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84貴族令嬢は、六枚の紙を見つけます。  大きな分岐点です


第八十四章 貴族令嬢は、六枚の紙を見つけます



     ◇ ◇ ◇



 会議棟を出たところで、どろちゃんは立ち止まった。


 夕食にはまだ少し早い。昼からずっと北米の地図と書類を見ていたので、会議棟の外へ出たところで、どろちゃんはようやく空腹を思い出した。


「フランソワさん、水玉船売店に寄っていきませんか。ピロシキが残っていたら、部屋で食べたいです」


「それがよろしいと思います。会議の途中でお茶は召し上がりましたけれど、今日はお昼もあまりお食べになっておりませんでしたから」


「話しながらだと、食べた気がしないんですよね。紅茶も買っていきましょう。ジャムを入れたのがいいな」


 売店では、夕方便に乗る人たちのために温めていたピロシキがまだ残っていた。


 どろちゃんは二人分を包んでもらい、フランソワさんは蓋の付いたカップを受け取った。紅茶の表面には赤いジャムが少し浮いている。


「部屋までこぼさないで持って帰れそうですか」


「お嬢様よりは安全に運べると思います」


「それは否定できない」


 紙袋から温かい匂いがする。


 北米についての二度目の会議は、今日で終わった。一週間前に大きな方針を決め、今回はその続きを細かく詰めた。五か国の全権代表が文書へ署名するところまで済んでいる。


 明日からは、またそれぞれの仕事に戻れる。


 少なくとも、どろちゃんはそう思っていた。


 部屋の扉を開けたフランソワさんが、そのまま中へ入らずに止まった。


「お嬢様。こちらへ出る前に、テーブルの上へ何か置かれましたか」


「何も置いていませんよ」


 二人の視線の先に、白い紙が六枚重ねて置かれていた。


 どろちゃんは紙袋を小机へ置いた。


「また神様かな」


「紙は、いつものものに見えます」


 上の一枚を取ってみる。


 触った感じも、神様から届く書類と同じだった。ただし文字はキリル文字ではない。見慣れたナーロッパ標準語で、最初から最後まで普通に読める。


 どろちゃんは立ったまま数行読み、それから椅子を引いた。


「フランソワさん、紅茶を置いてください。これ、短い文書じゃありません」


 二人で並んで読む。


 書かれていたのは、海上の私掠活動を終わらせるための取り決めだった。


 五か国の船と積荷を相互に私掠の対象としないこと。すでに発行された私掠免許を回収し、その効力を終わらせること。海上にいる私掠船には活動を中止させ、指定された港へ戻るよう知らせること。


 さらに、その後に出港する船についても、古い免許や戦争中の命令を理由として他国船を襲撃し、拿捕し、積荷を奪うことを認めない。


 武装商船から大砲を降ろせとは書いていない。正規海軍を廃止するとも書いていない。


 戦争が終わったあとまで残っていた、私掠という仕組みを終わらせるための文書だった。


 どろちゃんは途中でピロシキを一口食べた。


「内容は、もうやってることですね。ポルトガルも港で免許を確認して、通知した時間まで記録することにしましたし」


「フランスとイングランドでも、すでに停止の手続きを進めております。新しい条件を持ち込まれた文書ではなさそうです」


「なのに六枚あるんだ」


 最後まで読むと、五か国の署名欄が並んでいた。


 六枚とも同じである。


 どろちゃんは一枚目と六枚目を並べた。文面も署名欄も違わない。


「今日の北米の文書とは別ですね。みなさん、やっと終わったと思っているのに」


「まだ全権代表の方々は滞在しておられます。神様は、それを待っておられたのかもしれません」


「だったら会議中に置いてくれればよかったのに。……でも、これはわたしが決めていい紙じゃないですね」


 どろちゃんは残りのピロシキを食べた。


 温かいうちに食べたかったからである。


 神様の書類でも、すでに各国が進めている内容でも、国家の名前で署名する紙を十五歳の女の子が勝手に回すわけにはいかない。


 食べ終わってから、六枚をそろえてお父様のところへ持っていった。


 お父様は最初の一枚を時間をかけて読み、二枚目以降も同じ文面であることを確かめた。


「北米の調印が終わった直後に、別の文書が届いたわけだね。内容を見る限り、どの国にも突然新しい義務を負わせるものではなさそうだ。ただ、全権代表の方々が今日署名した文書とは別件になるから、それぞれの本国へ確認していただくのが一番きれいだろうと思うよ」


「わたしもそう思います。全権を持っていても、何にでも署名してよいという意味ではないですから」


「そうだね。今夜のうちに文面を見ていただいて、明日の朝、それぞれの国へ電信で確認していただけるか相談してみよう。皆さんも今日は長い会議のあとだから、今からもう一度集まってもらう必要まではないだろう」


 どろちゃんは頷いた。


「神様も、一晩くらい待つでしょう」


「待ってくれると助かるね」



     ◇ ◇ ◇



 翌朝、五か国の代表が小会議室へ集まった。


 昨日まで北米について話していた同じ顔ぶれである。


 六枚の紙は机の中央に置かれていた。


 最初に文面を読んだ代表の一人が、少し拍子抜けしたように椅子へ戻った。


「私掠免許の停止そのものなら、本国でもすでに命令が動いております。私が気にしていたのは、神から届いた文書に、昨日まで協議していない条件が加わっている場合でした」


 別の代表も紙をめくった。


「こちらも同じです。ただ、署名してよいかどうかだけは確認させてください。昨日の文書について与えられた全権を、そのままこちらへ使ったと言われるのは避けたい」


 文面そのものに反対する声はない。


 それでも、署名してよいかどうかは別の話なので、五か国とも本国へ電信を送る。六枚の紙は机の中央へ置いたまま、誰も持ち出さなかった。


 昼前、通信室から最初の返電が届く。


 そのあと二通、少し間を置いてもう一通。最後の国からも、午後には署名を認める返事が届いた。


「では、六通すべてへ署名する形でよろしいのでしょうか」


「五か国なのに六通なんですよね」


 どろちゃんが机の端から言った。


「一通多い理由は、わたしにも分かりません。ただ、最初から六枚で届いています」


「神の分が一通、ということでしたら分かりやすいのですが」


「それなら、自分で名前を書いて持っていってくれれば楽なんですけどね」


 小さく笑う人がいた。


 署名が始まった。


 一人が六枚へ署名し、次の代表へ席を譲る。五人が同じことをするので、思ったより時間がかかる。


 どろちゃんは途中から、インクが乾いた紙を重ね直す役をフランソワさんと一緒にしていた。


 最後の代表が六枚目へ名前を書いた。


 ペン先が紙から離れる。


 その瞬間、六枚目の縁に細い光が走った。


「触らない方がよさそうですね」


 誰かが手を伸ばしかけて止めた。


 光は紙の周囲から中央へ進んだ。


 燃えてはいない。焦げる匂いもない。文字も署名も見えている。


 ほんの数秒だった。


 紙全体が白く光り、そのまま消えた。


 机の木目が見える。


 灰は残らなかった。


 五人の代表は、しばらくその場所を見ていた。


「……五通になりましたね」


 どろちゃんが言うと、一人がようやく息を吐いた。


「一国一通ですか。最初から、その数にするつもりだったのでしょうな」


「たぶん。でも、持っていった一枚を何に使うのかは聞かないことにします」


「お嬢様にも分からないのですか」


「神様、説明したいことは書いてきますから。書いてないなら、今は知らなくていいんでしょう」


 残った五通は、それぞれの国の正本になった。


 代表たちは本国へもう一度電信を送った。


 五か国すべての署名が済んだことと、六通目だけが発光して消えたこと。その二点は、どの国の報告にも同じように入った。



     ◇ ◇ ◇



 港では、それまで始めていた仕事が少し変わった。


 フランスの港へ戻った私掠船の船長が、港の事務所へ呼ばれていた。


 机の上には、彼が出港するときに持っていた私掠免許が置かれている。


「この免許は、こちらで預かります。すでに本国から停止命令が出ておりますが、今回、五か国共同の文書として改めて確認されました」


 役人は古い免許を封筒へ入れ、代わりに別の紙を船長へ渡した。


「船そのものを使ってはいけないという命令ではありません。商船として航海を続けることも、自衛のための武装を残すことも妨げません。ただし、以前の免許を根拠に他船を追い、拿捕し、積荷を取ることはできません。こちらは、そのことを船長本人へ伝えた証明にもなります」


 船長は紙を読み、最後に署名した。


「海にいる連中は、まだ知らない者も多いでしょう」


「そのため、あなたが次に寄港する場所へも写しを持って行っていただきたいのです。港の管理者へ一部渡していただければ、そこへ入ってくる船にも知らせられます」


 同じ文書は、遠洋へ出る商船にも何部か積まれた。


 軍船には、海外の基地や砦の責任者へ渡す公文書が載せられた。


 電信線の先では、その日のうちに話が届く。


 電信のない港へは商船が運ぶ。


 海外の軍事拠点へは軍船が運ぶ。


 海に散った船を一隻ずつ探し回るのではなく、船が必ず使う場所へ先に知らせを置いていく方法だった。



     ◇ ◇ ◇



 六枚目の紙が消えてから、数日が過ぎた。


 五か国の港では、戻ってきた船から古い私掠免許を回収し、出港する商船や軍船には海外へ運ぶ通知文を積ませる仕事が続いていた。電信の届かない海の上まで話が行き渡るには、まだ時間がかかる。


 そんな朝、アン女王の宮殿で庭を見回っていた人が異変へ気づいた。


 朝まで何もなかった芝地の向こうに、船のマストが立っている。


 屋根の向こうから、何本ものマストが高く突き出している。


 一隻の帆船が、船体ごと庭へ置かれていた。


「門から入れたのか?」


 そんなことができるはずはなかった。


 近づいてみると、さらにおかしい。


 帆が畳まれていない。


 いくつもの帆が広がったままで、風向きの違う庭の中でばたついている。索具にも張力が残り、甲板には海水が流れた跡がある。


 船腹へ手を当てた者が、濡れた指を見た。


「海から今ここへ持ってきたようにしか見えません」


 船へ上がった人たちは、甲板より船内で足を止めた。


 潮の匂いだけではない。


 湿った木、汗、油、食べ物、排泄物。長く人が詰め込まれて航海していた船の臭いが、そのまま残っている。


 食器には食べかけがあり、船長室には衣類も書類もある。


 それなのに、普通の乗員が見つからない。


 船内の奥から、かすかな声が聞こえる。


 役人が灯りを持って進むと、狭いところに数人の少年が身を寄せていた。服装も手も、甲板で働く船員のものではない。


 水と食べ物を渡してから一人ずつ話を聞き、残された書類や荷物も調べる。すると、少年たちは別の港へ運ばれ、商品として売られる予定だったことが見えてきた。


「船長はどこへ行ったのですか」


 少年の一人に聞いても、分からない。


「さっきまでいました。みんな甲板にいました。向こうの船を追っていて……それから、急にここです」


 航海日誌の最後の位置は、テルセイラ島の北方だった。


 その日の記録には、前方にポルトガル船を見つけたことまで書かれている。


 アン女王へ報告が届いたとき、六枚目の紙が消えてからまだ日が浅かった。


 誰も、それと無関係だとは言わなかった。



     ◇ ◇ ◇



 翌朝、宮殿の庭を見た役人は、昨日までなかったマストがもう一組増えているのに気づく。


 今度の船からは人が降りてきた。ところが、その姿を見た役人は本人たちより先に乗員名簿を開いた。年齢が、どう見ても合わない。


「この方が、こちらの名前で間違いありませんか」


 白髪の男は、震える手で自分の名前を指した。


「そうだ。昨日まで、こんな手ではなかった。鏡を見せてもらったが、私にも何が起きたのか分からない」


 名簿に記された年齢は三十二歳だった。


 別の男は二十代。もう一人は四十歳にもなっていない。


 目の前にいる姿とは合わない。


 一方、船長と古参船員の何人かは、名前も荷物も残っているのに姿がなかった。


 英国側の役人は、前日に保護した少年たちの記録を持ってこさせた。


 あの子どもたちには、何の変化も起きていない。


「年齢が増えた者と、消えた者がいる。昨日の子どもたちは変わらない。偶然にしては、分かれ方がきれいすぎます」


「何を基準に分けているのでしょう」


「それを調べるしかありません。少なくとも、船に乗っていたというだけではなさそうです」


 庭に並んだ二隻は、そのまま証拠になった。



     ◇ ◇ ◇



 ヴェルサイユでは、さらに困ったことになる。


 最初の一隻が庭に現れたとき、ルイ十四世はしばらく船体とマストを眺めていた。ところが翌日には別の場所にも帆柱が立ち、庭園を管理する人たちは、植木ではなく船の置き場所を相談し始める。


 三隻目の報告を受けたところで、ルイ十四世はトルシー侯を呼んだ。


「余の庭を新しい港にするつもりなのか、神に尋ねる方法はないのだろうな」


「残念ながら、私にはございません。ただ、船が来る理由を調べることはできます」


「それを頼みたい。私掠停止の命令を出しているのに、まだ船が戻ってくるのであれば、どこかで命令が止まっているか、知ったうえで無視している者がいるのだろう」


「船の記録と、免許の発行記録、港での通知記録を突き合わせてみます。乗員についても英国と同じ現象が起きているようですので、そちらも分けて調べます」


 数日のうちに、庭園には五隻ほど並んだ。


 庭が船で埋まるのではないかと心配した者もいた。けれど、五隻ほどで増え方が鈍る。海から帰ってきた乗員の話を集めると、その理由が見えてくる。


 大西洋では、数隻の私掠船が一隻の商船を追い込んでいた。旗艦から拿捕の命令が出る。先頭船が距離を詰め、砲員が火を入れようとしたところで、船体が海面から消えた。


「いないぞ!」


 後続船では、何が起きたのか理解できないまま追撃が続く。相手へ舷側を向け、砲を据えた瞬間、今度はその船までいなくなる。


 旗艦の甲板からは二隻ともよく見えていた。自分たちの船は消えない。そこで副官が司令官へ振り向くと、別の異変が始まっている。


「閣下……お顔が」


 黒かった髪に白いものが混じり、頬が落ちていく。司令官はさっきまで片手で握っていた手すりへ両手を掛けた。副官が支えようとする間にも、顔と手だけが何十年分も先へ進んでいく。


 攻撃中止の信号が上がる。


 この船団からは、旗艦を含む残存船の乗員がそのまま港へ帰った。だから「攻撃へ入った船から消えた」「旗艦は残ったのに、命令した司令官だけが老いた」という話を、一人や二人ではなく大勢が同じように証言することになる。


 私掠船は、免許を根拠に敵船を拿捕し、港へ連れ帰って審理を受け、利益に変える仕事である。古い免許が失効したうえ、攻撃すれば船ごと失うかもしれない。船主にも船長にも、続ける理由は急速になくなっていった。


 通知を受けた港では、船長たちの判断が早い。免許を返したあとまで同じ稼業を続ける者は減り、消失を目撃した船が別の港へ入れば、公文書より先に船員の噂が広がることもある。


 ただし五か国には、噂を噂のままにしない道具があった。電信である。


 ロンドンは、庭へ現れた船、急に年を取った船員、まったく変化のない少年たちを報告する。ヴェルサイユからは、船に乗っていない役人まで老いた例が返る。リスボンは、追われていた商船の目の前で相手が消えた時刻と位置を送る。ハーグからも、別の条件で起きた事例が次々に入ってくる。


 サヴォイア王の宮殿から来る電信だけは、件数が少ない。


 国王になったサヴォさんには、王国成立へ反発する他のイタリア諸国や諸公から攻撃が続いている。サヴォイア側がそれへ応戦する海戦は、五か国相互の私掠停止とは別の通常戦闘である。敵軍に撃たれて撃ち返した船まで、庭へ送り返されるわけではない。


 もちろん、サヴォイア船が五か国の商船を私掠の対象にすれば話は別で、その船は他の君主国と同じように王宮の庭へ来る。ただ、英国やフランスの庭ほど船が増えない。


 そのためサヴォイア側は、自国の少数例だけで結論を急がず、ロンドン、ヴェルサイユ、リスボン、ハーグから届く大量の事例と照らし合わせた。五か国は同じ書式で条件を書き、また電信で返していく。


 どの船が、どの船を追っていたか。砲撃や接舷に移ったか。誰が命令を出したか。停止命令を知っていたか。船にいたのに何も変わらなかった者は誰か。


 何か月も外交文書を待つ必要はない。昨日ロンドンで起きたことと、今日ヴェルサイユで起きたことを同じ机へ並べられる。


 船に乗っていただけの被害者は変わらない。実際に攻撃へ入った船は消える。船が残っても命令した者には変化が出る。例が重なるにつれて、「船籍」より「誰が何をしたか、何を命じたか」の方が重要らしい、と各国の担当者は考えるようになった。


 それでも、「神の仕組みを理解した」と断言する国はない。同じ条件で似た結果が繰り返される――そこまでが、いま共有できる範囲だった。


 トルシー侯の机には、その比較に使う船ごとの書類が日に日に増えていく。


 どこで免許を受けたか。最後にどの港へ入ったか。その港には停止命令がいつ届いたか。船長へ誰が通知したか。


 記録がつながる船もあれば、途中で不自然に途切れる船もある。


 ある港では、命令書そのものは到着済みなのに、船長へ渡した記録がない。別の港では、担当者が「数日くらいなら構わないだろう」と処理を止めている。


 トルシー侯がその二件を並べているところへ、役所から別の報告が飛び込んできた。


「侯爵閣下、昨日まで勤務していた役人が、今朝になって急に老人のような姿になっております。病気では説明できない変化です」


 トルシー侯は手元の記録を見た。


「その者が扱っていた停止命令を確認してください。どの船に、いつ渡す予定だったのかもです」


 さらに上位の軍人については、家にも役所にも姿がないという報告が出た。


 船の中で消えた船長たちと同じなのかもしれない。


 ただ、それを断定するには材料が足りなかった。


 一方、船内から保護された人たちの扱いは先に決めなければならない。


 連れ去られ、売られる途中だった者まで、私掠船の乗員として牢へ入れるわけにはいかなかった。


 ルイ十四世は、その報告を聞いてからしばらく考えた。


「神が余のところへ船を送ってくるのなら、中にいる者を見分ける責任も余にあるのだろう。被害を受けて連れてこられた者まで、私掠船の乗員として扱うわけにはいかぬ。まず食事と寝る場所を用意しよう。帰る家が分かる者には帰る手段を整え、ここに残る者には、ここで暮らしていける道を考える」


「承知いたしました。まず船員として一括りにはせず、一人ずつ、どういう事情で船にいたのかを確認いたします」


「売られるところだった者を、今度は余の持ち物にしたのでは何も変わらぬ。働くなら給金を受け、自分の生活を持てるようにする。それでよい」


 実際に食事や衣服を手配し、家族を探し、帰路を整えるのは役人たちだった。


 神から王へ届いた船は、王権だけでなく仕事まで増やしていった。



     ◇ ◇ ◇



 エルレンフェルトの通信室から、トルシー侯の電文が届けられた。


 どろちゃんは自室でそれを読んだ。


 フランソワさんも横にいる。


 ヴェルサイユへ来た船の乗員には、英国で起きたのと同じような変化が見られること。


 若いはずの者が高齢になり、より重い責任が疑われる者ほど姿を消していること。


 さらに、船に乗っていなかった軍人や役人にも同じ変化が現れたこと。


 停止命令を意図的に遅らせた記録と、高齢化した者の担当が重なる例も出始めていること。


 最後に、トルシー侯はこう結んでいた。


 ――以前、お嬢様が考えておられたように、行為そのものだけでなく、その結果へどの程度関わったかまで見られている可能性が高いと思われます。


 どろちゃんは最後まで読むと、電文を机へ置いた。


「詳しい人数は、いらないです」


 フランソワさんは何も急いで答えなかった。


「どの船へ誰が送られたかも、誰が何年分年を取ったかも、わたしは知りたくありません。止まってくれれば、それでいいです」


「トルシー侯も、そのような一覧を求めておられるわけではないと思います。フランス側で必要なのは、命令を意図的に止めた者がいないかを調べることですから」


「うん。それは調べてもらわないと困ります。でも神様が誰に何をしたのかまで、こっちへ報告を上げなくていいです」




     ◇ ◇ ◇



 大西洋では、一隻の商船が逃げていた。


 後ろから追ってくるのはスペイン旗の船だった。


 針路を変えても離れない。


 商船の船長は、何度も後方を見た。


 距離は確実に縮んでいる。


「もう一度風を拾えれば少し離せるかもしれませんが、このままだと砲の距離へ入ります」


 航海士の声に、船長は頷いた。


「向こうもそれを待っている。帆や索を壊されたら終わりだ。動けなくなれば、横へ付けて乗り込んでくるだろう」


 甲板にいる人間には、後ろの船で砲の準備が進んでいるのが見えた。


 こちらにも武器はある。


 でも、この距離から撃ち合って勝てる相手ではない。


 逃げるしかなかった。


 後方の砲口がこちらを向いた。


 砲員が動く。


 船長は次に来る音を待った。


 来なかった。


「……消えた?」


 航海士が先に言った。


 船長は振り返ったままだった。


 そこにいたはずの船がない。


 煙も、破片もない。


 沈んだのなら帆やマストが見えるはずなのに、海面には何も残っていない。


 船長は、しばらく何もない海を見ていた。


「……助かった」


 ようやく出た言葉は、それだけだった。


 甲板のあちこちで、張りつめていた息がほどける。何が起きたのかは分からない。それでも、こちらへ砲口を向けていた船が消えた。その事実だけで、いまは十分だった。


 逃げていたのはポルトガル商船である。寄港するなり船長は港の役人を呼び、追跡された位置、時刻、相手が砲撃へ移る直前に消えたことを航海日誌と一緒に伝えた。こちらからは一発も撃っていない。海面に砲煙も破片もない。


 その日のうちに報告はリスボンへ入り、そこから五か国の電信網へ流れていく。



     ◇ ◇ ◇



 そのころ、消えた側の砲手は火を入れる寸前だった。


 次に顔を上げたとき、照準の先にいた商船がない。海の色まで違う。


 目の前に広がるのは、暗い空と白い海である。


 風が違う。


 寒さも違う。


 帆へ付いていた水滴が、短い間に凍り始めた。


「どこだ、ここは」


 返事をした声は少なかった。


 さっきまで甲板にいたはずなのに、姿のない者がいる。


 残っている者の中にも、顔や手が急に老いた者がいた。


 船の少し先には、別の帆船が見えた。


 さらに向こうにもある。


 帆を広げたまま氷に押されているもの、索具が風に鳴っているもの、人の気配がまったくないもの。


 ここへ来たのが自分たちだけではないことだけは分かった。


 人のいない船も混じっていた。食料、工具、帆布、索具、交換用の木材が残り、炊事や暖を取るための薪や炭、油まで積んだままの船もある。乗っていた者が全員いなくなっても、船と積荷まで消えるわけではなかった。


 残った者たちは、使えそうな物を一か所へ集め始めた。まだ動かせる船を選び、傷んだ索具を別の船から外して持ってくる。氷から船を離す方法も考えなければならない。


「ここから出られれば帰れる、という海ではないでしょう」


 長く航海をしてきた男が、低い太陽を見ながら言った。


「星と日の高さを見る限り、私たちはひどく南へ来ています。まず氷の外へ出なければなりません。そのあと北へ向かえたとしても、知らない海を何千里も走ることになります。南の外洋は風が強い。西からの風と低気圧が回り続ける海へ入れば、帆を張れるから安全という話にはなりません」


 別の男が、隣に浮かぶ無人船を見た。


「それでも、ここにいるよりは船を直すしかないでしょう。食べ物も材木も、まだ使える帆もあります。何隻かを部品にして一隻を動かせるなら、試すだけの物は残っています」


 すぐに帰れる道はない。それでも、戻る方法そのものまで取り上げられたわけではなかった。


 ここは、21世紀にスコット基地があった南極地域、南緯77度51分、東経166度45分に近い場所だった。もちろん、船に残された者たちがそれを知るはずはない。


 氷から抜け出し、さらに南極を取り巻く暴風の海を越え、それから人の住む土地を探すことになる。工夫すれば帰れる可能性は残っているが、簡単に帰れる場所ではなかった。


 そのころヴェルサイユでは、リスボンから回ってきた電文を読んだトルシー侯が、ルイ十四世のところへもう一度出向いていた。


「陛下、この件はスペイン側へこちらから先に知らせておいた方がよろしいかと存じます。消えたのはスペイン船です。船だけが帰らなければ、ポルトガルに沈められた、あるいは英国やフランスが関わったと受け取る者が出ても不思議ではありません」


 ルイ十四世は電文を読み直した。


「だが、ポルトガル船は撃っておらぬのだな」


「はい。追われていた側の証言では、相手が砲撃へ移る直前に消えています。英国でもフランスでも、同じように船が突然消える例があり、乗員や命令を出した者だけが老いる例も出ています。少なくとも、どこかの国の軍艦がこのスペイン船を撃沈したと考える材料はございません」


「ならば、フェリペには余から知らせる。戦を終えたばかりだ。訳の分からぬ船の消失を、他国の攻撃と決めつけて再び戦を始める理由にはならぬ。五か国で同じ現象を調べていることと、他国から攻撃されたと見る材料はないことを伝えよ」


「承知いたしました。スペイン側には、報復や出撃を決める前にこちらの事例も照合していただくよう添えます」


 孫のフェリペ五世へ送られたのは、神の裁定を断言する文書ではなかった。何が起きているかはまだ分からない。ただ、同じような消失が複数の国で起きており、スペインだけが他国から攻撃された結果とは考えにくい。


 その一点を先に知らせておくだけでも、行方不明になった一隻を理由に、終わった戦争がもう一度始まる危険は小さくできた。



     ◇ ◇ ◇



 北アフリカの港でも、別の変化が始まっていた。


 最初は、帰ってこない船が何隻か増えただけだった。海へ出た船が戻らないこと自体は珍しくない。嵐もあれば、座礁もある。遠い港へ入ったまま帰路が遅れることもある。


 ところが、同じような話が重なった。


 イングランド船を追った船が戻らない。ネーデルラント船を追い始めたところまで別の商船に見られていた船も戻らない。ポルトガル船へ近づいた船については、追われていた側の船員が、後ろの船が海の上から突然消えたと寄港先で話している。


 港の役人と船主たちは、入港した船から話を集めた。


「嵐で沈んだのでしたら、三隻とも最後に五か国の船を追っていたというのは出来すぎています。しかも、逃げた商船の側が『沈んだのではなく消えた』と言っている例まであります」


「では、あの五か国の船には手を出さない方がよいと、船長たちへ話すことになりますね。船を一隻失えば、積荷を一つ取るどころの損ではありません。乗員まで帰ってこないのであれば、次の航海へ出たがる者も減ります」


 これまでなら、条約を結んだ国の船を避け、そうでない国から利益を取ることができた。捕えた船と積荷を売り、乗員の身代金を求める。あるいは、襲わないことそのものと引き換えに金や品物を受け取る。


 その仕組みは、襲えば船を捕まえて帰ってこられることを前提にしている。


 五か国の船を追った側が、砲撃する直前に船ごといなくなるのであれば、その前提がなくなる。


 英国の艦隊が港を砲撃したわけではない。フランス軍が上陸したわけでもない。それでも、船主は船を出しにくくなり、船長は五か国の旗を見れば追うことをためらうようになる。


 北アフリカの海賊や私掠を支えていた金の流れは、軍事的に征服されるより先に、少しずつ行き場を失い始めた。



     ◇ ◇ ◇



 地中海では、北アフリカとは少し違う形で船が減り始めた。


 サヴォイア以外のイタリア諸国や諸公の支配する港から出る船の中には、五か国の商船を獲物にしようとするものがまだあった。地中海は大西洋ほど広くない。港から港までの距離も短く、何隻もの船団を組むより、一隻で出て近くの航路を狙うことも多かった。


 そうした船が五か国の船を追い、砲撃や接舷に移ろうとすると、そのまま帰ってこなくなる。


 五か国側なら、違反した船が王宮や政治の中心へ戻るため、何が起きたのか調べる材料が残る。ところが取り決めに加わっていない国の船は戻らない。船体も、積荷も、武器も、航海日誌も、まとめて海から消えてしまう。


 港に残るのは、出港したという記録と、帰ってこないという事実だけだった。


「また戻らないのか」


「最後に見た船は?」


「フランス商船を追っていたという話があります。ただ、そのあとを見た者はいません」


 嵐で沈んだのか。敵国に捕えられたのか。積荷ごと逃げたのか。五か国で集められているような事例の照合もできない。船が一隻ずつ消えるため、同じ場で複数の船員が現象を目撃して帰ってくることも少なかった。


 それでも損失だけは積み上がった。


 船一隻には、船体そのものの値段だけではなく、積荷、武器、食料、航海用具、船主や商人が先に出した金まで載っている。それが港へ何も戻さず消える。次の船を造り、次の積荷を買い、次の航海へ金を出す余力が削られていった。


 港で使える船腹量が減れば、軍用輸送にも商業にも響く。税収も落ちる。戦争を続けようとしても、兵や物資を海から動かす力まで弱くなる。


 一方、サヴォイア側には五か国の電信で事例が入っていた。自国船が五か国の商船を私掠の対象にしなければ、同じ損失を避けられる。しかも、他のイタリア諸国から仕掛けられた通常の戦闘へ応戦することまで禁じられてはいない。


 同じ地中海に面していても、時間がたつほど差が広がっていった。サヴォイアが急に巨大な海軍国になったわけではない。周囲の国々が、船と積荷とそれに投じた金をまとめて失い、自分から海運力を削っていったのである。



     ◇ ◇ ◇



 そのころ、ドイツ連邦共和国では、別の仕事が終わろうとしていた。


 神聖ローマ帝国が崩れたあと、フランス、イングランド、ネーデルラント、サヴォイアの四か国が治安維持のために入れていた部隊である。


 西ドイツ側では行政がドイツ人の連邦政府へ引き継がれ、武装解除もかなり進んだ。市場や街道を守るために置いていた外国軍を、同じ人数のまま残しておく理由がなくなっていた。


 ちょうどそのとき、サヴォイアから電信が来た。


 王国成立を認めないイタリアの諸国と諸公から、まだ攻撃が続いている。海では船が相次いで行方不明になり、相手側の輸送力は目に見えて落ちている。それでも、陸上の城塞と軍隊がなくなったわけではない。


 四か国で相談すると、ドイツで役目を終えつつある部隊の一部を、そのまま帰国させる代わりにイタリアへ回す案がまとまった。サヴォイアの部隊は自国へ戻り、そのまま作戦の中核になる。フランス、イングランド、ネーデルラントの部隊は援軍として加わる。ただし、戦争の当事国はサヴォイア王国である。全体の作戦指揮はサヴォイア側が執り、兵員、武器、弾薬、食料、馬、輸送などは四か国で受け持つ。三か国の部隊も、それぞれ勝手に戦うのではなく、サヴォイア側の作戦計画に合わせて動くことになった。


 どろちゃんがその電信を読んだとき、最初に聞いたのは兵の数ではなかった。


「これ、町を一つずつ攻めるつもりじゃないですよね」


 お父様は、四か国から来た返電を机の上へ並べた。


「そのつもりなら、こんな相談はしていないだろうね。相手に戦う意思がなくなったところまで砲撃する理由はない。サヴォイア側も、武器を置いて門を開く町については、兵と住民の安全を先に保証したいと言っている」


「だったら、先にそれを知らせた方がいいです。大軍が来ることだけ見えたら、降伏したくても怖くて撃つ人が出ます」


「そうだね。文面は軍と現地行政の人に確認してもらって、お前は運ぶ方なら手伝えるだろう」


 こうして、どろちゃんにも仕事が一つ回ってくる。


 運ぶのは爆弾ではなく、降伏条件を書いた紙である。


 ところが飛行計画を作る前に、もっと地味なところで手が止まった。必要な枚数を、印刷が追い越せない。


 何百枚かなら領内の印刷所でも刷れる。けれど、これから向かう町は一つではない。四か国軍が進む前に同じ内容を大量に配り、状況が変われば文面も直さなければならない。活字を組み、刷り、乾かし、また次の版を作っていては、ミツバチちゃんの方が先に暇になってしまう。


「飛行機で配るところまで考えたのに、紙を作るところで追いつかないですね」


 会議棟で不足分の束を数えた翌朝、事務室へ入ったどろちゃんは足を止める。


 昨日まで空いていた場所を、大きな機械が二台占めている。


 一台には高速事務用印刷機、もう一台にはカラーコピー機として使うための説明が付いていた。


「……神様、見てたんだ」


 操作するところには、いつものようにナーロッパ標準語で説明が付いている。原稿を入れ、必要な枚数を指定すればよい。文字だけを大量に出すものは高速印刷機へ回し、四か国の旗や、武器を置く場所などを色で分かりやすく示したものはカラーコピー機で作れる。


 しかも、届いたのは会議棟だけではなかった。領主館にも同じ二台。丘の麓にある役場側にも同じ二台が置かれていた。三か所で同時に紙を作れる。


 役場の人たちは、原稿と紙を入れて枚数を指定すると、次々に同じ紙が出てくることの方に驚いていた。途中で紙を足しても、印刷する束を替えても、機械は同じ調子で動き続ける。


 どろちゃんは会議棟の機械の横で、その動きをしばらく見ていた。


 何千枚と紙を通しているのに、一度も給紙が乱れない。少し反った紙を混ぜても、用紙がなくなるまで同じ調子で送り続けている。


 どろちゃんは思わず機械の横腹を撫でた。


「神様、妙なところまで几帳面ですね」


「何かございましたか?」


「ううん。止まらず働いてくれるなら助かります」


 それ以上は言わず、どろちゃんは出来上がった紙の束をそろえた。


 三か所で刷った紙が箱に詰められ、会議棟へ運び上げられる。これで、飛ぶたびに次の町の分を待つ必要はなくなった。


 紙には、四か国の軍が近づいていることだけでなく、抵抗をやめて武器を預ければ、守備兵をその場で殺したり、町を略奪したりしないことが書かれていた。役所、病院、市場、教会、倉庫など、住民の生活に必要な場所は壊さず、行政の実務者も仕事を続けられる。町の代表者はサヴォイア側と条件を話すことができる。


 どろちゃんは、ミツバチちゃんで連合部隊より先へ出る。


 前席ではどろちゃんが操縦し、フランソワさんと四か国側の連絡役は地図を広げている。町へ近づくたびに風向きを確かめ、紙束を何回かに分ける。通りの上、城壁の内側、兵営に近い空き地。全部が一か所へ落ちないよう、少しずつ位置をずらしていく。


「今日は、人をびっくりさせるものばかり空から落としていますね」


「紙だけなら、あとで拾えます」


「大砲よりはずっといいです」


 町を一周して紙が散ったのを見届けると、ミツバチちゃんは次の町へ向かった。


 その後ろから、四か国の連合部隊が街道を南へ進んでくる。


 一国の軍だけなら、城門を閉じて援軍を待つ判断もできたかもしれない。けれど、街道に見える旗はサヴォイアだけではない。フランス、イングランド、ネーデルラントまで一緒である。少し前まで神聖ローマ帝国の広い地域で治安維持をしていた部隊が、編成を崩さずそのまま来る。


 港の事情はさらに悪い。帰ってこない船が増え、商人から入る税も減っている。食料や火薬を運ぶ船まで足りず、外から援軍を呼ぼうにも海上輸送が細っている。


 最初の町では、連合部隊が砲を据える前に城門が開いた。


 次の町では、城壁の外へ白い布を持った使者が出てくる。


「守備隊が武器を預ければ、町へ砲撃しないという条件を確認したい」


「確認します。住民への略奪も認めません。行政の引き継ぎについては、代表者同士で話してください」


 このやり取りを聞いた商人や旅人が別の町へ移れば、そこでも同じビラが拾われている。次の守備隊は、門を開けた前の町が焼かれていないことまで知ったうえで判断できた。


 もちろん、発砲が一度もないわけではない。城外で短い小競り合いになった場所もある。それでも、大砲で城壁を崩し、市街へ突入して一軒ずつ奪うような戦いにはほとんど進まない。


 街道には四か国の旗。空からは先に降伏条件。海へ目を向ければ、自国の船腹は減り続けている。長い包囲戦を選んでも、状況が好転する材料がなかった。


 門が開くと、サヴォイア側はまず現地の役人を集める。税の帳簿、穀物倉庫、裁判所、港の管理、道路の維持。王様の名前だけ替えて、これらを止めてしまえば町の方が先に困る。


 だからトリノから来た役人で全部を置き換えることもしない。仕事を続けられる人にはそのまま残ってもらい、軍事上の指揮、外交、関税、共通制度だけを順に中央へ結んでいく。


 数週間前まで紙の地図に細かく引かれていた国境は、実際の行政の上では一つずつ意味を失っていった。


 エルレンフェルトへ戻ると、会議棟の机にはイタリアから届いた電信が束になっていた。町ごとの開城、守備隊の武装解除、役所の引き継ぎ、港と街道の再開。書記たちは普通の紙地図へ確認の済んだ場所を一つずつ書き込んでいる。


 どろちゃんは地図の上を指でたどった。空白のまま残っているところは、もうほとんどない。


「……イタリア、ほとんど一つになってる」


 サヴォさんが王号だけを根拠に塗り替えた地図ではない。各地から届いた降伏文書と行政引き継ぎの報告を、人間が紙の地図へ書き込んでいった結果だった。


 その日の午後、通信室がトリノから新しい電信を持ってきた。差出人はサヴォさんである。


 これまでのサヴォイア王国という名は、統一された領域には狭すぎる。今後はイタリア王国とする。


 どろちゃんは次の行を読んで、少し笑う。


「首都は?」


 フランソワさんが横から尋ねる。


「変えないそうです。トリノのまま」


 王宮も中央の役所も、すでにトリノで動いている。国名が変わったからといって、王様まで引っ越す必要はないらしい。


 以前の会議で確認したのは、「王号を得ただけで、まだ治めていないイタリア全土への権利が自動的に生まれるわけではない」という原則である。そこは変えていない。


 あのときは、まだ治めていなかった。


 今回は別の戦争があり、それぞれの町や諸侯との降伏文書があり、そのあとに行政の引き継ぎが続いている。その結果として、本当に統治する範囲が半島へ広がった。


 五か国の私掠停止文書に残る署名国名はサヴォイア王国のままだが、王も政府も継続している。国名をイタリア王国へ改めても、その義務まで消えるわけではない。



     ◇ ◇ ◇



 奇妙な返り方をした船について、各国から照会が出始めた。


 ヴェルサイユへ来ると思われたフランス旗の船が、イングランドの王宮へ現れた例があったからである。


 最初は記録の間違いを疑われた。


 ところが船体を調べた古い船大工が、舷側の補修跡を見つけた。


「この船名になる前に、別の名で記録が残っているはずです。ここを直したやり方に見覚えがあります」


 古い帳簿をたどると、その船はもともとイングランドの商船だった。


 数年前、戦争中にフランス王の私掠免許を持つ船から、敵国の商船として拿捕され、フランスの港へ連行されていた。


 ただし、それは一七〇三年二月のエルレンフェルト条約より前のことである。フランス、イングランド、サヴォイア、ネーデルラントの四者がまだ敵対していた時期だから、敵国商船を戦時の私掠対象として扱う余地があった。条約が成立して敵対行為が終わったあとに同じことをすれば、今度は条約に反する。少なくとも、戦争中の正当な拿捕としてそのまま所有を移すことはできず、捕えた船は返還の処理に回るはずだった。


 私掠船が海の上で敵船を捕えただけで、その場ですぐ船長の持ち物になるわけではない。港へ連れ帰り、誰の免許で、どの国の船を、どのような状況で捕えたのかを確認し、正当な拿捕と認められてから船体や積荷の処分が行われる。この船も条約以前の拿捕としてその手続きを経て、フランス側の所有へ移っていた。


 海軍の軍艦が戦闘で敵の軍艦を奪ったのであれば、鹵獲と書く方が分かりやすい。しかし、これは民間の商船を私掠船が捕えた例なので、記録に残っていたのは拿捕だった。


 その後、船名を変え、武装を増やして私掠船として使われていた。


 現在の旗はフランス。


 現在の乗員もフランス側。


 それでも船はイングランドへ戻った。


 しかも船だけではない。


 積荷も武器も航海日誌も、船と一緒に残っている。


 ところが乗員名簿と人数が合わない。船内にいるのは経験の浅い船員が何人かだけで、しかも出港時の年齢とは思えないほど老け込んでいた。船長や古参の私掠船員は、名前も私物もあるのに、どこにも姿がない。


 別の国でも同じ例が見つかった。


 元がフランス船ならヴェルサイユへ戻る。


 元がネーデルラントの船なら、王宮ではなく、ハーグで連邦議会が開かれている建物の正面へ現れた。


 ハーグへ来た船は、北海や大西洋にいたものだけではなかった。ヨーロッパ近海では消える噂と停止命令が広がり始めても、東インドやその先の海にいる船へ同じ知らせが届くには時間がかかる。やがて、船体の造りも積荷も、明らかに長い東方航路を通ってきた船まで現れ始めた。航海日誌を開くと、東インドからさらに東へ出て、太平洋側の航路で他国船を追っていた記録まで出てくる。


「これも、こちらへ来るのですか」


 記録を調べていた役人が、海域名の並ぶページを見ながら言った。


「五か国の船を襲おうとしていたのなら、海が遠いことは関係ないのでしょう。こちらがまだ命令を届けられていない船まで含まれているようです」


 知っていて命令に背いたのか、遠すぎてまだ知らなかったのかは、船ごとに事情が違う。それでも、襲われる側の船を守る仕組みそのものは、ヨーロッパの近海だけで止まってはいなかった。


 人間があとから塗り替えた船名や旗より、船がどこから奪われたのかを見ているらしい。


 戻ってきた船を調べた船大工たちは、別のことにも気づいた。


「船体まで駄目になっているわけではありません。船渠へ入れて外板を見て、傷んだ材と索具を替えれば、まだ使える船があります」


 海賊や私掠船が付け足した装備を降ろせば、商船へ戻せるものもある。


 奪われた船が、武器と記録、それに年老いた少数の船員を残して元の国へ戻り、そのあと修理されて再び海へ出る。


 そんな例まで現れ始めた。



     ◇ ◇ ◇



 各国では、王宮や港へ戻ってきた船の確認が先に進んだ。


 船名、現在掲げていた旗、船体に残る古い名前や補修跡、港の記録、拿捕された記録を照らし合わせる。どの船がどこへ現れたのかという一覧も、それぞれの政府の中では作られていった。


 どろちゃんは、その一覧を集めなかった。


 何隻が送られたのか。どの国へ何隻来たのか。誰が消え、誰が急に年を取ったのか。各国が行政や捜査のために持つ必要はあっても、どろちゃん自身が全部を知る必要はない。


 神様からも、転送船だけを数えた一覧は来ない。


 各国側の確認が進んで数日した朝、どろちゃんの机には別の厚い紙束が増えていた。


 表紙からして、今度はキリル文字である。


「これは、わたし向けですね」


 フランソワさんが一枚目を見た。


「船の名前が並んでおりますね」


「人の名前じゃないみたいです。よかった」


 ロシア語で書かれたレポートは、転送された船の一覧でも、人間に対する裁定や処分の記録でもなかった。


 一隻ごとに、船そのものの経歴がまとめられている。


 建造された場所。


 最初の船名。


 最初に属していた国。


 その後の所有や運航の変化。


 いつ、どの海域で拿捕されたか。


 船名や旗がどう変わったか。


 さらに、その船が襲った船の名前と位置まで記されていた。


 どろちゃんは何枚かめくっていたが、途中で指を止めた。


「この名前……どこかで見たことがあります」


 別の帳簿を持ってきてもらう。


 港から集めていた、帰港しない船の照会記録だった。


 同じ名前があった。


 何年も前に出港し、その後消息が途絶えた商船である。


 嵐で沈んだのか、座礁したのか、拿捕されたのかも分からず、行方不明のままになっていた。


 神様のレポートには、その船名の横に日付と位置が書かれていた。


 そこで私掠船に捕えられている。


「フランソワさん、これなら待っている人に知らせられるかもしれません。海賊が誰だったかとか、その人がどうなったかは要らないです。でも、この船がどこで消息を絶ったのかなら、知りたい人がいますよね」


「はい。ただ、神様から届いた資料をそのまま配るより、該当する船の部分だけを各国へ伝えて、照会してもらう方がよろしいと思います。家族へ知らせる方法も、その国ごとに違うでしょうから」


「そうしましょう。行方不明船の名前を拾って、分かった場所と時期だけ整理してもらいます。犯罪者の一覧は作らなくていいです」


 どろちゃんはもう一度、ロシア語の紙束を見た。


 六枚目の契約書がどこへ消えたのかは、結局分からない。


 神様も説明してこない。


 でも、港では古い私掠免許が回収され、海の向こうへ停止の文書が運ばれている。


 帰ってこなかった船の行方も、少しずつ分かり始めた。


 戦争そのものは、もう終わっている。


 そのあと海に残っていたものまで、ようやく片づき始めていた。


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第84章の小さな説明

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【18世紀初頭の私掠は、どのくらい大きかったのか】


 本章では、私掠停止の命令が出たあと、王宮の庭へ現れる船を数隻程度にしています。これは、もともとの私掠船が数隻しかなかったという意味ではありません。史実の18世紀初頭には、私掠は正規海軍を補う大規模な海上戦争の手段でした。


 英国では、高等海事裁判所が1702年から1713年の戦争と1718年から1720年の戦争で、合計1441隻に私掠免許を与えたことが確認されています。スペイン継承戦争期だけを見ても、フランス側の私掠船による拿捕と身代金目的の捕獲は、記録で確認できるだけでも少なくとも7000件に達します。ダンケルクだけで1685件の捕獲が数えられ、少なくとも792回の私掠航海が行われました。サン=マロでも236隻が私掠船として使われ、425回の出撃が記録されています。


 したがって、本章で問題になっているのは、数隻の海賊船を止める話ではありません。港、船主、出資者、船長、乗員、拿捕裁判、捕獲品の売却まで含む、大きな海上経済を止める話です。


 それでも王宮の庭へ現れる船が比較的少ないのは、五か国側では古い免許の回収と停止命令がすでに進んでいるうえ、海上で「襲撃に入った船が消える」「命令を出した者だけが急速に老いる」という目撃談が戻ってくるからです。利益を得るための私掠で、船そのものを失う可能性がほぼ確実になれば、免許の有無以前に船長や船主が出航をためらいます。遠隔海域のように命令も噂も届きにくい場所ほど、しばらく違反船が残ることになります。



【北アフリカの海賊は、一時的な現象ではない】


 史実の北アフリカでは、アルジェ、チュニス、トリポリ、サレなどを拠点とするコルセール活動は、17世紀や18世紀になって突然始まったものではありません。16世紀以降、地中海と大西洋で長く続き、船の拿捕、積荷の売却、捕虜の奴隷化と身代金、さらに「襲わないこと」と引き換えに国家から受け取る貢納までが結び付いていました。


 これは、単に港の外に無法者が住み着いていたという形ではありません。統治者が戦利品や捕虜から取り分を得ることもあり、船主や出資者が船を用意し、船長と乗員が航海し、捕虜を売る市場や身代金交渉まで存在しました。北アフリカ側にとって、海上襲撃は外交と財政にもつながる制度的な活動でした。


 規模を正確に一つの数字で表すことはできませんが、1580年から1750年だけでも北アフリカへ連行された英国人は数千人規模だったことが研究されています。また、16世紀から17世紀にカトリック修道会が行った22回の身代金交渉の記録だけでも、4680人の解放者が確認されています。これは捕虜全体ではなく、記録が残った特定の救出活動だけの数字です。


 つまり、本章で神様の仕組みが止めようとしているのは、長く続いてきた一つの「海の産業」です。船を沈めたり港を征服したりしなくても、襲撃に出た船が帰らず、捕獲品も身代金も持ち帰れなくなれば、その経済的な前提そのものが崩れます。



【独立後のアメリカと「国家予算の約20%」】


 この問題は、18世紀末のアメリカ合衆国で非常に分かりやすい形になります。独立以前の北米植民地の商船は、英国海軍と英国の外交関係の中で保護されていました。しかし独立すると、その保護から外れました。


 1785年、アルジェはアメリカとの戦争状態に入り、アメリカ商船を拿捕しました。当時のアメリカ連合政府には、十分な税収を集めて海軍を維持する力も、要求された貢納をすぐ支払う力もありませんでした。1794年になってようやく連邦議会が最初の6隻のフリゲート建造を認めます。


 それでも1795年、アメリカはアルジェとの講和と捕虜解放のために大きな支払いを行いました。ミシガン大学クレメンツ図書館の解説では、この年にアルジェへ支払った身代金と貢納など約100万ドルは、当時のアメリカ連邦政府の年間予算のおよそ20%に相当したとされています。数字の取り方には資料による差がありますが、「弱い新国家にとって無視できない財政負担だった」という点は動きません。


 この事例は、本作の北アメリカ政策ともつながります。植民地住民を民兵として武装し、陸上戦闘の訓練を与えても、それだけでは大西洋の商船を守れません。外洋の通商保護には、税を集め、軍艦を建造し、乗員を養成し、海外基地や外交交渉を維持できる国家規模の仕組みが必要です。


 一方で、植民地民兵へ与えた銃器と軍事訓練は、そのまま将来の宗主国に対する軍事力になり得ます。本作でどろちゃんが、北アメリカの戦争停止と同時に植民地民兵の新設・召集をやめ、既存民兵も解散させようとしているのは、このためです。植民地住民を軍事組織として育てることには政治的な危険があるのに、海上交通の安全という国家規模の問題まで解決してくれるわけではありません。第76章で決めた「植民地側に軍事力を育てない」という方針は、単なる将来の反乱防止だけではなく、軍事力をどの階層に持たせるかという制度設計でもあります。


 本作では、そのさらに前の1704年に、五か国の船を襲おうとした船そのものが帰港できなくなる仕組みが動き始めます。史実のアメリカが後に直面する「海賊へ金を払うか、遠洋海軍を作って戦うか」という問題を、港を砲撃することも新しい植民地民兵を育てることもなく、別の方法で消してしまうことになります。



【この説明で使った主な史実資料】


 ・Richard Platt, British Privateering Voyages of the Early Eighteenth Century

  1702~1713年、1718~1720年の英国私掠免許船1441隻。


 ・Patrick Villiers, Les corsaires du littoral

  スペイン継承戦争期のフランス私掠による拿捕・身代金目的捕獲7000件以上、ダンケルク1685件など。


 ・Bernard Capp, British Slaves and Barbary Corsairs, 1580–1750

  北アフリカのコルセールによって捕らえられた英国人と、身代金・奴隷化の制度。


 ・Office of the Historian, U.S. Department of State, The Barbary Wars, 1801–1805

  独立後に英国の保護を失ったアメリカ船、1785年のアルジェによる攻撃、1794年の6隻建造、1795年の条約と貢納。


 ・William L. Clements Library, University of Michigan, Early American Interactions with the Barbary States

  1795年のアルジェへの約100万ドルの支払いを、当時の年間連邦予算の約20%とする説明。



【サヴォイア王宮へ戻る船が少ない理由】


 五か国のうちサヴォイアについても、五か国間の私掠停止に反した船はサヴォイア王の宮殿の庭へ送り戻されます。転送先は港やトリノ市内のどこかではなく、他の君主国と同じく国家責任の中心である王宮の庭です。


 ただし、サヴォイア王宮へ戻る船が少ない理由は、単純にサヴォイアの海上活動が小さいからではありません。ヴィットーリオ・アメデーオ2世が公から国王になったことで、王国成立に反発する他のイタリア諸国や諸公から戦争行為を仕掛けられていました。サヴォイア側がそれに応戦する海上戦闘は、五か国相互の私掠停止に違反した行為ではなく、通常の戦闘として扱われます。


 したがって、海上で戦闘を行ったサヴォイア船がすべて王宮へ転送されるわけではありません。王宮の庭へ戻されるのは、五か国の船や積荷を私掠の対象にするなど、今回の取り決めに反した船です。このため英国やフランスほど多くの船が宮殿に積み上がらず、サヴォイア側の事例は少数になります。その少数例も五か国の電信網へ流され、他国の大量の事例と照合されます。



【イタリア諸国で船腹量が減っていく理由】


 サヴォイア以外のイタリア諸国は、五か国の取り決めには加わっていません。そのため、それらの国の船が五か国の船を襲おうとして転送されても、自国の宮殿や港へ戻ってきません。船は積荷ごと南極地域へ送られるので、国内から見ると「出港した船がそのまま行方不明になった」ようにしか見えません。


 地中海は港どうしが近く、単艦で近距離の航路を狙う海賊・通商破壊も起こしやすいため、大西洋の船団で起きたような「仲間の船が消えるのを多数の目撃者が見て帰港する」事例が少なくなります。五か国側では電信で事例を照合できますが、取り決めの外にいる小国・諸侯国には同じ情報網がありません。そのため原因をつかむまでの間、同じ種類の損失を繰り返します。


 ここで失われるのは船体だけではありません。積荷、武器、航海用具、船主や商人が投じた資本まで一度に失われます。船腹量が減ると商業輸送だけでなく軍事輸送も細り、港湾収入や関税収入も落ちます。小さな国家ほど数隻の損失が国力へ直接響きます。


 一方のサヴォイア王国は五か国の電信網から現象を早く知り、五か国船を私掠の対象にしないことで同種の損失を避けられます。他のイタリア諸国から仕掛けられた通常の戦闘に応戦することは別扱いなので、海上戦力を一方的に失う構造にもなりません。


 本作では、この海運力と財政力の差が短期間に積み重なり、他のイタリア諸国の国力を弱めます。さらに第83章でドイツ連邦共和国が成立したため、旧四か国管理区域に置かれていたフランス、イングランド、ネーデルラント、サヴォイアの部隊の一部が役目を終えます。本章では、その部隊をイタリア方面へ回します。ただし四か国共同指揮の征服軍ではありません。戦争当事国はサヴォイア王国なので、作戦指揮はサヴォイア側が執ります。フランス、イングランド、ネーデルラントは援軍を送り、四か国で兵員、武器、弾薬、食料、輸送などを分担して支える形です。


 海運力と財政力を失いつつある側に、四か国のまとまった陸上兵力まで来るため、多くの都市と諸侯は長い包囲戦を選ばず、降伏条件を確認して門を開きます。どろちゃんもミツバチちゃんで、武装解除すれば住民や守備兵を無用に殺さず、略奪を認めず、行政の実務を継続するという内容のビラを先行して配ります。その結果、大会戦や大規模な市街戦はほとんど起きず、この章のうちにサヴォイア主導で半島の統一が進みます。


 統一後は国名をイタリア王国へ改めますが、首都は移しません。王宮と中央行政がすでにあるトリノをそのまま首都とします。第73章で確認した「サヴォイア王という王号だけでは、未統治のイタリア諸国への自動的な領有権は生じない」という原則も維持されます。今回の統一は、王号を根拠に一方的に領有を宣言するのではなく、その後に起きた戦争、降伏、行政引き継ぎという別の過程によるものです。


【神様から来た高速事務用印刷機とカラーコピー機】


 本章でビラを大量に配る段階になると、従来の印刷所では版を作り、刷り、乾かす時間が飛行機の配布速度に追いつかなくなります。そこで神様から、高速事務用印刷機とカラーコピー機が、会議棟、領主館、丘の麓の役場の三か所へそれぞれ一組ずつ届きます。


 大量の文字中心のビラは高速印刷機、旗や図など色分けした方が読みやすいものはカラーコピー機へ回します。三か所で同時に印刷できるため、どろちゃんの空中散布と四か国軍の前進に必要な量を短時間で用意できます。


 少なくとも紙送りについては、21世紀の一般的な事務機より優秀で、紙詰まりを起こしません。用紙切れや人為的な停止は普通にありますが、連続して大量に通しても、反りのある紙を混ぜても、搬送部で紙が詰まって止まることがありません。


【ネーデルラントと東アジアの通商破壊】


 ネーデルラントの船が遠いアジア海域で通商破壊を行うこと自体は、本作だけの作り話ではありません。十七世紀初めのオランダ東インド会社は、平戸商館を東アジアでの活動拠点の一つとして使い、スペインやポルトガルとの抗争の中で、マニラやマカオ沖で船を攻撃し、中国船を捕えることもありました。


 一六一六年から二一年ごろには、平戸へ捕獲品を運び込み、軍需品を補給する使い方までしています。こうした活動はスペイン人やポルトガル人から幕府へ訴えられ、一六二一年に日本側から禁止されました。


 本章でハーグへ送られてくる船は、その八十年以上前の船そのものではありません。しかし、ネーデルラントの海上活動が北海や大西洋だけで完結していなかったことを踏まえ、遠いアジア・太平洋方面で通商破壊に従事していた船も、五か国の仕組みの対象になるようにしています。


【南へ送られた船】


 五か国の合意に加わっていない側の違反船は、南緯77度51分、東経166度45分付近、21世紀にスコット基地があった南極地域へ移されます。時間を越えて後世へ送られるわけではありません。


 人がいなくなった船にも食料、工具、帆布、索具、木材、炊事や暖房に使える燃料が残るため、生き残った者が複数の船から物資を集め、航行できる一隻を作る余地はあります。ただし、氷から離れることができても、その先には南極を取り巻く強い偏西風と低気圧の多い外洋があります。


 したがって「絶対に帰れない場所」ではありませんが、「転送されたあと、そのまま北へ走れば帰れる場所」でもありません。船と人を残したまま、帰還の方法だけは自分たちで考えなければならない場所として扱っています。



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