86貴族令嬢は、大西洋に時計を置きます。 大西洋上で正確な経度がわかるようにします。
第86章 貴族令嬢は、大西洋に時計を置きます
ロンドンから戻って、何日かたちました。
鉄道の開通日にエジンバラとロンドンを往復し、その日のうちにチェブラーシカちゃんでロンドンへ戻ったあと、どろちゃんたちはエルレンフェルトへ帰っています。
その後も、どろちゃんは何度かライデンへ行きました。
大学の机には、少し大きな置き時計が並んでいます。
振り子はありません。
テンプ。
ひげぜんまい。
ガンギ車。
脱進機。
ぜんまい。
小さな手巻き時計の中身を、見やすく、直しやすく、大きくしたような時計です。
「これなら船で使えるね」
どろちゃんが一台を見ながら言いました。
「揺れる場所では、振り子よりこちらの方が扱いやすいです」
研究者が裏蓋を開けています。
「問題は?」
「巻き忘れです」
「そこは人間だ」
「はい」
時計そのものが正確でも、ぜんまいを巻かなければ止まります。
船では、ぜんまいを巻き忘れないことも大切です。
その隣には、小さな受信機がありました。
船で音楽を聞くためのものではありません。
決められた時刻に、中波帯の搬送波が出たか。
それを確認するための受信機です。
声が聞き取れなくても構いません。
雑音の中に搬送波が現れた。
消えた。
それが分かれば、船の時計を照合できます。
「いま使えるのは、ライデンとリスボン」
「はい」
「今度、二つ増える」
「ラジェスとフローレスですね」
「うん」
机には、アゾレス諸島の航空地図も広げてあります。
東側はテルセイラ島のラジェス。
西側はフローレス島。
どちらも、どろちゃんが航空地図を見て滑走路の位置を決めた場所です。
滑走路の完成確認は、ポルトガル側の役人が済ませています。
完成報告が届いたら、カタリナさん自身が現地へ行く。
それも、最初から決めてありました。
*
その間に、チェブラーシカちゃんの客室も変わりました。
前方のVIP席は四席。
後ろには、普通の座席が十席。
人を運ぶ仕事が増えています。
ギャレーも使います。
ただし、機内で何でも料理できるわけではありません。
いまのところ、チェブラーシカちゃんのギャレーだけで無理なく仕上げられる料理を考えて作れるのは、エルレンフェルトのホテル・レストランの調理長さんだけです。
出発前。
調理長さんと、いつもの給仕さんが、冷蔵庫へ料理を入れていました。
「まだ入る?」
「少しでしたら」
「じゃあ、入れて」
「お嬢様。かなり入っております」
「今回は人数も増えるし、島にも泊まるから」
調理長さんが、給仕さんへ順番を説明します。
「こちらを先に。こちらは温めてから、最後にソースを合わせてください」
「承知いたしました」
エルレンフェルトで下ごしらえと調理を済ませる。
冷蔵して積む。
飛行中や滞在先では、給仕さんが温め、仕上げ、盛り付ける。
そのための料理です。
リスボンで機内食を買い足す予定はありません。
「いっぱい」
どろちゃんが冷蔵庫を見ました。
「いっぱいでございます」
給仕さんが扉を閉めました。
*
出発の日。
オイゲンさんは、部下を一人連れてきました。
二人とも、普段から使っているハイパワー版の自動小銃を一丁ずつ携帯しています。
「重そう」
どろちゃんが見ました。
「まあ、軽くはありませんね」
オイゲンさんが答えました。
「二丁あると余計に重そうに見える」
「一人一丁ですから、私が二丁持つわけではありませんよ」
「それはそう」
護衛用の銃です。
必要なときに使えなければ意味がありません。
オイゲンさんと部下、それからいつもの給仕さんは、後ろの普通席へ座ります。
どろちゃんは左操縦席。
フランソワさんは右席。
燃料は満タンです。
エンジンを始動します。
ギュワーン。
『どこ行くの?』
「まずリスボン」
『そのあと?』
「海の中の島」
『ふたつ?』
「ふたつ」
『いっぱい飛ぶ?』
「今日は飛ぶよ」
『わーい』
チェブラーシカちゃんは三千メートル滑走路へ入り、十分に速度を作ってから離陸しました。
*
リスボンまでの飛行は、もう珍しいものではありません。
給仕さんは、調理長さんから聞いた順番どおりに食事を仕上げます。
温かい料理。
パン。
果物。
紅茶。
オイゲンさんの部下の前にも、同じ料理が並びました。
「警備の人も同じだよ」
どろちゃんが操縦席から言いました。
「聞こえておりますよ」
オイゲンさんが答えました。
「王様だけご飯がおいしい飛行機じゃないから」
「それは以前にも聞きました」
「言ったっけ」
「言っております」
フランソワさんが横で笑いました。
*
リスボン。
今回は歓迎式典がありません。
パパはいません。
チェブラーシカちゃんは、以前にも使ったリスボン郊外の滑走路へ降りました。
接地。
減速。
誘導路へ入ります。
地上の係員が合図しています。
その誘導に従って進み、指定された場所で停止しました。
そこでエンジンを止めます。
まず燃料。
リスボンでも満タンに戻します。
その間に、カタリナさんと付き人、ポルトガル側の警備担当、ラジェスとフローレスへ向かう交代要員がやってきました。
それぞれの荷物と、今回運ぶことになっている機材も積み込みます。
何をどこへ積むかは、出発前から決まっています。
食事だけは増えません。
エルレンフェルトから、すでに冷蔵庫いっぱいに積んできています。
給油が終わりました。
「満タン」
どろちゃんが表示を見ます。
「確認いたしました」
フランソワさんも見ました。
カタリナさんがVIP席へ座ります。
付き人もその隣です。
ポルトガル側の人たちは、後ろの普通席へ分かれて座りました。
「ここから先は、私も初めてです」
カタリナさんが窓の外を見ました。
「わたしも、降りるのは初めてです」
「場所はあなたが決めたのでしょう」
「航空地図を見て決めました」
「では今日は、自分で決めた場所へ自分で降りるのですね」
「そうなります」
カタリナさんが少し笑いました。
*
エンジン始動。
チェブラーシカちゃんはリスボンを離れ、西へ向かいました。
陸地が後ろへ消えます。
海。
前も、左右も海です。
フランソワさんが航法表示を確認しています。
「ラジェスまで正常でございます」
「了解」
後ろでは、カタリナさんが地図を見ていました。
「次はラジェス、その次がフローレスなのですね」
「はい」
「一つでは足りなかったのですか」
「大西洋を渡るなら、東と西にあった方が便利です」
どろちゃんは前を見たまま答えます。
「リスボンから来るなら先にラジェス。もっと西へ行くならフローレス。北米側から来るときは逆です」
「島どうしの移動にも使うのですね」
「この飛行機が来たときに、役人さんや書類を一緒に運ぶくらいです」
「それで十分でしょう」
カタリナさんは地図へ目を戻しました。
*
やがて雲の切れ間に島影が見えました。
テルセイラ島。
フランソワさんが地図と照合します。
「島影、確認」
「ラジェスへ回ります」
「はい」
完成報告は、すでに届いています。
どろちゃんは報告を信用しています。
決められた位置へ向かうと、滑走路が見えてきました。
「進入します」
「承知しました」
脚。
フラップ。
速度。
滑走路。
確認。
チェブラーシカちゃんが降りていきます。
接地。
減速。
誘導路へ入りました。
初めて来た場所です。
地上の係員が待っています。
合図に従って進み、指定された場所で停止。
そこでエンジンを止めました。
*
ポルトガル側の役人が待っていました。
大きな歓迎式ではありません。
カタリナさんが来ることは、滑走路を作り始めたころから分かっています。
そのための宿泊場所も、すでに用意されています。
挨拶のあと、完成報告を出した担当者から、滑走路と施設について説明を受けました。
カタリナさんも昼のうちは一緒に見て回ります。
滑走路。
燃料設備。
送信設備。
宿泊施設。
神様燃料タンクも見に行きました。
設置場所と、チェブラーシカちゃんへ給油するときの動線を見ます。
「ここなら使いやすいね」
どろちゃんが言いました。
「はい」
フランソワさんも周囲を見ています。
翌朝には、実際にここから給油する予定です。
*
送信機と時計は、滑走路脇に作られた施設の中です。
ここには運用室だけでなく、夜間作業をする人が休める部屋もあります。
アンテナは、その建物から少し離してあります。
遠くへ置いたわけではありません。
支線やステーが、滑走路や地上作業の邪魔にならないだけの距離を取っています。
どろちゃんは、送信機、時計、給電部、アンテナまわりを順番に見ました。
時計は、ライデンで見たものと同じ形式です。
テンプが動いています。
カチ。
カチ。
カチ。
「時刻は、島全体で一時間引くとか、そういう合わせ方じゃないからね」
どろちゃんが言いました。
「アンテナ位置の経度に合わせる、と聞いております」
「うん。ここは、それが基準」
この局で必要なのは、アンテナ位置に対応した正確な時刻です。
位置を正確に測る。
夜に星を観測する。
時計を合わせる。
その時計で、決められた時刻に搬送波を出す。
船は、自分の時計と比べます。
*
夕方。
カタリナさんと付き人は、用意されていた宿泊場所へ移りました。
夜まで外に残る必要はありません。
給仕さんも一度そちらへ行き、エルレンフェルトから持ってきた料理を仕上げます。
カタリナさんの夕食を整えたあと、夜間作業組の分も用意しました。
暗くなってから仕事をするのは、どろちゃんたちです。
どろちゃん。
フランソワさん。
ポルトガル側の技術担当者。
オイゲンさんと部下、それからポルトガル側の警備員は、必要な範囲を警戒します。
夜になりました。
雲の切れ間を待ちます。
星が見えました。
観測機材を据えます。
星表。
角度。
時計。
記録。
何度か繰り返しました。
時計の進み遅れを確認します。
調整。
もう一度。
「これでいい」
どろちゃんが言いました。
局の時計が、ラジェスのアンテナ位置に対応した時刻を刻み始めます。
カチ。
カチ。
カチ。
送信時刻が近づきました。
「準備できています」
担当者が送信機を見ています。
「お願いします」
搬送波が出ました。
受信機の雑音が変わります。
声はありません。
でも、それで十分です。
「出ています」
フランソワさんが時計を見ます。
「時刻も合っております」
担当者が計器を確認しました。
決められた時間だけ送ります。
停止。
もう一度。
決められたパターンで送信。
停止。
ラジェス局の運用が始まりました。
*
作業が終わったのは、夜半でした。
暗い中を、離れた宿泊場所まで移動する必要はありません。
どろちゃんたちは、そのまま滑走路脇の施設で休みます。
オイゲンさんたちとポルトガル側の警備員も、こちら側に残りました。
「明日は朝ご飯を食べてからだね」
「はい。フローレスへ向かいます」
フランソワさんが答えました。
*
朝。
給仕さんが朝食を整えました。
パン。
卵料理。
温かいスープ。
果物。
紅茶。
夜間作業をした人たちも、急いで食べる必要はありません。
カタリナさんと付き人も、宿泊場所で朝食を済ませています。
そのあと、チェブラーシカちゃんの点検です。
機体。
脚。
タイヤ。
吸入口。
操舵。
計器。
異常なし。
ラジェスの神様燃料タンクから給油します。
満タン。
荷物と人員を確認しました。
エンジン始動。
チェブラーシカちゃんは、ラジェスを離れます。
*
次はフローレス。
大西洋をさらに西へ飛びます。
しばらくして、島が見えてきました。
最初に向かうのは、海岸側の第一滑走路です。
海のすぐ近くにある滑走路へ進入します。
接地。
減速。
誘導路へ入ります。
地上の係員が合図しています。
チェブラーシカちゃんは、その合図に従って短く地上を進みました。
エンジンは止めません。
ここから、すぐにもう一度飛ぶからです。
島の高いところ、二つの火口湖の間には、第二滑走路が作られています。
海岸側からそこまでは、標高差が五百メートル以上あります。
地上にも道は作ってあります。
その道では、小型クローラーダンプのСамосвал(サモスヴァル/ダンプ)を使ってかまわないことになっています。
人だけなら登れます。
けれど、工具、測定器、線材、碍子、金具、補修材、食料などを毎回人力で上げるのは大変です。
馬に荷を引かせても、急な高低差を何度も往復するのは楽ではありません。
Самосвал(サモスヴァル/ダンプ)なら、重い物をまとめて高地へ運べます。
係員が地上側の確認を終えました。
「このまま上へ行きます」
どろちゃんが言いました。
「ええ。楽しみにしています」
カタリナさんも、そのままVIP席に座っています。
*
チェブラーシカちゃんは、第一滑走路から再離陸しました。
今度は、島の内側へ向かって高度を上げます。
海岸が下へ離れていきました。
緑の斜面が近づきます。
さらに上。
海から見ていた島とは、景色が変わっていきます。
雲の切れ間の向こうに、高地が広がりました。
「あれは……」
カタリナさんが窓へ顔を向けています。
二つの火口湖が見えました。
水をたたえた火口が、緑の高地の中に並んでいます。
その間に、細長い第二滑走路があります。
「きれい……」
しばらく、それだけでした。
どろちゃんは前を見たまま少し笑いました。
「地図で見るのと違うでしょう」
「ええ」
カタリナさんは、まだ窓の外を見ています。
「こんな場所だったのですね」
「わたしも、上からちゃんと見るのは初めてです」
海岸側から一気に高地へ上がったので、島の形がよく分かります。
火口湖。
斜面。
海。
その全部が一度に見えました。
カタリナさんは、第二滑走路へ向けて旋回している間も窓から離れません。
「ここを選んだのですね」
「はい」
「よく見つけましたね」
「航空地図が便利だったので」
「それでも、実際に見ると驚きます」
フランソワさんが滑走路を確認しました。
「第二滑走路、確認いたしました」
「進入します」
高度を落とします。
接地。
減速。
誘導路へ入り、地上の係員の合図に従って進みました。
指定された場所で停止。
今度はここで降ります。
エンジンを止めました。
*
高地側の施設は、海岸側とは役割が違います。
ここにあるのは、高出力の時刻送信所です。
大きな電力が必要になります。
その電力には、火口湖の水と高低差を利用します。
水を落として発電し、高出力送信機を動かします。
カタリナさんも、付き人と一緒に施設を見て回りました。
さきほど空から見た湖の水が、今度は設備を動かす力になります。
「景色だけではないのですね」
「はい。水も使わせてもらいます」
どろちゃんが答えました。
送信所の外へ出ます。
アンテナは、ラジェスとはずいぶん違って見えます。
垂直に高く伸ばしたアンテナではありません。
二つの火口湖が作る広い地形を利用して、長い水平ダイポールを張っています。
打ち上げ角を大きく取るための配置です。
そして、線材そのものをリスボンやボストンへ向けているわけではありません。
ダイポールの主な放射方向の広がりに、東のリスボンと西のボストンが入るように向きを決めています。
大西洋を東西に結ぶ時刻送信用のアンテナです。
カタリナさんが遠くまで続く線材を見ました。
「これも、ここへ来なければ大きさが分かりませんね」
「火口湖の幅を使えるから作れました」
「船からも届くのですね」
「そのために出力も大きくします」
どろちゃんは、送信所の方を振り返りました。
ライデン。
リスボン。
ラジェス。
そして、ここ。
大西洋の西側へ、時刻の基準がもう一つ伸びます。
*
アンテナの点検路にも、Самосвал(サモスヴァル/ダンプ)を使えます。
支持部まで歩くだけなら、それほど困りません。
困るのは、何かを持っていくときです。
予備の線材。
碍子。
金具。
工具。
測定器。
補修材。
係員がそれらを抱えて火口湖のまわりを歩き続ける必要はありません。
「点検のときは、あれを使っております」
係員がСамосвал(サモスヴァル/ダンプ)を指しました。
「麓から荷物を上げるときも?」
「はい。道路を通れるところは使っております」
「それがいいね」
どろちゃんが答えます。
チェブラーシカちゃんで人を先に運べても、日常の補修物資まで毎回飛行機で運ぶ必要はありません。
高地局を使い続けるための地上輸送も、ちゃんと用意されています。
*
カタリナさんは、もう一度火口湖の方を見ました。
海岸から見上げていたときには、ここにこんな景色があるとは分かりません。
その高地に滑走路があり、水力発電があり、大西洋へ時刻を送るアンテナがあります。
「来てよかったです」
カタリナさんが静かに言いました。
「うん」
どろちゃんも湖を見ました。
このあとは、ここでもアンテナ位置を確かめます。
夜になれば星を見ます。
時計を合わせ、高出力送信機から時刻を出します。
けれど、いまはまだ昼です。
カタリナさんは、しばらく二つの火口湖を眺めていました。
【史実についての小さな補足】
アゾレス諸島は、近世には海賊・私掠船の襲撃を実際に受けています。サン・ジョルジェ島のヴェラスは、1708年にルネ・デュゲ=トルアン率いるフランス艦隊の攻撃を受けました。また、それ以前にもアゾレスではイングランドやフランスの私掠船、北アフリカ系の海賊による襲撃が記録されています。
この物語では、すでに五か国の私掠停止と神様による海上保護が成立しているため、史実の1708年と同じ襲撃へ進む流れは消えています。オイゲンさんたちの護衛は同行していますが、この章では戦闘ではなく、完成した島の施設と航海支援網を動かし始めることを中心にしています。




