91貴族令嬢は、ライデン大学へエンジンを持っていきます。 人の手による動力飛行機の初飛行です
第九十一章 貴族令嬢は、ライデン大学へエンジンを持っていきます
◇ ◇ ◇
北アメリカから持ち帰ったお土産を配り終えるころには、家の食卓にもメープルシロップの瓶が普通に置かれるようになっていました。
甘い匂いの残る朝食のあと、どろちゃんが向かったのは機械工場です。
こちらに並んでいるものは、少しも甘くありません。
小さな二サイクルエンジンが、作業台の上に十五基ほど並んでいました。一基およそ二十キログラム、出力は約22 kW(約30馬力)。大きな飛行機を飛ばすためではなく、ライデン大学で長く育ててきたソアラーへ動力を与えるためのものです。
どろちゃんは、一番手前のエンジンへ手を置きました。
最初にライデンで作ったソアラーは、こんなところまで来るとは思っていませんでした。
あの機体は、未来の高性能グライダーの外形を参考にしながら、当時の木材と接着、金具で安全に作れる別の構造として始まりました。最初の最大滑空比は十八ほど。それでも十分に立派だったのですが、そこで終わらなかったのがライデン大学でした。
翼端を変え、風洞で比べ、実機で飛ばしました。主翼と胴体のつながり、風防の後ろ、操舵面の隙間、表面の小さな段差、取り付け角。少しずつ直しては飛ばし、また測る。
その積み重ねで、いまの機体は最大滑空比二十八ほどまで来ています。
どろちゃん自身も、その過程にずっと関わってきました。
だから今回は、完成した他人の飛行機へ自分のエンジンを勝手に付けるような話ではありません。ライデン大学の機体と、エルレンフェルトの工場で作った動力装置を、これまで一緒に育ててきた研究の続きとして組み合わせます。
「機首側の交換部品は、これで揃っています」
工場の人が図面を広げました。
エンジン取付部、プロペラ軸、チェーンケース、燃料系統。ライデンのソアラーはすでにノックダウン生産用のキットとして外へ出せるほど図面と部品構成が整理されていますから、現地で穴の位置から考え直す必要はありません。
「これなら、そのまま持っていけるね」
「はい。大学側でも交換できる寸法です」
どろちゃんは図面の上を指で追いました。
機首のバラストを外し、その場所へエンジンを載せる。ただし、エンジン本体がバラストと近い重さだからといって、それで終わりではありません。クラッチ、チェーン、軸、プロペラ、取付金具、燃料。全部を含めれば、当然、重量も重心も変わります。
そのあたりは計算してあります。
それでも、実際に載せてから測るつもりでした。
飛行機は、計算が合っているはずだから大丈夫、では済ませたくありません。
◇ ◇ ◇
プロペラは機首先端に付く牽引式です。
停止しているときは、ばねの力でブレードが後方へたたまれ、機体に沿うようになります。回り始めれば遠心力で開き、推力を出す形になります。
どろちゃんは、その動きを手で確かめました。
止まったときに、きちんとたたまれる。
飛んでいるソアラーにとって、止まったプロペラが正面で大きな抵抗を作るのは面白くありません。エンジンを止めたら、できるだけ元のソアラーへ戻ってほしいのです。
エンジンとプロペラの間には、自動遠心クラッチがあります。
低回転では切れている。
回転を上げるとつながる。
そこからチェーンとスプロケットで減速し、別に支持したプロペラ軸を回します。
長時間、ずっと動力で飛ぶ機体ではありません。
自分の力で離陸する。
高度を取る。
必要なら、もう一度エンジンをかける。
そのあと主役になるのは、長い翼です。
どろちゃんは、この考え方が気に入っていました。
飛行機にしたいわけではありません。
あくまで、ソアラーを自分の力で空へ上げられるようにしたいのです。
◇ ◇ ◇
点火はマグネット式です。
電池がなくても、エンジンが回れば火花を飛ばせます。
問題は、止まったエンジンをどうやって回し始めるかでした。
始動にはゼンマイを使います。
地上では、操縦席のレバーを何度か押し下げます。戻して、また押す。そのたびにラチェットが一段ずつ進み、スターターのゼンマイを巻いていきます。
空中では、同じことを腕力で何度も繰り返したくありません。
そこで、エンジンが回っているうちに次の始動分を蓄えておきます。
レバーを巻上げ側へ動かすと、アイドラー――小さな車輪形のゴムローラー――が回転軸へ押し当てられます。軸との摩擦でローラーが回り、その力で同じゼンマイを巻きます。
別に複雑なトルクリミッターを付けたわけではありません。
巻きが強くなって必要な力が増えれば、普通の力で押し当てている限り、ゴムローラーの接触面が滑ります。
そこまでです。
どろちゃんはケースを見ながら、少し嫌な想像をしました。
「これ、無理に押し続けたら嫌だね」
工場の人も同じところを見ています。
「ゼンマイを壊したくはありませんね」
「切れて勢いよく出たら、機体に穴があくかもしれないし」
軽い機体の中で、強く巻かれた金属の帯が暴れるところは見たくありません。
だから、機械に何もかも任せるのではなく、操縦者にも分かる仕組みにしました。巻き上げて、重くなって、滑り始めたら、それ以上押さない。
停止したエンジンを再始動するときは、蓄えておいたゼンマイを始動側へつなぎます。クランク軸が回り、マグネットが火花を飛ばす。
燃料が来ていれば、エンジンがかかる。
理屈はそうです。
でも、空の上で本当に一度でかかるかは、飛ばしてみなければ分かりません。
◇ ◇ ◇
もう一つ、どろちゃんが気になっていたのは燃料でした。
エタノールへ潤滑油を混ぜます。
割合は、まず五十対一。
油がおよそ二パーセントです。
「このくらいだったと思うんだけどなあ」
前の世界で、二サイクルエンジンの混合燃料を見た記憶があります。
ただし、記憶は試験成績表ではありません。
まして今回はエタノールです。
油も、アルコールときちんと混ざって潤滑できるものを選んであります。それでも、適正な割合まで最初から分かるわけではありません。
試験台で回すと、排気に白っぽさがありました。
どろちゃんは、どうしてもそこへ目が行きます。
「少し多いかな」
「減らしてみますか」
そう聞かれると、今度は焼き付いたシリンダーが頭に浮かびます。
「……今日は、このままにしよう」
白煙は気になります。
でも、油を減らしてエンジンを壊す方がもっと嫌でした。
神様から届いた飛行機なら、一晩置けば直るものがあります。
これは違います。
人間が作ったエンジンです。
焼き付けば、自分たちで直さなければなりません。
だから一基だけではなく、十五基ほど作りました。そのうち十基をライデン大学へ持って行きます。
飛行用だけではありません。
地上運転を続けるもの。
混合比を変えて見るもの。
温度を取るもの。
再始動を繰り返すもの。
耐久を見るもの。
壊すためではありません。
壊さないために、条件を変えて確かめるのです。
どろちゃんは並んだエンジンを見ながら、その方が大学らしいと思いました。
◇ ◇ ◇
十基のエンジンセットと交換部品、工具、予備のチェーンやスプロケット、燃料、油、記録用紙をミツバチちゃんへ積み込みます。
フランソワさんも一緒です。
「ずいぶんございますね」
「一基だけだと、何も思い切って試せないでしょう」
「壊したくないから十基、でございますか」
「うん」
フランソワさんは貨物の固定を確かめながら、少し笑いました。
「お嬢様らしい考え方でございます」
「壊したくないんだよ」
「存じております」
エンジンを十基運ぶと言っても、大学へ答えを十個渡すつもりではありません。
このエンジンも、プロペラも、分解して内部を写し取ることは認めません。
けれど、外から見て、動きを測って、どういう仕組みなのかを考えることは止めない。
考えた結果、自分たちの材料で同じ働きをする機械を作るなら、それは研究です。
どろちゃんは、その違いをはっきりさせておきたかったのです。
やがて貨物扉が閉まり、ミツバチちゃんはエルレンフェルトを離れました。
◇ ◇ ◇
ライデン大学では、ソアラーがすでに待っていました。
長い翼。
細い胴体。
尾輪式の固定脚。
主脚は、左右を一つにつないだ逆U字形のばね鋼です。車輪と脚にはフェアリングも付いています。
引込脚ではありませんから、空気抵抗をもっと減らそうと思えば将来の宿題はあります。
でも今日は、その先の話ではありません。
今日は、まず自分の力で離陸できるかどうかです。
機首のバラストを外し、準備してきた部品へ交換します。
エンジンを載せる。
燃料系統をつなぐ。
遠心クラッチを確認する。
チェーンを掛ける。
プロペラ軸を合わせる。
大学の工房の人たちは慣れたものでした。
機体そのものを何度も組み立て、調整し、修理してきた人たちです。
どろちゃんが全部を指示する必要はありません。
むしろ一緒に寸法を見て、数字を確かめて、必要なところだけ話します。
取り付けが終わると重量を量り、重心を確かめました。
燃料満載時。
燃料が減ったとき。
操縦者が乗ったとき。
数字が想定の範囲へ入っていることを見て、どろちゃんはようやく少し肩の力を抜きました。
計算どおりです。
でも、実測値を見るまでは、どうしても落ち着かなかったのです。
◇ ◇ ◇
地上運転では、まずゼンマイを巻きました。
レバーを何度か押し下げます。
燃料弁を開け、スロットルを始動位置へ。
マグネット。
始動。
ゼンマイがクランクを回し、数回の回転のあと、小さな二サイクルエンジンが急に音を持ちました。
その瞬間、周りにいた人たちの顔が変わります。
机の上に置かれていた機械が、機体の一部になった音でした。
どろちゃんは、やっぱり排気を見ました。
白い。
気になります。
でも、今日は油を減らしません。
アイドリングでは遠心クラッチが切れているため、プロペラは止まったままです。
ゆっくり回転を上げます。
やがてクラッチがつながり、チェーンが走り始めました。
停止時には後方へたたまれて機体に沿っていたブレードが、遠心力で開きます。
回転が上がると、機体を押さえている人の腕へ、前へ進もうとする力がはっきり伝わりました。
スロットルを戻します。
クラッチが切れます。
プロペラの回転が落ち、ブレードはばねの力で後方へたたまれていきます。
そこで終わりにはしません。
温度を見る。
チェーンを見る。
軸受を見る。
燃料漏れ。
振動。
ボルト。
プロペラ。
もう一度始動します。
また止めます。
どろちゃんは、白い排気を見るたびに、五十対一という数字を頭の中でもう一度転がしました。
減らしたい。
でも壊したくない。
結局、初飛行の日まではそのままにしました。
◇ ◇ ◇
初飛行の日には、滑走路の横へずいぶん人が集まりました。
大学の教授や研究者。
工房の職人。
学生。
これまでソアラーを飛ばしてきた操縦者たち。
元王様の一家も来ています。
それから、オランダ政府側の代表も一人。
どろちゃんは、その人の正式な役職を朝に聞いたはずでした。
たぶん聞いています。
けれど、どうにも頭へ残りません。
王族や貴族なら、家系図まで覚えます。
誰の子で、誰と結婚して、どの家へつながるか。領地や相続まで一緒に覚えられます。
ところが共和国の政治家は、制度が変わったり、選挙があったり、役職からいなくなったりします。
ライプニッツさんにも、以前そこを不思議がられました。
それでも苦手なものは苦手です。
今日も、どろちゃんの頭の中では、
初飛行のときに来ていたオランダ代表の人。
それで十分でした。
◇ ◇ ◇
操縦席へ座るのは、どろちゃんではありません。
ライデン大学の操縦者です。
そこに、今日いちばん大きな意味があります。
エルレンフェルトの飛行機を、エルレンフェルトの人が飛ばすのではありません。
ライデン大学が自分たちで作り、何度も直してきたソアラーを、大学の操縦者が自分で離陸させる。
エルレンフェルト以外の人が、自分で操縦して動力飛行する最初の日でした。
どろちゃんは、自分が乗らないことを少しも残念には思いませんでした。
むしろ、今日は乗ってはいけない気がしました。
ここまで大学のみんなが育ててきた機体です。
最初の一回くらい、最後まで大学のものにしてほしい。
地上でゼンマイを巻きます。
エンジンが始動しました。
白っぽい排気。
どろちゃんはまた見てしまいます。
パイロットが合図を出し、機体が動き始めました。
ウインチの索はありません。
誰にも曳かれていません。
自分のプロペラで加速していきます。
尾輪が浮きました。
主輪だけで滑走します。
そして、その主輪も地面から離れました。
ほんの一瞬、滑走路との間に細い隙間が見えます。
次の瞬間、その隙間はもうはっきりした空間になっていました。
歓声が上がります。
どろちゃんも息を吐きました。
飛んだ。
計算でも、試験台でもなく、本当に飛びました。
機体はそのまま高度を取っていきます。
地上からは、操縦席の中で何をしているかまでは見えません。
上昇中、パイロットは回転軸へゴムローラーを当て、次の始動に使うゼンマイを巻いていました。
必要なところでやめます。
やがて十分な高度へ達すると、エンジン音が小さくなりました。
遠心クラッチが切れます。
プロペラの回転が落ち、ブレードが後方へたたまれて機体へ沿います。
空が急に静かになりました。
見物していた人の中から、短い声が漏れます。
でも機体は落ちません。
当たり前です。
もともとソアラーです。
どろちゃんは、その姿を見て少し嬉しくなりました。
エンジンを止めた瞬間に、ちゃんと元の機体へ戻っています。
それが、今回いちばんやりたかったことでした。
長い翼は、これまで何度も見てきた姿のまま、ライデンの空を静かに滑っていきます。
旋回し、風を読み、高度を使う。
そこから先は、パイロットにとって知っている飛行です。
しばらくして機体の向きが変わりました。
そして遠くから、もう一度エンジン音が聞こえました。
地上がざわめきます。
空中再始動です。
操縦席のレバーまでは見えません。
けれど、止まっていたエンジンが空の上でもう一度動き出したことだけは、誰にでも分かりました。
機体はもう一度高度を取ります。
どろちゃんは、今度こそ笑いました。
◇ ◇ ◇
初飛行は、およそ三十分でした。
長く飛ぶ記録を作る日ではありません。
自力で離陸できた。
上昇できた。
エンジンを止められた。
ソアラーとして飛べた。
空中で再始動できた。
そして、きちんと帰ってこられる。
初日なら、それで十分です。
機体が進入してきます。
主輪が滑走路へ触れ、逆U字形のばね脚が少したわみました。
尾輪も下ります。
そのまま速度を落とし、停止しました。
人が集まってきます。
工房の人はチェーンケースを見ています。
別の人はプロペラ。
先生たちは飛行記録。
学生たちは、まずパイロットの顔。
どろちゃんはというと、やっぱり排気口を見ていました。
自分でも、少しおかしくなります。
歴史に残りそうな初飛行が終わったのに、気になっているのは油の量です。
「どうだった?」
降りてきたパイロットへ聞きました。
「上昇は思っていたより素直でした。エンジンを止めれば、いつもの機体です」
「再始動は?」
「問題ありませんでした」
「それは聞こえたよ」
レバーの動きは見えませんでしたが、エンジン音ははっきり戻ってきました。
パイロットも笑います。
その顔を見て、どろちゃんはようやく、本当に終わったのだと思いました。
◇ ◇ ◇
もちろん、これで完成ではありません。
固定脚は残っています。
尾輪もあります。
空気抵抗を減らす余地はまだあります。
エンジンだって、五十対一の混合比で決定したわけではありません。
白煙。
温度。
プラグの状態。
運転時間。
再始動の確実性。
十基のエンジンを使って、これから大学で調べます。
それでも、飛び方は大きく変わりました。
自分で高度を取れるなら、以前なら発航設備のある場所からしか始められなかった飛行が、ずっと自由になります。
ドーバー海峡ほどの距離も、もう単に「遠いから無理」という話ではありません。
ただし、壊したときは別です。
この機体もエンジンも、神様の機械ではありません。
外国で脚を曲げても、翌朝には直りません。
専用部品ならライデンへ連絡して、補修部品を送ってもらう必要があります。
飛べることと、運用できることは違います。
そこまで含めて、大学の新しい研究になります。
◇ ◇ ◇
その日の夕方は祝宴になりました。
無事に飛んだこと。
自力で離陸したこと。
エンジンを止めても、いつものソアラーとして飛んだこと。
空中で再始動できたこと。
同じ話が何度も繰り返されます。
でも、今日はそれでいいのです。
どろちゃんも、何度聞いても嫌ではありませんでした。
大学の人が喜んでいるのが嬉しかったのです。
やがて、どろちゃん教授にも挨拶が回ってきました。
立ち上がると、少しだけ緊張しました。
科学の話ならいくらでもできます。
でも、お祝いの席で大勢の前へ立つのは、いまでも少し苦手です。
「今日は、おめでとうございます」
まず、それだけはちゃんと言いました。
「このソアラーは、最初から今日の形だったわけではありません。飛ばして、測って、直して、また飛ばして、みんなでここまで育ててきた機体です」
大学の先生たちや工房の人たちを見ました。
「今日はそこへ動力が加わりました。ライデン大学の人が、自分たちで作ってきた機体を、自分で空へ上げました。私は、それがとても嬉しいです」
拍手が起きます。
どろちゃんは、少し待ちました。
ここまでは、お祝いです。
ここからは言っておかなければならないことでした。
「それから、エンジンとプロペラについて一つだけ。分解して、中をそのまま写して作るのは禁止です」
工房の人たちも、静かに聞いています。
「でも、仕組みは考えてください。どうして動くのか、どうすれば同じことができるのか。自分たちで考えて、自分たちの仕組みを作るのは自由です」
これを止めてしまったら、大学へ持ってきた意味がありません。
どろちゃんは、もう一度息を入れました。
「ただ、もっと大事なことがあります。軍事利用はしないでください」
祝宴の空気が、少し変わりました。
どろちゃんにも分かります。
でも、ここだけは曖昧にしたくありませんでした。
「私は、私掠船が消えた事件と、同じような結果になると思っています」
元王様の一家も聞いています。
オランダ代表の人は、さっきまで持っていなかった紙へ何かを書き始めました。
「空を飛ぶのは、高いところへ上がっていく話でしょう。天へ昇っていく話です。だから私は、バベルの塔みたいなことになるんじゃないかと思っています」
それ以上は言えませんでした。
何が起きるのか、どろちゃんにも分かりません。
どこまでが許されて、どこからが駄目なのかも知りません。
私掠船のときだって、先に詳しい規則が配られたわけではありませんでした。
だから、予想だけを話しました。
言い終えて席へ戻ると、会場は少しのあいだ静かでした。
やがて誰かがグラスを置き、食器の音が戻り、話し声も戻ってきました。
今日は祝宴です。
どろちゃんも、少しほっとしました。
◇ ◇ ◇
翌日。
帰りのミツバチちゃんへ積む荷物が一つ増えました。
ライデン大学のソアラー、一機分です。
機体をノックダウン状態まで分解し、輸送用にまとめます。
翼を外す。
尾部を外す。
接続部品をまとめる。
操縦系統を傷めないよう固定する。
これは昨日禁止した「エンジンを分解して模倣する」という話とは何の関係もありません。
ソアラーそのものは、もともとノックダウン生産を前提に図面が整えられた機体です。
しかも、どろちゃん自身が開発に深く関わってきました。
持ち帰る理由も決まっています。
「フランソワさんの練習に使うの」
そう言うと、フランソワさんが少しだけ目を見開きました。
「私でございますか」
「うん。コウノトリさんで、エンジンを止めて飛ぶ練習もしたでしょう。今度は、ちゃんとソアラーで」
「承知いたしました」
いつもの落ち着いた返事です。
でも、ほんの少し嬉しそうなのを、どろちゃんは見逃しませんでした。
エルレンフェルトには、今回大学へ渡さなかったエンジンがあります。
持ち帰った機体にも、同じ動力装置を載せられます。
最初は短い滑走。
少しだけ浮く。
低い高度で長くする。
やがて旋回。
そして、エンジンを止めて滑空する。
フランソワさんは、将来アラスカへ持って行くスイフト・ライトにも乗る予定です。
チェブラーシカで降りられる場所まで行き、そこを拠点にして周囲を飛ぶ。
そのとき、飛行機のようにエンジンだけを頼りにする人では困ります。
風を読んで、翼だけで飛べる方がいい。
どろちゃんは、フランソワさんなら大丈夫だと思っていました。
でも、大丈夫だと思うことと、練習しなくていいことは別です。
◇ ◇ ◇
帰りのミツバチちゃんは、行きより少し変な荷姿になりました。
十基のエンジンを降ろした代わりに、長いソアラー一機分の部品が載っています。
フランソワさんと一緒に固定を確認します。
「こちら、問題ございません」
「じゃあ帰ろう」
ライデンを離れると、水路と町と鉄道がゆっくり小さくなっていきました。
大学の滑走路も見えます。
昨日まで、あそこではウインチでソアラーを空へ上げていました。
今日は、自分のエンジンで上がった機体があります。
どろちゃんは窓の外を見ながら、何度思い返しても少し嬉しくなりました。
自分が飛んだわけではありません。
だからこそ嬉しいのかもしれません。
自分がいなくても、大学の人が自分たちで空へ上がったのです。
◇ ◇ ◇
エルレンフェルトへ戻るころには、空の色が少し傾いていました。
ミツバチちゃんは旧滑走路へ進入し、そのまま着陸します。
減速。
停止。
降りたから終わり、にはしません。
どろちゃんとフランソワさんは外へ出て、簡単な点検をしました。
脚。
タイヤ。
機体下面。
プロペラ。
エンジンまわり。
油漏れ。
燃料漏れ。
ライデンから積んできたソアラーの固定も確認します。
問題なし。
ミツバチちゃんを格納庫へ入れると、ようやく今日の飛行仕事が終わりました。
格納庫を出たところで、どろちゃんは急にお腹がすいていることへ気づきました。
「甘いもの食べたい」
フランソワさんが、もう分かっている顔をします。
「何になさいますか」
「パンケーキ」
「やはり」
「今日は、あまーいやつ」
二人でホテル棟へ下りました。
しばらくして、目の前に焼きたてのパンケーキが来ます。
甘いものをしっかりかけます。
紅茶にはジャム。
どろちゃんは一口食べました。
「あまい」
「ご希望どおりでございます」
「うん」
ライデンでは、人が初めて自分たちの動力で空へ上がりました。
これから、もっと遠くへ飛ぶ人も出てくるでしょう。
もっと速く、もっと高くと考える人も出てきます。
そのことを考えると、少しだけ胸の奥に引っかかるものもありました。
でも、今日はまだ大丈夫です。
大学の人たちは、飛ぶために飛んでいました。
どろちゃんは、目の前のパンケーキをもう一切れ切りました。
今日は、これで終わりです。
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小さな説明
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【ライデン大学のソアラー】
ライデン大学のソアラーは、最初から最大滑空比二十八だったわけではありません。初期機はおよそ十八から始まり、着脱式の翼端部品、低速風洞、実機飛行を使って、主翼と胴体の干渉、風防後方、操舵面の隙間、表面段差、取り付け角などを一つずつ改善した結果、最大滑空比およそ二十八へ到達しています。
機体はノックダウン生産用として図面と部品構成が整理されています。本章の動力化では一から機体を作り直さず、バラストを外して対応する部品へ交換し、エルレンフェルト製の動力装置を組み込んでいます。
【約22 kW(約30馬力)級二サイクルエンジン】
本章のエンジンは、エルレンフェルト工場で製作した約二十キログラム、約22 kW(約30馬力)の二サイクルエンジンです。点火はマグネット式で、始動にはゼンマイを使います。
地上ではレバーを繰り返し押し下げ、ラチェットでゼンマイを巻きます。エンジン運転中は、回転軸へアイドラー(小さな車輪形のゴムローラー)を押し当て、その摩擦で同じゼンマイを巻きます。ゼンマイの反力が大きくなると、通常の押付力ではローラーと回転軸の接触部が滑るため、この摩擦接触自体が簡単なトルク制限になります。
燃料はエタノールに潤滑油を混ぜたものです。本章では、どろちゃんの記憶を出発点として約五十対一で試験していますが、これを最終的な適正混合比と決めたわけではありません。白煙、温度、潤滑、焼き付きの有無などを見ながら研究を続けます。
【クラッチ、減速、プロペラ】
エンジンとプロペラの間には自動遠心クラッチがあり、チェーンとスプロケットで減速して独立したプロペラ軸を回します。
プロペラは機首先端の牽引式です。停止・低回転では、ばねの力でブレードが後方へたたまれて機体に沿い、空気抵抗を減らします。回転が上がると、ブレードが遠心力で開きます。
このため、エンジンを止めた後はプロペラの抵抗を小さくし、元のソアラーに近い状態で滑空できます。
【神様の機体ではありません】
ライデン大学のソアラーも、エルレンフェルト工場製のエンジンも、人間側が作った機械です。神様から届いた航空機のように、一晩で損傷が消えることはありません。
外国で専用部品を壊した場合は、ライデンやエルレンフェルトから補修部品を送る必要があります。
【技術公開と軍事利用】
本章では、エルレンフェルト製のエンジン・プロペラを分解してそのまま模倣することは禁止しています。一方、原理を考え、自分たちの材料と設計で同等の仕組みを作る研究は禁じていません。
どろちゃんが軍事利用を止めるよう警告しているのは、航空技術そのものを禁止したいからではありません。私掠船が消えた事件をすでに経験しているため、他国を攻撃するための航空機を作った場合にも神様側の介入が起こる可能性を考えています。
ただし、この時点のどろちゃんは、その介入が具体的にどのような形になるかを知りません。「バベルの塔のような結果」というのも予想として話しています。




