分解して眺めたいなら、燃料を四缶も持っていく必要はない。混合試験の紙も、操縦方法もいらない。機体は買える。接着剤も買える。風防も買える」


 警察官の一人がパンを置きました。


「われわれも、同じ見方をしています」


「二組だったんですよね」


「はい。それが一番妙です」


 昨日の証言を重ねると、賊は最初から一団だったわけではありませんでした。二つの集団がほとんど同じ時刻に研究棟へ入り、互いの姿を見た瞬間には双方とも驚いていた。それぞれ武器まで持っていたのに、そこで争いにはならなかったのです。


 警備員と、その時間まで研究を続けていた学生たちは縛られ、最後はエンジン倉庫へまとめて入れられていました。扉を閉めてしまえば追跡は遅れます。脚を刺された学生も、その中から救出されています。


「どのくらい話していました?」


 どろちゃんが聞くと、警備員の一人が少し考えました。


「数秒です」


「数秒」


「はい。本当に、それくらいです。一方が何か言って、もう一方が返した。次にはもう、こちらを押さえる側になっていました」


 言葉が通じなかった様子はありません。


 この世界では当たり前です。国境をいくつ越えても、みんな同じ言葉を話します。


 別のお話では、魔王国の近くまで行っても困りません。魔王国の幹部とも、そのまま普通にお話しできます。人間ではない相手まで同じ言葉を使っています。


 だから、このお話でも、後からロシア側とスウェーデン側だったらしいと分かった二組が、現場で通訳を探す必要などありませんでした。


「四基あるから、二基ずつ」


 どろちゃんが小さく言いました。


 警察官がこちらを見ます。


「可能性は高いでしょう」


 敵同士なのに。


 ロシアとスウェーデンは戦争をしています。


 でも、そこで撃ち合えば、どちらも目的を達成できない。四基あるなら二基ずつ。今だけ争わない。たぶん、その判断に数秒もいらなかったのでしょう。


 どろちゃんは、嫌でも「優秀だ」と思ってしまいました。もちろん褒める意味ではありません。現場で必要な判断をためらわず、目的のために何を持ち出すべきかを選べる人たちです。相手を馬鹿だと思って対策を考える方が、ずっと危険でした。


 警備員と学生を縛り、必要なことを聞き、追って来られないように一人の脚を刺し、エンジンとプロペラと燃料と記録を選んで持っていく。人を殺せば外交問題がさらに大きくなることも分かっていたのでしょう。ライデンにいる学生が、どこの国から来た学生なのかも分かりません。胸や腹を刺して死なせるより、脚を傷つけて追えなくする方を選んだ。


 褒めるところではありません。


 でも、相手を馬鹿だと思って対策を考える方が危険です。


「海岸の方も、二組一緒だったんですよね」


 フランソワさんが確認しました。


 警察官が資料をめくります。


「途中で、それぞれ一人ずつ先に走らせた形跡があります。海岸には小舟が待っていました。沖には、それぞれ別の船がいたという証言もあります」


 どろちゃんは意味が分かりました。


「先に、撃たないでって伝えに行かせたんだ」


「われわれもそう考えています」


 重いエンジンとプロペラを抱えて砂浜へ出たところで、沖の二隻が敵同士だと気づいて撃ち合えば、せっかくの盗難がそこで終わります。だから先に部下を走らせ、小舟から本船へ知らせた。


 伝える内容は簡単です。今だけは撃つな。こちらも敵と一緒に戻る。荷物を積み終わるまでは待て。それだけ伝われば、浜で余計な戦闘を始めずに済みます。


 それぞれの小舟へ分かれ、それぞれの船へ戻ったところで、数分か数十分だけの同盟は終わりです。


 どろちゃんは、冷めかけたスープを見ました。


「そこまでできる人たちなら、もう組み始めてるかもしれない」


 部屋が静かになりました。


「返して、って言うだけじゃ遅いかも」


 それでも、言わないわけにはいきません。



     ◇ ◇ ◇



 その日のうちに、ネーデルラント政府から正式な国際文書が出ました。


 ロシアにも、スウェーデンにも届きます。


 ライデン大学から研究用航空エンジン四基、対応するプロペラ、燃料、研究資料が武装した者によって持ち去られたこと。負傷者が出ていること。その機材を飛行させず、速やかに返還するよう求めること。


 同じ内容は、すでに国へ移管されていた一メガヘルツのネーザーランド放送でも流されました。


 最初はライデン大学の実験放送でした。でも今は国営放送です。送信所もライデン側にあります。


 エルレンフェルトへ大きな中波送信アンテナを立てようとは思いませんでした。土地が狭いうえに、支線を何本も張れば飛行機の邪魔になります。空から見えにくい細いワイヤーを滑走路の近くへ増やすなんて、どろちゃんは考えただけでも嫌でした。


 ライデンなら、送信設備をまとめる場所を取れます。


 そして一メガヘルツは、日が沈んでからが強いのです。


 昼は近い範囲へ届く放送が、日没後しばらくすると遠くへ伸びます。四時間もたてば、もう実質的な国際放送でした。


 専用受信機は千台以上売れています。ロシアにも、スウェーデンにも、それぞれ数十台はあります。宮廷だけではありません。商人、大学、港、役所、裕福な家。新しいものが好きな人は、どこの国にもいます。


 ネーザーランド放送が人気なのには、もう一つ理由がありました。


 ニュースの扱いが、国によってあまり変わりません。


 共和国なので、王様の顔色を見て「この国の失敗は小さく、あの国の失敗は大きく」とする必要が少ない。もちろん人間が作る放送ですから、完全に何の偏りもない、という意味ではありません。それでも、フランスで起きたことも、イングランドで起きたことも、ネーデルラント自身で起きたことも、かなり同じ調子で読まれます。


 だから聞かれます。


 今回も同じでした。盗難の事実、負傷者がいること、そして飛行前に返還するよう求めていることを、確認できた範囲で淡々と報じます。


 どろちゃんが放送局へ頼んだのは、脅す言葉を足すことではありませんでした。


「飛ばす前に返してください、でいいです」


「国名は?」


「正式文書は両方へ行っています。でも放送では、確認できたことだけにしてください」


 言ったのはそれだけです。


 ロシアもスウェーデンも、文書を受け取っています。


 ラジオも聞いています。


 知らなかった、はありません。


 どろちゃんは、そのことを確認してからも、少しだけ嫌な感じが消えませんでした。


 ライデンで初めて動力ソアラーが飛んだ夜、自分は何と言ったでしょう。


 軍事利用はしないでください。


 私掠船が消えたときと、同じような結果になると思います。


 空を飛ぶのは天へ昇る話だから、バベルの塔みたいなことになるんじゃないか。


 あのときは予想でした。


 当たってほしい予想ではありません。


「返してくれるといいね」


 どろちゃんが言うと、フランソワさんはすぐには答えませんでした。


「はい」


 少ししてから、それだけ言いました。



     ◇ ◇ ◇



 返還要求は、間に合いませんでした。


 正確には、間に合わなかったのではありません。


 届いたうえで、止まりませんでした。


 ロシア側も、スウェーデン側も、ライデン大学のソアラーを手に入れる方法を知っていました。純正の部品を使い、指定された接着剤で組み立てる。風防もエルレンフェルト製の正規品です。見た目だけをまねて、材料も接着も分からないまま作った機体ではありません。


 そこへ、ライデンから持ち去ったエンジンとプロペラを載せます。


 燃料は持ち出したコウノトリさん用のエタノールです。ただし二サイクルなので、そのままでは使わず、別に用意した指定品の潤滑油を混ぜます。どのくらい混ぜるかは、持ち出した実験記録にありました。ライデン大学が十基のエンジンを使って、白煙、温度、潤滑、焼き付きの有無を見ながら積み上げていた数字です。


 操縦方法も、刺された学生から聞き出してあります。


 しかも操縦するのは、飛行機を一度も触ったことのない人ではありませんでした。


 両国とも、すでにソアラーで練習していた操縦者を選びました。


 動力を使った離陸は新しくても、翼で飛ぶことは知っています。速度を保つこと、高度を使うこと、上昇する空気を探すこと、進入して着陸すること。そこまで最初から教える必要はありません。


 ロシアで一機目が滑走し、エンジンの音を上げながら速度をつけると、長い翼はそのまま地面を離れました。その日のうちにもう一機も飛び、スウェーデン側でも二機が続きます。結果として、四機すべてが飛行試験に成功しました。


 無理な機体ではなかったのです。


 そこがいちばん困るところでした。


 どろちゃんが後から報告を読んだとき、最初に思ったのは「落ちなかったんだ」でした。


 人が乗っています。


 だから、試験飛行が成功したこと自体を残念だと思うのも変です。失敗して死んでほしかったわけではありません。


 でも、成功すれば次へ進みます。


 バベルの塔なら、まだ二階くらい。


 どろちゃんは、そんなことを考えました。


 一階を作ったところでやめればよかったのに。


 二階まで上がって、ちゃんと立ってしまった。


 そして、二つの国が互いに相手も同じ二階を作ったことを知りました。


 そこから先は、戦争をしている国の考え方になりました。


 コペンハーゲンへ向かうような、それまで考えていた遠い攻撃案より先に、目の前の相手国の航空機を壊さなければならない。


 相手が二機を持ち、こちらにも二機がある。先に飛ばれれば、地上にあるこちらの機体を焼かれるかもしれません。そう考えれば、結論は「ならばこちらが先に行く」になります。両国が、ほとんど同じ理屈で同じ方向へ進みました。


 情報部門は、互いに相手の機体が置かれている場所までつかんでいました。ライデン大学の研究棟で数秒だけ手を組んだ二つの国は、今度は、そのときの相手を真っ先に空から叩く準備を始めました。


 搭載するものは、大きくありません。


 リンゴほどの小さな爆薬と、燃える液体を入れた瓶。


 都市を消すような兵器ではありません。地上に置かれた軽い飛行機を壊し、燃やすには、それで足りると考えました。


 両国とも返還要求を知っています。正式な国際文書を受け取り、ネーザーランド放送も聞いていました。それでも準備は止まりませんでした。


 そして、武器を積んだ二機がロシア側から離陸しました。


 別の二機が、スウェーデン側から離陸しました。


 操縦席には、ソアラーで練習してきたパイロットが座っています。


 離陸も上昇も成功し、自国の空を飛んでいる間は何も起きませんでした。機体もエンジンも計器もいつもどおりです。やがて国境が近づき、操縦者は地図を確認しました。


 相手の領域へ入れば、あとは基地まで飛んで、積んだものを落とす。


 そのつもりでした。


 そして最初の一機が国境を越えました。次の瞬間、地上から見えていた機体が消えます。爆発も煙もなく、翼が折れたわけでもありません。そこにいた飛行機が、ただいなくなりました。続いた僚機も同じ場所で消え、反対側の国境でも同じことが起きました。ロシア側二機、スウェーデン側二機、合計四機です。


 相手国を攻撃するために国境を越えたところで、全部いなくなりました。



     ◇ ◇ ◇



 消えた四機は、壊れてはいませんでした。


 空を飛んだまま、まったく別の空へ移っていました。


 下は、どこまで見ても白い大地でした。その向こうに、少しだけ海が見えます。


 晩秋のヨーロッパから突然移された先は、季節が反対です。南の極に近いこの場所では、もう夏へ向かう光が長く空に残っています。


 白夜なので星は見えません。それが、位置を知るうえでは痛いところでした。


 ロシアの操縦者も、スウェーデンの操縦者も、自分が南極へ来たとは思いませんでした。


 見えるのは白い大地と海、それに沈まない太陽です。自分たちの国から見て、こんな景色がありそうな方向は北でした。


 だから、ものすごく北へ飛ばされたのだと思いました。


 飛行機乗りとしては、そこからの判断はまともでした。すぐには降りません。グライダーで高度を捨てることは、そのまま生存時間を捨てることだからです。何が起きたか分からない場所で、最初に雪原へ降りてしまえば、そのあと移動する手段を自分からなくします。


 プロペラを抵抗の少ない状態へ持っていけば、動力装置を積んだ分だけ元のソアラーより悪くなっていても、滑空比は二十四ほどあります。エンジンを使っている間はプロペラや動力系の抵抗が増えますが、止めてフェザリングを効かせれば、長い翼はまだ十分に仕事をします。


 四機が向きを取ったのは、海が見えたからではありません。


 太陽のある方でした。


 南へ行くためです。


 自分たちは、ロシアとスウェーデンが戦っている境界付近から、北のどこかへ飛ばされた。そう思い込んでいます。そこから南へ飛べば、いずれバルト海へ出る。海へ出ても、そのまま南へ渡れば、どこか知っている国の陸地に当たる。


 彼らの知っている北半球の地理なら、かなり合理的な判断でした。


 だから、見えていた海も目的地ではありません。


 南へ進んだ先に、たまたま海があっただけです。


 白い大地の端が少しずつ近づきます。


 その途中、下に黒っぽいものが見えました。岩にしては形がおかしく、しかも一つではありません。雪に半分埋まったもの、横倒しになったもの、壊れて船体の一部だけが残っているように見えるものがあり、どう見ても船の残骸らしいものがいくつも散っています。


 ここには船が来たことがある。


 それなら、この先に航路があるのかもしれない。


 南へ進めば、やはり人のいるところへ戻れる。


 四人とも、むしろ自分たちの判断が合っていると思いました。


 フエゴまで届くほどの燃料も高度もありません。


 けれど、そのことを彼らは知りません。


 太陽の方向を南だと信じたまま、四機は飛んでいきました。


 この四機についてのお話は、ここで終わります。



     ◇ ◇ ◇



 ヨーロッパでは、もっと大きなことが起きていました。


 最初に気づいたのは、たぶん一人ではありません。


 ロシアの役所で役人が隣の人へ話しかけると、返事そのものは返ってきます。けれど意味が分かりません。スウェーデンでも同じことが起きました。


 朝まで同じ言葉で仕事をしていた人同士が、急に互いの言っていることを理解できなくなりました。


 外国から届いた文書を開いても、紙も文字もそのまま残っています。昨日までなら読めたはずの文章なのに、意味のある文章として読めません。


 王宮でも、役所でも、軍でも、市場でも起きました。


 しかも、国の中が一つの新しい言葉へ変わったわけではありません。


 地域が違えば、また違います。


 民族が違えば、言葉も違います。


 それまでこの世界では表面に出ていなかった、ロシアの支配を受ける以前からそれぞれの地域や民族が持っていたはずの言葉が、いっせいに戻ってきたような状態でした。


 書き言葉にも同じことが起きました。紙に書かれた昔の共通語が物理的に消えたわけではありません。けれど、話す言葉が違えば、それを表す方法も同じではいられません。地域ごとに、以前からその土地にあった文字や表記、印、記号の体系が前へ出てきます。


 国全体を一つにつないでいた言葉と書き言葉の共通性が、なくなりました。


 ところが、全員が変わったわけではありませんでした。


 その瞬間にロシアやスウェーデンの外にいたロシア人、スウェーデン人は、今までどおり共通語を話しました。読み書きもできます。


 反対に、その瞬間にロシアやスウェーデンへ滞在していた外国人も、そのままでした。


 ホテルで、外国から来た客が朝食を頼みます。


 ホテルマンが現地の人なら、返事は聞こえても意味が分かりません。


 ところが、たまたま給仕が別の国から働きに来ていた人なら、普通に話せます。


 ロビーにいたフランス人とネーデルラント人なら、互いに今までどおり会話できます。


 それで、外国人たちはかなり早く気づきました。


 自分がおかしくなったのではない。


 この国の中で何かが起きている。


 そして、帰れる人から帰りました。


 馬車の御者とも港の人とも話せず、道を聞いても答えが分からない。それでも同じ共通語を使える外国人同士で集まり、身振りを使い、地図を指し、知っている道をたどって、何とか国境や港へ向かいました。


 国外にいたロシア人やスウェーデン人の中には、自分の国が心配になって戻った人もいました。


 ところが国境を越えると、自分と同じロシア人のはずの人と話が通じません。


 スウェーデンでも同じです。


 自分たちは共通語しか知りません。この世界には、それまで「ロシア語」や「スウェーデン語」を外国語として習う必要などありませんでした。王族や貴族だって同じです。どろちゃんがいた世界なら遠い国から嫁いできた王妃が複数の言葉を知っていることもあります。でも、この世界では、外国へ嫁いでも同じ共通語で困らなかったのです。


 逃げ道になる第二言語がありません。


 帰国した人は、住民の話を理解できなくても、目で見たことは分かります。


 役所の前には人が集まり、市場では話がまとまらず、港では荷物が止まっています。軍人と住民が身振りで何かを伝えようとしていて、首都から少し離れただけで、また別の言葉になる。それだけは、会話ができなくても見れば分かりました。


 そして、これはまずい、と分かった人は、もう一度国境を越えて戻ってきました。


 その人たちは、国外へ出れば普通に共通語で話せます。


 こうして二つの国の中で何が起きているのかが、正式な政府発表ではなく、逃げてきた外国人と、一度帰国してUターンしてきた自国人の話から少しずつ分かり始めました。



     ◇ ◇ ◇



 ネーザーランド放送は、事件の続報を出しました。


 ライデン大学から盗まれたエンジンがロシアとスウェーデンの双方で航空機へ搭載されたらしいこと、飛行試験に成功したこと、双方の航空機が攻撃のため離陸したあと国境付近で消息を絶ったこと、そして、その直後から両国内で言葉が通じなくなる異常が起きていることまで、確認できた順に報じました。


 電波はロシアにもスウェーデンにも届いていました。


 受信機は壊れておらず、音そのものは聞こえます。音楽になれば旋律も伴奏も普通に楽しめるのに、ニュースになると突然、意味だけが取れなくなります。


 数日前まで国際ニュースを聞くための最新機器だったラジオが、二つの国では高価なジュークボックスになりました。


 どろちゃんはその報告を読んでも、笑えませんでした。


「……本当に、バベルになった」


 フランソワさんは、少し離れたところからこちらを見ました。


 どろちゃんは、前に一度だけ説明した話を思い出しました。


 頭に浮かんだのは、バベルの塔でした。旧約聖書の『創世記』に出てくるお話です。


 初め、人々は同じ言葉を使っていました。人々は町を作り、天まで届く塔を建てようとします。そこで神様が人々の言葉を互いに通じないようにし、人々は一緒に仕事ができなくなって各地へ散っていった、とされています。


 塔を大砲で壊した話ではありません。


 人の言葉が分かれた話です。


 この世界では、昔の人がバベルの塔を作らなかったから、どこへ行っても同じ言葉が通じるのだと技師さんたちは言っていました。


 どろちゃんは、それを便利だと思っていました。


 便利すぎて、普段は考えもしません。


 それが二つの国だけ、突然なくなりました。


「当たってほしくなかったな」


 どろちゃんは小さく言いました。


 前に「バベルの塔みたいになるかもしれない」と言った自分が正しかったことに、少しも嬉しさはありません。


 むしろ、ここからが困ります。


 神様がやったことだから、そのままにしておけばいい。


 そんなふうには思えませんでした。


 ロシアにもスウェーデンにも、飛行機を盗んで攻撃を決めた人とは何の関係もない子どもがいます。畑を耕している人がいます。冬を越す食料を運ぶ人がいます。


 特にスウェーデンが心配でした。もう晩秋で、これから寒くなります。


 国内の食料に余裕のない地域は、港や街道を使って別の場所から運ばなければなりません。ところが、港の人と役人と商人と輸送する人の言葉が互いに通じなければ、倉庫に食べ物があっても必要な場所へ動きません。


 ロシアはもっと広いので、別の種類の危険があります。広いから食べ物がある、で終わりません。広いからこそ、地方ごとの言葉が違えば、中央から何が起きているのかさえ分からなくなります。


 どろちゃんは地図を広げました。


「これ、どうするんだろう」


 答えはすぐには出ませんでした。



     ◇ ◇ ◇


     ◇ ◇ ◇


第93章の小さな説明


【刺創を当日に縫わなかった理由】


脚を刺された学生は、事件当日にライデンの医師の診察を受けています。傷は長さ約五センチで、出血はほぼ収まり、傷口も大きく開いていませんでした。


 この時代には、縫合そのものよりも、縫合に使う針や糸から傷へ汚れを持ち込む危険が問題になります。そのため現地の医師は、手元の器具で無理に傷を閉じるより、出血を抑えて被覆したまま翌日の状態を見る方が安全だと判断しました。


 翌日、どろちゃんは神様から届いた清潔な医療器具を使えるため、同じ傷でも条件が変わります。傷の状態を確認したうえで、開いたまま治すより縫合した方がよいと判断して処置しています。前日の医師とどろちゃんの判断が食い違ったのではなく、利用できる器具と感染リスクが違うため、選べる処置が変わったという設定です。


【バベルの塔】


「バベルの塔」は旧約聖書『創世記』に登場する物語です。初め、人々は一つの言葉を使っていましたが、天まで届く塔を建てようとしたため、神によって言葉が互いに通じないようにされ、人々が各地へ散ったとされています。


 本作では以前から、ヨーロッパの広い範囲で同じ共通語が使われる理由を「この世界ではバベルの塔の出来事がなかった」としています。第91章でどろちゃんは、航空技術を他国への軍事攻撃へ使った場合、「バベルの塔のような結果」になるのではないかと予想していました。本章では、その予想が実際の出来事になります。


 ただし、本章で描いている「どの人が影響を受けるか」「地域ごとの古い言語や表記が戻る」「国外にいた自国民や国内にいた外国人は共通語のまま」といった具体的な現象は、本作独自の設定です。


【言葉と文字】


紙に書かれた文字が物理的に消えるわけではありません。共通語を失った地域では、話す言葉そのものが地域・民族ごとに異なるため、書き表す方法も地域ごとに分かれていきます。もともとその地域に対応する文字文化や表記体系がある場合は、それが使われます。


 そのため、旧政府の公文書や外交文書は紙として残っていても、バベルの影響を受けた人には従来どおりには読めません。一方、事件時に国外にいたロシア人・スウェーデン人や、両国内にいた外国人は従来の共通語を維持しています。


【南の白い大地へ移された四機】


ロシア側二機、スウェーデン側二機は、武器を搭載して相手国を攻撃する目的で国境を越えた時点で、飛行状態のまま南極上空へ移されます。


 機体は動力化による抵抗増加のため元のソアラーより滑空性能が落ちていますが、プロペラを抵抗の小さい状態にすれば最大滑空比はおよそ二十四という設定です。操縦者はいずれもソアラー経験者なので、すぐに着陸して高度を捨てません。


 北半球が晩秋なら南極側は夏へ向かう季節で、高緯度では白夜になります。星を使って位置を確かめにくく、ロシア・スウェーデンの操縦者は一面の雪氷と海を見て、まず北極圏のどこかへ移されたと考えます。


 彼らは海そのものを目指すのではありません。自分たちがロシアとスウェーデンの軍事境界付近から北方へ移されたと思い込んでいるため、太陽の方向を南と判断し、南へ飛べばバルト海を越えていずれ人のいる陸地へ出られると考えます。本章では、その判断のまま四機が飛び続けるところまでを描き、その後は扱いません。


【第93章時点のどろちゃんの年齢】


 どろちゃんは物語開始時に十五歳で、第70章の十二月一日の誕生日に十七歳になっています。本章はその翌年一七〇四年の晩秋で、次の十二月一日より前なので十七歳です。フランソワさんは三歳年上で二十歳です。


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