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83貴族令嬢は帝国の後片付けを見ます。    継承戦争負け組の後片付けと分裂ドイツ

第八十三章 貴族令嬢は帝国の後片付けを見ます



 ライデン大学の声を初めて遠くから聞いた翌朝、どろちゃんは朝食のあとでお父様の部屋へ呼ばれました。


 休暇から戻ったばかりなので、急いで仕事を探すつもりはありませんでした。けれど、お父様の机には見覚えのある大きな地図と、四か国から届いた電信の写しが何枚も広げられています。


「北アメリカの会議なら、昨日終わったよ」


「そちらではない。帝国の後始末の方だ。お前が山へ行っている間にも、四か国の管理区域では話が進んでいた」


 神聖ローマ帝国が崩れたあと、フランス、イングランド、ネーデルラント連邦共和国、サヴォイアの四か国は、それぞれ自分たちの補給が届く範囲へ部隊と実務者を入れていました。


 目的は征服ではありません。


 給金を失った旧帝国軍の兵が武装したまま流れ出さないようにすること。国境へ押し寄せる避難民を食べさせること。街道と港を開き、町の行政が残っているところでは、それをもう一度動かすこと。


 帝国側から治安維持を求める正式な書面も作ってあります。


 それから何か月かが経ちました。


 武装した集団はかなり減りました。旧兵士の身元を確認し、銃や砲を集め、帰れる人には帰るための旅費や食料を渡し、町に残る人には別の仕事を探します。


 市場も動き始めています。


 ところが、うまくいったからこそ別の問題が出ていました。


「いつまでも外国軍を置いておくわけにはいかない、ということですね」


 フランソワさんが電信の写しを見ながら言いました。


「そうだ。金がかかるうえに、治安が戻った土地をいつまでも占領していれば、今度は四か国の方が何をしているのかと問われる」


「じゃあDDRへ返すの?」


「それで済めば、とっくにそうしている」


 お父様はライン川へ指を置きました。


 川の西側では、フランスとネーデルラントが治安を安定させています。北ではネーデルラントとイングランドが、北海側から東へ沿岸部をつないでいます。南ではフランスとサヴォイアが、ザール方面からスイス北側を経てオーストリア近くまでの山地と交通路を支えています。


 帝国崩壊直後なら、全部まとめて「一時的な管理区域」と呼べました。


 今は違います。


 町ごとに役所が動き、税を集め、市場を管理し、警察に相当する仕事をする人もいます。電信線もつながり始めました。


 そして、ライン川では人口の動きまで起きていました。


「東側から西へ渡る人がまだ多いんだ」


「多い。だからDDRの議会は、都市部の東岸に柵を作り始めた」


 どろちゃんは地図を見ました。デュッセルドルフ、ケルン、ボン、コブレンツ、マインツ、マンハイムと、ライン川にまたがって市街地が広がる場所がいくつもあります。


 この世界では、ライン川を国境として扱ったところで、市街地だからといって線を曲げません。川の両側に町が続いていれば、その町はそのまま二つの国家へ分かれます。


「町のところだけ西側へ出っ張らせたりしないんだね」


「しない。治安維持のために入った四か国が、便利だからという理由で東岸まで切り取れば、それこそ領土を奪ったことになる。ラインを境にした場所は、ラインのままだ」


 その結果、東岸の家から橋を渡れば、違う行政の町へ出られるところまであります。


 西側では仕事があり、市場が動き、四か国の通貨や共同銀行の決済も使いやすい。東側のDDRも急いで国家を作っていますが、帝国崩壊から全部を同時に立て直している最中です。


 どちらが民族的に自分の国か、という話ではありません。


 暮らしやすい方へ行く人が出ます。


 DDR側が人口流出を止めようとして東岸へ柵を作り始めると、四か国側はさらに困りました。


「このまま軍を引いたら、柵のこっち側までDDRへ渡すことになる。でも、住んでいる人がそれを望んでいるとは限らない、と」


「そういうことだ。かといって、フランスやイングランドの領土にする気もない。ネーデルラントもサヴォイアも同じだ」


「それなら、四か国の領土にもせず、DDRへそのまま渡すのでもなく、新しいドイツの国を作るの?」


「現地の行政側からも、ほとんど同じ案が出ている。外国軍の管理を終わらせるなら、自分たちで行政を引き継ぎたいということだ」


 お父様は別の紙を渡しました。


 四か国だけで決めた文書ではありません。


 ライン西岸、北部沿岸、南部山岳帯で実際に行政をしているドイツ側の代表が集まり、四か国側と何度も協議しています。


 別々の国が管理してきた地域なので、法律も役所の動かし方も少しずつ違います。それを一つの中央政府へいきなり押し込むのではなく、それぞれの地域政府を残して、その上に共通の連邦政府を置く。


 国の名前も決まっていました。Bundesrepublik Deutschland、ドイツ連邦共和国です。


「つまり、みんなが西ドイツと呼び始めているところが、正式にはドイツ連邦共和国になるんだね。王様を置く話は出なかったの?」


「置かない。そもそも誰を王にするかでまた揉めるし、将来DDRと一つになる話が出たとき、王朝を一つ増やしておかない方が話は簡単だろう。通称としては、もう西ドイツが広がっているらしい」


 四か国は、最初から永久に別のドイツ国家を作ろうとしていたわけではありません。外国軍による管理は終わらせたいものの、すでに動いている地域行政をDDRへ無条件で渡すこともしない。そのため、行政そのものをドイツ側へ引き継ぎ、外国軍は段階的に役目を減らすことになりました。


「それで、連邦政府はどこに置くの? 海岸側や南の地域からも使いやすいところが必要でしょう」


「ボンの西岸側だ。ライン沿いだから交通をつなぎやすいし、四か国の管理区域から引き継ぐ行政拠点としても使える」


 どろちゃんは地図のボンを見ました。町を貫くライン川の向こう側は、もうDDRです。


「首都の窓から川の向こうを見たら、場所によってはDDR側の柵まで見えるんだ。国境の町をそのまま首都にするみたいで、ずいぶん変わってるね」


「場所によっては、かなりよく見えるだろうな。帝国が普通に終わらなかった結果だ。地図まで普通になるとは限らん」


 それは、たしかにそうでした。



          *



 午後になると、会議棟の大きな白板地図を見に行きました。


 この地図は、神聖ローマ帝国の合法で現実的な領域変更に合わせて、神様が勝手に描き直してくれます。


 紙の上で誰かが宣言しただけでは変わりません。


 実際の行政と正式な取り決めがそろい、国として動き始めると変わります。


 ライン川西岸、北海から東へ続く沿岸部、ザール方面から南の山地を経てオーストリア側へつながる地域では、それまで四か国の管理区域として塗り分けられていた部分が、一つの国としてまとまり始めていました。


 ただし、同じ色で平らに塗られているわけではありません。


 内部の州境や地域区分は残っています。


「地図の中まで一枚に塗りつぶされていないんだね。本当に、違う管理区域を束ねて作った連邦なんだ」


「占領区域ごとに制度が違ったのですから、最初から全部同じにする方が無理でございましょう」


 フランソワさんの言うとおりでした。


 そこへ、お父様がもう一枚の電信を持ってきました。


「次はウィーンからだ。こちらは新しく作るというより、帝国がなくなったあとも動き続けている行政を、独立した国として整理する話になっている」


「西ドイツとは成立の仕方が全然違うんだね。ウィーン側は、誰かが占領して作り直したわけじゃないもの」



          *



 ウィーンでは、帝国が崩れる前からエルレンフェルト家が小さなタウンハウスを持っていました。


 宮殿ではありません。


 お父様が長く仕事をするときに泊まり、少人数の使用人が暮らし、書類を置き、客を一人か二人泊められる程度の家です。


 町の外には、ミツバチちゃんを降ろすために商人を通して買った草地もあります。


 そこには、帰りの飛行に使う神様の燃料タンクも置かれています。


 帝国が壊れ始めたとき、エルレンフェルト側が最初に考えたのは、オーストリアという新国家を作ることではありませんでした。タウンハウスにいる人と付き合いのある商人を守り、草地までの道路を使えるようにして、飛行機が着陸できる状態を保つことから始まっています。


「それだけ守るつもりだったのに、だんだん広がったんだよね」


「家と飛行場だけ安全でも、そこへ行く道で荷物を全部取られたら意味がないからな」


 道を守れば、市場も必要になります。


 市場を動かすには行政が必要です。


 行政を動かすには、税と帳簿と裁判と警備が必要です。


 旧帝国の宮廷で実務をしていた人たちも、全部逃げたわけではありません。税を扱う人、土地台帳を管理する人、裁判所で働く人、河川や道路を管理する人、倉庫や関税を扱う人が残っていました。


 彼らの多くにとって、エルレンフェルトは突然攻め込んできた敵ではありませんでした。


 どろちゃんたちは皇帝の命を助けています。


 ウィーンへ薬を運び、以前から商人と取引し、町の外には正式に買った飛行場用地があります。


 だから、サヴォイア側の支援とエルレンフェルト側の連絡網を使いながら、残っている役所をそのまま動かす話ができました。


「それで、商人さんがまた入ってきた」


「安全に売買できると分かればな。お前も少し金を出しただろう」


「わたしも倉庫と道路と工房に使う分は出したよ。でも、それで国を買ったなんて話にはならないでしょう」


「そこを分かっているならいい。お前の投資は、行政を動かすための経済基盤の一部だ。統治権そのものを買ったわけではない」


 そこは、どろちゃんも最初から同じつもりでした。


 ウィーンを中心に、オーストリア側の行政は思ったより早く動き始めました。


 そうなると、今さら遠くのDDRから新しい役人を送り込み、全部を組み直す必要がありません。


 住んでいる人も、旧帝国へ戻してほしいと大騒ぎしているわけではありません。


 そもそも、その帝国はもうありません。


 そこで、現地行政、旧帝国の実務者、商人、地域の代表、サヴォイア側、そしてハプスブルク家の間で整理を進め、オーストリアは独立した国家として扱うことになりました。


「皇帝陛下も、オーストリアを独立した国として扱うことに同意したの?」


「した。グラン・カナリアから正式な文書が届いている。ただし、人の国を売っているわけではないぞ。昔の王朝が持っていた統治上の権利と、家の私有財産を分けて整理しているんだ」


 お父様は、どろちゃんの顔を見てから続けました。


「だから、だんだん国の売人みたいになってきた、などと本人の前で言うなよ。お前が何を考えたかくらいは分かる」


「まだ口には出してないのに。先に禁止されたら、ちょっと損した気分になるよ」


 どうして分かったのかは聞かないことにしました。



          *



 オーストリアが独立したからといって、昔ハプスブルク家が持っていた土地が全部オーストリアになったわけではありません。


 ボヘミアはDDRです。


 それ以外にも、まだ帰属を整理しなければならない土地が残っています。


 今決まったのは、ウィーンを中心に実際に動いているオーストリアの国家を、誰かの一時管理区域ではなく、独立した国として扱うことでした。


「オーストリア以外に残っている旧ハプスブルク家の土地は、また陛下と一つずつ相談することになるの?」


「そうなる。だが、今までよりはやりやすい。『帝国を元に戻すために全部取っておく』という前提がなくなったからな」


「でも、カール大公は帝国を復活させたいと思っていたでしょう。そこは大丈夫なの?」


 お父様が少しだけ困った顔をしました。


「そこについて、ちょうどグラン・カナリアから別の知らせが届いている」



          *



 カール大公は、史実なら後に皇帝カール六世になる人です。


 けれど、この世界の1704年にはまだ十八歳で、皇帝ではありません。


 スペイン王位を求めていた戦争も、もう終わっています。


 フェリペ五世がスペイン王として残ることは、すでに決まりました。


 そのためカール大公は、戦争中なら簡単には通れなかったスペイン南部のアルヘシラスまで来ることができました。ジブラルタル海峡に面する町です。


 そこまで来た目的は新しい戦争ではなく、父親を迎えに行くことでした。


 帝国が崩れ、皇帝一家がカナリア諸島へ移ったという知らせは届いていました。


 ただし、どのような暮らしをしているのかまでは分かりません。


 カール大公は、父親を連れ戻し、できるなら神聖ローマ帝国をもう一度立て直すつもりでした。


 アルヘシラスで船を一隻チャーターしました。


 大きな艦隊ではありません。


 兵を積んだ遠征でもありません。


 本人と少人数の付き人を乗せ、カナリア諸島へ向かうための船です。



          *



 航海の最後まで、予定どおりなら問題はありませんでした。


 カナリア諸島が近づきます。


 もう長い大西洋航海を続ける必要もありません。


 ところが、島が近いから安全とは限りません。


 海底は一様ではなく、風と潮もあります。


 船は接近中に浅いところへ乗り上げました。


 船体が傾き、浸水が始まります。


 すぐに沈むほどではありませんでしたが、そのまま航海を続けられる状態でもありません。


 カール大公が父親を救出するはずだった航海は、島を目前にして、自分たちが救助を待つ航海になりました。



          *



 救助に来たのはスペイン側でした。


 船員と乗客を収容し、けが人を確認し、使える荷物を移します。


 そこで、救助された若い男の身元が分かりました。カール大公、つい最近までスペイン王位をフェリペ五世と争っていた人です。


 戦争中なら、話は非常に面倒になったでしょう。


 しかし今は、王位そのものが決着しています。


 カール大公も武装した軍隊を連れてきたわけではありません。


 本人が求めたのは一つだけでした。


「父と家族がグラン・カナリアにおります。そこへ送っていただきたいのです」


 スペイン側は、その場で勝手に判断しませんでした。


 島の行政へ連絡し、必要な確認を取り、グラン・カナリアへ送る手配をしました。


 救助と移動にかかる費用も、スペイン側で処理されました。


 船を失った若い大公は、少し前まで敵だった国の船と役人に助けられ、希望どおり父親のいる島へ向かうことになりました。



          *



 グラン・カナリアでカール大公を最初に見つけたのは、家族の側でした。


 港から知らせが入り、家の人たちが迎えに出ています。


 レオポルト一世は、息子が船で来るという知らせより先に、遭難したという知らせを聞いていました。


 だから、実際に歩いてくる姿を見たときには、帝国の話をする余裕はありませんでした。


「遭難したと聞いたときは、ここまで来てお前まで失うのかと思った。よく無事で着いた」


「ご心配をおかけしました、父上。船は無事ではありませんでしたが、私はこのとおりです。スペイン側の船に拾ってもらえました」


 それだけ言うと、しばらく政治の話はありませんでした。


 母親をはじめ、先に島へ移った家族の人たちもいます。ウィーンから急いで逃げたときに持ち出せなかったものはたくさんありますが、人は生きています。


 カール大公がアルヘシラスから海を渡ってきた一番の目的は、それで半分以上終わってしまいました。



          *



 それでも、最初の数日は真面目に帝国復興の話をしました。


 カール大公は地図を求め、父親から大陸の現状を聞きました。


 父親から聞かされたのは、DDRがすでに国家として動き、ライン川西岸と北部沿岸、南部の旧管理区域ではドイツ連邦共和国が成立し、オーストリアも独立したという現実でした。旧帝国の軍隊は以前の形ではもう存在せず、諸侯の中にはカナリア諸島へ移った家もあれば、大陸側で別の仕事を始めた人もいます。


 何より、それぞれの土地では住民がすでに新しい行政の下で暮らし始めていました。


「帝国を復活させるなら、名前を掲げるだけでは済まない」


 レオポルト一世は、息子を笑いませんでした。


「役人を戻し、税を集め、軍を作り、離れた土地へもう一度命令を届かせる必要がある。従わない地域があれば、最後には力の問題になる」


「父上は、それをなさるおつもりはないのですか」


「ない。少なくとも、私はもう一度大陸を戦場にしてまで皇帝へ戻りたいとは思わん」


 カール大公はすぐには答えませんでした。まだ十八歳ですから、自分ならできると言い切ることもできます。


 けれど、父親が言っていることも分かります。


 帝国を復興するという言葉だけなら美しい。


 実際にやることは、すでに別の政府を持つ町へ役人を送り、税を取り、必要なら軍を置くことです。


 しかも、自分たちが今暮らしているグラン・カナリアはスペイン側の協力で用意された島でした。


 アルヘシラスから乗った船が座礁したとき、自分を助けたのもスペインです。


 父親と母親を殺した敵国ではありません。


 王位を争った相手の国が、家族を安全な島へ移すことを認め、自分まで海から拾って送り届けてくれています。


「ここまで聞くと、フェリペをもう一度敵にしてまでスペイン王位を争い直す理由も、帝国を戻すために新しい戦争を始める理由も、私にはだんだん分からなくなってきました」


「私も同じところまで考えた。急いで結論を出す必要はないから、まず島を見て、家族と暮らしてから決めればよい」


 その日の話は、そこで終わりました。



          *



 四日目になると、カール大公は島の中を少し見て回りました。


 海岸だけの平らな島ではありません。中央部には高い山地があり、谷が深く、場所によって景色も気候も変わります。町には市場があり、港には船が来て、食べるものにも困りません。家族が生活するには十分でした。


 自分が一人増えたからといって、島の暮らしが壊れることもありません。


 五日目には、父親と昼食をとりながら大陸から届いた書類を読みました。


 六日目には、旧帝国のどの地域がまだ整理されていないのかを確認しました。


 それでも、軍を集める手紙は書きませんでした。


 七日目の朝食が終わると、カール大公は父親のところへ行きました。


「父上。帝国復興の件ですが、私はやめようと思います」


 レオポルト一世は、驚くより先に息子の顔を見ました。


「一週間で結論が出たのか。思っていたより早かったな」


「はい。ただ、島が気に入ったからだけではありません。家族は無事でしたし、大陸ではすでに別の行政が動いています。それを全部壊して帝国へ戻すために、また戦争を始める理由を私は見つけられませんでした」


「それなら、急いで大陸へ戻る必要はない。自分で考えて、その結論になったのなら十分だ」


「ありがとうございます。それに、ここで暮らすのも悪くありません」


 最後にそれを付け加えると、レオポルト一世は少し笑いました。


「そちらが本音ではないのか」


「両方です。政治の理由だけなら、もう少し時間をかけて格好よく結論を出したかもしれません」


「そこまで含めて正直に言うなら、なおさらよろしい」


 皇帝になるはずだった十八歳の青年は、そこで帝国復興をやめました。


 史実なら後にカール六世と呼ばれる人ですが、この世界には、もうその帝位がありません。


 家族が無事であることを確かめるために南の島まで来て、そのまま家族のところへ戻りました。



          *



 数日後、エルレンフェルトへグラン・カナリアから手紙が届きました。差出人はレオポルト一世です。


 手紙には、カールが無事に着き、遭難時にはスペイン側の世話になったこと、帝国復興を主張していたものの一週間ほどで考えを変え、当面は家族と一緒に島で暮らすことが書かれていました。


 そこまで読んで、どろちゃんはお父様へ紙を渡しました。


「この手紙を読む限り、史実ならカール六世になる人の進路も、これで完全に変わったみたいだね」


「今はまだカール大公だが、帝国を復活させないなら、この世界で六世と呼ばれる皇帝になることもないだろう」


 どろちゃんは白板地図を見ました。そこにはDDRとドイツ連邦共和国があり、ウィーンを中心とするオーストリアも独立した国として現れています。


 その外側には、まだ整理の終わっていない旧ハプスブルク家の土地も残っています。


 全部が終わったわけではありません。


 でも、一つだけ大きく変わりました。


 誰かが「いつか帝国を元に戻すから」と言って、地図を昔のまま凍らせておく理由がなくなりました。


「じゃあ、残りも一つずつ決められるね」


「そうだな。今度は、そこに住んでいる人と、実際に行政を動かせる側を見て決めることになる」


 お父様は、新しい紙を机の中央へ置きました。


 帝国を作り直すための地図ではありません。


 帝国がなくなったあとにも、人が普通に暮らせるようにするための地図でした。



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第83章の小さな説明

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【本作の「西ドイツ」】


 本章で成立する「西ドイツ」は、後世の史実に存在した西ドイツを1704年へそのまま移したものではありません。


 正式名称はドイツ連邦共和国、Bundesrepublik Deutschlandです。


 神聖ローマ帝国崩壊後、フランス、イングランド、ネーデルラント連邦共和国、サヴォイアの四か国が治安維持を担当した地域で、武装解除、難民対応、交通、行政、市場の再建が進んだあと、外国軍による管理を終わらせるために成立します。


 四か国が領土として併合するのではなく、現地のドイツ側行政組織と協議し、地域ごとの行政を残したまま連邦政府へまとめます。そのため、成立時から連邦共和国です。


 主な範囲は、ライン川西岸側、ネーデルラント国境から東へ続く北部沿岸地域、そしてザール方面からスイス北側を経てオーストリア近くへ続く南部の地域です。史実の1949年の西ドイツとは形が大きく異なります。



【ライン川をそのまま国境にする】


 本作では、ライン川を境界とした区間で、市街地だけを避けて国境線を曲げません。


 そのため、デュッセルドルフ、ケルン、ボン、コブレンツ、マインツ、マンハイムなど、ライン川の両側へ都市圏が広がる場所では、川を挟んで別々の国家になります。


 DDR側は人口流出を抑えるため、都市部の東岸側へ柵を作り始めます。これは西側が住民を閉じ込めるための柵ではなく、DDR側が東から西へ出る人を減らすためのものです。


 ドイツ連邦共和国の首都は、ライン川西岸側のボンに置かれます。そのため首都から川の向こうのDDR側を直接見ることのできる、非常に変わった国境都市になります。



【ナーロッパ設定と民族国家】


 ここは、本作の歴史を読むうえで重要な設定です。


 本作は史実のヨーロッパそのものではなく、ライトノベル的な「ナーロッパ」を基礎にしています。広い範囲でナーロッパ語が共通語として使われ、平地部では生活文化の差も史実より小さくなっています。


 したがって、史実と同じ地名、王家、都市が登場しても、史実と同じ民族意識が存在するとは限りません。


 後世の史実で大きな力を持つ「ドイツ語を話すドイツ民族だから一つの国家へ集まる」という考え方を、この世界へそのまま当てはめることはできません。


 オーストリアの住民が、民族的な理由だけでDDRやドイツ連邦共和国との統一を求めるとは限りません。史実でハンガリー人と呼ばれるマジャール系住民についても、本作では周辺との言語・生活文化の差が史実より小さいため、民族国家形成の力学は大きく変わります。


 本作では国境よりも、治安、税制、商業、交通、行政の質、財産の保護、移動の自由といった日常生活の条件の方が、国家への帰属を左右しやすくなっています。


 また、平地部で文化差が小さいため、チロルなど地形と気候が大きく異なる山岳地域へ入って初めて、生活様式そのものの違いが目立つこともあります。本作では「国が違うから異文化になる」というより、地形や気候の違いが文化差を作る場合が多くなっています。



【オーストリア独立の経路】


 本作のオーストリア独立は、ドイツ連邦共和国とは成立経路が違います。


 四か国の占領区域から新国家へ移行したのではありません。


 エルレンフェルト家は帝国崩壊以前からウィーンに小さなタウンハウスを所有し、郊外にはミツバチちゃん用として商人を通じて購入した草地があります。そこには神様から与えられた燃料設備もあります。


 帝国崩壊時、最初の目的は新国家建設ではなく、そこにいる使用人、取引のある商人、家屋、飛行場、道路を守ることでした。


 しかし、家と飛行場だけを守っても、道路、市場、倉庫、税、警備、裁判が機能しなければ維持できません。そのため保護の範囲が行政全体へ広がっていきます。


 旧帝国の宮廷や行政で実務をしていた人々も残っており、彼らにとってエルレンフェルトは皇帝の命を助け、以前からウィーンで活動していた相手です。そのため、単純な外国の侵略者として扱われません。


 サヴォイア側の支援、商人の投資、どろちゃん自身の投資も加わり、ウィーンを中心とする行政が独立して動けるようになったため、その状態を新しいオーストリア国家として整理します。



【旧ハプスブルク領が全部オーストリアになるわけではありません】


 オーストリア独立によって、旧ハプスブルク家の領地が自動的に全部オーストリアへ入るわけではありません。


 ボヘミアはすでにDDRです。


 それ以外の旧ハプスブルク家領についても、それぞれの行政、交通、地域の事情を見ながら別に整理します。


 本章ではオーストリア国家の独立だけを確定し、旧ハプスブルク家領全体の最終国境までは決めていません。



【カール大公】


 本章のカール大公は、史実で後に神聖ローマ皇帝カール六世となる人物です。


 1704年の本作ではまだ十八歳で、皇帝ではありません。


 史実ではスペイン継承戦争でスペイン王位を争いますが、本作では戦争が早期に終わり、フェリペ五世のスペイン王位がすでに確定しています。


 そのため、カール大公がアルヘシラスまで来られること自体が、スペインとの戦争が終わったことを示しています。



【スペイン側による救助】


 カール大公はアルヘシラスから船をチャーターし、父レオポルト一世と家族を迎えるためカナリア諸島へ向かいます。


 本章では、到着直前に船が浅瀬へ乗り上げて航行不能となり、スペイン側に救助されます。


 スペイン王位を争った本人ではありますが、すでに戦争は終わっています。軍隊を率いて再侵攻してきたわけでもないため、必要な確認のあと、本人の希望どおりグラン・カナリアの家族のもとへ送られます。


 救助と移送の費用もスペイン側が負担します。



【グラン・カナリアとハプスブルク家】


 グラン・カナリアは、帝国崩壊時にハプスブルク家の避難先として用意された島です。


 島に以前から暮らす住民がハプスブルク家の所有物になるわけではありません。住民の権利や行政を保ったうえで、王家が安全に暮らせる統治の形をスペイン側と調整しています。


 カール大公一人が加わったからといって、島全体の人口や生活条件が大きく変わるわけではありません。


 また、もし温暖で人の暮らせるカナリア諸島を使えなければ、欧州本土の政治から十分離れた安全な避難先は急に選択肢が少なくなります。本作でスペインがカナリア諸島を提供したことは、旧王家を殺さずに帝国を解体するうえで非常に大きな意味を持っています。



【帝国復興を一週間でやめること】


 カール大公は、南の島が気に入ったという理由だけで政治的判断を放棄したわけではありません。


 父と家族が生きており、救出という最初の目的が達成されています。


 さらに、DDR、ドイツ連邦共和国、オーストリアなどではすでに新しい行政が動いています。帝国を復興するには、それらを再び従わせ、税と軍を集め、場合によっては戦争を始めなければなりません。


 しかも家族の避難先を提供し、自分を遭難から救助したのは、直前まで王位を争っていたスペインです。


 その現実を確認したうえで、「帝国を復興するために新しい戦争を始める理由がない」と判断します。


 そこへ、温暖で安全なグラン・カナリアで家族と暮らせるという非常に分かりやすい利点が加わり、一週間ほどで帝国復興をやめる結論になります。


 人物を愚かにして笑わせるのではなく、合理的に考えた結果と南の島の暮らしが同じ方向を向いた、という場面です。


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