80貴族令嬢は、大家さんと海を見に行きます エルレンフェルト元首家族のポルトガル正式訪問です
第八十章 貴族令嬢は、大家さんと海を見に行きます
◇ ◇ ◇
カタリナさんから指定された日、チェブラーシカちゃんは再びリスボンへ向かいました。
乗っているのは、どろちゃんとフランソワさん、お父様、お母様、それからいつもの給仕さんです。
オイゲンさんは今回は来ません。
リスボンへ行く目的は、前回の鉄道開通式とは違います。お父様とお母様がそろっているため、ポルトガル側には国家元首夫妻とその娘の訪問として予定が伝えられていました。
どろちゃんたちの側でも、その日の流れは出発前から共有しています。
最初に王宮で正式な話をすること。その後、お父様とお母様はポルトガル側の警備を付けてもらってリスボン市内を見ること。どろちゃんとフランソワさんはカタリナ摂政とアゾレス諸島の話を続け、必要ならチェブラーシカちゃんで海上の様子も確認すること。
帰国する時刻も、おおよそ決めてあります。
機内へ持ち込む食事は、いつもどおりエルレンフェルトのレストランで調理したものです。途中で現地の料理を機内食として買い足す予定はありません。
その代わり、給仕さんには別の予定がありました。
「枝ハムと、ワインを少し見てまいります」
出発前にそう言っていました。
「いっぱい買わなくていいよ」
「承知しております」
「前にもそう言って増えたよね」
「良い物がございましたので」
お母様が少し笑いました。
チェブラーシカちゃんは、前回の開通式でも使った、リスボン郊外の大きすぎる駅の横にある滑走路へ降りました。
新しい着陸場所を探す必要はありません。
すでにポルトガル側も、この飛行機がここへ来ることを知っています。
滑走路脇には、迎えの人たちが待っていました。前回よりも形式が整っています。お父様とお母様が一緒だからです。
どろちゃんは操縦席から降りると、フランソワさんと並んで正式な挨拶をしました。お父様とお母様も迎えの人たちと言葉を交わし、王宮へ向かう馬車へ案内されます。
給仕さんだけは、そこで別れました。
ポルトガル側から警備の人を付けてもらい、そのまま市内へ買い付けに向かいます。
「帰るころには、こちらへ届けていただけるよう手配してまいります」
「うん。重いの持って歩かなくていいからね」
「そのつもりでございます」
枝ハムもワインも、買ったあと自分で抱えて戻る必要はありません。店側に帰国予定時刻を伝え、滑走路の機体までまとめて届けてもらいます。
チェブラーシカちゃんそのものの警備は、ポルトガル側が引き受けました。
この滑走路には、神様の三万リットル燃料タンクと給油設備もあります。そばには車庫があり、その中には荷物運びと機体牽引に使えるクローラー付き小型ダンプ、Самосвал(サマスヴァール。ダンプトラック。)君も収まっています。
リスボンでは、すでに航空機を受け入れるための地上側の設備までそろっていました。
◇ ◇ ◇
王宮で最初に話したのは、お父様でした。
この一年ほどの間にヨーロッパで起きたことは多すぎます。
四か国の会議を開き、戦争を止める合意をまとめたこと。そこではフランス、イングランド、サヴォイア、ネーデルラント連邦共和国が直接の当事者になり、お父様は開催地の国家元首として仲介に入ったこと。
その後、帝国の使節だけでは帝国全体を拘束できないため、皇帝をはじめとする関係者へ改めて説明する場を作ったこと。
さらに、帝国の信用と統治の崩れが止まらず、領邦や都市がそれぞれの判断を迫られた結果、共和国へ参加する地域が現れ、新しい政治の仕組みが動き始めたこと。
お父様は、カタリナ摂政へ順を追って説明しました。
「摂政陛下が現在のお立場になられる前に動いたことが多く、ポルトガルへ正式にご説明する機会が遅くなりました」
「事情は承知しております。こちらも国内のことが落ち着いていたわけではありません」
カタリナさんは、手元の文書へ目を落としました。
「帝国側には、最初の四か国の合意を受け入れるかどうかを、もう一度決めさせたという理解でよろしいでしょうか」
「条約そのものをやり直したわけではありません。帝国のオブザーバーに全権がなかったため、帝国内で何を実行できるのかを説明し、調整する必要がありました」
「それで、その後に帝国そのものが持たなくなった」
「はい。もっとも、会議だけが原因ではありません。以前から積み上がっていた問題が、一度に表へ出ました」
どろちゃんは少しだけ視線を下げました。
オイゲンさんの件も、その中にあります。
彼女自身が関わったことです。
信用は、壊れるときには早い。
スペイン継承をめぐる処理についても話題になりました。ただし、お父様は領土の一つ一つを得意げに並べるような説明はしませんでした。戦争を終わらせるために王冠の統合を避け、各国の利害を調整し、結果としてスペイン側の持つものも変わった。その程度の大きな流れにとどめます。
カタリナさんも、必要以上には追いませんでした。
いま確認したいのは、去年の会議で誰が何平方キロメートル得たかではありません。これからポルトガルが、周囲の国々とどう付き合うかです。
お父様の説明が一段落すると、お母様が窓の外へ目を向けました。
リスボンの町は、王宮の中から見ているだけではよく分かりません。
「せっかくここまで来ましたので、少し町を見せていただければと思っております」
お母様がそう言うと、お父様も頷きました。
「今日の予定には、その時間を取ってあります」
カタリナさんは二人を見てから、近くにいた側近へ声を掛けました。
「では、案内と警備をお願いします。あまり大人数にすると町を見るどころではなくなりますから、必要な人数だけで」
「承知いたしました」
どろちゃんはお父様とお母様を見ました。
「楽しんできてね」
「仕事を残して遊びに行くように聞こえるな」
「もうお父様の仕事は終わったでしょう」
「それはそうだ」
お母様は否定しません。
二人は、このあとのどろちゃんの予定も知っています。海を見に飛ぶ可能性があることまで、出発前に話してあります。
少しして、お父様とお母様はポルトガル側の案内と警備を伴い、馬車で市内へ出ていきました。
国家元首夫妻の視察と言えば、そう言えます。
でも、どろちゃんには普通の夫婦のデートに見えました。
◇ ◇ ◇
大きな話が終わると、机の上へ別の地図が運ばれてきました。
アゾレス諸島です。
群島全体を一枚にまとめた地図だけではありません。いくつかの島については、港や集落、道、農地、土地の高低などが分かる個別の図も用意されていました。
もちろん、どろちゃんが持っている後世の航空地図ほど詳しくはありません。
それでも、何も分からないわけではありません。
海から荷物を上げやすそうな場所、山が迫っている場所、比較的広い土地がありそうな場所、港から内陸へ入る道の位置は読み取れます。
どろちゃんは自分の航空地図とも見比べました。
後世に空港が存在する場所は、少なくとも航空機を使う土地として致命的に悪い場所ではありません。ただし、一七〇四年に同じ工事ができるとは限りません。排水、地盤、土地利用、港からの輸送路は、いまの島を調べてもらう必要があります。
しばらく地図を見たあと、どろちゃんは二つの島を指しました。
「この二島で進めたいです。片方へ降りられないとき、もう片方へ行けるようにします」
カタリナさんは二枚の地図を見比べます。
「一か所だけでは、そこが使えなくなったときに戻れないのですね」
「はい。チェブラーシカちゃんは数時間飛ぶだけでも、日常ではまず扱わない量の燃料を使います。今朝降りた滑走路の脇にあるタンクは、三万リットル入ります。それだけの量を扱う飛行機なのに、燃料は町へ降りればどこでも補給できるものではありません。補給できる場所まで飛ばないといけないんです」
カタリナさんは、並べた二枚の島の地図へもう一度目を落としました。
「アゾレスの一つまで着いたところで、そこへ降りられなければ、もうリスボンへ引き返すだけの燃料を残せない場合があります。だから、その時点から届く別の島にも滑走路が要ります。反対側から飛んでくるときも同じです」
「それで二島なのですね。分かりました。用地と工事について、こちらで調整させます」
そこでカタリナさんは、少し間を置きました。
「費用の扱いは、エルレンフェルトからの支出でよろしいのですか」
「いえ。私個人です」
どろちゃんは、そこだけははっきり答えました。
「国庫からでも、王宮費からでもありません。私のお金で払います」
カタリナさんが少し眉を上げました。
「二つとも、ですか」
「二つともです。私が必要だと思って作る航空路ですから」
「ずいぶん大きな個人支出になりますよ」
「たぶん」
どろちゃんは地図を見たまま答えました。
「でも、国のお金にする理由はないです」
ポルトガル側には、土地の権利関係や行政手続き、現地で働く人たちの手配をお願いすることになります。
工事そのものは島の人たちが中心です。
エルレンフェルトの神様から来た重機を運び込むことはありません。あの機械は領外へ出ません。
必要な資材や普通の道具を船で運ぶことはあっても、土地を均し、排水を作り、道を整える仕事は現地で行います。
どろちゃんが出すのは、そのためのお金です。
◇ ◇ ◇
アゾレスの話が一段落したところで、もう一つの書類を机へ出しました。
私掠船について、イングランドとフランスから届いていた情報です。
今回、どろちゃんはイングランドやフランスの使者としてここへ来ているわけではありません。
英国伯爵の肩書も持っていますが、今日の立場の中心ではありません。
国家元首の娘としてポルトガルを訪れ、もう一つには、現実に航空機を扱える人間として大西洋の航路について相談しています。
ただし、どの私掠船にどの免許が出ているかという情報は役に立ちます。
「英仏の間だけ止めても、少し足りないと思うんです」
カタリナさんが書類から顔を上げました。
「四か国の条約がありますからね」
「はい。フランス、イングランド、サヴォイア、ネーデルラント。そこにポルトガルも入るなら、五か国の船を相互に収奪しないことを、港へ入った船には確実に知らせた方がいいです」
「私掠免許を持っていても?」
「持っていてもです。その免許が、和平相手の船を襲ってよい理由にはならないようにします」
海の上へ出てしまった船を、電信で呼び戻すことはできません。
しかも、大西洋は広すぎます。
私掠船も、何もない海の真ん中へ散っていては商船と出会いにくいので、船が集まりやすい港の近くや航路の狭まる場所にいることが多くなります。
水や食料を積み、修理をし、情報を得るためにも港へ戻ります。
「入港したときに伝えれば、かなり拾えます」
「通知を受けた記録も残した方がよいでしょうね」
「はい。あとで、聞いていないと言われないように」
カタリナさんは側近へ目を向けました。
「港側で、船名、船長、船籍、提示された免許と、通知を行った日時を記録できるようにしましょう。正式な書式は後で整えます」
そこまで話したところで、どろちゃんは窓の方を見ました。
今日は風も悪くありません。
「カタリナさん」
「はい」
「少し、見てみませんか」
「何をですか」
「海です。私掠船が本当にどこにいるのか、チェブラーシカちゃんから」
カタリナさんはすぐには答えず、側近へ予定を確認しました。
午後の時間を全部空けることはできません。
でも、数時間なら調整できます。
「戻る時刻を決めるのであれば、行けます」
「それで大丈夫です」
「では、護衛は私が選びます」
そこで話が決まりました。
◇ ◇ ◇
カタリナさんが連れてきたのは、信頼できる護衛三人と側近一人でした。
大勢ではありません。
馬車で滑走路へ戻ると、チェブラーシカちゃんの周囲にはポルトガル側の警備が残っています。
機内はもうきれいになっていました。
買い付けた枝ハムやワインも、帰国予定に合わせて店から届けられ、荷物として積み込みが終わっています。
給仕さん本人だけが見当たりません。
「お食事へ行かれました」
機体警備の人が教えてくれました。
「近くですか」
「すぐそこです。呼んでまいります」
少しして、給仕さんが急いで戻ってきました。
「申し訳ございません。ちょうど食事を終えたところでございました」
「急がせちゃった?」
「いえ。食後のお茶を頼む前でしたので、ちょうどよろしゅうございました」
給仕さんは、カタリナさんと護衛の人たちがいるのを見て、すぐに仕事へ戻りました。
客室の座席を確認し、初めて乗る人にはベルトの使い方を説明します。
買い付けた食品は荷物のままです。
機内で出すものは、エルレンフェルトから積んできた菓子と飲み物を使います。
どろちゃんは左席へ入りました。
右席ではフランソワさんが手順書を開きます。
「それでは、始動前の確認から読み上げます」
「お願いします」
フランソワさんは、ドア、搭載物、燃料、計器、操舵系統、離陸時の設定を順に読み上げていきます。
どろちゃんは一つずつ自分で確かめ、必要な操作を行って返答しました。
確認を飛ばしません。
後ろにポルトガルの摂政が乗っているから特別に慎重になるのでもありません。
誰が乗っていても同じです。
始動が終わり、地上の警備担当から周囲に問題がないことを確認すると、どろちゃんは機体を滑走路へ進めました。
離陸前の確認も、読み上げるのはフランソワさんです。
最後まで終わってから、チェブラーシカちゃんは加速を始めました。
◇ ◇ ◇
最初に向かったのは、遠い大西洋ではありません。
リスボン港からおよそ五十キロメートルの範囲です。
どろちゃんは高度を下げ、港の出入りと沿岸を見やすいところへ回りました。
英仏から届いた資料には、私掠免許を持つ船の船名や船籍だけでなく、分かる範囲で船体や帆装の特徴も書かれています。
海面には商船も漁船もいます。
その中から、資料と合う船を探します。
「いました」
どろちゃんが前を見たまま言いました。
フランソワさんも位置を確認します。
「右前方の船でございますね。資料の記載と一致いたします」
カタリナさんは客室の窓から海を見ました。
少し離れた場所でも、もう一隻が確認できました。
さらに別の場所でも見つかります。
大西洋の真ん中まで探しに行く必要はありませんでした。
商船が港へ集まるなら、それを待つ側も近くに来ます。
カタリナさんは、しばらく何も言わずに海を見ていました。
「王宮で一覧を読むのと、ずいぶん違いますね」
「はい。近いです」
「近すぎるくらいです」
リスボン近海の確認を終えると、どろちゃんは南東へ針路を取りました。
海岸線だけを追うのではなく、イベリア半島の内陸へ入ります。
アンダルシアの内陸を抜けて、ジブラルタル海峡へ向かいました。
地上には山地と町が続きます。
海峡へ出ると、そこはさらに船の通り道が狭くなっています。
ここでも、事前情報に合う私掠船を何隻か確認できました。
「ここなら待ちますね」
カタリナさんが窓の外を見ながら言いました。
「通る場所が限られますから」
どろちゃんは旋回しながら答えました。
「だから、港と海峡の情報が早く回る方がいいと思います。全部の船を探すのは無理でも、帰ってくる場所と通る場所はあります」
海峡の確認を終えると、今度は高度を上げました。
チェブラーシカちゃんは南側へ回りながら上昇を続け、およそ九千メートルまで上がります。
低空で船を見ていたときとは、窓の景色がまるで違います。
海岸線が長く見えるようになりました。
どろちゃんは、ポルトガルの国土を側方に見られる位置を取りながら、沿岸部を時計回りにたどるように飛びました。
南の海岸から大西洋側へ回り、やがて長い西岸が見えてきます。
カタリナさんは、自分の国を高い空から眺めていました。
途中で給仕さんがお菓子を運んできました。
「お茶もございます。ただ、本日は在庫の都合でジャム入りの紅茶になります」
カタリナさんが振り返りました。
「空の上では、そのような都合もあるのですね」
「ございます。帰国後でしたら、いくらでもお選びいただけますが」
どろちゃんにも同じものが来ます。
操縦中なので、受け取りやすいところへ置いてもらいました。
「ジャム多め?」
「いつもどおりでございます」
「よかった」
護衛の人たちも、最初の緊張が少し抜けていました。
仕事として乗っているので、窓へ顔を貼り付けるようなことはしません。それでも、九千メートル近い高さから見るポルトガルは初めてです。
カタリナさんはお茶を飲みながら、長い間窓の外を見ていました。
その景色も、今日確認した私掠船も、どちらも自分の国の周囲にある現実です。
◇ ◇ ◇
リスボンへ近づくと、どろちゃんは降下を始めました。
フランソワさんが着陸前の確認を順番に読み上げます。
どろちゃんはそれに合わせて機体を整え、同じ郊外滑走路へ戻りました。
着陸して機体が止まると、待っていたポルトガル側の人たちが近づいてきます。
カタリナさんは護衛と側近を伴って馬車へ戻りました。
どろちゃんとフランソワさんも一緒に王宮へ向かいます。
空から見て終わりではありません。
見たあとに決めることがあります。
王宮へ戻ると、カタリナさんは先ほどの話をもう一度整理しました。
五か国の間では、相互の船と積荷を私掠の対象にしない。
ポルトガルの港へ入った私掠船や武装船には、そのことを確実に通知する。
通知を受けた船については、船名、船長、船籍、提示した免許、通知日時を記録する。
正式な命令書は後から各所へ届きます。
しかし、最初の指示まで紙の到着を待つ必要はありません。
王宮とリスボンの港管理組合との間には電信があります。
「先に電信を出しましょう」
カタリナさんが決めました。
側近が文案を整え、通信室へ回します。
その日のうちに港側へ内容が届きます。
署名や印章を整えた正式文書は、あとから送ればよいのです。
「これなら、今日入ってくる船にも間に合うかもしれません」
「ええ。少なくとも、明日まで待つ理由はありません」
どろちゃんは頷きました。
イングランドとフランスから来た情報は、そのための資料として使います。
しかし、今日ポルトガルが何をするかを決めたのはカタリナ摂政です。
どろちゃんは五か国を代表して命令したわけではありません。
自分で空から見たものを伝え、航空機を使える立場から、どこを押さえれば情報が届きやすいかを話しただけです。
それで十分でした。
◇ ◇ ◇
帰国の時間が近づくころ、お父様とお母様も戻ってきました。
二人とも朝より少し機嫌がよさそうです。
「楽しかった?」
どろちゃんが聞くと、お母様が先に答えました。
「ええ。とても」
お父様も否定しませんでした。
「町を見る時間を取って正解だった。会議室だけでは分からないこともある」
「デートだった?」
「その呼び方にこだわるな」
今度はお母様が笑いました。
ただし、お父様は二人だけではありませんでした。
後ろに、見覚えのある人が一人います。
「先生?」
「お久しぶりです」
ライデン大学の先生でした。
リスボンで調べものをしていて、帰りの週一回の便に乗り遅れたそうです。
正確には、時間を忘れていたわけではありません。
観察していた変化を途中で切れなかったのです。
「現在使われている施設ですから、こちらの都合で負荷を増やして加速試験をするわけにはいきません。経時的な変化を見ようとすると、待つしかない場合があります。ちょうど変化が追えるところで船の時間になってしまいまして」
先生は、少し困ったように言いました。
「それで乗らなかったの?」
「乗れなかった、という方が近いですね。あそこで切れば、次に同じ条件がいつ来るか分かりませんでした」
お父様は市内で事情を知り、今日エルレンフェルトへ戻る飛行機があることを教えたそうです。
「一人くらい増えても乗れるだろうと思ってな」
「乗れるよ」
チェブラーシカちゃんは九人仕様に変えたばかりです。
今日の帰国便なら座席にも余裕があります。
先生はそのまま一緒に滑走路へ向かうことになりました。
◇ ◇ ◇
帰りのチェブラーシカちゃんには、どろちゃん、フランソワさん、お父様、お母様、いつもの給仕さん、それからライデン大学の先生が乗りました。
カタリナさんとポルトガル側の人たちは、もちろんリスボンに残ります。
給仕さんが買った枝ハムとワインも、荷物としてきちんと積まれています。
帰国前には、滑走路脇の三万リットルタンクにつながった給油設備から、チェブラーシカちゃんへの給油も済ませました。ここで燃料を補えるからこそ、リスボンを大西洋航路の出発点として使えます。
離陸前には、またフランソワさんが確認事項を読み上げました。
どろちゃんが操縦し、チェブラーシカちゃんはリスボンを離れます。
先生は、これでそのままライデンまで帰れると思っているのかと思ったら、そうではありませんでした。
エルレンフェルトへ近づいたころ、先生が水玉船の話を聞きつけました。
ライン川を河口側まで走る長距離便が、いま試験運行をしていること。
途中で乗員を交代し、食事や補給を行い、長時間の旅客運航を実際に試していること。
先生の顔が変わりました。
「その便は、明日乗れますか」
どろちゃんは少し考えました。
「試験運行の日なら乗れると思う。ホテルに一泊すればいいよ」
「では、そうします」
フランソワさんが先生の方を見ました。
「ライデンまで航空機でお送りすることもできますが」
「ありがとうございます。ただ、今回は水玉船に乗ってみたいのです。完成してからではなく、試験運行の最中に見られる機会は多くありませんから」
どろちゃんには、その理由がよく分かりました。
帰宅が一日遅れることより、今しか見られないものを一度見ておく方が大事なときがあります。
研究のために週一回の船便を逃した人です。
ようやく早く帰れる飛行機へ乗ったのに、その途中でまた研究対象を見つけました。
エルレンフェルトへ着くと、先生はホテルへ一泊する手配をしました。
翌日は、ライン河口へ向かう試験運行の水玉船に乗ります。
どろちゃんはライデンまで送る予定を立てませんでした。
先生自身が、帰る途中を研究の時間に変えてしまったからです。
◇ ◇ ◇
それから何日かして、リスボンからアン女王へ少し変わった電信が届きました。
送ったのはカタリナさんです。
チェブラーシカちゃんに乗ったあとから、どうも身体が軽い。以前より歩くのが楽で、疲れ方も違い、朝の身体の重さも減っているように思う、と書かれていました。
体調が悪くなったという知らせではありません。
それでもカタリナさんは、信仰の深い人です。あまりに身体が軽く感じられるので、このまま自分の存在まで軽くなり、天へ召される時が近づいているのではないかと、一度は真面目に考えました。
アン女王は、伯母からの電文を何度か読み返しました。
英国側でも、まだ理由は分かっていません。ただ、飛行機に乗った人の中に、その後しばらくして以前より体調が良くなったように見える人がいることには、なんとなく気づき始めていました。記録をまとめて医学的な結論を出せる段階ではありませんが、少なくとも悪くなる方向だけを見ているわけではありません。
返電には、そのまま書きました。
――こちらでも、飛行機に乗ったあとに身体の具合が良くなったように見える例がいくつかあります。理由はまだ分かりませんが、伯母上のお話を読む限り、こちらでは悪化とは考えておりません。
カタリナさんは、その電文を受け取ってようやく安心しました。
天へ召されることそのものを恐れていたわけではありません。
ただ、まだこちらで務めるべきことがあるのなら、それを途中にしたまま行くつもりもありませんでした。
その晩は、いつもどおり祈ってから休みました。
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第80章の小さな説明
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【私掠船】
私掠船は、戦争中に国王や政府などから私掠免許を受け、指定された敵国の船を捕える民間の武装船です。
自分の判断だけで他船を襲う海賊とは、制度上は別のものです。拿捕した船や積荷についても、何を取ってもその場で自分の物になるという仕組みではなく、港へ持ち帰って正当な拿捕だったかを確認し、その後に売却や分配を行う制度が使われました。
そのため私掠船は、海の上だけで完結する存在ではありません。水、食料、修理、乗員、情報を得るためにも港を使いますし、拿捕した船を利益へ換えるためにも港や裁判制度との関係が必要になります。
【私掠が盛んだった時代】
民間船を国家の戦争へ利用する仕組みは古くからありますが、ヨーロッパでは少なくとも十六世紀から十八世紀にかけて、私掠は海上戦争の重要な一部になっていました。
当時の国家は、現代のように多数の軍艦を常時保有しているとは限りません。戦争になると商船や民間の武装船へ免許を出し、敵国の海上交通を妨害させる方法には、国家がすべての船、人員、修理費を直接負担しなくてもよい利点がありました。
反対に、和平や停戦になったときには問題が残ります。本国で戦争が終わっても、何週間、何か月も海へ出ている船には、その決定がすぐには届かないからです。
【どこの国が私掠免許を出したのか】
私掠は、特定の一国だけの制度ではありません。
イングランドとフランスでは、十六、十七世紀に国の戦争へ民間武装船を利用することが広く行われました。十七世紀には、イングランド人やフランス人が自国の免許だけでなく、ポルトガルやスウェーデンなど外国政府の免許を使って活動した例まであります。
ネーデルラントの船も、英蘭戦争などでは多数が敵国の私掠船に拿捕されました。拿捕船の書類や乗員の手紙が、正当な戦利品だったかを審理するため保存され、現在まで大量に残っています。
つまり、この時代の海では「軍艦対軍艦」だけを見ていても戦争の全体像は分かりません。商船、武装商船、私掠船、海軍艦艇が同じ航路と港を使っています。
【フランシス・ドレーク】
イングランドの有名な例が、フランシス・ドレークです。
一五四〇年ごろに生まれ、一五九六年に亡くなった航海者で、世界周航でも知られていますが、同時に非常に成功した私掠活動の指揮官でもありました。
エリザベス一世の支援を受けた航海では、スペイン船やスペインの港を襲い、大きな利益をイングランドへ持ち帰っています。
現在では探検家、海軍指揮官、私掠船長、さらに奴隷貿易への関与など、複数の面を持つ人物として扱われます。
【ジャン・バール】
フランスでは、ジャン・バールが非常に有名です。
ダンケルクに生まれ、若いころにはネーデルラント側の艦隊で経験を積みましたが、その後フランスへ戻り、一六七四年には私掠船を指揮しています。
英仏・蘭仏間の戦争で多くの船を拿捕し、のちにはフランス王立海軍の士官へ進みました。
一六九四年には、英蘭側に奪われていた穀物船団を取り戻してダンケルクへ導き、一六九六年にもネーデルラント商船隊へ大きな損害を与えています。ルイ十四世から叙爵され、フランスでは国民的な海の英雄として扱われる人物です。
ただし、本章の一七〇四年にはすでに故人です。ジャン・バールは一七〇二年に亡くなっています。
【ルネ・デュゲ=トルアン】
本章の時代に、まさに活動している有名人としては、サン=マロ出身のルネ・デュゲ=トルアンがいます。
一六七三年生まれで、一六八九年に私掠船で海へ出ました。十代のうちから私掠船を指揮し、イングランド船やネーデルラント船との戦闘を重ねています。
一六九六年にはフランス王立海軍でフリゲート艦長級の任命を受け、その後も活動を続けました。史実では一七〇四年から一七〇五年にかけてもイングランド沿岸で作戦を行い、さらに一七一一年にはリオデジャネイロ攻略で大きな名声を得ます。
つまり本章の一七〇四年は、私掠船が昔話になっている時代ではありません。どろちゃんたちが海上でその姿を確認しても不思議ではない時期です。
【ウィリアム・キッド】
私掠船と海賊の境目が簡単ではなかった例として、ウィリアム・キッドもよく知られています。
キッドは一六九六年、正式な王室の委任を受け、フランス船や海賊を捕える任務を与えられました。
ところが航海の途中で拿捕の合法性が問題になり、最後には本人が海賊として裁かれます。一七〇一年に有罪となり、処刑されました。
私掠免許を持っていれば何をしても合法になるわけではなく、誰の船を、どの免許で、どの時点で捕えたのかが重要だったことが分かる例です。
【本章の五か国間の収奪停止】
本作では、エルレンフェルト条約によってフランス、イングランド、サヴォイア、ネーデルラント連邦共和国の四者間の敵対行為はすでに終了しています。
しかし、海へ出た私掠船へ本国の決定を瞬時に届けることはできません。
そこで本章では、ポルトガルも加えた五か国について、互いの船と積荷を私掠の対象にしないことを、入港した武装船へ確実に通知する方法を取っています。
通知しただけで終わらず、船名、船長、船籍、提示された免許、通知日時も記録します。
どろちゃんとカタリナ摂政がチェブラーシカちゃんで実際に見たように、私掠船は大西洋の真ん中へ均等に散っているわけではありません。商船と出会いやすく、補給や情報も得やすい港の周辺や、ジブラルタル海峡のように航路が狭まる場所へ集まりやすくなります。
本国から一隻ずつ探しに行くより、船が戻ってくる港を情報伝達の場所にする方が現実的です。
正式な文書が各港へ届くまでには時間がかかりますが、この世界では王宮と港側の組織が電信で結ばれています。そのため先に電信で運用を始め、署名や印章を整えた正式文書をあとから送ることができます。




