92貴族令嬢は、もう一機のソアラーを飛ばします。 ライデン大学製ソアラー改です。
第九十二章 貴族令嬢は、もう一機のソアラーを飛ばします
◇ ◇ ◇
翌朝、昨日ライデン大学から帰ってきたミツバチちゃんが、もう一度格納庫の前へ出されました。
後ろの大きな扉を開けると、貨物室には長い主翼、胴体、尾翼、脚など、ソアラー一機分の部品が固定されています。ノックダウン状態にすることを前提に作られた機体ですから、ばらしたこと自体は故障でも大改造でもありません。
「では、出しましょうか」
「はい」
フランソワさんと工場の人たちが固定を外し、順番に台車へ載せていきました。
ただし、昨日までの姿へそのまま戻すわけではありません。工場の奥では、すでに別の部品が待っていました。
最初に運ばれてきたのは、昨日ライデン大学へ十基持って行った約三十馬力のものと、よく似た二サイクルエンジンでした。
「四十馬力まで出ました」
工場の人が言います。
「壊れなかった?」
「今のところは」
「その言い方、ちょっと怖い」
「ですので、まだ試験は続けます」
まったく別の発動機を作ったわけではありません。排気管の形を変え、ポート位置を見直し、圧縮比もほんの少し上げました。一つ一つは地味な変更ですが、燃焼と吸排気を少しずつ詰めていくうちに、同じ基本形式から出せる力が増えてきたのです。
代わりに、よく力を出せる回転域は前より狭くなりました。
けれど、この機体では大きな欠点にはなりません。飛んでいるあいだ、低回転から高回転まで頻繁に使い分ける発動機ではなく、運転中は基本的に決めた回転数を保つからです。
その回転へちょうど入るよう、工場とどろちゃんで遠心クラッチのつながり方とスプロケット比を合わせます。地上で回して、止めて、スプロケットを替え、もう一度回す。プロペラを実際に回した状態で予定した回転へ入るところまで、何度か組み合わせを変えました。
「これでいいね」
「はい。ここなら安定しております」
飛んでいるところだけ見れば、こんな仕事はほとんど分かりません。でも、同じ形式のジェットエンジンでも後の型ほど推力が増えることがあるように、機械はこういう小さな改良を積み重ねて育っていきます。
始動方法も変わりました。
ライデン大学へ渡した三十馬力型はマグネット点火で、ゼンマイを巻いて始動します。今度の四十馬力型はCDI点火。小さなバッテリーと、セルフスターターのモーターを載せました。二サイクルの軽いエンジンなので、始動用のモーターもそれほど大きなものは必要ありません。
スイッチを操作するとセルが短く回り、すぐに始動しました。
「これは楽ですね」
「空中再始動もこっちの方が楽だよ」
「ゼンマイの残りを考えなくてもよろしいのでございますね」
「うん」
せっかくバッテリーを積むので、電気を使うものもいくつか増えました。
小型のUHF無線機。暖房用の小さなファン。暖房は排気そのものを入れるのではなく、エンジンまわりで暖まった空気を小さなファンで拾い、ダクトで操縦席へ送ります。
「上は寒いからね」
「ありがたいことでございます」
「あと、これ」
どろちゃんが操縦席の横を指すと、浅い引き出しがありました。
「何でございますか」
「ビスケット」
「……はい」
「こっちはポット」
反対側には、ポットが横へ動かないよう底を受ける小さなスタンドまで付いています。
工場の人たちは、もう何も言いませんでした。飛行そのものに必要かどうかではなく、長く飛ぶ人には必要なのだろう、と理解した顔をしています。
計器盤には、神様から届いているセットの中から必要なものだけを選びました。速度、高度、昇降、方位。それにエンジン回転数と温度を見る計器。軽い機体なので、使えるものを全部並べる必要はありません。
回転計も、飛行中に回転数を細かく操るためのものではありません。工場で決めた回転へきちんと入っているか、いつもと違う動きをしていないかを見るための監視役です。
そして、いちばん大きく変わったのは主翼でした。
新しい主翼は、これまでより左右それぞれおよそ六十センチずつ長くなりました。
ただし、ライデン大学から持ち帰った翼の先へ六十センチの部品を足したのではありません。主翼そのものを、平面形から作り直しました。
エルレンフェルトにはアルミ材もFRPもあります。どろちゃんの頭の中には、アントノフでグライダーを作っていた人たちの知識があります。
そこで、A-15の主翼を思わせる細長い平面形と、NACA系の層流翼型を参考にしました。翼端だけを継ぎ足した形ではなく、翼根から翼端まで、全体を新しい主翼としてまとめ直しています。
ただし、遠くから見ると大きくは変わりません。
細長い主翼。同じ胴体。同じ尾翼。同じ脚。空を飛んでいるところを町の人が見ても、ライデン大学から持って帰ったあのソアラーだと思うでしょう。
それが大事でした。
近くで見ると違いが分かります。主翼と胴体の付け根は、以前よりずっと滑らかにつながっています。そして、その膨らみの内側そのものが燃料タンクになっていました。
「ここに燃料が入るのでございますか」
「うん。重心に近いから」
満タンから空へ近づいても、機体の釣り合いが大きく変わりません。空気の流れを整える翼根の形が、そのまま燃料を置く場所にもなっています。
機首先端のプロペラは、エンジンを止めるとばねで後方へたたまれます。滑空中なら、遠目にはますます普通のソアラーでした。
昨日までとほとんど同じように見える機体が、近くで見るとかなり違うものになっています。
組み立てが終わると、燃料配管、バッテリー、CDI、セル、無線、暖房、操縦系統、スポイラー、脚、プロペラを順に確認しました。
セルを回します。
短い回転のあと、二サイクルの音が始まりました。回転を上げると、後方へたたまれていたプロペラが遠心力で開き、遠心クラッチがつながります。
決めた回転数へ入ったところで、どろちゃんは計器を見ました。
「よし」
工場の人も頷きます。
なんだか、前の世界の料理番組で、途中の作業を全部飛ばしたあとに完成した料理が出てくる場面のようでした。
昨日、ライデンからばらして持ってきたソアラーがあります。
そして今日、できあがったものがこちらです。
ただし料理と違って、味見では確認できません。
飛ばします。
◇ ◇ ◇
「私が乗るのでございますね」
「うん」
どろちゃんは当然のように答えました。
フランソワさんは、もうコウノトリさんを飛ばせます。動力を止めた状態で飛ぶ練習もしています。この機体には普通の車輪があり、自分で離陸できるエンジンもあります。初飛行だからといって、どろちゃんが代わる理由はありませんでした。
「まず五回くらい、離着陸しようか」
「承知いたしました」
フランソワさんが操縦席へ入り、ベルトを締めます。操縦系統、スポイラー、計器、無線を確認しました。
「聞こえる?」
『よく聞こえております』
UHFから、いつもの丁寧な声が返ってきます。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
『行ってまいります』
セルが回り、エンジンが始動しました。一定の回転へ上げるとプロペラが開き、機体は旧滑走路を走り始めます。
尾輪が上がり、そのまま主輪も草から離れました。
「普通に飛んだ」
どろちゃんが言うと、横にいた工場の人が笑いました。
「普通に飛ぶように作りましたので」
「そうだった」
フランソワさんは一周して戻ってきます。最初の進入は、少し高めでした。
『少し高うございます』
「スポイラー、使っていいよ」
『はい』
主翼上面からスポイラーが出ると、機体の沈み方が変わります。速度を無理に落とさなくても進入角を調整できるので、滑空のよい主翼でも地面近くでいつまでも浮き続けることを避けられます。
フランソワさんは少し出し、少し戻しながら接地点を合わせました。主輪が草へ触れ、そのまま走って止まります。
一回目。
もう一度離陸して、二回目。三回目。四回目。
五回目には、最初よりずっと狙った場所へ素直に降りてきました。
機体が止まり、風防が開きます。
「だいたい分かりました」
「じゃあ、次は遠くへ行こう」
「どちらまででございますか」
「南」
「南の、どちらまででございますか」
「バーゼルくらい」
フランソワさんは一度だけ南の空を見ました。
「承知いたしました」
◇ ◇ ◇
今度は、どろちゃんが先にタドポール君へ乗りました。
「行こうか、タドポール君」
『うん。久しぶりだね』
小さなジェットを始動し、先に離陸します。高度を取りながら大きく旋回して待っていると、下でフランソワさんの機体も滑走を始めました。
白い長い翼が地面を離れ、少しずつ上がってきます。
『こちらフランソワ。離陸いたしました』
「見えてるよ」
どろちゃんは速度を合わせました。
二機で飛ぶのは久しぶりです。タドポール君にもUHF無線機が積んであります。
もちろん、翼端同士を近づけるような軍用機の編隊ではありません。十分な間隔を取り、お互いの機体が見え、無線が通じ、同じ方角へ進む緩い編隊です。
『前より、よく滑りそうでございます』
「翼、変えたからね」
『見た目は、それほど変わりません』
「それが大事なの」
遠くからなら、ライデン大学のソアラーがもう一機飛んでいるようにしか見えません。けれど隣を飛んでいるどろちゃんには、新しい主翼の輪郭がよく分かりました。
しばらく南へ飛んだところで、どろちゃんが無線を入れます。
「エンジン止めようか」
『はい』
タドポール君のジェットが止まり、少し遅れてフランソワさんの二サイクル音も消えました。回転が落ちると、プロペラのブレードが後方へたたまれます。
急に空が静かになりました。
二機とも、翼だけで飛んでいます。
タドポール君はA-13系の機体を基礎にしていますが、主翼は滑空に向いたA-11系の長い翼です。短いA-13の翼のままだったら、こうして長く滑りながら上昇気流を探す役には向きません。
その隣では、A-15型を参考にした新しい主翼が同じ空気の中を滑っていました。
「今度は、上がってるところ探そう」
『承知いたしました』
フランソワさんにとって、離陸も、動力を止めた滑空も初めてではありません。今日覚えたいのは、空気そのものが上がっている場所を見つけ、その中から外れずに飛ぶことです。
日が当たる畑。暗い森。町。川。地面の違いを見ながら進んでいると、タドポール君の昇降計が少し上へ動きました。
「ここ、ちょっとある」
少し右へ寄せると、もう少し強くなります。
「右へ回るよ」
『はい』
タドポール君が旋回へ入り、フランソワさんは少し離れた外側から同じ場所へ入ってきました。
『こちらも上がっております』
「じゃあ、その中から出ないように」
上昇気流は目に見えません。同じ円を回っていても、昇降計の動きは場所によって少しずつ違います。
『こちら側が弱うございます』
「じゃあ反対側へ少し寄せてみて」
『はい』
フランソワさんが旋回円を少しずらします。次の一周では、前より高度を得ました。
「そこ」
『分かりました』
もう一周。
また少し上がります。
エンジンは止まったままなのに、高度計の針は下がらず上へ進んでいきます。
『不思議な感じでございます』
「空気ごと上がってるからね」
『はい。分かってはいるのですが』
「私も最初はそうだった」
しばらく二機で旋回し、十分な高度を取ったところで南へ抜けました。
記録を作るための飛行ではありません。
上昇気流が使えればエンジンを止め、必要ならまた始動します。フランソワさんが、風と高度と新しい機体の動きを覚えることの方が大切でした。
地形を確かめながら南へ進み、やがてバーゼルの町が見えるところまで来ます。
「今日はここまで」
『承知いたしました』
「帰ろう」
『はい』
二機は大きく向きを変えました。
帰路では、フランソワさんはもう離陸直後のように、どろちゃんの後ろをきっちり追ってはいません。少し横へ離れ、自分で地形と空を見ています。
『右側、少し上がっているようでございます』
「見てみよう」
二機で寄ってみると、当たりでした。
また少し高度を稼ぎ、北へ進みます。
行きに教えていた人が、帰りには上昇気流の場所を教えられていました。
◇ ◇ ◇
エルレンフェルトが見えてきました。
「私から降りるね」
『はい』
どろちゃんはタドポール君を先に進入させ、そのまま草地へ着陸します。
少しあとから、フランソワさんの機体が来ました。高さも速度も落ち着いています。スポイラーが少し出て、進入角が整いました。
地面が近づくにつれて量を調整し、最後にフレア。
主輪が草へ触れます。
大きく浮き直すこともなく、そのまま走って止まりました。
「おかえり」
どろちゃんがUHFで言いました。
『ただいま戻りました』
帰ったら、まず二機を点検します。
主翼、脚、タイヤ、プロペラ、エンジンまわり。新しく作った翼根の燃料タンクにも漏れはありません。異常な熱もなく、操縦系統にも問題は見つかりませんでした。
点検を終えると、二機を同じ格納庫へ入れます。
タドポール君の隣へ、ライデンから来てエルレンフェルトでずいぶん中身を変えられたソアラーが収まりました。二機の長い翼が、同じ屋根の下へ並びます。
「反省会は、明日にする?」
どろちゃんが聞くと、フランソワさんは少し考えました。
「飛びながら、かなりいたしました」
「そうだった」
離陸から着陸まで、二人はUHFでずっと話していました。スポイラーの使い方も、上昇気流の場所も、バーゼルで折り返すことも、帰りの高度も、その場で確認しています。
同じ話を今すぐもう一度する必要はありません。飛行記録はあとで整理すればいいのです。
それより先に、二人ともお腹がすいていました。
◇ ◇ ◇
格納庫を出た二人はホテル棟の方へ下り、そのまま表の道へ出ました。
道の向こうは、水玉船の乗り場です。待合室があり、その隣にはいつもの売店があります。川では、白い船体に大きな水玉を付けた船が行ったり来たりしていました。
「ピロシキください」
「お二つですか」
「うん」
「紅茶もお願いいたします」
「ジャム入れる?」
どろちゃんが聞くと、フランソワさんは頷きました。
「お願いいたします」
二人は窓の近くへ座りました。
温かいピロシキと、甘いジャム入り紅茶。
外では水玉船が着き、人が降り、また人が乗って出ていきます。
今日、フランソワさんは新しい機体で五回離着陸し、そのあとバーゼルの近くまで飛んで帰ってきました。上昇気流も捕まえました。エンジンを止めたまま、高度も上げました。
でも、売店ではいつもと同じです。
どろちゃんはピロシキを一口食べました。
「おいしい」
「はい」
フランソワさんも紅茶を飲みます。
二人の飛行機は、丘の上の格納庫で並んで休んでいます。
◇ ◇ ◇
小さな説明
【四十馬力型二サイクルエンジン】
本章でフランソワさん用機へ搭載したエンジンは、第九十一章でライデン大学へ渡した約三十馬力型を基礎にした改良型です。排気管形状、ポート位置、圧縮比などを少しずつ見直し、最高出力を約四十馬力まで高めています。
高い出力を得られる回転域は以前より狭くなっていますが、このモーターグライダーでは運転中の回転数を基本的に一定とし、工場側で遠心クラッチの接続条件とスプロケット比を調整して、その回転域へ合わせています。
点火はCDIで、小型バッテリーと小型セルモーターを搭載します。バッテリーはUHF無線機や暖房用ファンなどにも利用します。
【A-15型を参考にした新主翼】
新しい主翼は、元のライデン機より左右それぞれ約六十センチ長くなっています。ただし、元の翼へ翼端を継ぎ足したものではなく、平面形ごと新しくしています。A-15系の主翼形状とNACA系層流翼型を参考にし、エルレンフェルトで利用できるアルミ材やFRPを使って、この機体用に作り直したものです。
主翼と胴体の付け根は滑らかに整形し、その内部を燃料タンクとして利用します。燃料を重心近くへ置くことで、燃料消費による重心移動を小さくしています。
主翼はかなり変わっていますが、胴体、尾翼、脚など元の機体の特徴を残しているため、遠くから見ると元のライデン大学製ソアラーと大きくは違って見えません。
【スポイラー】
本機にはスポイラーがあります。滑空性能の高い機体でも、進入時にスポイラーで抗力と沈下率を増やせるため、速度を過度に落とさずに進入角と接地点を調整できます。
【UHF無線と編隊飛行】
フランソワさんの機体には小型UHF無線機を固定搭載しています。タドポール君にもUHF無線機があり、二人はバーゼル付近までの飛行中も位置、高度、上昇気流、折り返し、着陸などを無線で確認しています。
そのため帰着直後に長い反省会を行うのではなく、飛行記録の整理や細かな検討は後日に回しています。




