82貴族令嬢は氷河へ降りてラジオを聞きます グリンデルワルトから帰ってライデン大学ラジオのテスト
第八十二章 貴族令嬢は氷河へ降りてラジオを聞きます
次の日も、どろちゃんとフランソワさんはグリンデルワルドのホテルでのんびりしていました。前日は高地での離着陸試験を何度も行ったので、朝から急いで何かをするつもりはありません。
ただし、ミツバチちゃんには一つだけ準備がありました。
持ってきていた雪上用のそりを、車輪へ取り付けます。車輪そのものを外すのではなく、草地から離陸したあと、雪や氷の上へ降りるための補助装備です。
「今日は試験じゃないよね」
「はい。本日は遊覧飛行でございます」
フランソワさんはそう答えましたが、どろちゃんは脚まわりをもう一度見ました。遊びに行く日でも、取り付けが甘ければ困ります。
昼前には準備が終わり、インターラーケンへ向かいました。
サヴォさんたちは、別荘の近くで待っていました。前日にトゥーン湖で遊んだ一行ですが、今日は山を上から見る日です。
ミツバチちゃんへ乗り込むと、どろちゃんはすぐ南へ向かいませんでした。
アイガー、メンヒ、ユングフラウの山塊を、風下側から低く越えるような飛び方はしません。まず東へ回り込み、山塊の東側を十分な余裕を持って通過してから、南側の風上へ出ます。
雪をまとった高峰が、機体の右側へ大きく並びました。
そこから山塊の南側を西へ進みます。
今日の目的地は、ずっと高い雪と氷の上でした。後の時代にユングフラウヨッホやスフィンクス展望台と呼ばれる場所の南側に広がる氷河です。
もちろん、どこへでも降りられるわけではありません。
どろちゃんは何度か上空を通り、雪面の色、筋、割れ目、傾斜を見ました。フランソワさんも風と進入方向を確認します。クレバスの多そうな場所や傾斜の大きいところは最初から外し、着陸してから再び離陸できることまで考えて場所を選びました。
「ここならいけそう」
「風も使えます。離陸時には、わずかな下り勾配と向かい風を同時に使えそうでございます」
どろちゃんはもう一周してから進入しました。
雪上用のそりが最初に雪へ触れ、ミツバチちゃんは白い面を長く滑りました。速度が落ちるのを待って停止します。
エンジンを止めると、外は夏とは思えない景色でした。
サヴォさんたちは、王様の一行とは思えないほど普通に雪へ出ていきました。靴の下で雪が鳴り、少し離れれば青みを帯びた氷が見えます。真夏なのに、周囲は雪と氷ばかりです。
どろちゃんとフランソワさんも機体から離れすぎない範囲で歩きました。雪を触り、氷を眺め、山の向こうに広がる景色を見ます。政治の話はありません。今日はただ遊びに来ただけでした。
帰る前に、どろちゃんはもう一度風を確かめました。着陸前に選んだとおり、氷河のわずかな傾斜を下る方向が、そのまま風へ向かう方向になっています。
ミツバチちゃんは雪上を滑り始めました。急に機首を上げません。そりの抵抗を受けながら速度を増し、十分に飛べる速さになったところで自然に雪面を離れます。
帰りは同じ景色をなぞりませんでした。今度は山塊の西側へ回り、そこから北へ抜けてインターラーケンへ戻ります。
サヴォさんたちを別荘の近くで降ろすと、どろちゃんとフランソワさんはグリンデルワルドへ戻りました。
*
さらに次の日も、午前中はホテルでゆっくり過ごしました。
今日はサヴォさんたちの帰国日です。
昼を過ぎてからミツバチちゃんでインターラーケンへ行き、一行と荷物を乗せました。
トリノへ帰るだけなら、もっと直接的な経路も考えられます。しかし今日はブリーグへ向かう経路を取らず、まず西へ向かいました。
モントルー上空へ出ると、レマン湖の東部をかすめます。そこからローヌの谷に沿うように進み、マルティニーを通過して南側の山地へ入りました。
モンブラン山塊は東側から抜けます。
さらに南へ進み、サヴォさんの本拠であるトリノへ向かいました。
トリノの滑走路へ降りると、サヴォさんたちはそこで帰宅です。どろちゃんたちは荷物を降ろし、別れの挨拶を済ませました。
滑走路の横には、すでに神様の燃料タンクができています。
ミツバチちゃんへ給油すると、どろちゃんは操縦席へ戻りました。
帰路は景色をたどりません。INSへ現在地と目的地を設定します。現在地はトリノ、目的地はエルレンフェルトの3000m滑走路です。
「帰ろうか」
「はい」
離陸すると、あとはINSの表示を使って帰りました。
エルレンフェルトへ近づくころには夕方になっていましたが、夜にはなりません。
今日は、その条件を使ってもう一つ確認します。
3000m滑走路には計器着陸のための誘導設備がすでに設置されています。近郊で離着陸するときだけ使うのではなく、遠方からINSで帰ってきた機体が、そのまま着陸誘導へ移れるかを一連の流れとして確認することにしました。
滑走路は目で見えています。それでも今日は、見えているから使わないという飛び方はしません。
INSで目的地へ近づき、着陸誘導を捕捉し、表示と実際の滑走路位置を照合しながら進入します。
最後まで異常はありませんでした。
ミツバチちゃんは3000m滑走路へ正常に着陸しました。
速度を落とし、機体と計器に異常がないことを確認すると、どろちゃんはそのままもう一度離陸しました。今度はすぐ近くの旧滑走路へ移動するだけです。
旧滑走路へ降りると、脚まわりやそりの取り付け部、機体下面などを簡単に確認しました。氷河へ降りたあとも、トリノまで飛び、そこから帰ってきたあとも、特に異常はありません。
ミツバチちゃんを格納庫へ入れ、どろちゃんとフランソワさんは領主館の方へ戻りました。
*
ホテル棟では、イングランドとフランスの人たちが夕食を終えていました。
前の二晩は夕食後にも酒を飲んでいたそうですが、三日目の今日は奥様方に止められています。ロビーのテーブルには紅茶とケーキが並び、会議室にいたときよりずっと柔らかい雰囲気で話が続いていました。
そこに、いつもの人がいました。トルシー侯です。
どろちゃんの姿を見つけると、すぐに席を立ってこちらへやってきました。
「ちょうどよいところへお戻りになりました。先ほど、すべて調印いたしました」
「終わったの?」
「はい。途中の案は、その都度本国へ電信で送っております」
返事を受けながら詰めてきたので、調印直前になって本国へ持ち帰り、相談し直す必要もありませんでした。
三日間の話し合いは、すでに正式な文書になっていました。
現在ある植民地は、そのままにします。
イングランドとフランスが、相手より先に施設を作ろうとして同じ地域へ重複して投資し、互いの植民地利益を削りながら軍事費まで増やす競争もやめます。
私掠船については、四か国とポルトガルの船を襲うことを禁止しました。これから新しい私掠免許も出しません。決められた規則を無視して襲撃を続ける船は、私掠船ではなく海賊として扱います。
現地の民兵は解散します。農民は農業へ、職人は工房へ、商人は商売へ戻します。民兵として銃を渡し、軍事訓練を続けることはしません。
正規軍の不足を植民地住民の徴兵で補うこともやめます。
「軍務を担当する方々も、現地で兵士を育て続けることには問題が多いと考えたようです」
兵士が足りないたびに植民地の人々を集めれば、武器を渡し、部隊として動く方法まで教えることになります。
本国のために育てた兵士が、将来も本国のためだけに戦うとは限りません。独立や内乱が起きたとき、本国軍と戦える兵士を本国自身が育ててしまうことにもなります。
北アメリカには、新しい銃器工場や火薬工場も建設しません。すでに民間へ渡っている銃を一斉に取り上げることはしませんが、補給はせず、新しい武器も売りません。
ネイティブアメリカン同士の争いにも加担しないことになりました。一方へ武器を渡してもう一方と戦わせたり、イングランドとフランスが別々の集団を支援して代理戦争を続けたりすることもしません。
「財務を預かる方々の賛成が、とくに強うございました」
トルシー侯は少し笑いました。
北アメリカで相手の利益を減らすために金を使い、自分たちの利益まで減らして、そのうえ戦費も払う。財務を担当する側から見れば、続ける理由のない競争でした。
正規軍そのものはなくしません。ただし、四か国+ポルトガルの五か国同士で戦うためではなく、それ以外からの軍事的な侵入を防ぐ連合軍として運用します。
沿岸部では共同統治区域を増やします。大陸西部はイングランドとフランスの共同植民地として先に確保し、テキサスなど南部も共同統治とします。
そして大陸中央部を、武装した入植者が少しずつ押し広げていくフロンティアにはしません。
「ずいぶん決まったね」
「三日ございましたので」
どろちゃんが遊びに出かけていた間にも、会議は普通に進み、本国との電信も往復し、さきほど署名まで終わっていたのでした。
*
その夜、ロビーで歓談していた人たちも、どろちゃんが何か始めると聞いて、ホテル棟のレストランの一角へ集まってきました。
テーブルの上には、箱形の受信機とスピーカーがあります。
アンテナは専用の塔ではありません。斜行エレベーターの斜面に沿って張ったロングワイヤーを使います。高低差も距離もすでにあるので、無線のためだけに大きな鉄塔を新設せずに済みました。
ライデン側の送信アンテナも、本来欲しい高さを持っていません。
鉄材が足りないからです。
鉄は線路や橋、機械へ回り、銅もトロリー線、電動機、発電機、変圧器へ次々と使われています。そこでライデン大学では、送信塔の高さを十分に取れない分、上部へ導体を広げたキャパシタンスハットを設けていました。
送信機そのものは、すでにかなり仕上がっています。出力段には水冷式の送信管があります。マイク、スピーカー、音声帯域の増幅器も、以前の実験で作ってありました。
今日使う受信機は、もっと割り切っています。どろちゃんが削って調整した水晶を使い、受信周波数は1MHzだけです。
いろいろな周波数を探す必要はありません。今日聞く相手は、ライデン大学だけでした。
どろちゃんは電源を入れました。
真空管が温まるまで少し待ちます。
やがてスピーカーから雑音が聞こえ始めました。
外はもう暗くなっています。1MHzの遠距離受信を試すため、夜になるのを待っていたのでした。
どろちゃんは電信機へ移り、ライデン大学へ短いコードを送りました。
送信を始めてください、という意味だけです。
最初に何を言うのかは、前もってライデン大学側へ任せてありました。
「最初の一声は、自分たちで決めてね」
どろちゃんが伝えたのは、それだけです。
レストランが少し静かになりました。
雑音の中で、音がゆっくり強くなりました。
そして、少し歪んだ声が聞こえます。
ナーロッパ語でした。
「こちらはネーザーランド放送です。ライデン市から放送しています」
どろちゃんは、すぐに意味が分かりました。
(Radio Nederland Wereldomroep)
そして、もう一つ思いました。
(PCJJより先にやっちゃった。フィリップス、ごめんね)
もちろん、口には出しません。
どろちゃんは電信機へ戻り、短い文をライデンへ送りました。
こちらには、イングランドとフランスの代表団がいます。
続けて、あらかじめ決めてあった受信報告を送ります。
SINPO 35433。
信号は十分に聞き取れます。混信はなく、雑音も少なめですが、夜間伝搬らしく強さがゆっくり変わるところがありました。
ライデン側では、その数字を送信出力、アンテナ電流、送信管の状態、時刻などと一緒に記録します。
しばらくすると、今度は何人もの声が聞こえてきました。
ネーザーランドの国歌です。きれいに揃った合唱というより、大学にいた人たちが一緒に歌っている声でした。それでも旋律も言葉も十分に聞き取れます。
歌が終わると、次はどろちゃんが以前教えておいた「女王陛下万歳(God Save the Queen)」でした。
まだイングランドの国歌として定められた歌ではありません。けれど、女王を讃える歌としてライデン大学の人たちは前もって練習していました。
イングランドの代表たちは、最初は知らない旋律を聞いていましたが、歌詞の意味はすぐに分かりました。
続いてフランス側へ、「神は偉大な王を守る(Domine salvum fac regem)」が送られます。
さらに、サヴォさんのところではまだ国の歌が決まっていないので、どろちゃんが教えておいた「マルシア・レアーレ・ドルディナンツァ(王室行進曲)」の旋律も演奏されました。
隣の共和国向けには「Auferstanden aus Ruinen(廃墟からの復活)」の旋律を使った歌です。
その次には、後の時代に「ソビエト連邦国歌」と呼ばれる旋律も続きました。
もちろん、未来の政治的な歌詞をそのまま持ち込んだわけではありません。どの未来曲も、歌詞はナーロッパ語で、この時代の国や共和国に合うものへ全面的に書き換えてあります。
そのあとには「カチューシャ」の旋律まで聞こえてきました。こちらも歌詞は別物です。
最初の遠距離音声実験だったはずですが、いつの間にかライデン大学の開局記念演奏会のようになっていました。
*
歌が終わると、放送は技術解説へ移りました。
「ここからは、ただいま使用しております無線送信機と受信機についてご説明します」
ライデン大学とエルレンフェルトで開発してきた装置そのものの説明です。
送信側では1MHzの搬送波を作り、マイクから入った音声を使って変調し、高周波の信号を出力段まで増幅します。
最後の送信管は大きく、発生する熱を空気だけで処理するのは難しいため、水冷式になっています。
「送信に使った電力が、すべて電波になるわけではありません」
説明役は、出力段で生じる熱について続けました。
「大きな送信管には冷却水を使用しています」
スピーカーから説明が続きます。
アンテナについても、十分な材料がないことを隠しません。送信塔を本来欲しい高さにできないため、上部へキャパシタンスハットを設けています。現在の設備は、限られた鉄材と銅材の中で1MHzの遠距離通信を試すためのものです。
受信側はさらに単純です。エルレンフェルトの受信機は、どろちゃんが調整した水晶によって1MHzだけを受けます。アンテナは斜行エレベーターに沿わせたロングワイヤーです。
アンテナで受けた信号から音声を取り出し、以前から試験してきた音声帯域の増幅器で大きくして、スピーカーを鳴らします。
今レストランで聞こえている声そのものが、その説明の実演でした。
「本日のエルレンフェルトでの受信報告は、SINPO 35433です」
何人かが、またどろちゃんを見ました。
「さっき電信で送ったの」
ライデンでは、送信側の数字を記録しています。エルレンフェルトでは、受信状態を記録します。
そして、明日は条件を変えます。
技術解説が終わると、最後のお知らせになりました。
「明日は、本日より2時間遅い時刻から放送を始めます」
夜間の伝搬が、時刻によってどう変わるのかを見るためです。
「音楽のリクエストも受け付けます。有名な曲であれば、曲名をお知らせください」
少し間を置いて、もう一つ条件が付きました。
「こちらで分からない曲の場合は、手紙に楽譜を添えてお送りください」
レストランで笑い声が起きました。
曲名なら電信ですぐに届きますが、知らない曲なら楽譜は紙で送らなければなりません。
最後に、ライデン大学の声がはっきりと告げました。
「本日の放送は、これで終了いたします」
「オランダ、ライデン大学より、周波数1MHz、出力10kWでお届けしました。ごきげんよう。おやすみなさい」
音声が消えました。
少しして、スピーカーには雑音だけが残ります。
どろちゃんはしばらく聞いてから、受信機の電源を切りました。
先ほどまで北アメリカの植民地政策について調印を終えたばかりのトルシー侯は、黒くなったスピーカーを見ていました。
「お嬢様。われわれは三日間、本国と電信を往復させながら会議をしていたのでございますが……」
トルシー侯は、もう音の出なくなったスピーカーを指しました。
「次は、向こうの人の声がそのまま届くのでございますか」
どうやら、今夜いちばん驚いたのは、いつもの人だったようでした。
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第82章の小さな説明
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【氷河への着陸】
この章の氷河着陸は、実在の空港へ降りる描写ではありません。上空から雪面、傾斜、風、クレバスの可能性、進入経路、離陸経路を確認し、物語上の条件がよい場所を選んでいます。
離陸時には、氷河のわずかな下り勾配と向かい風を同じ方向に利用します。雪上用のそりは車輪へ取り付ける補助装備で、ミツバチちゃんの通常の車輪を取り外しているわけではありません。
【サヴォさんの帰国経路】
帰国日はインターラーケンからブリーグ方面へ直行せず、西へ回ってモントルー上空へ向かい、レマン湖東部をかすめ、マルティニーからモンブラン山塊の東側を抜けてトリノへ向かいます。
トリノではサヴォさんたちを降ろしたあと、滑走路横の神様タンクから給油して帰投します。
【INSと3000m滑走路】
トリノからの帰路では、INSへ現在地と目的地を設定して飛行します。エルレンフェルトの3000m滑走路には計器着陸用の誘導設備があり、この日は遠距離のINS航法から着陸誘導へ連続して移れることも確認しました。
視程のある夕方にあえて装置を使用することで、表示と実際の滑走路位置を目視でも照合しています。
【北アメリカ会議の調印】
三日間の会議では、まとまりかけた案を随時電信で本国へ送り、了解を取りながら協議を進めました。どろちゃんが帰ってきた時点では、すでに正式調印まで終了しています。
主な内容は、現有植民地の維持、イングランドとフランスの重複投資と軍事競争の停止、私掠免許の新規発行停止、民兵の解散、植民地住民の徴兵停止、銃器・火薬工場の新設停止、新規武器販売と補給の停止、ネイティブアメリカン同士の争いへの不介入、代理戦争の停止です。
正規軍は四か国+ポルトガルの連合軍として、参加国以外からの軍事的侵入を防ぐ目的へ切り替えます。沿岸部の共同統治区域を増やし、西部はイングランドとフランスの共同植民地、テキサスなど南部も共同統治とし、大陸中央部を武装入植によるフロンティアにはしません。
奴隷制については今回の会議では扱わず、後の別の政治課題としています。
【1MHzの実験放送】
1MHzの波長は約300mです。本来は十分な高さと長さを持つアンテナを用意したいところですが、この時代のエルレンフェルトとライデンでは鉄材と銅材が不足しています。
ライデン側の送信アンテナは高さ不足をキャパシタンスハットで補い、エルレンフェルト側は斜行エレベーターに沿って張ったロングワイヤーを受信アンテナとして利用しています。
送信機の出力段には水冷送信管を使います。マイク、スピーカー、音声帯域増幅器は以前から試験してきた技術です。
受信機はどろちゃんが削って調整した水晶を使う1MHz専用機で、周波数を探し回るための受信機ではありません。
【夜間受信】
1MHz付近では、遠距離受信の状態が昼夜で大きく変わります。このため初回放送は夜まで待って実施し、翌日は2時間遅らせて伝搬状態の違いを調べます。
単に「聞こえた」で終わらず、送信時刻、送信出力、アンテナ電流、送信管の状態などと、受信側の評価を対応させて記録します。
【SINPO 35433】
この章では、あらかじめ送受信側で決めておいたSINPO形式で受信状態を報告します。
S=3は信号強度が中程度、I=5は混信がほぼない状態、N=4は雑音が少ない状態、P=3は伝搬による強弱変化がややある状態、O=3は総合的に実用になる程度の受信状態を表します。
【放送で使った曲】
作中では、1704年より後に成立する曲も、どろちゃんが未来で知っていた旋律として使うことがあります。ただし、未来の政治体制、国家名、人物名、戦争を扱った原歌詞まで1704年へ持ち込むことはしません。必要な曲はナーロッパ語で新しい歌詞を作り、この世界の国や政体に合わせています。
「女王陛下万歳(God Save the Queen)」は、後世にイギリスの国歌として知られる旋律です。この時点ではイングランドの正式な国歌として扱わず、女王を祝う歌としてどろちゃんが教え、ライデン大学で練習しています。
フランス側へ送った「神は偉大な王を守る(Domine salvum fac regem)」は、王のために神の加護を願う歌です。ここでは未来の革命歌を持ち込まず、この時代の王政に合う歌を選んでいます。
「マルシア・レアーレ・ドルディナンツァ(王室行進曲)」は、後世にサヴォイア王家と結びつく行進曲です。1704年にはまだ存在しないため、作中ではどろちゃんが旋律を教えたものとして扱います。
「Auferstanden aus Ruinen(廃墟からの復活)」は、後世のドイツ民主共和国で国歌になった曲です。原歌詞をそのまま使わず、共和国化した隣国に合わせたナーロッパ語の新しい歌詞を付けています。
「ソビエト連邦国歌」は、後世のソビエト連邦で使われた国歌の旋律です。原歌詞にはソビエト連邦そのものに加え、レーニン、スターリン、軍や政治体制に直接結びつく内容が含まれます。作中ではその歌詞を使わず、旋律だけを別のナーロッパ語歌詞へ載せ替えています。この旋律はさらに後のロシア連邦でも、別の歌詞を与えられて使われることになります。
「カチューシャ」は、故郷から離れた人を思う若い女性を描いた後世の歌です。作中では原歌詞を歌わず、親しみやすい旋律だけを使って別のナーロッパ語歌詞にしています。
元の歌詞に現在の全年齢向け作品には強すぎる戦闘的・政治的表現があっても、曲そのものや、その時代にそうした歌詞が作られたという歴史まで消す必要はありません。本編では全年齢の範囲に収め、章末説明では曲が本来どのような背景を持っていたかを分けて説明します。
【最初の3台と半年間の研究放送】
1MHz専用受信機は最初に3台作られました。1台はこの章で使ったエルレンフェルト用で、残る2台はイングランドとフランスへ送られます。これによって、同じライデン大学の送信を複数地点で受信し、時刻や場所による伝搬状態の違いも比較できるようになります。
ライデン大学の1MHz放送は、研究放送として約半年間継続しました。当初は無線技術、送信機、受信機、アンテナ、伝搬の研究が中心でしたが、毎日の放送を続けるうちに理系以外の先生たちも運営へ加わります。
ナーロッパ圏外の人を対象にしたナーロッパ語講座、詩の朗読、音楽、ラジオドラマなどが加わり、受信機も約100台まで作られました。放送は、通信技術の実験設備であると同時に、大学の教育・文化活動にもなっていきます。
半年ほどの運用で、送信管の冷却と寿命、アンテナ、受信機、夜間伝搬、音声品質、日常運用などの技術的問題がおおむね把握されたところで、大学は研究機関としての役目を終え、放送局を政府へ移管しました。
その後、送信機も周波数も放送内容も何度も変わりますが、ライデン大学の研究放送から始まった放送事業の系譜は、およそ300年間続くことになります。
【技術表記】
本作では技術的な数値と単位は、原則として数値+単位記号で表記します。この章では1MHz、10kW、3000mなどの形式を使用し、「サイクル」のような旧い周波数表記は採用していません。




