90貴族令嬢は、ロンドンハウスで科学します。 エドモンドハレー アイザックニュートン ロバートフックが揃います
第九十章 貴族令嬢は、ロンドンハウスで科学します
◇ ◇ ◇
ロンドンハウスへ戻ってから、どろちゃんはしばらく飛ばないことにしました。
ボストンからの荷物も、ようやく全部届きました。
メープルシュガー。
メープルシロップ。
大家さんやアン女王陛下へ渡すもの。
自分で食べるもの。
それとは別に、ボストンへ行く前からロンドンへ運び込んでいた箱があります。
小口径の太陽観測用望遠鏡。
分光用のプリズム。
スペクトルを見るための顕微鏡。
最近できた、Hα線だけを非常に狭く通す太陽観測用の干渉フィルター。
ほかにも光学実験に使う小物がいくつか。
どれも、ロンドンでまたロバートっちと科学するために持ってきたものです。
政治の報告書を書くためではありません。
軍隊へ渡すものでもありません。
遊ぶためです。
もちろん、どろちゃんのいう「遊ぶ」は、机の上へレンズとプリズムと磁石を並べて、気がつくと夕食の時間になっている種類の遊びでした。
◇ ◇ ◇
ロバートっちは、ロンドンハウスへ来ると、荷物が増えていることにすぐ気づきました。
「また持ってきましたね」
「うん。しばらくロンドンにいるから」
「これは?」
「太陽を見る望遠鏡」
「こちらはプリズムですね」
「スペクトルを見るやつ。あと、こっちは新しいフィルター」
ロバートっちは箱を開けたまま動かなくなりました。
どろちゃんは知っています。
この人は、見たことのない光学部品を見せると、しばらく帰りません。
だから持ってきました。
フランソワさんも知っています。
その日の昼食は、最初から一人分多めに用意されました。
◇ ◇ ◇
ニュートンさんも、ロンドンハウスへ何度か来ました。
ある日、どろちゃんは以前から気になっていた名前を出しました。
「ハレーさんにも会ってみたい」
ニュートンさんは、少しだけ顔を上げました。
「エドモンド・ハレーですか」
「うん。船に乗って磁気を測った人」
「本人は、それ以外にもいろいろしていると言うでしょうが」
「でも船長さんもしたでしょう」
「しました」
「会いたい」
「では、話してみましょう」
それで話は終わりました。
どろちゃんから知らない人の家へ突然使者を出す必要はありません。
ニュートンさんにつないでもらえばいいのです。
◇ ◇ ◇
数日後。
ロバートっちが先に来ていました。
机の上には、まだ分解していない光学器具が並んでいます。
そこへニュートンさんが来ました。
今日は一人ではありません。
「お連れしました」
背の高い男が、少し後ろから入ってきます。
「エドモンド・ハレーです」
「ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルトです。会いたかったです」
ハレーさんは少し笑いました。
「ニュートン博士から、私の航海の話を聞きたがっている方がいると伺いました」
「地磁気の地図も見たい」
「そこまで聞いていましたか」
「船で測ったんでしょう?」
「ええ。ずいぶん揺れる場所で」
ロバートっちが横から言いました。
「今日は磁石から始まるようですね」
「たぶん」
どろちゃん自身にも、どこへ終わるかは分かりません。
◇ ◇ ◇
フランソワさんがお茶を持ってきました。
ピロシキもあります。
紅茶の横には、ジャムの瓶。
どろちゃんは自分のカップへ、いつものようにジャムを入れました。
ハレーさんが少し見ています。
「紅茶へ入れるのですか」
「うん。おいしいよ」
ニュートンさんはもう見慣れています。
ロバートっちも気にしません。
ハレーさんだけが一口目を少し慎重に飲みました。
「……悪くありませんね」
「でしょう」
そこで終わりました。
今日は紅茶の研究ではありません。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは大きな地図を持ってきました。
航空機で使っているものです。
海岸線。
緯度経度。
地形。
そして磁気方位を使うための補正情報。
「これ、磁気方位は一七〇〇年に合わせてあるよ」
ハレーさんの手が止まりました。
「一七〇〇年?」
「うん」
「年を指定してあるのですか」
「同じ場所でも変わるから」
ハレーさんは、今度は紅茶ではなく地図をじっと見ました。
彼にとって、磁気偏角が場所によって違うことは珍しい話ではありません。
自分で海へ出て測っています。
年月とともに変わることも考えています。
だから驚いたのは、「磁北が動く」という一言ではありません。
目の前の実用品が、最初から年代を決めて磁気補正されていることでした。
「少し待ってください」
ハレーさんは自分の持ってきた紙を開きました。
航海中の観測記録。
位置。
日付。
磁針の偏り。
さらに、自分がまとめた磁気偏角の図。
今度はどろちゃんが身を乗り出しました。
「これ、船で測ったやつ?」
「そうです」
「全部?」
「全部ではありません。天候の悪い日もありますから」
「見せて」
もう初対面の挨拶は終わっていました。
◇ ◇ ◇
二枚の資料を並べます。
ある地点では、よく合います。
「ここ、ほとんど同じ」
「ええ」
別の地点では少し違います。
「こっちはずれてる」
「その地点は、私も自信がありません」
「なんで?」
「経度です」
ハレーさんは、航海中の位置決定を説明しました。
緯度は天体を見れば比較的求めやすい。
しかし経度は厄介です。
船が東西へどれだけ移動したか。
風。
流れ。
速力。
推測航法の誤差。
長い航海では、それらが積み重なります。
どろちゃんはボストンからの帰路を思い出しました。
フローレス。
ラジェス。
リスボン。
それぞれの時刻局から届いた信号。
空を飛ぶ場合でも、速いだけでは位置は決まりません。
正確な時刻と、現在地を結びつけなければならない。
「今なら、もっときっちり経度を測れるよ」
「今なら?」
「時刻を正確に持っていけるから」
どろちゃんは立ち上がりました。
別の箱を開けます。
中から小さな時計を出しました。
振り子時計ではありません。
持ち運べる六ビートの時計です。
「これ」
ハレーさんが受け取ります。
「かなり正確だよ。時刻局が聞こえるところなら、途中でずれも確認できる」
ハレーさんは時計を見ました。
裏返します。
もう一度文字盤を見ます。
ニュートンさんが、その顔を見ていました。
「また船に乗るつもりですか」
ハレーさんはすぐには答えませんでした。
「この時計で、以前の観測点を測り直したらどうなるかは、見てみたいですね」
「貸そうか」
「よろしいのですか」
「あげるよ」
ハレーさんは今度こそ黙りました。
ロバートっちが笑っています。
「ニュートン博士。船長を一人、海へ戻してしまったかもしれませんね」
「まだ決めていません」
ハレーさんはそう言いました。
でも時計は返しませんでした。
◇ ◇ ◇
経度が正確になれば、以前の観測との差を全部「場所を間違えたから」で片づける必要がなくなります。
観測器の誤差。
船体に使われている鉄。
磁針そのもの。
地図側の補間。
そして地磁気そのものの変化。
原因を一つずつ分けられます。
ハレーさんは古い観測記録を指で追いました。
「同じ海域を、同じ方法で、しかし位置だけをもっと正確にして測り直せれば……」
「時間の変化も見えるかもね」
「長い年月の変化は考えています」
「長いのだけじゃないよ」
ハレーさんが顔を上げました。
「もっと短い変化があるのですか」
「あるよ。大きく乱れる日もある」
「一日の中で?」
「うん」
今度はニュートンさんも地図から顔を上げました。
ロバートっちは、磁針を一つ机の中央へ寄せます。
「器械の問題ではなく?」
「器械のこともある。でも地球の磁気そのものが乱れることもあるよ」
ハレーさんの記録には、周囲より妙に合わない点がいくつかあります。
もちろん、それだけでは何も証明できません。
位置の誤差かもしれません。
測定の誤差かもしれません。
ただ、日付まで残っています。
「こういう外れた値は、場所だけじゃなくて日付でも見た方がいいよ」
「日付に何があるのです」
「太陽」
四人の視線が、今度は窓の方へ向きました。
◇ ◇ ◇
「太陽が磁針を動かすのですか」
ハレーさんが聞きました。
「直接、磁石を引っぱるわけじゃないよ」
どろちゃんは、机の上の紙を一枚引き寄せました。
「太陽では、ときどき急に活動が強くなることがあるの。光だけじゃなくて、荷電粒子も外へ飛び出す」
「荷電粒子」
「電気を持った小さな粒」
ロバートっちは、その言葉で少し表情を変えました。
電気という言葉が出ると、この人も帰れなくなります。
「それが地球まで来るのですか」
「来るものがある。全部が地球に当たるわけじゃないけどね。向きが違えば来ない」
ここは大事です。
太陽で大きな変化が見えたからといって、必ず地球の磁気が乱れるわけではありません。
地球の方へ飛んでこなければ、強い影響はありません。
「来た場合は?」
「地球のまわりの磁気とぶつかって、磁針がいつもと違う動きをすることがある」
ハレーさんは、自分の古い記録へ視線を戻しました。
「では、私の観測で妙に外れている日が、太陽で何か起きた後と重なっていれば」
「候補にはなるね。でも一個だけじゃだめ。別の場所の磁針も同じ日に乱れていたら、もっと面白い」
「場所ではなく、日付が共通する」
「そう」
ハレーさんは、もう一度日付を見ました。
今までなら、地図上でどこにいたかを先に考えていた記録です。
今日は、同じ数字の横に書かれた日付の方が気になり始めています。
◇ ◇ ◇
「しかし、太陽で起きたことが地球へ届くなら、いつ届くのです」
ニュートンさんが聞きました。
「ものによるよ」
どろちゃんは答えました。
「光とかX線みたいな電磁波なら、だいたい八分十九秒くらい」
「八分十九秒」
「地球と太陽の距離で少し変わるけどね」
ニュートンさんは、そこでは驚きませんでした。
「レーマーの木星衛星の観測があります」
「うん。光が一瞬で届かないことは、もう分かってるでしょう」
木星の衛星イオの食。
地球と木星の位置関係によって、食が見える時刻が系統的にずれる。
光が有限の速度で伝わると考えれば説明できる。
どろちゃんが持ち込んだ話のうち、「光が太陽から来るのに時間がかかる」というところまでは、この部屋の三人にとって完全な未知ではありません。
問題はその先です。
「でも、地磁気を大きく乱す主役は、光じゃないよ」
「先ほどの荷電粒子ですか」
「うん。あれは光よりずっと遅い。太陽で大きな変化があってから、数十時間とか、もっとかかって来ることがある」
ハレーさんが言いました。
「では、太陽の変化と磁針の変化を同じ時刻に探してはいけない」
「そう。時間をずらして見る」
「どの程度ずらすかも一定ではない?」
「一定じゃない。飛んでくる速さも違うから」
ニュートンさんは紙へ何かを書き始めました。
距離が分かる。
時間差が分かる。
ならば速度を出せます。
「光とは、まったく違う速さですね」
「うん。だから、同じものじゃないって分かる」
ここまで来ると、最初に広げた地磁気の地図が、急に太陽までつながりました。
◇ ◇ ◇
「じゃあ、太陽を見ようか」
どろちゃんは立ち上がりました。
ハレーさんが一瞬止まりました。
「今からですか」
「晴れてるよ」
ロバートっちは、もう立っています。
ニュートンさんも紙を置きました。
フランソワさんだけが、四人の紅茶がまた冷めることを知っています。
◇ ◇ ◇
太陽を見るための小口径望遠鏡は、最初からロンドンハウスへ持ち込んであります。
どろちゃんが、ロバートっちと科学するためです。
普通の望遠鏡へ、そのまま目を当てて太陽を見るものではありません。
太陽観測用として、入ってくる熱と光をきちんと制限する構成になっています。
今日はそこへ、Hα線用の狭帯域干渉フィルターを組み合わせます。
「これが新しいやつ」
どろちゃんが言うと、ロバートっちは太陽を見る前にフィルターを見ました。
「これほど薄いものが、色を選ぶのですか」
「色というより、ものすごく狭い波長だけ」
「染料ではなく?」
「干渉」
その言葉で、ニュートンさんも近づきました。
ロバートっちとどろちゃんは、薄膜の干渉をレンズの検査にも使います。
レンズ同士の接触状態。
曲率。
傾き。
ニュートンリングとして見える縞は、見世物ではありません。
工作した光学部品を確かめる道具です。
その干渉を、今度は「特定の波長だけを通す」部品として使っています。
「Hα、六五六・二八ナノメートルのあたり」
「その単位は、あとで説明してください」
「うん」
まず太陽を見ます。
◇ ◇ ◇
赤い太陽が見えました。
ただ赤いだけではありません。
縁から細く伸びるもの。
円盤の上に筋のように横たわる暗い構造。
明るさの違う領域。
白い光で見ていた太陽とは、表情が違います。
ハレーさんが長く覗いています。
「これは、太陽の表面ですか」
「見えている層の一つ。Hαで見ると彩層の様子がよく出るの」
「先ほど言っていた、急に明るくなる現象も?」
「運がよければ見える。フレアって呼ぶよ」
「それを時刻と一緒に記録する」
「そう。それで数日、磁針も見る」
ハレーさんが望遠鏡から離れました。
今度は机の上の磁針を見ています。
「毎日やる価値がありますね」
「あるよ」
「海でも太陽は見られる」
「見られるね」
時計はもうハレーさんのポケットに入っています。
◇ ◇ ◇
「プリズムでも見よう」
どろちゃんは次の箱を開けました。
分光用のプリズム。
スリット。
スペクトルを見るための顕微鏡。
これも全部、どろちゃんが持ってきたものです。
ロバートっちが使うことを前提に、机へ出しやすくしてあります。
太陽の光を細いスリットへ通します。
プリズムで分けます。
顕微鏡でスペクトルを覗きます。
「虹ですね」
ハレーさんが言いました。
「よく見て」
連続した色の中に、細い暗い線があります。
一つではありません。
何本もあります。
ニュートンさんの顔が変わりました。
プリズムで白色光を分けることそのものは、彼の領域です。
でも、きれいな連続色だと思っていた太陽光の中に、細い欠けが並んでいます。
「これは器械の傷ではありませんね」
「場所を変えても同じところに出るよ」
ロバートっちはスリットとプリズムを確認します。
望遠鏡側も見ます。
「再現します」
「うん」
どろちゃんは、赤い方の一本を示しました。
「ここ。さっきのHαフィルターが見ていたところ」
「同じ場所ですか」
「同じ波長」
ハレーさんが言いました。
「しかし、こちらでは暗い」
「太陽の円盤を背景にすると暗く見える」
「では、明るく見える場合もある?」
「あるよ。縁のプロミネンスだけをうまく拾うと、今度は同じ場所が明るい線になる」
スリットの位置を調整します。
明るい光球面をできるだけ外し、縁から出ているガスの部分を拾います。
今度は、暗かった場所に明るい赤い線が現れます。
しばらく誰も話しませんでした。
◇ ◇ ◇
「同じ位置です」
ロバートっちが言いました。
「うん」
「円盤では暗線。縁では輝線」
「同じ物質が関係してる」
「何です?」
「水素」
どろちゃんは、別の小さな光源を出しました。
地上で水素を発光させて、その光を同じ分光器へ入れます。
赤い輝線。
位置を合わせます。
「ここ」
太陽で見たHαと重なります。
「地上の水素と、太陽の線が同じ」
ハレーさんは、今度は望遠鏡ではなく分光器を長く見ました。
「では、太陽に何があるか、ここから分かるのですか」
「線が分かればね」
どろちゃんは以前、元素の分類や周期表の話をしています。
でも今日は、元素を机の上の試料として見る話ではありません。
手の届かない太陽に、何があるかを見る話です。
そこへ行かなくても、光が来ます。
光を分ければ、その中に手がかりがあります。
「星でもできます」
「できるのですか」
「うん」
ハレーさんは、また海へ持っていく荷物を一つ増やす顔になりました。
◇ ◇ ◇
「太陽に水素があることと、太陽があれほど長く光ることは関係するのですか」
ニュートンさんが聞きました。
どろちゃんは少し考えました。
「関係するよ」
ここから先は、一七〇四年の科学ではありません。
でも、この部屋にいる三人なら、途中を簡単にしてしまう必要もありません。
「太陽は、薪とか石炭みたいに燃えてるんじゃないの」
「では、何が熱を出しているのです」
「中心で核融合してる」
聞いたことのない言葉が一つ増えました。
「水素の原子核が、何段階かの反応を通ってヘリウムになる。そのとき、できあがったものの質量が、もとの全部を足したより少しだけ小さくなる」
ニュートンさんが止まりました。
「質量が失われる?」
「なくなるというより、エネルギーになる」
「質量が、ですか」
「うん」
どろちゃんは紙へ書きました。
E = mc²
「これ」
三人が紙を見ます。
「Eがエネルギー。mが質量。cが光の速さ」
「光速の二乗?」
「そう」
ハレーさんがさっきの話を思い出しました。
「レーマーの観測で有限だと分かった、あの速度を?」
「うん。その二乗を掛けるから、ほんの少しの質量でもものすごいエネルギーになる」
ニュートンさんは式を見たままです。
重力。
運動。
光。
質量。
彼がそれぞれ別の問題として扱ってきたものの間に、どろちゃんは一本、見たことのない関係式を置きました。
「これは、どのように導くのです」
「そこからやると今日は終わらない」
ロバートっちが笑いました。
「今日はもう、磁石から太陽の中まで来ています」
「まだ夕食前だよ」
フランソワさんが部屋の入口から言いました。
「お茶はとっくに冷めております」
四人ともカップを見ました。
本当でした。
◇ ◇ ◇
温め直した紅茶が来ました。
ピロシキも追加されました。
どろちゃんはまたジャムを入れます。
ハレーさんも今度は何も言わず、少しだけジャムを入れました。
◇ ◇ ◇
「太陽の中心で核融合が起きているとして」
ニュートンさんは話を戻しました。
「なぜ中心なのです」
「太陽自身の重力で、中心がものすごく高い圧力と温度になるから」
今度は、どろちゃんがニュートンさんの領域へ戻してきました。
「重力ですか」
「うん。太陽は大きいから、自分の重さで自分を押してる。その条件があるから核融合が続く」
ニュートンさんは紙へ新しい線を書き始めます。
どろちゃんは止めません。
今ここで、一七〇四年に恒星内部構造の完成した理論ができるわけではありません。
材料も観測も足りません。
でも、「太陽が燃えている」の中身は、もう化学的な燃焼だけではなくなりました。
水素。
ヘリウム。
質量。
エネルギー。
重力。
光。
そして太陽から飛び出してくる荷電粒子。
一つずつ別々だった言葉がつながっていきます。
◇ ◇ ◇
「では、先ほどの磁気の乱れは、核融合そのものが直接起こしているわけではない」
ハレーさんが確認しました。
「うん。太陽が活動して、フレアとか、もっと大きくプラズマが外へ放り出されることがある。そのうち地球の方へ来たものが、しばらくして地球の磁気を乱す」
「光は先に来る」
「八分十九秒くらい」
「荷電粒子は後から」
「数十時間とか、もっと」
「ならば、太陽の観測記録と磁針の記録には、同じ時計が必要ですね」
「そうだね」
ハレーさんは自分のポケットを軽く押さえました。
六ビート時計があります。
「船上でも太陽を観測し、磁気偏角を測り、正確な緯度経度と時刻を残す」
「天気も」
「もちろん」
「オーロラが見えたら、それも」
「それもですか」
「地磁気が大きく乱れたときに出ることがあるよ」
また一つ、観測項目が増えました。
ハレーさんは少し笑いました。
「以前の航海より、忙しくなりそうです」
「船長さんするの?」
「まだ、すると言ってはいません」
「時計、返す?」
「それは結構です」
今度はニュートンさんまで笑いました。
◇ ◇ ◇
その日の最初の目的は、ハレーさんを紹介してもらうことでした。
最初に広げたのは地磁気の地図です。
そこから経度へ行きました。
時計へ行きました。
太陽へ行きました。
光速へ行きました。
荷電粒子へ行きました。
Hα線を見ました。
スペクトルを見ました。
水素を見ました。
そして太陽の中心の核融合まで行きました。
結局、ハレーさんの地磁気へ戻ってきました。
フランソワさんが夕食の時刻を知らせに来たとき、机の上には最初より紙が増えています。
航海日誌。
磁気偏角図。
どろちゃんの一七〇〇年補正地図。
時計の試験項目。
太陽観測の記録表。
プリズム。
磁針。
冷めた紅茶のカップ。
空になったピロシキの皿。
どろちゃんは、それを見て少し嬉しくなりました。
ボストンでは会議をしました。
村では医者をしました。
大西洋では飛行機を飛ばしました。
アン女王陛下の前では報告もしました。
どれも必要でした。
でも、ロンドンハウスへ戻ってきて、ロバートっちとニュートンさんとハレーさんが一つの机を囲み、分からないものを分からないまま並べて、
「これ、なんでだろう」
と考えている時間は、やっぱり楽しいのです。
「明日もやる?」
どろちゃんが聞きました。
ロバートっちは、まだプリズムを見ています。
ニュートンさんは、E = mc² と書かれた紙を持っています。
ハレーさんのポケットには、六ビート時計があります。
「私は来ます」
ロバートっちが言いました。
「私も、もう少し話を聞きたい」
ニュートンさんも帰る気はあるようです。
ハレーさんは自分の航海日誌をまとめました。
「私は一度、持ち帰って調べたい記録があります」
「太陽の日付?」
「それもです。それから、以前の航海で値の外れた日を全部拾ってみます」
「見つかったら持ってきて」
「もちろんです」
今日は、船は一隻も動いていません。
それでも、ハレー船長の次の航海は、ロンドンハウスの机の上で少しだけ始まっていました。
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小さな説明
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【エドモンド・ハレーと地磁気】
エドモンド・ハレー(Edmond Halley, 1656–1742)は、彗星で有名ですが、天文学だけの人ではありません。
一六九八年から一七〇〇年にかけて、ハレーは英国海軍の船 Paramour Pink を指揮して大西洋を航海し、磁気偏角などを観測しました。その成果をもとに、一七〇一年には大西洋の等偏角線を示す地図を公表しています。
本章では、どろちゃんが持っている「一七〇〇年の磁気方位へ補正した航空用地図」と、ハレー自身の航海観測値を突き合わせています。
同じ地点でも磁気偏角は永遠に一定ではありません。長期的には永年変化があり、さらに磁気嵐などによる短時間の変動もあります。
【経度と六ビート時計】
緯度は天体の高度などから比較的求めやすい一方、海上で正確な経度を決めることは長く難題でした。
基準地点の正確な時刻を船上へ保持し、船の現在地で求めた地方時と比較できれば、時差から経度を求められます。
本作では、正確な六ビート時計に加えて、ライデン、リスボン、ラジェス、フローレスなどの時刻局から基準時刻を無線で受信できるようになりつつあります。
ハレーが以前と同じ海域を再測量する場合、経度誤差を大きく減らせるため、位置決定の誤差と地磁気そのものの変化を以前より分離しやすくなります。
【レーマーと光の速さ】
オーレ・レーマーは一六七六年、木星の衛星イオの食の観測から、光が瞬時に伝わるのではなく有限の速度を持つことを示しました。
後にホイヘンスらが、その時間差と当時の地球―太陽間距離の推定値を使って光速を数値化しています。
現在の値では、太陽から地球までの光の伝播時間は平均して約八分十九秒です。地球の公転軌道が完全な円ではないので、実際の時間は季節によって少し変わります。
【Hα線と太陽観測】
Hα線は水素のバルマー系列に属するスペクトル線で、真空波長は約六五六・二八ナノメートルです。
太陽を非常に狭いHα帯域で見ると、白色光観測とは違い、彩層のフィラメント、プロミネンス、プラージュ、フレアなどが観察しやすくなります。
本章のフィルターは、どろちゃんがロンドンへ持ち込んだ太陽観測用の狭帯域干渉フィルターです。単独の色ガラスを望遠鏡へ付けるものではなく、太陽観測用として入射光と熱を安全な範囲へ制限する光学系の一部として使用しています。
【暗線と輝線】
太陽円盤の連続スペクトルを見ると、特定波長の光が弱くなった暗い吸収線が見えます。
一方、明るい光球を外して太陽縁の希薄な発光ガスを分光すると、同じ元素の波長が明るい輝線として観測できます。
本章では、太陽のHα線と地上で発光させた水素のHα線を比較し、「遠く離れた太陽にも地上と同じ元素がある」ことを三人が実感する場面にしています。
史実では、太陽スペクトルの暗線は一八〇二年にウィリアム・ウォラストンが報告し、一八一四年以降にヨーゼフ・フォン・フラウンホーファーが精密に研究しました。本作では、どろちゃんの分光器によって一世紀以上早く詳しく観察されています。
【太陽フレア、荷電粒子、地磁気】
太陽でフレアが起きると、光、紫外線、X線などの電磁波による変化は光速で地球へ届きます。
しかし、大きな地磁気擾乱に重要なのは、太陽から放出されたプラズマ、とくに地球方向へ向かったコロナ質量放出(CME)などです。
こちらは光速ではなく、到達まで数十時間から数日程度かかる場合があります。
また、フレアが見えたからといって必ず大きな磁気嵐になるわけではありません。放出の方向、速度、磁場の向きなどによって地球への影響は大きく変わります。
本章では、この時間差を利用して、太陽観測の日時とハレーの磁気偏角観測を照合する発想が生まれています。
【太陽の核融合】
太陽のエネルギー源が核融合であることは、一七〇四年には当然まだ知られていません。
現在の理解では、太陽中心部で水素原子核が反応し、最終的にヘリウムが作られる過程で、反応前後のわずかな質量差がエネルギーへ変わります。
質量とエネルギーの関係 E = mc² も二十世紀の物理学です。
本章では、どろちゃんが未来側の知識としてこれを説明しています。ニュートン、フック、ハレーがその場で近代的な恒星物理学を完成させた、という意味ではありません。彼らには観測手段も理論的な前提もまだ不足しています。
ただし、重力、光速、元素、分光、地磁気という、それぞれ別に研究していた問題が、一つの太陽という対象を通じて結びつき始めています。




