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89貴族令嬢は、メープルシロップを買います。  ネイティブアメリカンの少女を治療します。

昨日88章にネイティブアメリカンの少女を治療します とサブタイトルつけたけど89章のこちらが治療編で、88章は閲兵式編の間違いでした。とんでもなく長い章になったので分割したためです。

第八十九章 貴族令嬢は、メープルシロップを買います



     ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 朝食が終わると、どろちゃんは昨日の現地指揮官を探しました。


 大家さんとトルシー侯からは、今日の行動は任せると言われています。


「聞きたいことがあります」


「何でしょう」


「ネイティブアメリカンさんから、メープルシロップとメープルシュガーを買いたいんです。どうしたらいいですか」


 指揮官は少し考えました。


「ここから馬で二日ほどのところに、我々とよく交易している村があります。ちょうど、その村から四人来ています」


「ボストンに?」


「はい。品物を買いに来ています」


「会えますか」


「もちろんです」


 少しして、四人が来ました。


 荷物は多くありません。


 これから買うものの方が多いようです。


 四人とも、同じ格好をしているわけではありませんでした。


 脚には革を使っている人がいます。


 ヨーロッパから入ってきた毛織物を肩へ掛けている人もいます。


 金属の留め具。


 小さな刃物。


 ガラス玉の飾り。


 この土地で昔から使ってきたものと、交易で手に入れたものが、普通に同じ身体の上にあります。


 ボストンまで二日かけて歩いてきたので、履き物には乾いた泥が残っていました。


 馬を連れてきてはいません。


 背負ってきた荷物を置くと、一人が足首を少し回しました。


 指揮官は、この村と何度も交易しているので、売買に必要な言葉ならいくらか知っています。


 値段。


 数。


 鉄。


 布。


 待つ。


 帰る。


 そういう短いやり取りならできます。


 でも、長い話になると四人のうち一人が、ボストン側で使われる言葉へ言い換えます。


 全部を自由に話せるわけではありません。


 そこで、どろちゃんが土地の言葉で挨拶しました。


 四人とも一度足を止めました。


 そのあと、一人が同じ言葉で返します。


 最初は短い挨拶でした。


 次に、どこから来たのか。


 何日かかったのか。


 何を買いに来たのか。


 どろちゃんがそのまま尋ねると、今度は四人ともどろちゃんを見ました。


 通訳を挟まなくても話が続いています。


 指揮官には、ところどころしか分かりません。


「いま、何を聞かれたのですか」


「歩いてきたのか聞いたの」


「それで?」


「歩いてきたって」


「そこまでは私も見れば分かります」


「じゃあ、次から難しいこと聞く」


 四人のうち一人が笑いました。


 話を続けます。


 欲しいのは針金と蹄鉄でした。


 以前なら、村で作ったメープルシュガーやメープルシロップを持って来て、銃や火薬と交換することもできました。


 でも、もう銃は売ってもらえません。


 ここで困っているのは、銃が手に入らないことだけではありません。


 村では、交換するための商品を作ってきました。


 メープルシュガー。


 メープルシロップ。


 ほかにも、ボストンへ持って行けば売れるものがあります。


 それを運んで、欲しい品と替える。


 そういう交易が続いていました。


 ところが、いちばん高価で、運ぶだけの手間をかけても交換したかった銃や火薬が取引から外れました。


 針金や蹄鉄は今でも欲しい。


 布も刃物も鍋も必要です。


 でも、それらを買うためだけなら、二日歩いて運ぶメープルシュガーやシロップの量まで、以前と同じにはなりません。


 だからボストンへ出す量が減りました。


 作れなくなったのではありません。


 売る先が細くなったのです。


「村には残ってる?」


 残っています。


 むしろ、以前より余っています。


 四人が持って来なかった分まで、村には商品として出せるものが残っていました。


 どろちゃんは、そこで少し考えました。


 銃を売らないと決めたこと自体を、ここでひっくり返すつもりはありません。


 昨日までの会議で決めたのは、現地の人をまた武装させて、英国やフランスの争いへ引き込まないためです。


 でも、銃を交易から外せば、それまで銃を買うために作っていた商品まで突然いらなくなるわけではありません。


 作る人はいる。


 品物もある。


 ただ、買う側の理由が一つ消えた。


 ならば、武器以外の買い手が増えればよい。


 どろちゃんは、その最初の一人くらいにはなれます。


 しかも今回は、本当に自分で食べたいのです。


「じゃあ、買いたい」


 四人は少し困った顔をしました。


 村まで遠いのです。


 馬で二日。


 この四人は歩いてきました。


「飛行機で行けばいいよ」


 指揮官が、どろちゃんの顔を見ました。


「……村へですか」


「うん」


「滑走路はありません」


「平らなところがあれば見てきます」


 話が早すぎます。


 でも、どろちゃんはもう立ち上がっていました。


「先に、ごはん食べよう」


「今からでございますか」


 フランソワさんが聞きました。


「パンケーキ」


「なるほど」


 そこは納得するところらしいです。



                *



 チェブラーシカちゃんの翼の下に、折り畳みの机を出しました。


 風はありますが、雨はありません。


 四人と指揮官が座ります。


 オイゲンさんと、その部下も近くにいます。


 どろちゃんは機内へ入り、ギャレーでパンケーキを焼きました。


 焼けたものをフランソワさんと運びます。


「これにかけます」


 小さな容器を出しました。


 チェブラーシカちゃんに積んであったメープルシロップです。


 たくさんはありません。


 少しずつかけます。


 四人は最初、パンケーキより上にかかったものを見ていました。


 一口食べます。


 顔が変わりました。


「わたしは、こうやって食べます」


 どろちゃんは自分の皿にもかけました。


「住んでいるところでは、これがなかなか手に入りません。売るためじゃなくて、わたしが食べたいんです」


 四人のうち、一番年上の人が笑いました。


 それなら分かる。


 そんな返事でした。


 かわいそうだから買う、と言われたのではありません。


 薬を配る代わりに持って来い、と言われたのでもありません。


 この娘は、この甘いものを自分で食べたいから金を払う。


 それなら普通の交易です。


 さっきまで少し警戒していた四人の顔から、余計な力が抜けました。


 どろちゃんも、それを見て少し安心しました。


 欲しいものを欲しいと言う方が、余計な説明をするより早いことがあります。


 指揮官は紙を持ってきました。


「村はこちらです」


 川。


 森。


 曲がる場所。


 丘。


 道。


 二日歩く道順を、一枚の紙へ描いていきます。


 直線なら百キロもありません。


「この辺に、広い平地があります」


「穴は?」


「大きなものは見たことがありません」


「岩は?」


「ほとんどありません」


「じゃあ上から見る。だめなら帰ってくる」


 それで決まりました。


 その前に、どろちゃんは四人が買う予定だった針金と蹄鉄の代金を払いました。


「持って帰ればいいよ」


 四人は、さっきよりもっと困った顔をしました。


「わたしも村まで行きたいから。一緒に運ぶ」


 売るものを買わせるための援助ではありません。


 今日、四人が必要としていた買い物を済ませ、そのまま家まで運ぶだけです。


 荷物が届きました。


 針金。


 蹄鉄。


 そのほか、四人が自分たちで選んだ小さな品物。


 チェブラーシカちゃんへ積みます。


 四人は、飛んでいるチェブラーシカちゃんをボストンで見ています。


 でも、中へ入るのは初めてです。


 一人が機体の下から翼を見上げ、もう一人は脚を軽く叩いてから手を引きました。


 どろちゃんは、先に機内で必要なことを説明します。


「飛んでいる間は、ここに座って。これを締める。立つときは、わたしかフランソワさんがいいと言ってから」


 言葉は四人の言葉です。


 座席ベルトを自分で締めて見せます。


 フランソワさんが一人ずつ確認しました。


 指揮官には同じ説明を、今度は指揮官の分かる言葉でします。


「あなたには、説明が二回聞こえるのですね」


「うん。でも意味は一回分だよ」


「それは便利です」


 オイゲンさんの部下は、四人の会話をまったく理解できません。


 それでも、ベルトの掛け方と非常時の動きは目で確認できます。


 言葉が違っても、安全の説明だけは曖昧にしません。


 指揮官の部下が、宿泊所へ連絡に走りました。


 大家さんとトルシー侯へ、どろちゃんが飛行機で村へ行くと知らせるためです。


 しばらくして、指揮官本人も飛行場へ戻ってきました。


 どろちゃんは、いつものワンピース姿です。


「では、本当に行かれるのですね」


「うん」


 機体を一周します。


 脚。


 タイヤ。


 吸入口。


 翼。


 扉。


 燃料。


 荷物。


 フランソワさんも反対側を確認して戻りました。


「異常ございません」


「じゃあ行こう」



                *



 チェブラーシカちゃんは、あまり高く上がりませんでした。


 千メートルほど。


 今日は、地上を見ながら村を探します。


 四人と指揮官が窓の外を見ています。


 川が見えます。


 森が切れます。


 指揮官が前を指しました。


「あそこです」


 村は簡単に見つかりました。


 その近くに、聞いていた平地もあります。


 どろちゃんは、すぐには降りません。


 村へ行きたいから降りるのではなく、降りられると確認できたときだけ降ります。


 地図に平地と書いてあっても、上から見れば溝があるかもしれません。


 草の陰に石があるかもしれません。


 人や家畜が入ってくるかもしれません。


 フランソワさんも、右席から黙って地面を探しています。


 昨日まで何度も一緒に飛んできたので、こういうときに説明はいりません。


「一回見るね」


「はい」


 速度を落として、低く通ります。


 地面。


 草。


 穴。


 石。


 人。


 動物。


 フランソワさんも右側を見ています。


「大きな障害物は見当たりません」


「わたしも」


 風向きを確認します。


 そのまま一度離れました。


 旋回。


 今度は着陸です。


 草地が近づきます。


 主脚が触れます。


 少し跳ねます。


 前脚が下ります。


 減速。


 そのまま村へ近づきすぎないところまで走りました。


 村から四百メートルほど離れたところで止まります。


 機首は、そのまま離陸できる方向へ向けてあります。


 前には十分な距離を残しました。


「エンジン、このままね」


「承知いたしました」


 フランソワさんは操縦席に残ります。


 左右のエンジンは回したままです。


 前方扉の階段が下りました。


 先に出るのはオイゲンさんです。


 階段を下りると、すぐ機体の横へ寄らず、前方へ少し離れました。


 エンジンは回ったままです。


 村から近づいてくる人が、機体の危ないところへ入らないように見ます。


 次が指揮官です。


 この土地の人と顔を合わせたことがある人間を、早い段階で外へ出します。


 その次に四人。


 針金と蹄鉄を持っています。


 飛行機から最初に見慣れた四人が出てくれば、村の人にも、少なくとも四人が無事に帰ってきたことはすぐ分かります。


 そのあとにオイゲンさんの部下。


 階段と機体の周囲を見ます。


 最後が、どろちゃんです。


 偉い順ではありません。


 外を先に見る人。


 現地と話せる人。


 帰ってきた四人。


 機体側を押さえる人。


 それから、用事のあるどろちゃん。


 フランソワさんだけは降りません。


 右席に座り、左右のエンジンを回したまま、計器と外を見ています。


 何かあれば、すぐ動けるようにするためです。


 村から人が集まってきました。


 最初に走ってきたのは子どもたちでしたが、大人に止められて少し離れたところで止まりました。


 昨日までここに無かった大きな白い機械が、草地の上で音を立てています。


 でも、その前には村からボストンへ行った四人が立っています。


 一人が手を上げました。


 それで、近づいてくる人の足が少し速くなりました。


 村は、家が一列に並んだヨーロッパの町とは違います。


 低い家。


 樹皮を使った丸みのある屋根。


 少し離れたところには、木を組んだ物置や干すための棚があります。


 煙の出ている場所もあります。


 籠。


 革。


 木の器。


 その横に、ヨーロッパから入ってきた鉄の鍋や刃物も見えます。


 人の服も同じでした。


 全部が昔からの材料でも、全部がヨーロッパの服でもありません。


 革の衣服の上へ毛織物を重ねている人。


 ヨーロッパ式のシャツを着ている人。


 足元はこの土地の履き物の人。


 交易が続いてきた場所です。


 だから、指揮官たちの姿そのものは未知ではありません。


 未知なのは、その後ろでエンジンを回している飛行機です。


 もし最初に、知らない武装した男たちだけが降りてきたなら、同じ光景にはならなかったでしょう。


 でも、先に出てきたのは顔を知っている指揮官で、そのすぐあとには昨日ボストンへ出かけた四人がいます。


 四人は怪我もしていません。


 買い物まで持っています。


 それだけで、飛行機そのものへの警戒が全部消えるわけではありません。


 それでも、「連れ去られて戻ってきた」のではなく、「自分たちで乗って帰ってきた」ことは分かります。


 どろちゃんは、村の人が飛行機を見る目と四人を見る目を交互に動かしているのを見ていました。


 ここでは自分の肩書より、四人が普通に歩いていることの方がずっと大事です。


 四人は針金と蹄鉄を持ち、自分たちの言葉で話し始めました。


 ボストンで何を買ったか。


 誰が代金を払ったか。


 どうして二日かかる道を、こんなに早く帰ってきたのか。


 飛行機の中では何をしたのか。


 話が一度に増えます。


 指揮官は、単語をいくつか拾えます。


 でも、速くなるともう追えません。


 オイゲンさんと部下には、ほとんど音の連なりにしか聞こえません。


「今、何と言っているのですか」


 指揮官が聞きました。


「飛行機の中で、立っちゃだめって言われたって」


「そこですか」


「その前は、パンケーキ」


「重要な順番が分かりません」


「本人たちの順番だから」


 どろちゃんは、集まった人へ同じ言葉で挨拶しました。


 そこで会話が一度止まりました。


 飛行機から降りてきた、見たことのないワンピース姿の娘が、自分たちの言葉をそのまま使ったからです。


 何人かは飛行機を見ます。


 何人かは四人を見ます。


 そして何人かは、またどろちゃんを見ました。


「銃がもう買えなくなったことは、ごめんなさい」


 まず、それを言いました。


 売らないと決めた理由を、長く説明するつもりはありません。


 昨日の会議で何を考えたかをここで演説しても、この村の人にとっては、自分たちが今まで買えた物を買えなくなったという事実の方が先です。


 どろちゃんは、その不便まで無かったことにはしたくありませんでした。


 だから、先に謝ります。


 でも、銃をまた売るとは言いません。


「でも、武器じゃないものなら、まだ売ったり買ったりできるものはたくさんあると思います」


 それから本題です。


「メープルシロップがあったら、わたしに売ってください」


 四人が横から説明を足しました。


 パンケーキの話もしています。


 何人かが笑いました。


 そこで、一人が周囲を見ました。


 何かを探しています。


 別の人も気づきました。


 いつもなら、外から人が来ると最初に見に来る女の子がいません。


 短い会話が続きます。


 表情が変わりました。


「どうしたの?」


 どろちゃんが聞きました。


 川で怪我をした。


 熱が出ている。


 傷が腫れている。


 昨日からほとんど起きない。


 たぶん、明日には星になる。


 そういう話でした。


「見せて」


 村の人が、どろちゃんを見ます。


 すぐには動きません。


 知らない娘が、飛行機から降りてきたばかりです。


 しかも、病人へ触らせろと言っています。


 ボストンから戻った四人の一人が、短く説明しました。


 パンケーキの人。


 飛行機を飛ばした人。


 それだけでは、医者だという説明にはなっていません。


 どろちゃんは自分で言いました。


「私はフランスの医者だよ。呪術ではないよ。本物の薬を使うんだ。間に合えば助かるよ。間に合わないと助からない」


 助ける、と言い切ることはできません。


 高い熱が出て、ほとんど起きなくなっている。


 もう全身へ感染が回っているなら、持ってきた薬でも間に合わないことがあります。


 でも、まだ手を出せる可能性があるなら、見ているだけにはしたくありません。


 どろちゃん自身、その境目がいちばん嫌いです。


 神様の薬を持っているから、必ず助けられるわけではありません。


 だから、最初からそう言いました。


 言い終わってから、家族にもう一度聞きます。


「傷を見てもいい?」


 家族の人たちが互いに顔を見ました。


 年長者が何か言います。


 どろちゃんは、それにも答えました。


 薬は何をするのか。


 切るのか。


 痛いのか。


 助かると約束できるのか。


 どろちゃんは、最後だけ首を横に振りました。


「約束はできない。でも、何もしないより助かる可能性は上がる」


 少し間がありました。


 家族が頷きます。


「じゃあ見るね」


 オイゲンさんには言葉が分かりません。


 でも、どろちゃんが急に医者の顔になったことは分かりました。



                *



 女の子は横になっていました。


 呼びかけても、目が少し動くだけです。


 額が熱い。


 脈も速い。


 脚を見ます。


 川へ入ったときも、裸足ではありませんでした。


 サンダルを履いていました。


 それでも、ふくらはぎを深く切っています。


 水の中にあった何かで切ったようです。


 傷の周囲は赤く腫れています。


 見える範囲には、石や木片のようなものは残っていません。


「飛行機から水と薬、持ってきて」


 オイゲンさんの部下が走りました。


 フランソワさんには、どろちゃんから必要なものが伝わります。


 清潔な水。


 ガーゼ。


 包帯。


 手袋。


 消毒に使うもの。


 局所麻酔。


 抗生物質。


 熱と痛みに使う薬。


 戻ってきた箱を開きます。


 まず傷を洗いました。


 泥や汚れを、水でしっかり流します。


 次に、最近使い始めたキシロカインを傷の周囲へ少量ずつ入れます。


 刺したところの皮膚が少し白くなり、わずかに盛り上がりました。


 少し待ちます。


「ここ、痛い?」


 女の子の反応を見ながら確認します。


 明らかに死んでいる組織だけを取り除きます。


 元気なところまで広く切ることはしません。


 もう一度、よく洗います。


 傷は閉じません。


 感染しているところを縫って塞ぐ方が危険です。


 いつもの機内用の抗生物質を使います。


 きれいなガーゼを当て、空気も通るように包帯を巻きました。


 滲んだ血や液で布が固まる前に、汚れたり濡れたりしたら交換します。


 熱と痛みには、少量のアセトアミノフェン系の薬を使いました。


 今日はアスピリンを使いません。


 さっき傷の悪いところを切ったばかりです。


 どろちゃんは家族と、交換を手伝う人へ一つずつ説明しました。


「傷をきれいにしておいて」


「必要がないときは触らない」


「何も塗らない」


「布が汚れたり濡れたりしたら、今やったように替える」


「ほかの人に何か勧められても、今日は足さないで」


 そして、最後に言いました。


「間に合ったと信じて待つこと。明日、また来るから」


 女の子はまだ眠るように横になっています。


 どろちゃんが名前を聞きました。


 家族が答えます。


 ワンニートゥパナタムウェ・ウッティノーコン。


 指揮官が一度口を動かしました。


「ワン……」


 途中で止まります。


 どこで音を切ればよいのか、それすら最初には分かりません。


 オイゲンさんの部下も、後半だけ真似しようとして諦めました。


 ヨーロッパの綴りを先に見ているわけではありません。


 耳で聞いた長い名前を、その場で再現しなければなりません。


 どろちゃんは、家族が言った音を、そのまま同じ調子で繰り返しました。


 ワンニートゥパナタムウェ・ウッティノーコン。


 家族がすぐ頷きます。


 指揮官が横から聞きました。


「今ので同じなのですか」


「うん」


「私には、最初と二回目で違いが分かりません」


「同じだからね」


「そういう意味ではありません」


 どろちゃんには、その困り方の方がよく分かりません。


 名前の意味も聞きました。


 神聖なるものからの贈り物。


 それに近い意味でした。


「わたしと同じだ」


 どろちゃんが言いました。


 ドロテーヤも、神からの贈り物という意味を持つ名前です。


 さっきまで、助かるかどうか分からない子どもとして見ていました。


 でも、名前の意味を聞いた瞬間、ほんの少しだけ距離が近くなった気がしました。


 だからといって治療が変わるわけではありません。


 それでも、明日もう一度ここへ来たい理由が、一つ増えました。


「長いから、ウッティちゃんって呼んでもいい?」


 家族は少し相談して、頷きました。


 ウッティちゃんは、まだそれを聞いて返事をするほど元気ではありません。



                *



 外へ出ると、別の村から来ている若い男がいました。


 この村の人とも交易はしますが、言葉はかなり違います。


 近くの村だから、全部同じ言葉を使うというわけではありません。


 品物の名前や、何度も使う挨拶は通じます。


 ゆっくりなら分かる言葉もあります。


 でも、長く話せば途中から互いに分からないところが増えます。


 若い男が何か言うと、この村の人が聞き返しました。


 今度は短く言い直します。


 手でも示します。


 交易そのものは、それで成立しています。


 どろちゃんは、その若い男へ、さっきまでとは違う言葉で話しかけました。


 男の顔が変わりました。


 今度は言い直しません。


 普通の速さで返します。


 どろちゃんも普通に返しました。


 この村の人たちは、その会話を全部は理解できません。


 指揮官は、さらに分かりません。


 オイゲンさんの部下に至っては、さっきの言葉と違うことだけがようやく分かる程度です。


 後ろで聞いていた年長者が、指揮官へ何か尋ねます。


 指揮官は分かりません。


 どろちゃんが通訳しました。


「フランスの医者は、何種類の言葉を話すのかって」


「それは、私に聞かれても困ります」


 どろちゃんは年長者へ向き直りました。


「それはたくさんです。薬の勉強もするし空を飛ぶ勉強もします」


 年長者は、しばらくどろちゃんを見ました。


 それから、真面目な顔で頷きました。


 どうやら納得しました。


 ただし、納得した内容が少し違います。


 この娘だけが変わっている、とは受け取っていません。


 フランスの医者というものは、薬を学び、遠くの村の言葉をいくつも話し、飛行機まで飛ばすらしい。


 そう理解したようです。


 さっきまで、この村の人でも全部は分からなかった別集落の青年と、どろちゃんは普通の速さで話していました。


 しかも、その直前には死にかけている子どもの傷を開き、見たことのない薬を使っています。


 年長者の側から見れば、どこまでがドロテーヤ個人の能力で、どこからが「フランスの医者」の普通なのか、区別する材料がありません。


 指揮官だけが少し困っています。


「今の説明でよかったのでしょうか」


「通じたよ」


「そういう問題でしょうか」


 指揮官は、フランスの医者がみんな飛行機を操縦するわけではないことくらい知っています。


 でも、それを年長者へ説明できるほど土地の言葉を話せません。


 どろちゃん本人は、もう別のことを考えていました。


 誤解だけが、そのまま村に残りました。


 どろちゃんは、それを訂正しませんでした。


 「フランスの医者は、普通は飛行機を飛ばしません」と説明するには、そもそもフランスの医者とは何か、飛行機を操縦する人とは何か、大学教授とは何かまで話が広がります。


 しかも、今はそのために来たのではありません。


 指揮官は訂正したそうな顔をしています。


 けれど自分では、この村の言葉をそこまで話せません。


 結果として、フランス医学についてかなり妙な評判が一つ増えました。


 今日は、メープルシロップを積みませんでした。


 まず、ウッティちゃんをもう一度見る必要があります。


 それに、突然やってきて村中の商品を持って帰る必要もありません。


「明日また来ます」


 そう言って、飛行機へ戻りました。


 フランソワさんは、まだ右席に座っています。


「お帰りなさいませ」


「ただいま。明日も来る」


「そのようなお顔をなさっておりました」


 前方の草地は空いたままです。


 扉を閉めます。


 出力を上げます。


 チェブラーシカちゃんは、そのまま村の前の草地を走りました。


 指揮官は窓の外を見ています。


 速度が上がります。


 地面が離れました。


 昨日まで馬と船しかなかった北アメリカの土地から、一人の軍人が空へ上がっていきます。


 指揮官は窓へ顔を寄せました。


 さっきまで自分が立っていた草地が下へ離れます。


 村の家が小さくなります。


 二日かけて通る川と森が、一本の地図みたいにつながって見えます。


 昨日、四百メートル先の瓶を撃ち抜いた娘。


 今日、自分たちでも十分には話せない土地の言葉を話した娘。


 その娘が今は前の席に座って、この大きな機械をボストンへ飛ばしています。


 どれか一つだけなら、そういう専門家なのだと思えます。


 まとまると、どう分類したらよいのか分かりません。


 指揮官は、しばらく何も言いませんでした。



                *



 ボストンへ戻ると、宿泊所で大家さんとトルシー侯へ報告しました。


「感染した傷です」


 どろちゃんが説明します。


「明日まで持つかどうか、今日の時点では分かりません。でも、薬が効けばかなり変わると思います」


 大家さんは、すぐに別の病人を思い出したようでした。


 イングランド王だった人にも、よく似た形で感染が広がったことがあります。


 トルシー侯も驚きませんでした。


 どろちゃんがフランスで貴族だけを診ていたわけではありません。


 アンヴァリッドでは、多くの兵士も診ています。


「明日も行かれるのですね」


「うん。熱が下がってるか見たい」


「承知いたしました。こちらの予定は調整しておきます」


「ありがとう」


 話はそれで終わりました。


 今日の夜は会議ではありません。


 夕食です。



                *



 食事は、おいしかったです。


 これが大事です。


 昨日までのように、地図を広げて植民地の境界を決める会議ではありません。


 軍人が多いので制服姿は目立ちます。


 ただし、戦場へ出るような格好ではありません。


 それぞれが夕食と社交の場に合わせた服装をしています。


 話している内容も、軍務だけではありません。


 家族。


 故郷。


 船。


 町。


 食べ物。


 どろちゃんは、途中で一つ気づきました。


「踊らないね」


 フランソワさんが周囲を見ました。


「そうでございますね」


「音楽も少ない」


「貴族の舞踏会ではございませんので」


 軍人だから踊れないということではありません。


 でも、子どものころから舞踏教師について、何種類もの踊りを覚えてきた人ばかりでもありません。


 踊る人がほとんど出ないので、広いところがあっても、そのままです。


「ちょっと寂しい」


 どろちゃんは言いました。


 会議が終わった夜なのだから、もう少し音楽があって、誰かが踊ってもよさそうだと思っていました。


 ヨーロッパの宮廷や貴族の集まりなら、食事のあとに身体を動かすことまで含めて社交です。


 ところが、ここにいる人の多くは軍務や植民地行政でこの場所まで来た人です。


 肩書は立派でも、幼いころから舞踏教師が家へ来ていた人ばかりではありません。


 どろちゃんにとって当たり前だったものが、ここでは当たり前ではありません。


 それを見つけたとき、少しだけ遠いところへ来た感じがしました。


 その横で、フランソワさんには次々に人が話しかけています。


 一人。


 二人。


 また別の人。


 三十分ほどの間に、二十人近くと話しています。


 昨日の射撃。


 飛行機。


 ヨーロッパ。


 ボストン。


 質問はいろいろです。


 フランソワさんは、どろちゃんの侍女です。


 同時に、エルレンフェルト公国の世襲男爵でもあります。


 酔って騒いでいるわけではありません。


 必要な相手にはきちんと礼をし、話が長くなりそうなら別の人へ譲ります。


「人気者だね」


「お嬢様がお話しにならない分まで、こちらへ来ているだけでございます」


「そうかな」


「そうでございます」


 どろちゃんは、少し考えました。


 踊る人がいないなら、無理に踊らせる必要はありません。


 でも、音楽まで無いまま終わるのは、やっぱり少し寂しい。


 それに今日は、部屋へ戻ったら練習するつもりで楽器を持ってきています。


 人前で腕前を見せるために運んできたものではありません。


 使う場所が、少し変わるだけです。


 それから立ち上がりました。


「音楽、持ってくる」


「お嬢様?」


「練習用の」


 部屋へ戻ります。



                *



 宿泊所には、もともと鍵盤楽器が一台ありました。


 細長い三角形に近い形をした、イングランド式のベントサイド・スピネットです。


 壁際から少し前へ出してもらいます。


 どろちゃんは蓋を開けました。


 木の匂い。


 細い弦。


 軽い鍵盤。


 いくつか音を出します。


 調律は完全ではありませんが、食事のあとに少し弾くなら困らない程度です。


「これも弾ける」


 短い音型を一つだけ弾きました。


 近くにいた人は、それなら知っています。


 この形の鍵盤楽器を見たことがある人もいます。


「では、こちらを?」


 フランソワさんが聞きました。


「今日は別の」


「やはり持ってこられたのですね」


「練習しないと指が鈍るもん」


 部屋から持ってきた長く平たい袋を開けます。


 中に入っているのは、ローランドの電子ピアノです。


 持ち運び用の電源も一緒です。


 本来は旅行中の練習用です。


 普段ならヘッドホンを付けて、自分だけで弾きます。


 今日は外へ音を出します。


 見慣れない黒い鍵盤楽器が出てくると、また人が寄ってきました。


 さっきまでフランソワさんと話していた軍人もいます。


 給仕をしていた人も、仕事の邪魔にならないところから見ています。


 一人が、さっきのスピネットとローランドを見比べました。


「弦は、どこにあるのですか」


「ないよ」


「ない?」


「これ、自分で音を作るの」


 説明を始めると長くなるので、どろちゃんはそこで止めました。


 今夜は科学講演ではありません。


 鍵盤の前へ座ります。


「これ、何の楽器ですか」


 別の軍人が聞きました。


「今日はオルガン」


「今日は?」


「明日は別の音にもなるよ」


 設定を変えます。


 最初に低い音を一つ出しました。


 スピネットの乾いた音とはまるで違います。


 誰かが反射的に、部屋の上を見ました。


 パイプはありません。


 壁の向こうにもありません。


「本当に、あれから出ているのですか」


「出てるよ」


 どろちゃんが弾き始めます。


 バッハのトッカータとフーガ、ニ短調。


 最初の音で、近くの会話が止まりました。


 少し離れた卓ではまだ話している人がいました。


 でも、数小節進むうちに、そちらも声が小さくなります。


 教会でオルガンを聞いたことがある人なら、音色の種類は分かります。


 分からないのは、どうして食堂の横に置いた薄い黒い箱から、それが出るのかです。


 曲が進みます。


 右手。


 左手。


 低音。


 応える音。


 即席の宴会芸にしては、長い。


 途中で話を再開する人はいませんでした。


 最後の音が消えてから、ほんの少し間がありました。


 それから拍手が起きます。


 一斉ではありません。


 まず近く。


 それを見て、少し離れた人。


 最後には部屋のかなり広いところから聞こえました。


 どろちゃんは振り返ります。


「まだ弾くよ」


「まだあるのですか」


「練習用だから」


 その説明で納得した人は少なそうです。


 どろちゃんは設定を変えました。


「今度はピアノ」


「ピアノ?」


 まだ、その楽器名そのものが広く知られている時代ではありません。


 今度は、鍵盤を押す強さで音の表情が変わります。


 さっきのオルガンとは違います。


 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第八番『悲愴』。


 もちろん、聞いている人はベートーヴェンを知りません。


 生まれてもいません。


 でも、曲を知らなくても、静かなところと強く出るところは分かります。


 さっきまで食事をしていた部屋が、今度は鍵盤の強弱に合わせて静かになったり、少しざわついたりします。


 弾き終わると、すぐ次へ行きました。


 リストの『ラ・カンパネラ』。


 今度は、音より先に手元を見始める人が増えました。


 右へ。


 左へ。


 また右へ。


 遠く離れた鍵盤へ手が飛びます。


 近くで見ていた軍人が、途中で一度だけ隣の人の顔を見ました。


 隣の人も同じ顔をしています。


 誰も何も言いません。


 言うと聞き逃します。


 最後まで弾くと、今度は拍手が早く来ました。


 どろちゃんは手を膝へ置きます。


「これで終わり?」


 誰かが聞きました。


 どろちゃんは首を振りました。


「まだあるよ」


「まだ?」


「持ってきたから」


 今度は細長いケースを開けます。


 YAMAHA YEV105PRO。


 五弦のエレクトリックヴァイオリンです。


 普通のヴァイオリンを知っている人ほど、形を見て少し変な顔をします。


 胴体の中が大きく抜けています。


 弦はあります。


 駒もあります。


 でも、木の箱がほとんどありません。


「これは、ヴァイオリンなのですか」


「ヴァイオリンだよ。弦が五本あるけど」


「一本多い」


「うん」


 肩へ載せます。


 接続を確認します。


 弓を一度走らせました。


 ちゃんと音が出ます。


 今度はバッハ。


 無伴奏ヴァイオリン・ソナタから、フーガ。


 さっきまでの鍵盤とは違い、一人で一本の旋律を積み重ねます。


 部屋の端では、まだ食器を片づけている人がいます。


 その手も少し遅くなりました。


 フランソワさんは、途中で話しかけようとした人へ小さく手を上げました。


 今は聞く時間です。


 曲が終わります。


 どろちゃんは弓を下ろしました。


 少し休みます。


「最後」


 パガニーニのカプリース第二十四番。


 今度は、さっきよりさらに手元を見る人が増えました。


 左手の指。


 弓。


 音の跳び方。


 同じ主題が姿を変えて続きます。


 聞いている人はパガニーニも知りません。


 でも、難しそうだということだけは説明が要りません。


 最後まで弾き切ったところで、今度はかなり大きな拍手になりました。


 宴会が舞踏会になることはありませんでした。


 踊る人も出ません。


 その代わり、途中から完全に小さな演奏会になりました。


 さっきまで話していた軍人たちが椅子を持ってきて、行儀よく並んで聞いています。


 終わったあとには、楽器を見たい人が集まりました。


「触っていい?」


「見るだけなら。勝手に線を抜かないでね」


 どろちゃんが答えると、フランソワさんがすぐ横へ立ちました。


「お一人ずつお願いいたします」


 さっきまで二十人近くの相手をしていた人が、今度は楽器見学の整理を始めました。


 どろちゃんにとっては、旅行中の練習道具です。


 聞いていた人には、とてもそうは見えません。



                *



 そのころ、宿泊所の別の部屋では、紙が増えていました。


 宴会の記録ではありません。


 英国側の書記官が、外国の王侯や政府関係者についてまとめている個人別の綴りです。


 表紙には名前があります。


 ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト。


 エルレンフェルト元首の娘。


 英国では伯爵。


 ライデン大学教授。


 王立協会に関係する研究者。


 フランス王立科学アカデミー外国人会員。


 フランスでは薬剤医師。


 そこまででも、肩書の欄はかなり長い。


 ただし、フランス軍人ではありません。


 フランス貴族でもありません。


 英国の伯爵位と、フランスで与えられている資格や研究上の立場を混ぜないよう、そこには線を引いて書いてあります。


 今日、その綴りに新しい紙が足されていました。


 四百メートル。


 伏射、瓶五本。


 五発、五命中。


 立射、瓶五本。


 五発、五命中。


 使用した狙撃銃は本人用の一挺であり、エルレンフェルト軍の一般装備と断定してはならない。


 その下には、別の項目です。


 北アメリカ先住民の一集落の言語を通訳なしで使用。


 さらに、同集落の住民にも十分には通じない近隣集落の青年と、別の言語で会話。


 現地指揮官は、どちらも十分には理解できず。


 また別の紙。


 感染した外傷を診察。


 洗浄。


 局所麻酔。


 壊死組織の除去。


 薬剤投与。


 翌日に再診。


 患者は意識を回復し、発熱は大きく低下。


 これについては、英国側にも以前の記録があります。


 王族を診たこと。


 フランスではアンヴァリッドの兵士を多数診ていること。


 医療は余技ではない。


 そう書き足されました。


 飛行機。


 チェブラーシカと呼ばれる大型機を本人が操縦。


 草地へ着陸。


 翌日は記録した座標へINSで直接飛行。


 この項目も、今回初めてではありません。


 これまでの飛行記録が、前の紙に何枚もあります。


 商取引。


 ナイアガラ周辺の土地と水利権を、自分の資金で購入。


 ただし、国家としての軍需品輸出などを本人だけで決定する権限は持たない。


 元首の娘であることと、元首本人であることを混同しない。


 そして今日。


 宴会で鍵盤楽器とヴァイオリンを演奏。


 楽器そのものも未知。


 演奏された曲も未知。


 技量は、少なくとも余興として少し弾けるという程度ではない。


 書記官がそこで筆を止めました。


「これは、どこへ入れます」


 向かいの担当者が聞きました。


「音楽でしょう」


「人物評価に必要ですか」


「必要かどうかを今決める必要はない。見たことは残してください」


「では残します」


 さらに小さな欄があります。


 紅茶を好む。


 ジャムをかなり好む。


 コーヒーは好まない。


 これは軍事上の能力ではありません。


 でも、外国の元首の家族について記録するなら、会談で何を出せば機嫌よく座っているかも、まったく無意味ではありません。


 そこへ、若い植民地側の士官が顔を出しました。


 今日の射撃場にも、宴会にもいた人です。


 紙の上の肩書を見て、しばらく黙りました。


「ヨーロッパの高位の家の娘は、皆このくらい学ぶのですか」


 書記官は顔を上げました。


「いいえ」


 それだけでした。


「では、エルレンフェルトでは?」


「それも、同じとは考えない方がよいでしょう」


 そこで紙を一枚持ち上げます。


「この人を見て、ヨーロッパの令嬢一般を推定しないでください」


「……分かりました」


 たぶん、完全には分かっていません。



                *



 同じ夜。


 フランス側でも、似た綴りが開かれていました。


 こちらは新しく作ったものではありません。


 前からあります。


 トルシー侯の仕事に関わる書記官たちは、エルレンフェルト元首の娘がフランスへ来るたび、外交上必要な事実を足してきました。


 科学院。


 薬剤医師。


 アンヴァリッド。


 鉄道。


 測量。


 電信。


 航空機。


 そして、本人がフランスの国家代表ではないこと。


 フランスの軍務に属していないこと。


 今日のボストンから届いた報告には、英国側と同じ項目が増えます。


 四百メートルの射撃。


 現地の二種類の言語。


 感染創の治療。


 草地への大型機の着陸。


 ナイアガラの購入。


 宴会の演奏。


 担当官の一人が、一覧を上から読みました。


「教授、医師、飛行機の操縦、測量、射撃、言語、音楽」


「爵位もあります」


「英国の爵位です」


「分かっています」


「そこは間違えないでください」


 フランス側では、そこを英国以上に間違えるわけにはいきません。


 薬剤医師の資格を与えたのはフランス国王陛下です。


 科学院にも席があります。


 だからといって、フランスの貴族や軍人になったわけではありません。


 担当官は最後に一行足しました。


 『能力の多さから、現地側が本人をヨーロッパ高位女性の一般例と誤認する可能性あり。』


 少し考えて、もう一行。


 『一般例ではない。』


 そして、その下で筆が止まりました。


 こうして紙へ並べると、本人を知らない人には、何でも計画して身につけた恐ろしく用心深い人物に見えるかもしれません。


 けれど、実際にそばで見た報告は少し違います。


 メープルシロップが欲しいから村へ行った。


 病人がいたから医者になった。


 音楽がなくて寂しいから楽器を出した。


 必要だから飛行機を操縦する。


 本人の中では、その都度やることが変わっているだけです。


 国家が人物を記録すると、別々の出来事が一枚の紙の上で同時に存在します。


 それが実物より危険そうに見えることもあります。


 担当官は、その差まで文章にするか迷いました。


 結局、短く一行だけ足します。


 『行動は目的に応じて即興的に変化する。能力一覧のみから意図を推定しないこと。』


 紙を乾かして、綴りへ戻しました。


 明日には、英国の記録はロンドンへ向かいます。


 フランスの記録は、トルシー侯の報告と一緒にパリへ向かいます。



                *



 宴会が終わると、どろちゃんとフランソワさんは部屋へ戻りました。


 部屋へ戻ってから、フランソワさんと今日の話をしました。


「小さい飛行機、いるね」


「本日の村でございますか」


「うん。チェブラーシカちゃん、大きすぎる」


「ミツバチちゃんでしたら、ちょうどよかったように思います」


「わたしもそう思う」


 An-28のミツバチちゃん。


 あれなら短い草地へ人と荷物を運ぶ仕事に向いています。


 でも、今日は大西洋の向こうです。


「小さい飛行機を、チェブラーシカちゃんに積めないかな」


「コウノトリちゃんのような機体でございますか」


「うん。翼を外すとか、畳むとか。まだ分からないけど」


「お帰りになってから、技師の皆様とお考えくださいませ」


「そうする」


 今回持ってきた電子ピアノも、大きな据え置き型ではありません。


 旅行中に練習するための、小さな組み合わせです。


 飛行機も同じようにできるかもしれません。


 できないかもしれません。


 それは帰ってから考えます。


 今日は寝ました。



     ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 朝食の席で、どろちゃんは大家さんとトルシー侯へ言いました。


「ウッティちゃん、見てきます」


「昨日のお嬢さんですね」


 大家さんが言いました。


「うん。熱が下がってるか確認してくる」


 トルシー侯も頷きました。


「こちらは問題ございません。戻られるまでに帰路の準備を進めておきます」


「ありがとう」


 今日、村へ行くのは五人です。


 どろちゃん。


 フランソワさん。


 オイゲンさん。


 オイゲンさんの部下。


 昨日の指揮官。


 いつもの給仕さんは休みです。


「今日は町を見てまいります」


 少しうれしそうです。


「何買うの?」


「まだ決めておりません」


「いっぱい買ってきていいよ」


「給金の範囲でございましたら」


「それはそう」


 給仕さんは町へ行きました。


 どろちゃんたちは飛行場へ向かいます。



                *



 昨日と違って、今日は村の場所が分かっています。


 離陸すると、三千メートルほどまで上がりました。


 INSに、昨日記録した位置を入れてあります。


 川を一本ずつ追う必要はありません。


 チェブラーシカちゃんは、ほぼまっすぐ村へ向かいます。


 近づいたところで高度を下げました。


 昨日の草地をもう一度見ます。


 人も家畜も入っていません。


 地面にも大きな変化はありません。


 一度低く通ってから、同じ方向へ着陸しました。


 昨日より、村の人の驚きは少し小さくなっています。


 飛行機を知ったからではありません。


 昨日、本当にここから飛び上がって帰ったものが、今日また戻ってきたからです。


 昨日ボストンから帰ってきた四人が、機体へ近づきすぎないことも説明してくれていました。


 子どもが走り出すと、大人が手で止めます。


 機体が止まるまで待つ。


 前へ回り込まない。


 昨日一度しか見ていないのに、村の側でももう扱い方を覚え始めています。


 どろちゃんは階段を下りました。


 昨日会った人が何人か、土地の言葉で声を掛けてきます。


 どろちゃんも同じ言葉で返しました。


 指揮官は、そのやり取りを聞きながら、もう驚くのを少し諦めています。


「ウッティちゃんは?」


 どろちゃんは、階段を下りるとすぐ聞きました。


 返事を聞いて、歩く速度が少し上がりました。



                *



 ウッティちゃんは起きていました。


 昨日とは違います。


 目が開いています。


 呼びかけると、こちらを見ます。


 額へ手を当てます。


 熱は、ほとんど下がっています。


「間に合ったみたい」


 どろちゃんが言いました。


 声は昨日より少しだけ軽くなりました。


 昨夜、寝る前にも一度考えました。


 もし朝になって熱がさらに上がっていたら。


 もし呼びかけても反応がなくなっていたら。


 その可能性は消えていませんでした。


 だから、起きているウッティちゃんを見た瞬間だけは、医者より先に安心しました。


 でも、治った、とは言いません。


 包帯を外します。


 傷の周囲。


 腫れ。


 赤み。


 滲み出しているもの。


 昨日より悪くなっていないか、一つずつ見ます。


 もう一度きれいにして、薬を続けます。


 新しいガーゼと包帯に替えました。


「まだ薬は続けるよ」


 ウッティちゃんが、小さく頷きました。


 声も出ます。


 土地の言葉で、短く返事をしました。


 指揮官には意味までは分かりません。


 でも、昨日は返事そのものが無かったことを知っています。


 それだけで顔が少し緩みました。


 昨日、どろちゃんが勝手に短くした呼び名も、本人へ聞きました。


「ウッティちゃんって呼んでもいい?」


 少し考えてから、また頷きました。


「よかった」


 次に、怪我をした場所を聞きます。


 川のどこだったのか。


 ウッティちゃんが説明します。


 大人が数人、川へ向かいました。


 しばらくして、水の中に残っていた怪我の原因になるものを取り除きました。


 これで、同じところで別の子が同じ傷を負う危険も減ります。


 指揮官は、その様子を少し離れたところから見ていました。


「以前、同じような傷を負った兵がいました」


 小さな声でした。


「すぐには死なないのです。熱が出ても数日は話せる。それで、命令を待っているうちに悪くなって、一週間ほどして亡くなった者がいました」


 どろちゃんは黙って聞きます。


「戦列で撃たれて、その場で倒れた者も大勢見ました。ですが、ああいう者まで助かることがあるのなら……戦わなくてよいところで戦わずに済むようになったことは、悪いことではありません」


「うん」


 どろちゃんは、それ以上うまい言葉を探しませんでした。


 目の前の一人が助かったからといって、指揮官が見てきた兵士まで戻ってくるわけではありません。


 薬があれば全部助かった、と言うこともできません。


 ただ、今後同じ傷を負った人が、同じ順番で死ななくてもよくなる可能性はあります。


 指揮官も続けません。


 今日は、ウッティちゃんが起きています。


 それで十分です。



                *



「それで、メープルシロップ」


 どろちゃんが言いました。


 昨日の本来の目的へ戻りました。


 村には、ちゃんとありました。


 メープルシロップ。


 メープルシュガー。


 銃と交換するために運ばなくなった分も残っています。


「全部はいらないよ」


 どろちゃんは言いました。


「村で使う分もいるでしょう」


 欲しい量だけ決めます。


 代金も払います。


 治療代と相殺することもしません。


 昨日買った針金や蹄鉄の代わりでもありません。


 ウッティちゃんを診たから安くしてもらう、という話にもしたくありません。


 昨日ここへ来た目的は、最初から買い物です。


 病人がいたので途中で医者の仕事が入っただけです。


 その二つを混ぜると、次に来る人まで「薬を持って来た人には品物を渡さなければならない」と考えるかもしれません。


 どろちゃんは、それが嫌でした。


 メープルシロップとメープルシュガーを、商品として買います。


 荷物をチェブラーシカちゃんへ運びました。


 ウッティちゃんにも、もう一度声をかけます。


「またね」


 今度は、返事が返ってきました。


 短い声です。


 でも昨日にはなかった声です。


 どろちゃんは笑いました。


 それから飛行機へ戻りました。


 チェブラーシカちゃんは、昨日と同じ草地から離陸しました。


 帰りはINSにボストンの位置を入れてあります。


 村と川が後ろへ下がり、やがて海が見えました。


 ボストンへ戻ったころには、明日の帰国準備もかなり進んでいました。



                *



 その夜。


 どろちゃんは、もう一度飛行場へ行きました。


 昼間には遠距離受信しにくい時刻局を、夜のうちに確認しておきたかったのです。


 チェブラーシカちゃんの操縦席へ入ります。


 まず、1.5MHz。


 フローレス。


 雑音の中から、規則正しい信号が出てきました。


「入った」


 フランソワさんが横で聞きます。


「確かに聞こえます」


 次に1.4MHz。


 ラジェス。


 こちらも入ります。


 ボストンから、大西洋の島にある二つの時刻局が夜には聞こえています。


 雑音の向こうから届く短い信号を聞きながら、どろちゃんは少しだけ嬉しくなりました。


 リスボン。


 ラジェス。


 フローレス。


 ボストン。


 地図の上では遠く離れていた場所が、時刻の信号で一本につながり始めています。


 飛行機だけが速くなっても、場所と時刻が分からなければ長距離交通にはなりません。


 今日は、その線が本当に届いているのを自分の耳で確かめました。


 どろちゃんは受信状態を記録しました。


「明日、速く飛んでみよう」


「時刻局の確認でございますか」


「それはもうできた。帰りは、大西洋を急いだらどれくらいで渡れるか見たい」


「追い風を使うのでございますね」


「うん。急ぎのときの数字が欲しい」


 今日は、それだけ確認して宿泊所へ戻りました。



     ◇ ◇ ◇



 次の日。


 ヨーロッパへ帰る日です。


 チェブラーシカちゃんには、最初から布張りの軍用座席を積んであります。


 普段は畳んで収納してありますが、今日は使います。


 ボストンで任期を終えた人たちが帰るからです。


 往路で連れてきた人を、そのまま連れて帰るわけではありません。


 こちらへ赴任した人は残ります。


 代わりに、仕事を終えた人が乗ります。


 往路で運んできた上級事務官に近い人たちは数人でしたが、帰路はそれより少し多くなりました。


 大家さんも乗ります。


 トルシー侯も乗ります。


 いつもの給仕さんも、昨日ボストンで買った荷物を持って戻ってきました。


「増えたね」


「少しだけでございます」


「楽しかった?」


「はい」


「よかった」


 荷物を固定します。


 人の座席を確認します。


 燃料も補給しました。


 今日は、帰るだけではありません。


 布張り座席には、任地を終えた人たちが座っています。


 往路で置いてきた人と、帰路で拾う人が入れ替わる。


 飛行機が珍しい乗り物で終わるのではなく、人事異動そのものを支える道具になり始めています。


 だからこそ、急ぐ必要が出たときに何時間で渡れるのかは、飾りの最高速度より大事です。


 大西洋を急いで渡ると、実際にどれくらいかかるのか。


 その基準を取ります。


「九千まで上がるよ」


 フランソワさんが確認します。


「追い風を探します」


「うん」


 チェブラーシカちゃんは、ボストンを離陸しました。



                *



 九千メートル。


 東へ向かいます。


 昨日の夜、フローレスの1.5MHzも、ラジェスの1.4MHzもボストンで受信できました。


 今日は、その時刻局を見に行く飛行ではありません。


 急いで大西洋を渡るときの実際の数字を取る飛行です。


 対気速度。


 対地速度。


 風。


 燃料。


 時刻。


 どろちゃんとフランソワさんは、順番に記録します。


 東向きの風にうまく乗れるところでは、地面に対する速度が大きくなります。


「こういう日なら、かなり違うね」


「急ぎの連絡には使えそうでございます」


「毎回これを当てにしたらだめだけどね」


「はい」


 フローレスへ降ります。


 ここで長くは止まりません。


 燃料。


 点検。


 そして、交代を終えた人たちを乗せます。


 往路で新しい要員を置いてきました。


 今度は、古い勤務者を拾って帰ります。


 地上でかかった時間も記録します。


 再び離陸。


 次はラジェスです。


 ここも同じです。


 燃料。


 必要な点検。


 交代勤務を終えた人たち。


 荷物。


 座席。


「そろった?」


「はい」


「じゃあリスボン」


 チェブラーシカちゃんは、また東へ向かいました。



                *



 リスボンへ着きました。


 ここでは、ポルトガル側とアゾレスから戻った人たちが降ります。


 大家さんは降りません。


「そのままロンドンまで行きます」


 大家さんが言いました。


「うん」


 燃料を入れている間に、通信室から電報を出してもらいます。


 パリへ。


 ロンドンへ。


 リスボンへ実際に着いた時刻を基準に、これからのおおよその到着時刻を知らせます。


 今日は大西洋横断の実測をしているので、予定表だけから出した数字ではありません。


 燃料補給が終わりました。


 リスボンを離陸します。


 次はパリです。



                *



 パリでは、フランス側の人たちが降りました。


 トルシー侯もここまでです。


「では、陛下へ報告してまいります」


「お願いします」


「北アメリカの件も、スペインの件も含めて整理いたします」


「うん。いつもの人がいるから安心」


「その呼び方を陛下の前ではなさらないようお願いいたします」


「しないよ」


「それなら結構です」


 トルシー侯は降りました。


 大家さんは、まだ乗っています。


 燃料と必要な確認だけ済ませます。


「ロンドン」


 最後の区間です。



     ◇ ◇ ◇



 ロンドンへ着いたときには、すでに到着予定が伝わっていました。


 チェブラーシカちゃんを駐機します。


 機体は飛行場の担当者へ引き渡しました。


 今日すぐエルレンフェルトへ帰るわけではありません。


 まず、ロンドンで仕事があります。


「トラム呼ぼう」


 しばらくして、一両の電車が来ました。


 前には札が出ています。


 貸切。


「これなら、みんな乗れるね」


 荷物の全部を運ぶわけではありません。


 王宮への報告を先にします。


 大きなお土産や旅行荷物は、飛行場からあとで運んでもらいます。


 大家さん。


 どろちゃん。


 フランソワさん。


 オイゲンさん。


 オイゲンさんの部下。


 いつもの給仕さん。


 必要な人が乗りました。


 電車はロンドンの中心へ向かいます。


 途中、プレイストーで止まりました。


 どろちゃんのロンドンハウスです。


「ここで休んでて」


 オイゲンさんと部下が降ります。


 給仕さんも降りました。


「お疲れさまでございました」


「そっちも」


 フランソワさんも一度降りました。


「少々お待ちくださいませ」


 家へ入り、使用人たちへ状況を説明します。


 今日は主人が戻ってくること。


 ただし、先に王宮へ行くこと。


 飛行場から荷物があとで届くこと。


 必要なことを伝えて、また電車へ戻ってきました。


「お待たせいたしました」


「じゃあ行こう」


 大家さんと、どろちゃんと、フランソワさん。


 三人を乗せた貸切トラムは、もう一度走り始めました。



                *



 王宮へ着きました。


 すぐにアン女王陛下の前へ全員で入るわけではありません。


 大家さんとどろちゃんは、まず別の控えの部屋へ案内されました。


 フランソワさんは、どろちゃんのそばにいます。


 先に呼ばれたのは大家さんです。


 今回、英国側の責任ある立場でボストンへ行ったのは大家さんです。


 北アメリカで何を見たのか。


 現地の行政と軍がどう受け取ったのか。


 フランス側と何を確認したのか。


 正式な報告は、まず大家さんから行います。


「行ってくるわね」


「うん」


 大家さんが部屋を出ました。


 どろちゃんは椅子へ座りました。


「眠くない?」


 フランソワさんが聞きます。


「少し」


「大西洋を飛んだあとでございますから」


「でも、もうちょっと」


 どろちゃんは椅子の背へ少し身体を預けました。


 本当ならロンドンハウスへ帰って、服を替えて、紅茶を飲んでから来たいところです。


 でも、トルシー侯はもうパリへ降りています。


 大家さんも、いまアン女王陛下へ報告しています。


 同じ日のうちに情報が両方の国王へ届くなら、その方がよい。


 それに、今回の政治的な報告者は自分ではありません。


 まず大家さんが話す。


 自分は、現地で見たことと技術のことだけを補う。


 その順番なら、余計なところへ入り込まずに済みます。


 しばらく待ちました。


 扉が開きます。


「ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト伯爵閣下を、陛下がお呼びでございます」


「はい」


 どろちゃんは立ち上がりました。



                *



 アン女王陛下は、すでに大家さんからかなり詳しく聞いていました。


 どろちゃんは、政治交渉の代表として呼ばれたのではありません。


 現地で実際に見た人。


 飛行機を飛ばした人。


 時刻局を受信した人。


 そして、必要なら技術の説明ができる人です。


「カタリナから、ボストンで決めたことは聞きました」


 アン女王が言いました。


「はい」


「あなたから付け加えることは?」


「二つ大きいのがあります。船の時刻と、スペインです」


「では、船から聞きましょう」


「はい」


 どろちゃんは、ボストンで夜に受信した記録を出しました。


「フローレスの1.5MHz、聞こえました。ラジェスの1.4MHzも聞こえました」


「ボストンで?」


「夜です。昼はだめでした」


 次に、船で使う仕組みの話をします。


 陸上の時刻局から、基準になる時刻を送る。


 船では、それを受信する。


 船の時計と天文観測を組み合わせれば、経度を決めるときの誤差を大きく減らせます。


 何か月も、時計一個のずれだけを頼りに走り続けなくてよくなります。


「ただ、船団の全部の船に同じ受信機はいりません」


「一隻でよいのですか」


「一隻だけだと、その船に何かあったとき困ります。でも、全部にもいらないです。船団の航法を担当する船に持たせれば、ほかの船は一緒に動けます」


「単独で航海する船は?」


「優先して一つずつです」


 アン女王は頷きました。


「どれほど作れますか」


 どろちゃんは、そこで少し笑いました。


「それを決めてもらいたいんです」


「私が?」


「はい。それからお願いがあります」


「何でしょう」


「RMSっていう称号を作ってください」


「RMS?」


「Royal Mail Shipです」


 アン女王が、少し考えました。


「郵便を運ぶ船に?」


「民間船でも軍艦でも、陛下が運行させる船に付けてください」


「軍艦にも、ですか」


「はい」


「なぜです」


「わたし、RMSって付いてる船が好きなんです」


 少しだけ、部屋が静かになりました。


 大家さんが先に笑いました。


 アン女王も、困ったような顔をしました。


「それだけではありませんよね」


「それだけじゃないです。RMSの称号を付けた船から、時刻受信機を優先して載せます。陛下が何隻にRMSを与えるか分かれば、それを目安に生産の速さを決められます」


 アン女王の表情が、少し変わりました。


 最初の一言だけなら、外国育ちの若い伯爵が気に入った名前を英国船へ付けたがっている話です。


 でも、その名前を付ける船を王権側で選べば、それがそのまま優先配備の一覧になる。


 郵便。


 連絡。


 船団の先導。


 単独航海。


 軍艦。


 用途の違う船を、必要度で順番に並べられます。


「なるほど」


「最初から英国中の船の数だけ作ろうとすると、必要な工場の大きさも分かりません。船団なら全部にはいらないし、単独で大西洋へ出る船には欲しいです」


「価格は?」


「まだ量産の数で変わります。でも、軍艦しか買えない値段にはしません。普通の外洋商船でも使えるところまで下げます」


 アン女王は、横にいた書記へ何か指示しました。


 まず英国側で、どの船を優先するのか一覧を作るようです。


 どろちゃんには、それで十分です。


 必要数が分かれば、あとは工場の仕事です。



                *



「それでは、もう一つ。スペインですね」


「はい」


 どろちゃんは地図を出しました。


 大西洋ではありません。


 北アメリカの西側です。


「今回、スペインは来ていません」


「そうですね」


「東側だけ決めて安心したらだめです。メキシコから北の太平洋側、それからアラスカの西の方まで、急いで考えないといけません」


「ロシアですか」


「はい」


「来る可能性が高いと?」


「可能性は百パーセントです」


 アン女王が地図から顔を上げました。


「そこまで言いますか」


「来るかどうかは考えてません。いつ来るかだけです」


 ロシアは、すでにシベリアを東へ進んでいます。


 まだ北アメリカ側へ大きな植民地を作ってはいません。


 でも、だから待ってよいという話にはなりません。


「十年でも二十年でも、国の土地の話なら短いです。もっと早いかもしれないです」


「それで、スペイン領をどうするつもりです」


「売ってもらえるところは、フランスと英国で一緒に買った方がいいと思います」


「メキシコより北を?」


「メキシコもです。スペインが維持できるなら別です。でも、今のままだとメキシコまで危ないです」


 アン女王の表情が変わりました。


 どろちゃんは、スペイン船の話をしました。


「ルイ十四世国王陛下は、もうフェリペ陛下に船が消えることを知らせています。国王の周りにも話は届いています」


 これは、フランス側で確認されていることです。


「でも、下まで伝わらなかったり、伝わっても今までどおりやったりしています」


「私掠ですか」


「うん。海賊行為をやめれば、何も起きないです」


 そこは単純です。


 五か国の船や積荷を襲わなければよい。


 ところが、行き掛けに商船を見つけ、今までどおり追う。


 砲撃や接舷に入る。


 その瞬間、船ごと南極へ送られる。


「植民地へ行く事務官が乗っていても、その人が攻撃していなければ年は増えません。でも船ごと南極です。船長や航海士で攻撃を決めた人は、消えることがあります」


「すると、植民地へ人が届かない」


「はい。物も届かない。逆に植民地の資源もスペインへ戻ってきません。船も減ります」


 船体だけの話ではありません。


 船長。


 航海士。


 熟練船員。


 植民地へ送る事務官。


 補給品。


 植民地から戻す商品と資源。


 一回の余計な襲撃で、その往復を支えるものがまとめて欠けます。


「止めればよいのですが」


 アン女王が言いました。


「はい。止めればいいです。でも、止まってないので急いだ方がいいです」


 どろちゃんは太平洋岸を指しました。


「メキシコより北の太平洋岸は、スペインもまだ点でしか持っていないところが多いです。港と町と、実際に持っている権利を買うなら今です。現地の人の土地までスペインから買ったことにはしません。そこは、その人たちと別に決めます」


「英国だけで買うのではなく、フランスと共同で」


「はい。片方だけだと、また取り合いになるから」


 大家さんも地図を見ています。


「フランスには、トルシー侯が戻っていますね」


「うん。とても優秀ないつもの人が、フランス国王陛下へ報告してくれます」


 アン女王が少し笑いました。


「では、その先は?」


「陛下と、フランス国王陛下のお仕事です」


 ここまで言って、どろちゃんは少しだけ肩の力を抜きました。


 ロシアが来ること自体は止められません。


 スペインの船を自分が止めることもできません。


 英国やフランスの領土を自分で決める権限もありません。


 だから、自分が知っている危険を、決められる人のところまで運ぶ。


 そこまでが自分の仕事です。


「あなたは?」


「帰ります」


「ずいぶんきれいに置いていきますね」


「わたしがスペインと国の土地を売買する権限はないもん」


「それは、その通りです」


 ここから先は、君主と外交官の仕事です。


 どろちゃんが勝手に決めることではありません。



                *



 大きな報告は終わりました。


 どろちゃんは、一つ思い出しました。


「あ、それから」


「まだありますか」


「お土産買ってきました」


 アン女王が、少しだけ姿勢を戻しました。


「お土産?」


「はい。でも、報告を急いだので、わたしたちはトラムで先に来ました。荷物は飛行場からあとで届きます」


「それも報告なのですか」


「届いたとき、何だろうってなると困るから」


 さっきまで地図の上でメキシコとアラスカを見ていた部屋に、ようやく普通の旅行の話が戻ってきました。


 大家さんが笑いました。


「メープルシロップもあるの?」


「あるよ。メープルシュガーも」


「それは楽しみね」


 アン女王も頷きました。


「では、届いたら見せてもらいましょう」


「はい」


 今度こそ終わりました。


 どろちゃんとフランソワさんは礼をして、部屋を出ました。



                *



 控えの部屋へ戻ると、大家さんも少しして戻ってきました。


「終わった?」


「終わったわ」


「わたしも」


「では、帰りましょうか」


「うん。大家さん、ありがとう」


「こちらこそ。ずいぶん遠い茶会でした」


 ボストンまで行って、植民地の話をして。


 メープルシロップを買いに飛行機で村へ行って。


 怪我をした女の子を診て。


 大西洋を急いで戻ってきました。


 王宮を出ます。


 帰りもトラムです。


 今度は貸切にする必要もありませんでした。


 どろちゃんとフランソワさんは並んで座ります。


 町の建物が窓の外を流れます。


「長かったね」


「はい」


「ウッティちゃん、元気になるといいね」


「薬を続けていただければ、昨日よりはずっと希望がございます」


「うん」


 プレイストーで降ります。


 ロンドンハウスの玄関を開けると、先に戻っていた人たちがいました。


 オイゲンさん。


 その部下。


 給仕さん。


 使用人たち。


 そして、まだ全部ではありませんが、飛行場から届き始めた荷物。


「ただいま」


「お帰りなさいませ」


 その声を聞いたところで、どろちゃんはようやく仕事が終わった気がしました。


 ボストンでは会議。


 村では医者。


 空では操縦士。


 ロンドンへ戻れば、また伯爵として女王陛下の前へ出る。


 どれも自分なのですが、家の玄関では、とりあえず全部を少し脇へ置けます。


 まだ荷物は届ききっていません。


 お土産もこれからです。


 それでも今日は、もう飛びません。


 ようやく、ボストンから帰ってきました。



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小さな説明

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【北アメリカのメープルシュガーとメープルシロップ】


 北アメリカ北東部では、ヨーロッパ人が大規模に入植する以前から、先住民の人々がカエデの樹液を利用していました。


 樹液はそのままでは水分が多いため、煮詰めて濃くし、保存しやすい糖やシロップとして利用します。本章では、ボストン近郊の村が交易品としてメープルシュガーとメープルシロップを持っている設定です。


 どろちゃんは転売や援助のためではなく、自分で食べるために商品として買っています。


【村の人々と言葉】


 本章では、ボストン周辺の先住民社会を、ヨーロッパ人と接触する以前の姿のまま固定して描いてはいません。交易が続いているため、革や樹皮、木製品など従来からの材料と、毛織物、鉄鍋、刃物、金属部品などヨーロッパ由来の品が同時に使われています。


 また、近隣の村どうしでも言葉が完全に同じとは限りません。交易に必要な短い語や身振りで意思疎通できても、長い会話では相互に分かりにくくなることがあります。本章では、どろちゃんだけがそれぞれの言葉を直接理解して話せるため、現地の人にもヨーロッパ側の同行者にも奇妙に見えています。


【ウッティちゃんの名前】


 ウッティちゃんの長い名前は、Wunneetupanatamwe Wuttinnohkon(ワンニートゥパナタムウェ・ウッティノーコン)です。


 本作では「神聖なるものからの贈り物」に近い意味を持つ名前として設定しています。


 Wunneetupanatamwe は、ジョン・エリオットが一六六三年に刊行したマサチューセッツ語聖書の表題にも見られる語で、本作では「holy/神聖な」に対応する要素として参考にしています。ただし、ウッティちゃんの姓名全体は本作のために組み合わせたもので、実在した少女の姓名をそのまま使ったものではありません。


 ドロテーヤという名前も、ギリシャ語系の語源では「神からの贈り物」に通じます。そのため、どろちゃんは二人の名前を同じ意味に近いものとして受け取っています。


【感染した傷の処置】


 本章では、川でできた深い切り傷から感染が進み、高熱と意識低下が起きています。


 どろちゃんは清潔な水で十分に洗浄し、局所麻酔を使って明らかに壊死した組織だけを除去し、再度洗浄したうえで抗生物質を使っています。感染した傷をその場で閉じず、滲出液で布が固まらないように清潔なガーゼと包帯を交換する運用です。


 キシロカイン、抗生物質、ガーゼなどは、チェブラーシカちゃんに積んでいる神様補給の医療消耗品です。少人数の救急処置には使えますが、地域全体へ大量配布する場合は別に現地生産体制が必要です。


【ボストンのスピネットと、どろちゃんの楽器】


 一八世紀初頭の英語圏では、家庭や小規模な室内で使う鍵盤楽器としてスピネットやハープシコードが使われていました。本章の宿泊所には、ベントサイド・スピネットを置いています。


 一方、ローランドの電子ピアノとYAMAHA YEV105PROは当然ながらこの時代の製品ではなく、どろちゃんが神様から受け取った現代型の楽器です。電子ピアノは旅行中の練習用として持ってきたもので、普段はヘッドホンで使っています。


 ベートーヴェン、リスト、パガニーニの作品も一七〇四年より後の音楽です。どろちゃんは未来側で覚えた曲として演奏しています。


【時刻局、経度、船団】


 本作の時刻局は、正確な基準時刻を中波で送信します。船側では受信した基準時刻と船上の天文観測を組み合わせることで、経度を求める精度を高めます。


 受信装置は船団の全船へ一台ずつ必要という設定ではありません。船団として航法情報を共有できるなら、航法を担当する船と予備になる船へ優先して搭載できます。単独航海を行う船、船団から分離して動く船、郵便や高速連絡を担当する船は、自船用の装置を持つ優先度が高くなります。


 このため量産計画では「英国に船が何隻あるか」より、「受信装置を持たせる必要がある船団や単独船がどれだけあるか」の方が重要になります。


【RMS】


 本章では、どろちゃんがRMSという呼び方を好きなので、史実よりはるかに早く Royal Mail Ship の称号をアン女王へ提案しています。


 しかも本作では、民間の郵便船だけに限定せず、アン女王が重要と判断して運用する民間船・軍艦にもRMSの称号を与え、その船を時刻受信装置の優先配備対象にする制度として使おうとしています。


 アン女王が何隻へRMSの称号を与えるかを見て、ライデン側などが受信装置の初期生産速度を決める考えです。


【スペインの船と太平洋岸】


 本作では、五か国の船や積荷を襲わなければ、船の南極転送は起こりません。スペイン船も、海賊・私掠に当たる攻撃をやめれば通常どおり航海できます。


 しかし、ルイ十四世からフェリペ五世へ船の消失が伝えられたあとも、命令が末端まで十分に伝わらなかったり、従来どおりの襲撃を続けたりする船が残っています。そのため船腹だけでなく、船長、航海士、熟練船員、植民地へ向かう人員、補給物資、植民地から本国へ戻す資源まで失われ、スペインの海外領を維持する力が急速に弱っています。


 太平洋側では、スペインの実効支配が港や町などの点に近い地域もまだ多くあります。本作では、英国とフランスがスペインの実際の拠点や権利を共同で買い取り、先住民が暮らす地域についてはスペインから買ったことにせず、別に現地の人々と協定を結ぶ方向を考えています。


 ロシアについて、どろちゃんは「来る可能性がある」ではなく、「来ること自体は確実で、分からないのは時期だけ」と判断しています。そのため、太平洋岸からアラスカ方面の整理を急ぐようアン女王へ報告しています。


地元のネイティブアメリカンが徒歩で行くのと、植民地にいるフランス、イギリスの兵が馬でいくのとでは道の選択が違うため所要時間はどちらも2日間です。ボストンのあるマサチューセッツは、氷河期に削られた南北に長い湖が多数存在します。航空写真がないと上手なルート取りができません。馬は遠回りをしてしまっているわけですね。

電子楽器のような物はいくらでもやってくるわけではありません。ホテル棟にある神様ピアノ アコースティック を使いたくても移動が多くて使えないどろちゃんの練習用に神様が与えた物です。仕事が多すぎるので飛行機に搭載できることが前提なので電子楽器になったようです。

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