87貴族令嬢は、ボストン茶会事件を起こします
第87章 貴族令嬢は、ボストン茶会事件を起こします
北アメリカから、本国へ返事が届きました。
四か国で話し合った内容をもとに、イングランドとフランスの本国から送った命令書への返答です。
その少しあと、どろちゃんのところにも文書が届きました。
チェブラーシカちゃんでボストンまで人を運べるようになったので、アン女王陛下とルイ十四世陛下の側から、代表者をボストンまで送ってほしいという依頼です。
北アメリカから届いた返書は複写され、その依頼書に同封されていました。
どろちゃんは、机の上に広げられた何枚もの紙を順番に読みました。
「止まったみたい」
フランソワさんも、隣の文書を確認しています。
「はい。少なくとも、こちらへ届いている報告では、両国とも命令に従っております」
「戦争も?」
「大きな戦闘は停止しております。まだ遠い場所まで同じ速さで伝わっているとは限りませんが、総督府と正規軍は停戦を実施したとのことでございます」
「よかった」
命令書には国王の名前が並んでいます。
現地の人が相談して、なんとなく戦うのをやめたのではありません。
本国から正式に止めました。
返書には、ボストンへ効率のよい商館を作る計画も書かれていました。
人と荷物を集めて、必要なものを船へ渡し、届いたものを内陸へ回す。
北アメリカ側で何が必要なのかも、そこへ集めます。
「これなら行けるね」
「はい。本国側から、代表者をボストンへ送る旨もすでに伝えられております」
「その返事を待ったら、また船で往復だよね」
「はい」
「待たない」
どろちゃんは立ち上がりました。
*
今回、ボストンへ送る代表者も本国側で決まっています。
英国側では、最初にジョージ王配殿下の名前も出ました。
しかし、北アメリカで名前を知られている人として選ばれたのは、カタリナさんでした。
イングランド王妃だった人です。
いまはポルトガルの摂政です。
ルイ十四世陛下の側からは、トルシー侯が同行します。
どろちゃんの中では、いつもの人です。
でも今回は、フランス国王の側近として、大西洋の向こうまで来てもらいます。
チェブラーシカちゃんの客室も組み替えました。
VIP席、八席。
普通席、八席。
どろちゃんとフランソワさんは操縦席です。
オイゲンさんも来ます。
部下を一人連れています。
いつもの給仕さんも一緒です。
食事は、いつもどおりエルレンフェルトで積みました。
機内のギャレーで仕上げられるように、ホテル・レストランの調理長さんが準備したものです。
ほかにも荷物があります。
ボストンで使う機材。
両総督への贈り物。
それから、晩餐会へ持っていくもの。
今回も、チェブラーシカちゃんの後ろはいっぱいです。
*
最初はロンドン。
アン女王陛下のところで、北アメリカから届いた返書と、今回持っていく文書を確認しました。
ここでは、英国側の警備担当も加わります。
荷物も増えました。
スコットランドから、新しくつながった鉄道でロンドンまで運ばれてきたウイスキーです。
「これもボストン?」
「はい」
「鉄道で来て、今度は飛行機だね」
どろちゃんは瓶の入った箱を見ました。
少し前までなら、スコットランドからロンドンまで運ぶだけでも時間がかかったものです。
今は列車で来ました。
その先は、空を飛びます。
*
次はパリ。
トルシー侯が乗りました。
フランス側の警備担当も一緒です。
そして、また荷物が増えます。
ワイン。
焼き菓子。
ケーキ。
ほかにも、フランスのお菓子がいくつか。
機内食ではありません。
ボストンの晩餐会へ持っていくものです。
「これ、崩れない?」
どろちゃんがケーキの箱を見ました。
「そのために箱を作らせました」
トルシー侯が答えました。
「さすが」
「酒だけ運ぶよりは、よろしいでしょう」
「うん。お菓子大事」
「そこを最初に肯定なさるのですな」
トルシー侯は、いつものように少しだけ笑いました。
*
リスボンへ着いたのは、その日のうちでした。
この日は、ここまでです。
カタリナさんと一緒に宮殿へ入り、翌日からの予定を詰めます。
北アメリカから届いた返答。
停戦の実施状況。
両国総督への文書。
商館。
これから現地で確認すること。
カタリナさんは、一枚ずつ目を通しました。
「向こうでは、すでに英国側とフランス側が同じ場所で話を始めているのですね」
「返事を見る限りは」
どろちゃんが答えました。
トルシー侯が付け加えます。
「総督府同士の連絡も始まっております。ただ、実際に現地を見なければ分からないことも多いでしょう」
「だから行くのですね」
「はい」
カタリナさんは、最後の文書を机へ戻しました。
「では、明朝に」
この日は宮殿で休みます。
*
翌朝。
チェブラーシカちゃんは燃料満タンでリスボンを出ました。
最初はラジェスです。
前回、どろちゃんたちが夜までかけて時計を合わせ、時刻電波を出し始めた場所です。
今度は長く滞在しません。
必要な確認を済ませ、燃料を満タンに戻します。
それから、さらに西へ。
昼を過ぎて、フローレス島が見えてきました。
海岸側の滑走路へ着陸します。
ここでも給油。
前回は、このあと島の高いところにある第二滑走路へ上がりました。
今日は違います。
満タンになったチェブラーシカちゃんが向く先は、もっと西です。
ボストン。
*
フローレスを離れると、また海だけになりました。
給仕さんが食事を仕上げます。
カタリナさんも、トルシー侯も、普通に食べています。
ワインもウイスキーも積んでありますが、それは今夜のものです。
まだ仕事があります。
飛行は続きました。
ラジェス。
フローレス。
その先。
いまは、海の向こうへ飛行機で道をつなぐ番です。
*
やがて陸地が見えました。
北アメリカです。
ボストン側には、着陸に使う場所を前もって指定してあります。
でも、どろちゃんはそのまま降りません。
「一回、見ます」
フランソワさんがうなずきました。
「はい」
チェブラーシカちゃんは高度を落としました。
指定していた空き地の上を、低空で一度通過します。
地面。
障害物。
人。
馬車。
使える範囲。
そして風。
どろちゃんは、ひとつずつ見ます。
通過。
そのまま少し高度を取ります。
「使える」
「こちらも確認いたしました」
風向きを見ます。
旋回。
今度は、風上へ機首を向けました。
進入します。
速度。
脚。
フラップ。
着陸場所。
確認。
チェブラーシカちゃんが降りていきます。
接地。
主脚が地面を捉えました。
前脚。
減速。
十分に速度を落としてから、そのまま地上を走ります。
「あった」
どろちゃんが前を見ました。
指定していた空き地の一角に、大きな神様燃料タンクがあります。
三十キロリットル。
ちゃんと届いていました。
チェブラーシカちゃんは、そのまま給油できる位置まで進みます。
停止。
そこでエンジンを止めました。
*
扉を開けても、すぐにカタリナさんたちは降りません。
先に警備です。
英国側の警備担当。
ポルトガル側の警備担当。
フランス側の警備担当。
そしてオイゲンさん。
オイゲンさんの部下も、その後ろにつきます。
機体を降り、周囲へ目を配ります。
外周。
燃料タンクの側。
建物の方向。
人の集まっている場所。
危険がないことを確認していきました。
オイゲンさんは、普段から使っているハイパワー版の自動小銃を携帯しています。
部下も同じです。
警備の人たちが戻ってきました。
「問題ありません」
オイゲンさんが言いました。
「ありがとう」
どろちゃんは客室側へ合図しました。
*
外には、二つの軍隊が並んでいました。
英国正規軍。
その隣には、フランス側の植民地常備兵。
少し前までなら、同じ場所に並べば互いを警戒していた人たちです。
今日は、同じ方向を向いています。
カタリナさんが機体を降りました。
その瞬間。
二つの列が、同時に敬礼しました。
ほとんど音まで一つに聞こえます。
次にトルシー侯。
そして、どろちゃんたち。
列の前には二人の総督がいました。
英国側。
ジョセフ・ダドリー総督。
フランス側。
フィリップ・ド・リゴー・ド・ヴォードルイユ侯爵、ニュー・フランス総督。
二人とも、ここまで来ています。
カタリナさんが最初に挨拶を受けました。
次がトルシー侯です。
どろちゃんとフランソワさんは、そのあとに続きます。
オイゲンさんは護衛の仕事を終えていません。
前へ出て指図することもなく、周囲を見ながら必要な位置にいます。
*
挨拶が終わるころには、チェブラーシカちゃんの後ろで荷物を降ろす作業も始まりました。
予定していた機材。
箱。
書類。
そして、両総督へ渡す贈り物。
エルレンフェルトから持ってきた時計もあります。
二つ。
同じ仕様です。
六ヘルツ・ビートの機械式時計。
これは、あとで正式に渡します。
フランスから積んできたワインやお菓子。
ロンドンで積んだスコットランドのウイスキー。
それらも迎賓館へ運ばれました。
*
滑走路用地の近くには、迎賓館が作られていました。
今回の訪問が分かっていたので、現地側が用意した建物です。
長い移動をしなくても、そのまま会談と宿泊ができます。
中へ入って、どろちゃんが最初に見たのは案内でした。
読めます。
ヨーロッパ語です。
別の部屋にも書類があります。
それもヨーロッパ語。
北アメリカでも使われています。
どろちゃんは、そのまま壁の装飾へ目を移しました。
少し違います。
この土地の人たちが作ったものです。
模様。
飾り。
その中に、文字もありました。
どろちゃんには読めます。
でも、ヨーロッパ語ではありません。
文字も違います。
書かれている言葉も、ヨーロッパのものではありませんでした。
同じ建物の中に、二つの世界があります。
どろちゃんは、その飾りをしばらく見てから、食堂へ向かいました。
*
晩餐会。
ここで、あらためて正式な紹介が行われました。
いちばん上は、カタリナ摂政陛下。
かつてのイングランド王妃で、現在はポルトガル摂政です。
次に、トルシー侯。
ルイ十四世陛下の側近として、今回のフランス側を代表します。
それから、二人の総督。
ジョセフ・ダドリー総督。
フィリップ・ド・リゴー・ド・ヴォードルイユ侯爵。
双方の高級士官や行政担当者も紹介されます。
飛行機で来た側も続きました。
どろちゃん。
フランソワ・フォン・ゲーテ男爵。
プリンツ・オイゲン。
オイゲンさんの名前が出たところで、軍人たちの視線が少し集まりました。
同じサヴォイ家の王が、いまはイタリア全土の国王になっています。
だからといって、オイゲンさんがこの席で現地の人へ命令するわけではありません。
今回の仕事は、どろちゃんたちの護衛です。
紹介を受けると、いつもどおり静かに礼をしました。
いつもの給仕さんは紹介されません。
オイゲンさんの部下も同じです。
仕事をする人まで、全員を晩餐会の来賓として読み上げるわけではありません。
*
席につく前に、もう一つ大切なものが渡されました。
カタリナさんが、ジョセフ・ダドリー総督を呼びます。
「アン女王陛下から、お預かりしてきました」
封印のある書類です。
ダドリー総督が両手で受け取りました。
今回、北アメリカで国王の命令を実施し、停戦を成立させるために働いたことへの評価。
伯爵位の授与書です。
「正式な式典は帰国後になります。ただし、この文書は本日から有効です」
ダドリー総督は、一度書類へ目を落としてから深く礼をしました。
今度はトルシー侯です。
「ヴォードルイユ侯爵」
「はい」
「ルイ十四世陛下より、お預かりしております」
こちらも封印があります。
ヴォードルイユ侯爵には、現在の侯爵位とは別に、新たな伯爵位が与えられます。
これも、正式な式典は帰国後。
でも、効力は今日からです。
ヴォードルイユ侯爵も書類を受け取りました。
少し前まで戦っていた二つの植民地の総督が、同じ日の同じ場所で、それぞれの国王から評価されました。
*
「こちらは、エルレンフェルトからです」
今度はどろちゃんの番です。
時計の箱を二つ持ってきてもらいました。
蓋を開けます。
中には同じ時計。
「お二人に一つずつ」
ダドリー総督が時計を見ました。
「ずいぶん細かく動きますね」
「六ヘルツ・ビートです」
ヴォードルイユ侯爵も、自分の時計を見ています。
同じものです。
英国側だけでも、フランス側だけでもありません。
二人とも同じです。
「今回、お仕事ありがとうございました」
どろちゃんが言いました。
それだけです。
*
晩餐会が始まりました。
現地で用意された料理のあとに、チェブラーシカちゃんから運ばれてきたものも並びます。
フランスのワイン。
ケーキ。
焼き菓子。
お菓子。
それから、スコットランドのウイスキー。
「これが昨日までヨーロッパにあったものですか」
現地の人が箱を見ています。
「スコットランドのは、鉄道でロンドンまで来ました」
どろちゃんが答えました。
「そのあと飛行機です」
海を渡る船の倉庫で何週間も揺られてきた品ではありません。
鉄道。
飛行機。
それで、ここまで来ました。
英国側とフランス側の士官が、同じ食卓で同じケーキを食べています。
ワインの瓶も開きます。
ウイスキーもあります。
でも、どろちゃんは少し気になりました。
このあと、まだ仕事があります。
「ちょっと待って」
どろちゃんが言いました。
みんながそちらを見ます。
「説明するものがあります」
*
今日のどろちゃんは、ちゃんとしたドレスを着ています。
英国で持っている伯爵位に合わせても、おかしくない服です。
その格好のまま、どろちゃんは部屋の隅へ行きました。
そして戻ってきます。
腕の中には、大きな紙の束。
かなりあります。
フランソワさんが見ました。
「お嬢様、ご自分でお持ちになるのですか」
「もう持ってきた」
「そうでございますね」
どろちゃんは束を机へ置きました。
どん。
参加者の人数分あります。
エルレンフェルトのカラーコピー機で作ってきたものです。
同じ内容を大きくした紙もあります。
そちらは、前へ掲げました。
「お酒を飲んじゃうと、途中で分からなくなる人が出ると困るから」
どろちゃんが言いました。
「先に、これ」
給仕さんたちが運んできたのは、ジャム入り紅茶です。
ワインではありません。
ウイスキーでもありません。
赤いジャムが、紅茶の中へ少しずつ溶けていきます。
紙も配られました。
*
最初のページには、年が書いてあります。
1700。
そこから始まります。
次。
次。
1701。
1702。
1703。
1704。
どろちゃんは、大きくした紙を指しました。
「これ、今日までに起きたことです」
未来の話ではありません。
全部、もう起きたことです。
北アメリカまで、ひとつずつ知らせが届いていなかっただけです。
最初に、エルレンフェルトで増えていった工場の話。
鉄を作ること。
質をそろえること。
大量に同じものを作れるようにすること。
製鉄と製鋼が進み、レールを大量に作れるようになったこと。
紙をめくります。
電信。
港。
道路。
鉄道。
どろちゃんは、出来事を順番に追いました。
1703年。
エルレンフェルト条約。
フランス。
イングランド。
サヴォイア。
ネーデルラント。
ヨーロッパで続いていた戦争を止め、スペイン王冠とフランス王冠を一つにしないことを決め、戦争のために使っていた力を別のところへ回し始めました。
ここまでは、総督たちにはかなり情報が届いています。
でも、席にいる全員が同じだけ知っているわけではありません。
次の紙。
神聖ローマ帝国。
どろちゃんの指が地図を移動します。
帝国の信用と統治が崩れ、元の形へ戻すことができなくなったこと。
その後、旧帝国の地域で新しい行政が作られ、ドイツ連邦共和国が成立したこと。
部屋が静かです。
誰も途中で大声を出しません。
質問を挟む人も、ほとんどいません。
紙をめくる音だけがします。
次はイタリア。
サヴォイア。
戦争。
降伏。
統一。
そして、イタリア王国。
首都はトリノ。
そこまで来たところで、何人かがオイゲンさんの方を見ました。
オイゲンさんは何も言いません。
ジャム入り紅茶を飲んでいます。
次。
鉄道。
フランス。
ネーデルラント。
イングランド。
長距離の線路がつながり、人と荷物が、それまでとは比べものにならない速さで動き始めています。
スコットランドからロンドンへ来た、さっきのウイスキーも、その一つです。
今度は、みんなが机の上の瓶を見ました。
次。
海。
私掠の停止。
船を奪って利益を得る仕組みを、各国が止め始めたこと。
そして、大西洋。
リスボン。
ラジェス。
フローレス。
時計。
時刻電波。
船が自分の経度を確かめやすくする仕組み。
最後に、北アメリカ。
英国とフランス。
停戦。
同じ場所で話す総督府。
同じ着陸場所に並んだ二つの軍隊。
今日、みんなが自分の目で見たものです。
「だから」
どろちゃんは、最後の大きな紙を指しました。
「英国とフランスだけが、急にここで仲良くなったわけじゃないです」
誰も笑いません。
「ヨーロッパの方が、四年でこれだけ変わりました」
部屋は静かなままです。
*
総督なら知っていたこともあります。
国王から直接届く文書。
軍の命令。
外交上の連絡。
でも、高級士官や行政担当者、商業に関わる人たちまで、全部を同じように知っていたわけではありません。
まして、製鉄所で何が始まり、鉄道がどこまで伸び、旧帝国がどうなり、サヴォイアがどこまで変わったのか。
それを一つの時系列で見た人は、ほとんどいませんでした。
四年前の地図と、今日の地図。
四年前の船旅と、今日の飛行機。
四年前の戦争と、今日の二つの軍隊。
その差が、紙の上に並んでいます。
どろちゃんは、最後の紙を置きました。
「ここまで」
しばらく誰も話しませんでした。
カタリナさんが、手元の紙をもう一度最初からめくっています。
トルシー侯も、何も急がせません。
ダドリー総督とヴォードルイユ侯爵は、最後の地図を見たままです。
ようやく、どこかでカップが受け皿へ置かれる音がしました。
ジャム入り紅茶の会になりました。
*
この夜のことは、あとになって名前が付きました。
大西洋を越えてきた伯爵が、大量のカラーコピーを配り、参加者へジャム入り紅茶を飲ませながら、1700年から1704年までにヨーロッパで起きたことを順番に説明した事件。
最初は、
ボストン・ジャム入り紅茶会事件。
そう呼ばれました。
でも、少し長かったようです。
そのうち、短くなりました。
ボストン茶会事件。
この世界でその名前が指すのは、港へ茶を捨てた日ではありません。
アメリカ大陸に暮らす多くの人たちが、ヨーロッパがどれほど変わったのかを、初めてまとまった形で実感した日でした。




