88貴族令嬢は、ボストンの軍人と商人に会います。 植民地軍の閲兵式に出ます。どろちゃんの狙撃の腕が光ります。
第88章 貴族令嬢は、ボストンの軍人と商人に会います
ジャム入り紅茶の会が終わっても、すぐに全員が席を立ったわけではありませんでした。
配られた紙をもう一度めくる人。
地図を見直す人。
隣の席と小さな声で話す人。
質問も、いくつか出ました。
どろちゃんは、分かることには答えました。
まだ決まっていないことには、決まっていないと答えます。
けれど、夕食の途中から飲んでいた人もいます。
時間がたつにつれて、質問の中身が少しずつ怪しくなってきました。
そろそろ終わった方がよさそうです。
そう思ったところで、一人が手を上げました。
「最後に、一つよろしいでしょうか」
「はい」
どろちゃんがそちらを見ます。
質問した人は、どろちゃんではなく、その横に立っていたフランソワさんを見ました。
「そちらの侍女さんは、独身ですか?」
少し静かになりました。
フランソワさんは、まだ仕事中です。
酒も飲んでいません。
夕食の最初に、きちんと紹介されています。
エルレンフェルト公国男爵。
フランソワ・フォン・ゲーテ。
けれど、質問した人は、そのことを忘れてしまったようでした。
いま目の前にいるフランソワさんは、どろちゃんの後ろに立ち、必要な書類を渡し、飲み物を確認し、いつものように侍女の仕事をしています。
男爵になったから侍女をやめたわけではありません。
どろちゃんは、フランソワさんを見ました。
フランソワさんも、どろちゃんを見ました。
それ以上、質問を続けるのはやめることになりました。
*
その夜。
大きな会議にはしませんでした。
部屋にいるのは六人です。
どろちゃん。
カタリナさん。
カタリナさんの侍女。
フランソワさん。
トルシー侯。
そして、トルシー侯の秘書。
昼間のように大勢へ説明するための会ではありません。
明日から先の話を、必要な人だけで詰めます。
机の上には北アメリカの地図がありました。
昼間の大人数の会では、ヨーロッパがどう変わったのかを説明しました。
今度は、これから北アメリカをどうするのかを六人で詰めます。
カタリナさんが、大西洋側の地図を見ました。
「確認しておきましょう。英国植民地とフランス植民地は、いまある範囲をきちんと育てる。新しい植民地を内陸へ広げていくことはしない。そういうことですね」
トルシー侯がうなずきました。
「はい。英国植民地には英国が、フランス植民地にはフランスが、人と物と資金を入れます。港も町も、すでにあるものを使いやすくしていけばよろしいでしょう」
「ネーデルラントやサヴォイアへ、新しい北アメリカの植民地を割り当てる話でもない」
「ありません。四か国で北アメリカを分けるための取り決めではございません」
カタリナさんは、地図の内陸へ目を移しました。
「こちらには、もう人が住んでいます」
「はい。そこを英国やフランスが勝手に自国の植民地へ変えることはしません」
「では、四か国で何をするのです?」
「別の国が軍を送り込み、武力で新しい領土にしようとしたときには止めます。ただし、四か国で共同統治するわけでもありません」
トルシー侯の秘書が、その言葉を書き留めました。
カタリナさんの侍女も、手元の紙を確認しています。
「武器についても同じですね」
「新しく武器を渡さない。すでに渡した武器を、こちらがいつまでも修理し、火薬や弾を送り続けることもしない。現地の争いへ武器を出して、代理で戦わせることもしません」
「植民地の住民を民兵にして、本国の代わりに戦わせることも?」
「しません。英国植民地は英国正規軍が守る。フランス植民地はフランス常備兵が守る。それぞれ、本来その仕事をする人たちが守ります」
フランソワさんが、机の端に置かれた文書を一枚めくりました。
どろちゃんは、地図を見ながら話を聞いています。
畑を作る人。
船を動かす人。
荷物を運ぶ人。
店をやる人。
家を建てる人。
その人たちは、その仕事を続ければいい。
カタリナさんが今度は太平洋側を指しました。
「将来こちら側に拠点が必要になったとしても、大西洋岸の植民地を山越えで伸ばすのではなく、英国とフランスで海側から別に考える」
「その方がよいでしょう」
「ボストンは、領土を広げるための前線基地ではなく、大西洋の商業拠点として育てる」
「はい」
六人の間で、その方針まで確認できました。
トルシー侯が地図を見ながら言いました。
「こちらの話は、明日の午後でもよいでしょう」
「午後は商売の話だよね」
「はい。その前に、朝は閲兵です」
「うん」
トルシー侯は少し間を置きました。
「射撃の実演は、明日なさいますか?」
どろちゃんが顔を上げました。
「する?」
「私は、あった方がよいと思っております」
フランスは、どろちゃんを軍人として扱っていません。
フランス王立科学アカデミーの研究者。
そして、フランスで患者を診ることのできる薬剤医師。
フランス側がどろちゃんへ与えたのは、そういう立場です。
取り込むためにフランス貴族へしたわけでもありません。
英国とは違います。
英国では、どろちゃんは本当に英国伯爵です。
領地も持っています。
アン女王から国家事業を命じられれば、伯爵として無償でその仕事をします。
エディンバラまでの航空測量もそうでした。
トルシー侯は続けました。
「我が国が伯爵閣下を軍人として扱うためではございません。ですが、明日お会いになる方々は軍人です」
「うん」
「伯爵閣下が、必要なら銃も扱える方だと分かっていた方が、その後のお話は早いでしょう」
どろちゃんは少し考えました。
「持ってきてるよ」
「そう伺っております」
いつもの個人的な狙撃銃です。
トルシー侯から、持ってきた方がよいと言われていたので、今回も荷物に入れてありました。
「五百メートルくらい?」
「場所を確認させましょう」
「じゃあ、できたら五百」
その話で、この夜は終わりました。
*
翌朝。
閲兵式が行われました。
英国の正規兵。
フランス側の常備兵。
士官。
下士官。
兵士。
隊列が整い、命令が通り、決められた動きが終わります。
閲兵式が一通り終わったところで、現地軍の上級者が前へ出ました。
「続いて、英国伯爵にして、エルレンフェルト国家元首令嬢、ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルト伯爵閣下による射撃の実演を行います」
兵士たちの間に、少し空気が動きました。
伯爵令嬢が射撃をする。
近くに置いた的を撃つのだろう。
そう思った人は多かったようです。
ところが、どろちゃんは的のすぐ近くでは止まりませんでした。
もっと離れます。
昨日は五百メートルでやるつもりでした。
けれど、実際に場所を確認すると、安全に使える直線距離が足りません。
四百メートルになりました。
古くから従軍している英国兵の中には、メートルで言われても距離の実感がすぐには出ない人もいます。
けれど、人が実際に離れていけば分かります。
遠い。
かなり遠い。
標的は五つです。
一つは木馬に固定した、太さ十センチメートルほどの木の棒の上。
その上に瓶があります。
そこから横へ一メートルずつ離し、地面へ四本の杭を打ちました。
その杭の上にも、それぞれ瓶があります。
全部で五本。
一メートルずつ離してあるのは、戦列の兵士の間隔を再現するためではありません。
一つの瓶を撃った破片で、隣の瓶まで倒れてしまわないようにするためです。
見ている側には、そんな細かな理由まではまだ分かりません。
ただ、木馬の上に一人。
その横に四人。
軍人なら、それが何に見えるかは分かりました。
どろちゃんは地面へ伏せました。
銃を構えます。
ここまで離れたところから瓶を撃つ。
当たるはずがない。
そう思っている人の方が多かったようです。
一発目。
木馬の上の瓶が割れました。
少し遅れて、音が届きます。
二発目。
横の瓶が割れます。
三発目。
また一つ。
四発目。
五発目。
五本ともなくなりました。
最初の一発だけなら、偶然と思えたかもしれません。
二発目でも、まだ何か理由を探せたかもしれません。
けれど、五発で五本です。
係の兵が標的のところへ行きました。
新しい瓶を五本持っていき、同じ場所へ置き直します。
木馬の棒の上に一つ。
その横の杭へ四つ。
どろちゃんも、もう一度五発を用意しました。
今度は地面へ伏せません。
立ったままです。
何人かが、さっきよりはっきり動きました。
四百メートル。
立射。
一発目。
瓶が割れました。
二発目。
三発目。
四発目。
五発目。
また、五本ともなくなりました。
今度は、偶然だと思う人はいませんでした。
士官も。
下士官も。
兵士も。
目の前にいる英国伯爵が、どういう人なのか。
少なくとも一つは、全員が理解しました。
*
そこで終わるはずでした。
一人の兵士が声を上げました。
自分もやる。
射撃には自信があるようです。
どろちゃんは、自分の銃を差し出しませんでした。
これは私物です。
見せるために持ってきた銃ではありますが、誰にでも貸すための銃ではありません。
どろちゃんは現地の司令官へお願いしました。
「この部隊で、一番精度の高い銃を持ってきてもらえますか」
やがて、一丁が運ばれてきました。
司令官側が選んだ銃です。
腕自慢の兵士が受け取ります。
まず、四百メートル。
発砲。
弾は標的より手前の地面へ入りました。
当たりません。
距離を縮めます。
二百メートル。
発砲。
木馬のあたりをかすめたようでした。
けれど、瓶はそのままです。
さらに縮めます。
百メートル。
発砲。
今度は木に当たりました。
瓶の下、およそ三十センチメートル。
瓶を支えている棒です。
衝撃で瓶が落ちました。
けれど、割れてはいません。
地面に転がっています。
さっきまで四百メートルから十発続けて瓶を割っていた場所です。
誰も、その差を説明してもらう必要はありませんでした。
*
オイゲンさんが、自分の部下を見ました。
「お前もやってこい」
部下さんは短く返事をしました。
持ってきた銃は、さっきのものとは形が違いました。
特に木製部分のデザインがまるで違います。
この時代の兵士が見慣れている銃と比べると、遠目には銃に見えないほどです。
部下さんは四百メートルへは行きませんでした。
二百メートル。
さっき瓶が落ちた木馬の方を見ます。
もう瓶はありません。
太さ十センチメートルほどの木の棒だけが残っています。
部下さんが狙ったのは、その棒でした。
一発。
木馬と棒をつないでいた部分が吹き飛びました。
木馬と棒が離れます。
残る標的は四本。
瓶を支えていた、地面へ刺さった杭のような木の棒です。
一発。
一本目が、中央で粉砕されました。
次。
二本目。
次。
三本目。
最後。
四本目。
四本とも、中央で砕けました。
五発。
今度は瓶ではありません。
木馬に固定されていた棒と、地面へ打ち込まれていた四本の木の棒。
それが、一本ずつ壊されていました。
士官も、下士官も、兵士も、その五本があった場所を見ていました。
*
そのあと、英国側とフランス側の指揮官が二人でこちらへ来ました。
二人とも、さっきまで標的があった場所を何度も見ています。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「その銃を使えば、誰でも今のような射撃ができるのですか」
どろちゃんは、自分の銃を見ました。
「これは無理だと思う」
「銃が特別だからですか」
「それもあるけど、わたしがずっと使ってるから。私の銃は私が作ったものだから、この世に一丁しかないよ」
二人が少し黙りました。
聞きたかったのは、そこだけではなかったようです。
フランス側の指揮官が、今度はオイゲンさんの部下が持っている銃を見ました。
「では、プリンツ・オイゲン殿下の部下が使った銃はどうでしょう」
「そっちは、使って練習すれば、できるようになるよ」
「誰でも?」
「練習はいるけど。あの人だけしか撃てない銃じゃないよ」
そこで二人の表情が変わりました。
「では、その銃を、われわれが購入することはできますか」
どろちゃんは少し首を振りました。
「たぶん、難しいと思います」
「あれはエルレンフェルトで作ってる銃だから。わたしが売るって決めるものでもないし」
「伯爵閣下でも、ですか」
「わたしは国家元首じゃないよ。お父様の娘だから」
飛行機も同じです。
完成した機体を、外国へそのまま売ってはいません。
四か国の王様たちにも、こうした軍用の完成品を売ったことはありません。
だからといって、技術を全部抱え込んでいるわけでもありません。
「ライデンでは、一緒に飛行機を研究してるよ。もう自分たちで作った飛行機も飛んでるし」
「ライデン大学ですか」
「わたしも教授だから。一緒にやってる」
鉄道も。
蒸気船も。
ほかの国や大学や技術者と一緒に研究して、一緒に作っているものはたくさんあります。
けれど、軍隊がそのまま使える完成した兵器を売る話とは別でした。
英国側の指揮官が、もう一度四百メートル先を見ました。
「では、もしわれわれのような軍が、エルレンフェルトへ攻め込めば」
「司令官から星になります」
「……星?」
「階級が高くて、分かりやすい人から」
二人とも意味が分かりました。
前へ進めと命じる人。
部隊を動かしている人。
そして、逃げ帰ってくる自分の兵士を後ろから銃で撃ち、前へ戻らせる督戦の将校。
そういう人が先にいなくなれば、残った兵士はそのまま進み続ける必要がありません。
「帰ってもいいでしょう」
どろちゃんは言いました。
「普通の兵隊さんを全部撃つ必要ないから」
二人は答えませんでした。
朝の五本の瓶が、また別の意味に見えているようでした。
「それに、飛行機から見えるよ」
「部隊が、ですか」
「うん。砦も。どこに人がいるかも。飛行機から撃つこともできるし、物を落とすこともできる」
昔からある砦の壁が、いきなり消えるわけではありません。
けれど、壁の向こうに隠れていれば安全だという考え方は、そのままでは使えません。
「伯爵閣下がおられなければ、飛行機は動かないのでは」
「そんなことないよ」
どろちゃんは、それ以上は言いませんでした。
誰が飛ばせるのか。
何人いるのか。
どの機体を誰が扱えるのか。
そこまで外国へ知らせる必要はありません。
ただ、どろちゃん一人だけが飛行機を動かせるわけではない。
それだけは、すでに外から見ても分かるところまで来ています。
二人の指揮官は、しばらく話しませんでした。
スペイン継承戦争が、なぜあの形で止まったのか。
エルレンフェルト条約が、なぜ各国に受け入れられたのか。
私掠船を止める話が、なぜ実際に進んだのか。
それまで政治や外交の話として聞いていたものの後ろに、別のものが見え始めたようでした。
どろちゃんは戦争をしたくありません。
せっかく作った町も。
港も。
船も。
鉄道も。
そこで働く人たちも。
壊せば、みんな貧しくなります。
けれど、壊したくないことと、何もできないことは同じではありません。
二人は、それをもう説明されなくても分かっていました。
*
射撃が終わると、お昼です。
昼食会があります。
朝から閲兵式を見て、銃を撃って、軍人さんと話していたので、どろちゃんも普通にお腹が空いています。
でも、少しだけ別のことも考えていました。
ボストンの町へ来たときに、もう見つけています。
コーヒー。
ドーナツ。
前の世界で見たアメリカの昼ご飯のような組み合わせです。
今日は昼食会があるので、そこで食べるつもりはありません。
ただ、場所だけは覚えてあります。
あとで行けるかもしれません。
昼食会では、もちろん普通に食事をしました。
カタリナさんもいます。
トルシー侯もいます。
両方の植民地政府の人たちもいます。
カタリナさんは紅茶です。
どろちゃんも、こちらの方が落ち着きます。
*
午後は商業関係者との打ち合わせです。
こちらは、トルシー侯が中心になりました。
どろちゃんの中では、やっぱりいつもの人です。
必要な数字を聞く。
誰が用地を持っているのか確認する。
工事をするなら、どこが責任を持つのか決める。
金額を出す。
話が止まりません。
「本国へ持ち帰って検討いたします」
そう言って何か月も置いておくために、大西洋を渡ってきたわけではありません。
必要なら、その場で決めます。
国の予算で出せないところがあれば、王室から出すこともできます。
ほかの貴族たちは、そこまで細かな実務を自分で続ける人ばかりではありません。
けれど、トルシー侯は違います。
書類と人と金をつなぎ、決められるところから決めていきます。
どろちゃんが自分で話したのは、主に飛行機に関係するところでした。
まず、滑走路。
「ここは、今のままだと雨のあとが大変だよ」
造成。
排水。
周辺道路。
燃料や荷物を運び込む経路。
飛行機が一度降りられれば終わりではありません。
繰り返して使える場所にする必要があります。
次は無線です。
大西洋の向こうとこちらで、時刻を合わせる仕組みはすでに動き始めています。
この先、北アメリカ側にも必要な設備を増やします。
そして、もう一つ。
どろちゃんは地図の内陸側を見ました。
「ナイアガラの近く、土地と水を使う権利を買いたい」
これは国の領土を増やす話ではありません。
どろちゃん個人の買い物です。
土地。
そして、水を使う権利。
必要な範囲を調べ、権利関係を整理します。
話はその場で進み、土地と水を使う権利は、どろちゃんが個人で買い取ることになりました。
支払うお金は、どろちゃんの個人資産から出します。
植民地政府にとっては、かなりまとまった金額になります。
その金があれば、政府は別の仕事ができます。
港。
道。
倉庫。
町の設備。
何に使うかまで、どろちゃんが全部決める必要はありません。
政府には政府の仕事があります。
どろちゃんは、自分が欲しい土地と権利に、きちんと代金を払います。
それだけです。
最後は、もっと遠い話になりました。
「次に来たら、アラスカを見に行きたい」
地図の北西です。
今回はボストンまで来ました。
次は、もっと先。
アリューシャン列島。
ベーリング海峡。
そして、海峡を越えて少し西側まで。
ただ船で通った。
探検家が見た。
地図へ線を書いた。
それだけではありません。
「漁港を作る」
どろちゃんは言いました。
実際に人が住む。
魚をとる。
船が入る。
荷物を置く。
修理をする。
交易をする。
冒険者が一度通ったことと、居住して経済活動を続けることは違います。
海に面したところを実際に使い、港として動かします。
ロシア側がアラスカへ本格的に進出するより先に、そこまで見ておきたいのです。
その先を西へたどれば、シベリアへ入ります。
さらに先にはバイカルがあります。
北アメリカを見に来た話が、そのままユーラシアの東側へつながっていました。
「今回は行きませんよ」
トルシー侯が念のため言いました。
「うん。今日は行かない」
「それなら結構です」
午後三時。
予定していた話は、全部終わりました。
*
「町、見てくる」
ここからは仕事ではありません。
出かけるのは五人です。
どろちゃん。
フランソワさん。
オイゲンさん。
オイゲンさんの部下。
いつもの給仕さん。
ハンナさんは今回こちらへ来ていません。
エルレンフェルトで、オイゲンさんの家の用事をしています。
五人でボストンの町へ出ました。
どろちゃんは、道を一つ曲がると、そのまま迷わず歩いていきます。
「お嬢様、場所をご存じなのですね」
「昨日見つけた」
目的の店には、ドーナツが並んでいました。
コーヒーもあります。
「これ」
どろちゃんは両方頼みました。
やってみたかった組み合わせです。
ドーナツを食べます。
「おいしい」
次にコーヒー。
一口。
もう一口。
「……やっぱり、紅茶の方が好き」
嫌いというほどではありません。
でも、わざわざこちらを選ぶほどでもありませんでした。
オイゲンさんは普通に飲んでいます。
「私は嫌いではありませんよ」
「オイゲンさん、好きそう」
「どういう意味ですか、それは」
「なんとなく」
店にはドーナツだけではありませんでした。
ハンバーグ。
ソーセージ。
昼食を食べたばかりなので、一人前ずつ食べるほどではありません。
「ソーセージ、半分こする?」
「はい」
フランソワさんと一つ頼みました。
二つに分けてもらって食べます。
悪くありません。
けれど、どろちゃんは少し考えました。
「エルレンフェルトか、ストラスブールの方がおいしいかも」
「私も、そのように思います」
ハンバーグも少し食べてみました。
こちらは、もっと分かりやすい味です。
「大味だね」
「そうでございますね」
まずいわけではありません。
でも、これを食べるためにもう一度来るかと言われると、たぶんドーナツの方を選びます。
どろちゃんは店を出ながら、別の組み合わせも思い出していました。
あんパン。
牛乳。
前の世界のアニメで、何度も見た組み合わせです。
いつか、あれもやってみたい。
今日はドーナツとコーヒーまでです。
*
町を少し歩いてから、五人はチェブラーシカちゃんへ戻りました。
まだ明るい時間です。
どろちゃんは、そのまま機体を見ます。
今日は大西洋を渡る飛行はしていません。
それでも、飛行機は置いておけば何もしなくてよいものではありません。
脚。
タイヤ。
吸入口。
翼。
機体の外側。
大きな整備ではありません。
軽い点検です。
「問題ないね」
フランソワさんも反対側を見て戻ってきました。
「こちらも異常ございません」
「じゃあ、ラジオも見よう」
操縦席へ上がります。
使うのは、チェブラーシカちゃんに最初から付いているAn-72純正の通信受信機です。
通信パネルには、時刻局の周波数が合わせてあります。
1.1MHz。
1.2MHz。
1.3MHz。
1.4MHz。
1.5MHz。
フローレスは1.5MHzです。
「入るかな」
どろちゃんは、その受信機の電源を入れました。
ザー。
雑音だけです。
しばらく聞きます。
何も来ません。
「まあ、まだ昼間だしね」
ボストンからフローレスまで。
この周波数で、昼間から簡単に届くとは思っていませんでした。
どろちゃんは少し待ってから、受信機の電源を切りました。
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小さな説明
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【アラスカとロシア】
この章の時点は1704年です。
ロシア人はすでにシベリアを東へ進んでいます。1648年にはセミョン・デジニョフがチュクチ半島を回り、現在のベーリング海峡を通過しました。
その一方、ロシア側から北アメリカへ本格的に進出するのはまだ先です。1728年にヴィトゥス・ベーリングが海峡を航行し、1732年にはイワン・フョードロフとミハイル・グヴォズデフの探検隊がアラスカ側を確認しました。1741年にはベーリングとアレクセイ・チリコフの探検隊がそれぞれ北アメリカ側へ到達します。
その後、毛皮を求めるロシア商人がアリューシャン列島から東へ進み、1784年にはグリゴリー・シェリホフがコディアック島のスリー・セインツ湾に恒久的なロシア拠点を作りました。1799年にはロシア皇帝パーヴェル一世の勅許で露米会社が成立します。
ロシア領アラスカがアメリカ合衆国へ売却されるのは1867年で、価格は720万ドルでした。
本作では、それよりはるかに早い1704年の段階で、次の北アメリカ訪問時にアラスカ方面を探検し、アリューシャン列島やベーリング海周辺へ漁港を作ることを考えています。単に探検家が一度通過したという記録ではなく、継続して人が住み、漁業や交易を行う実績を作る方針です。
【ナイアガラ】
本作でどろちゃんが購入するのは、国家の領土ではなく、ナイアガラ近郊の土地と水を利用する権利です。
代金は植民地政府へ支払われます。その資金を港、道路、倉庫、そのほかの公共事業へどう使うかは植民地政府が決めます。
【大西洋時刻局とチェブラーシカ】
フローレスの時刻局は1.5MHzを使っています。
1MHz台の中波は、昼間には電離層のD層で吸収されやすく、遠距離受信が難しくなります。夜間になると空間波が使えるようになり、遠距離まで届きやすくなります。
チェブラーシカでは時刻局専用の受信機を追加していません。もともとのAn-72純正の機上通信受信機を使っています。




