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81貴族令嬢は会議棟を貸して山へ逃げます。   グリンデルワルトで避暑です。

第81章 貴族令嬢は会議棟を貸して山へ逃げます



 暑い日でした。エルレンフェルトにも夏は来ます。窓を開ければ風は入りますが、その風まで暖かい日があります。


 そんな午前中、パリから電信が届きました。いつもの人、トルシー侯からです。


 用件は、イングランドとフランスがアメリカ大陸について話し合うため、エルレンフェルトの会議棟を借りたいというものでした。開催地にここを希望する理由も書いてあります。


「暑いから、だって」


 どろちゃんが電信を見せると、フランソワさんも同じ行へ目を落としました。


「会議棟には冷房がございますからね」


 何十人も同じ部屋に入り、窓を閉めて何時間も話し合うとなれば、夏の暑さはそれだけで負担になります。この時代のヨーロッパで、長時間涼しいまま使える会議棟は、それだけでも十分に珍しい施設でした。


 建物そのものはどろちゃんの所有ですが、建っている土地はエルレンフェルト領です。外国の代表団がまとまって入る以上、領内の警備や出入りについてはお父様にも話しておく必要があります。



     ◇ ◇ ◇



 お父様は執務室にいました。どろちゃんが電信を机へ置くと、最初から最後まで読み、開催地の理由が書かれたところで少し笑いました。


「暑いから、か。今日は反論しにくいな」


「会議棟は貸すことにするね」


「それでいいだろう。こちらは代表団が領内へ入る以上、警備と出入りを見ておくよ。日程と人数が分かったら教えてもらえるか」


「奥様方も来るかもしれないから、宿泊する人数まで聞いておくね」


「その方が助かるな」


 どろちゃんはエルレンフェルトの元首の娘ですが、この国の大臣でも外交官でもありません。今回は自分の建物を貸し、飛行機で客を運ぶだけです。


 返事はその日のうちに来ました。イングランド側が十二名、フランス側も十二名で、合計二十四名。名簿には実務者だけでなく、同行する奥様方の名前も含まれていました。


 ホテルでは、スィート、ファースト、ビジネスの各客室を組み合わせて受け入れることになりました。夫婦で同じ部屋を使う人もいれば、書記や実務担当者は別室を使います。最終的な部屋割りは、両国から返ってきた名簿に合わせればよいことでした。


 奥様方も同行するため、夕方には宴会場を使えるようにしておきます。会議棟では会議室と控室を整え、電信設備も使えるようにしておきました。ホテルはすでに何度か国際会議の客を受け入れているので、準備は慣れたものです。


 あとは到着日程に合わせて、どろちゃんが迎えに行くだけでした。



     ◇ ◇ ◇



 当日、チェブラーシカちゃんには代表団を運べるよう客席を戻してあります。左席にどろちゃん、右席にフランソワさんが座り、いつもの給仕さんも一緒に乗りました。


 最初に向かったのはイングランドです。待っていた十二人にはお役人だけでなく奥様方もいて、それぞれ滞在用の荷物を持っています。


 後部ハッチを開けても、客室そのものが外気にさらされるわけではありません。後部区画と客室の間には室内ドアがあり、空調は動かしたままです。暑い飛行場から入ってきた人たちは、そのドアを抜けたところで急に涼しくなった空気に包まれました。


 席へ案内していた給仕さんが、客室を見回して小さく笑います。


「皆様、ずいぶん楽になられたようでございます」


 上着の襟元へ手をやっていた人も、座るころには手を下ろしていました。チェブラーシカちゃんは十二人を乗せたまま離陸し、そのままフランスへ向かいます。


 フランス側でも十二人が待っていました。後部ハッチから荷物を収め、順に機内へ案内します。イングランド側の人たちは涼しい客室に残ったままで、フランス側の人たちも室内ドアを抜けると、外との温度差に少し驚いた表情を見せました。


 全員が席へ着くころには、暑さでこわばっていた顔もかなり和らいでいます。二十四人と荷物を乗せたチェブラーシカちゃんは、そこからエルレンフェルトへ戻りました。



     ◇ ◇ ◇



 三千メートル滑走路へ着陸すると、代表団は荷物と一緒に連絡鉄道へ移りました。チェブラーシカちゃんが使う滑走路と会議棟は離れているので、まず列車で丘まで行き、会議棟から斜行エレベーターでホテルへ降ります。


 ホテルのロビーも冷房が効いていました。氷を入れた冷たい飲み物が用意され、グラスの外側には細かな水滴がついています。長い説明を始める前に飲んでもらうことにすると、これはすぐに減っていきました。


 飲み物を手にしてもらっている間に、部屋割りとカードキーの説明をします。宿泊にはスィート、ファースト、ビジネスの各客室を使い、部屋は事前に返してもらった名簿どおりに決めてありました。


 どろちゃんはカードを一枚見せました。


「これがお部屋の鍵です。扉のところで使います」


 会議棟へ入る人のカードには、斜行エレベーターと会議棟へ入る権限も入っています。一室だけ実際に開けてみせると、カードを近づけたところで小さな音がして扉が開きました。それで使い方は十分に伝わります。


 部屋が決まると、給仕さんたちが荷物をそれぞれの客室へ運び始めました。奥様方はホテルのレストランへ向かい、お役人たちは斜行エレベーターで丘の上へ戻ります。翌日から使う会議室や控室、電信設備、書類を置く場所については、会議棟の係員が案内することになっていました。


 どろちゃんが自分で説明したのは、最後にもう一つだけです。


「外へ出るなら、川に水玉ボートがあります。ケールとストラスブールへ行けますから、時間はホテルの受付で聞いてください」


 そこまで伝えると、どろちゃんの案内は終わりました。どろちゃんは、そのままグリンデルワルドへ向かう準備に戻りました。



     ◇ ◇ ◇



 出発前、オイゲンさんが一つだけ知らせに来ました。どろちゃんが数日グリンデルワルドへ行くことは、サヴォさんにも伝えてあるそうです。


 これは秘密の予定を漏らしたわけではありません。グリンデルワルドからなら、何かあったときにエルレンフェルトへ戻るより、山を越えてサヴォイ側へ向かった方が早い場合があります。飛行機なら、アルプスは大きな障壁であっても、越えてしまえば向こう側は近いのです。


 その知らせを受けたサヴォさんも、ちょうどインターラーケンの別荘へ避暑に出ることにしたらしく、途中まで乗せてほしいと頼んできました。進路はほとんど同じなので、どろちゃんは引き受けます。


「途中だから、いいよ」


 こうして出発前に送迎が一つ増えました。



     ◇ ◇ ◇



 今回使うのはミツバチちゃんです。グリンデルワルドへ行く目的は避暑だけではなく、高い場所での離着陸性能を実際に確かめることも含まれていました。


 サヴォさんと必要な随員、それに滞在用の荷物を乗せて山を越えると、やがて二つの青い湖が見えてきます。西側にトゥーン湖、東側にブリエンツ湖があり、その間の低地がインターラーケンです。


 別荘の近くへ降りると、以前とは少し雰囲気が変わっていました。旗竿には国旗が揚がり、門には警備の人が立っています。サヴォさんはもう公爵ではなく王ですから、私的な別荘へ来ても王としての警備はなくなりません。


 ただし、継承戦争の最中ほど人数は多くありませんでした。今日はトゥーン湖へ船で出て、そのあと湖岸で食事をする予定だそうです。


「今日はちゃんと休めそうですね」


 どろちゃんが言うと、サヴォさんは笑いました。


「王になってからの方が、休む日を作るのは難しいよ」


 それでも今日は作れたようです。サヴォさんたちを別荘へ残し、どろちゃんとフランソワさんは再びミツバチちゃんへ戻りました。



     ◇ ◇ ◇



 グリンデルワルドの谷へ入ると、まず標高およそ千メートルの草地を選んで一度発着しました。ホテルはすでに予約してありますが、先に試験を済ませます。


 フランソワさんが記録するのは高度だけではありません。気温と風、機体重量、燃料量、離陸に使った距離、浮き上がったあとの加速、それから上昇の感触まで一緒に残します。


 千メートルで一度、次に千五百メートル、その次に二千メートルと、標高をおよそ五百メートルずつ上げながら、上空から安全に使えそうな草地を探して同じ手順を繰り返しました。高度が上がるにつれて離陸滑走は少しずつ長くなりますが、変化は記録の中に収まっています。


 最後は二千五百メートル級です。氷河が削った谷の上部に、周囲より傾斜の緩い広い草地がありました。その上には草の少ない急斜面と万年雪が続き、さらに四千メートル級の山々が立ち上がっています。


 どろちゃんは上空から何度か回り、障害物、傾斜、風向き、進入方向、それに着陸を取りやめた場合の逃げ道まで確認してから降りました。ミツバチちゃんは草の上を走り、無理なく停止します。


 外へ出ると、谷底とは空気がまるで違いました。日差しはありますが涼しく、空の青は濃く、白い雲が近く感じられます。


 機体の横には、ベッドほどの大きさがある平たい石灰岩がありました。どろちゃんがそこへ寝転がると、石は日向でも熱くなりすぎていません。フランソワさんも隣へ横になります。


「涼しいね」


「気持ちがよろしゅうございますね」


 視界の端には白いミツバチちゃんがあり、その向こうには雪を残した山が続いています。しばらくの間、二人は本当に何もしませんでした。



     ◇ ◇ ◇



 同じころ、インターラーケンではサヴォさんたちも休んでいました。別荘には国旗が揚がり、必要な警備も残っていますが、戦争中のように大勢の兵が行く先を固める必要はありません。


 サヴォさんたちはトゥーン湖へ出て、船で水の上をゆっくり進み、そのあと湖岸へ上がって食事をしました。王になったので国旗も警備もなくなりませんが、それでも継承戦争の最中よりずっと普通の夏の一日です。



     ◇ ◇ ◇



 十分に休んだところで、二千五百メートル級の草地から離陸する試験を始めます。高揚力装置を確認し、草地の端から出力を上げると、プロペラの音が高い谷へ広がりました。


 低地より長く走るのは予想どおりです。それでも機体は軽く、どろちゃんは無理に引き起こしません。長い翼と高揚力装置に任せて加速を続けると、二百メートルほどで前脚が軽くなり、そのまま主脚も草から離れました。


 離陸直後は低いまま速度を増し、それから開けた方向へ上昇します。荷物はほとんどなく、燃料も満載ではありません。帰路ではサヴォイ側で給油できます。


「この重さなら楽勝だね」


「本日の条件では、十分な余裕がございます」


 重くなれば結果は変わります。だから高度だけでなく、その日の気温、風、重量、燃料、滑走距離まで一緒に記録しておくのでした。



     ◇ ◇ ◇



 そのままホテルへ戻るには、まだ少し早い時間でした。どろちゃんはインターラーケンの方へ機首を向け、青いブリエンツ湖を斜めに横切ります。


 対岸側に見えてくるブリエンツ・ロートホルンの山頂は、およそ二千三百五十メートル。今日の試験区分なら、ここも二千五百メートル級として扱えます。


「歩いて来たら大仕事だね。さっきのところからは十分くらいだったのに」


「山を上らずに済みますからね」


 上空から地形を確認し、本作でミツバチちゃんが使えることになっている、山頂近くの広く緩やかな草地へ降りました。エンジンを止めて外へ出ると、高い山の頂上というより、広い丘の上を歩いているような場所です。


 下には細長いブリエンツ湖があり、西へ目を移すとインターラーケン、その向こうにはトゥーン湖が続いています。この日は空気がよく澄み、南西の遠方には雪をかぶった山々が幾重にも重なり、そのさらに先にモンブランまで見えていました。


 トゥーン湖の方では、サヴォさんたちがまだ船や湖岸の食事を楽しんでいるころです。どろちゃんたちも急がず、ロートホルンの広い草地をしばらく歩きました。



     ◇ ◇ ◇



 夕方になる前に、グリンデルワルドへ戻ります。ロートホルンの草地から離陸し、十分な速度を得たところで出力を少しずつ絞りました。


 ホテル近くの草地はおよそ千メートルですから、ここからなら一千メートル以上の高度を下げることになります。急角度で谷へ突っ込む必要はありません。地形との間隔を十分に取りながら大きな旋回を繰り返し、一周するごとに少しずつ高度を失わせていきます。


 エンジンは止めず、低い出力で回したままです。山の斜面や家、牧草地が少しずつ大きくなり、やがてホテル近くの草地が見慣れた角度になりました。


 そのまま進入して着陸します。今日は千メートルから二千五百メートル級まで、段階を追って発着条件を確かめることができました。


「面白かったね」


「よい記録も取れました」


 休暇の日ですが、試験記録だけはきちんと増えています。



     ◇ ◇ ◇



 夕食はホテルで二人でした。温かい鍋の中では、チーズが白ワインと一緒に溶けています。パンをちぎって浸して食べる料理で、どろちゃんには見た瞬間に何か分かりました。


 前世ならチーズフォンデュと呼ぶ料理です。しかし、この時代のこの土地で、ホテルの人はまだその名前を使いません。


「チーズをワインで煮た料理だって」


「今日のような日には、ちょうどよろしゅうございますね」


 昼間は二千五百メートル級の草地で石の上に寝転がり、夕方には千メートルほどの谷へ戻ってきました。山の夜は涼しく、温かいチーズとパンがよく合います。



     ◇ ◇ ◇



 食事のあと部屋へ戻り、窓を少し開けました。夜の空気は気持ちよく冷えています。


 しばらくすると風向きが変わり、草と干し草の匂いに、もう一つ別の匂いが混じりました。どろちゃんは少しだけ鼻を動かします。


「……牧場の香り」


 フランソワさんも窓の方を見て、笑いました。


「そのようでございますね」


 雪山と青空だけがアルプスではありません。谷には人が暮らし、牛がいて、牧草を刈り、干し草を作っています。昼間に上空から見た緑の中にも、ちゃんと生活がありました。


 窓は閉めませんでした。少しくらい牧場の匂いが混じっても、涼しい夜風の方が気持ちよかったのです。


「おやすみなさい」


「おやすみなさいませ」



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第81章の小さな説明

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【どろちゃんとエルレンフェルトでの立場】


 どろちゃんはエルレンフェルト元首の娘ですが、本国で大臣、外交官、軍人などの公職に就いているわけではありません。本章のイングランド・フランス会議でも、政策決定者や議長として参加しているのではありません。


 会議棟そのものはどろちゃんの所有物なので、建物を貸すことは本人が決められます。一方、その建物がある土地はお父様が元首として治めるエルレンフェルト領です。外国の代表団がまとまって入れば、警備、交通、領内の秩序についてはお父様側の仕事になります。


 このため本章では、「建物を貸すこと」と「外国代表団を領内で受け入れること」を分けています。



【イングランドとフランスのアメリカ大陸会議】


 本章の会議は、本作世界で両国間の北米戦争を停止したあと、その後の運用を相談するために開かれるものです。参加者はイングランド十二名、フランス十二名の計二十四名で、奥様を伴う参加者もいます。


 エルレンフェルト側は会議棟、ホテル、宴会場、電信、警備、送迎を提供しますが、会議の中身を決めるのはイングランドとフランスです。


 代表団は、どろちゃんがチェブラーシカちゃんでイングランド、フランスの順に迎えます。二十四人がそろったあと三千メートル滑走路へ戻り、連絡鉄道で会議棟へ移動してから、斜行エレベーターでホテルへ降ります。ホテルではカードキーと部屋を確認し、奥様方はレストランへ、お役人たちは会議棟へ分かれます。どろちゃんは水玉ボートについて説明したところで案内役を終えます。


 開催地にエルレンフェルトが選ばれた大きな理由の一つは冷房です。十八世紀初頭の夏に多数の人が一室へ集まり、何時間も会議を続ける場合、暑さそのものが大きな負担になります。本作の会議棟は神様から供給された設備を使っているため、現代に近い室内環境を保てます。



【チェブラーシカちゃんの後部ハッチと空調】


 本章では、代表団の乗降時にも客室の空調を止めていません。チェブラーシカちゃんは後部ハッチを開けても、そのまま客室全体が外気へ開放される構造ではなく、後部区画と客室との間に室内ドアがあります。


 そのためフランスで後部ハッチを開いたときも、先に乗っていたイングランド側の人たちは冷えた客室に残ったままです。暑い飛行場から乗り込んだフランス側の人たちは、室内ドアを通って客室へ入ったところで空調の効いた空気に包まれます。



【グリンデルワルド】


 グリンデルワルドは、現在のスイス・ベルン州、ベルナー・オーバーラントにある谷の集落です。現在の中心部の標高は約一〇三四メートルです。


 この地域は十九世紀の鉄道観光よりずっと前から外来者を引きつけており、スイス政府観光局の解説では、一六九〇年に氷河を目的とした訪問の記録があります。


 したがって一七〇四年に旅行者がこの谷を訪れること自体は不自然ではありません。ただし、本作のような宿泊施設や航空利用は、もちろん架空世界の発展によるものです。



【U字谷と高いところの草地】


 グリンデルワルド周辺の景観を作った大きな要因が氷河です。河川が削った谷ではV字形の断面が目立ちやすいのに対し、大きな氷河が長期間流れた谷では、谷底が広く、両側の斜面が急なU字形の地形が作られます。


 山岳地帯では、その上部や肩の部分に周囲より傾斜の緩い地形や草地が残ることがあります。本章では、どろちゃんが航空機から安全に使えそうな場所を探し、千メートル、千五百メートル、二千メートル、二千五百メートル級と段階的に発着試験を行っています。


 実在する特定の草地を飛行場として指定しているわけではありません。ミツバチちゃんが安全に発着できる長さがあり、傾斜や障害物、進入経路にも問題がない場所が存在するという、本作上の設定です。



【高地で離陸滑走が長くなる理由】


 高度が上がると気圧が下がり、空気密度も小さくなります。翼が同じ揚力を得るためには、低地より大きな真対気速度が必要になるため、地上ではその速度へ達するまでの滑走が長くなる傾向があります。


 プロペラやエンジンも空気密度の影響を受けます。さらに気温が高ければ密度高度は実際の標高より高くなり、高地での性能は一段厳しくなります。


 そのため本章のどろちゃんは、高度だけを見て「二千五百メートルでも大丈夫」とは判断していません。機体重量、燃料、荷物、気温、風、滑走距離を一緒に記録しています。


 本章の約二百メートルという離陸滑走は、荷物がほとんどなく、燃料も満載ではない軽いミツバチちゃんで行った、本作世界での試験結果です。実在のAn-28を任意の二千五百メートル級草地から二百メートルで離陸できると保証する数字ではありません。



【ミツバチちゃんとAn-28】


 ミツバチちゃんはAn-28系の機体です。実在のAn-28は、An-14から発展した短距離離着陸用の軽多用途機で、アントノフの公表値では翼幅は二二・〇六メートルあります。小型機としてはかなり長い翼を持ち、短い滑走路や未整備飛行場での使用を強く意識した機体です。


 An-28系では高揚力装置も重要な役割を持っています。本章では、その長い翼と高揚力装置、それに機体が軽いことが組み合わさり、高地でも比較的短い滑走で浮き上がっています。


 ただし、高地では「着陸できたから大丈夫」ではありません。帰りに離陸できるか、離陸後に安全な上昇率を得られるかの方が重要になる場合があります。どろちゃんが段階的に標高を上げて試すのは、そのためです。



【ブリエンツ湖、トゥーン湖、インターラーケン】


 ベルナー・オーバーラントには、細長いブリエンツ湖とトゥーン湖が東西に並んでいます。その間の低地に、現在のインターラーケンがあります。


 本章では現代の読者に位置を分かりやすくするため「インターラーケン」という地名を使用しています。


 サヴォさんの別荘は、この地域にある本作上の設定です。王となった現在は滞在中に国旗が掲げられ、警備も付きます。ただし継承戦争が終わったため、戦時中より警備人数を減らしています。


 サヴォさんたちがトゥーン湖で船遊びをし、湖岸で食事をしている場面は、王になったあとも私的な避暑の時間があることと、戦争が終わったことで以前より穏やかな警備で過ごせるようになったことを表しています。



【ブリエンツ・ロートホルン】


 実在のブリエンツ・ロートホルンの標高は約二三五〇メートルです。現在は一八九二年開業のブリエンツ・ロートホルン鉄道で山頂近くまで上がれますが、本章の一七〇四年にはもちろん鉄道はありません。


 そのため徒歩で登れば大仕事になる場所へ、ミツバチちゃんでは短時間で移動できます。これは山岳航空の大きな特徴です。地図上の距離が短くても、徒歩や馬では大きな高度差と斜面を越えなければならない場所を、航空機は直接結べます。


 本章では山頂付近にミツバチちゃんが発着できる広く緩やかな草地がある設定にしています。実在の山頂を通常の飛行場として利用できるという意味ではありません。


 ロートホルンからはブリエンツ湖とベルナー・オーバーラントの広い山岳景観を望めます。本章では非常に空気の澄んだ日に、西から南西の遠方まで見通せた設定とし、遠くのモンブランまで見えています。



【高いところから滑空するように帰る】


 ロートホルン付近からグリンデルワルドの谷底までは、一〇〇〇メートル以上の高度差があります。本章の帰路では、離陸して十分な速度を得たあとに出力を下げ、地形との間隔を取りながら大きな旋回を繰り返して徐々に高度を落としています。


 ここで描いているのは宙返りではなく、山と谷に余裕を取りながら行う大きな旋回です。また、エンジンを停止した完全なグライダー飛行でもありません。エンジンを低い出力で回しながら、位置エネルギーを利用してゆっくり降下しています。



【一六九九年の「チーズをワインで煮る料理」】


 現在のチーズフォンデュに非常によく似た料理は、本章の一七〇四年より前に記録されています。


 スイス政府の解説では、一六九九年にチューリヒで出版された料理書に「Käss mit Wein zu kochen」、つまりチーズをワインで煮る料理があり、削ったり細かくしたチーズをワインで溶かし、そこへパンを浸して食べる方法が書かれています。


 一方、料理名として「fondue」が確認されるのは一七三五年です。そのため本章では、どろちゃんは前世の知識からフォンデュだと分かりますが、ホテルの人には「チーズをワインで煮た料理」と説明させています。


 現代の地域別フォンデュの配合や専用鍋を、そのまま一七〇四年へ持ち込んでいるわけではありません。



【牧場の香り】


 アルプスの景色は、雪山と青空だけでできているわけではありません。夏の山地では牧草地に家畜がいて、干し草を作り、人が生活しています。風向きが変われば、ホテルの窓から草、干し草、牛舎や家畜の匂いが入ってくることもあります。


 どろちゃんとフランソワさんが最後に少し笑うのは、絵のような山岳風景の中にも、ちゃんと牧場の日常があるからです。


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