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79貴族令嬢は、ほとんど何もしません。  エルレンフェルトでののんびり回

第七十九章 貴族令嬢は、ほとんど何もしません



     ◇ ◇ ◇



 翌朝。


 どろちゃんのところへ、ポルトガルから電信が来ました。


 相手は大家さんです。


 正式には、ポルトガル王国の摂政、カタリナ・デ・ブラガンサ。


 もちろん、大家さん本人が電鍵の前へ座っているわけではありません。


 王宮には専用の通信室があります。


 通信士が受信した符号を書き取り、文面にして届けます。


 返事も、カタリナさんが書いたものを通信室へ戻し、通信士が送ります。


 そのため、本人同士が電鍵を叩き合うわけではなくても、連絡はかなり速くなりました。


 どろちゃんの方は、自分でモールス符号を読めます。


 短い音。


 長い音。


 紙へ書かなくても分かります。


「大家さん、早いね」


 通信士さんは何も言いませんでした。


 正式な通信です。


 大家さんではありません。


 今日の話は、大西洋でした。


 リスボン。


 アゾレス諸島。


 ボストン。


 その途中に、飛行機を安全に降ろせる場所を作ります。


 アゾレスには一か所では足りません。


 どろちゃんは、昨日の夜からそこを気にしていました。


 リスボンから飛んでアゾレスへ着く。


 ところが、その島の滑走路が使えない。


 そのとき、リスボンまで戻れるだけの燃料が残っているとは限りません。


 反対向きなら、ボストンまで戻ることもできません。


 だから、二つ。


 少し離れた二つの島へ、それぞれ滑走路を作ります。


 片方が使えなければ、もう片方へ行けるようにします。


 どの島にするかは、まだ決めません。


 港。


 船で運ぶ重い機械。


 港から候補地までの道。


 地面。


 風。


 水。


 集落。


 農地。


 土地の持ち主。


 そういうものを、ポルトガル側でも調べてもらいます。


 電信ならすぐ返事は来ます。


 でも、島の地面まで電信線の向こうから見えるわけではありません。


 現地の人が歩いて、見て、測らなければならないところは残ります。


「二つ、お願いします」


 どろちゃんは通信文を確認しました。


 通信士さんが送ります。


 少しして、また返事。


 王宮の通信室からです。


 カタリナさんも、二島で調べることに同意していました。


「早い」


 昨日までなら、これで一仕事した気分になったかもしれません。


 でも今日は、まだ朝です。



     ◇ ◇ ◇



 次はチェブラーシカちゃんでした。


 客室の椅子を降ろします。


 ほとんど全部。


「これも?」


「うん」


「こちらもでございますか」


「それも」


 フランソワさんと整備の人たちが、固定を外していきます。


 大勢を運ぶための客室ではなくなります。


 残すのは、客室のソファー席が二つ。


 少しゆったり座れる、来賓用の席です。


 それから、ギャレーの近くに四席。


 こちらは普通の座席。


 全部で六席です。


 操縦席には、どろちゃんとフランソワさん。


 それから、乗員としてオイゲンさんの席が一つ。


 乗員三人。


 乗客六人。


 合わせて九人。


「これでいい」


 どろちゃんは、ずいぶん広くなった客室を見回しました。


 椅子を降ろした分だけ、荷物を置けます。


 測量器材。


 通信機材。


 予備品。


 必要なら燃料関係の荷物も増やせます。


 重い土木機械まで空へ持ち上げるつもりはありません。


 そういう物は船です。


 大西洋を渡る飛行機へ、わざわざ重い機械を積み、その分の燃料まで余計に燃やす必要はありません。


 どろちゃんは、降ろされた座席の列を見ました。


「ずいぶん減ったね」


「九人仕様でございますから」


「ホテルみたいだったのに」


「飛行機でございます」


「知ってる」



     ◇ ◇ ◇



 そのあと。


 どろちゃんは二丁の銃を自分で見ました。


 TSV-1。


 SVDK。


 エルレンフェルトには軍隊はいません。


 でも、飛行場や施設や人を守るため、銃を扱える警備の人たちは育てています。


 オイゲンさんも、実際に使う側の人です。


 どろちゃんは二丁を順に確認しました。


 撃ちません。


 今日は試射の日でもありません。


 必要なところを見て、状態を確かめて、終わりです。


「おしまい」


 午前中の仕事は、それだけでした。



     ◇ ◇ ◇



 午後。


 どろちゃんは、自分の部屋へ戻りました。


 何かもう一つやろうかと思いました。


 やめました。


 昨日は朝からライデンの先生たちとリスボンへ行きました。


 鉄道の開通式。


 ルイ十四世たちを乗せてパリへ戻りました。


 そのまま海の向こうの戦争を止める話をして。


 エルレンフェルトへ帰ったら、今度は大西洋航路の仕事が待っていました。


 今日は、もういいです。


 ベッドの上には、大きなムリヤちゃんがいます。


 六つのエンジン。


 双垂直尾翼。


 An-225を丸くしたような、一メートルほどのぬいぐるみです。


「借りるね」


 返事はありません。


 どろちゃんはムリヤちゃんを横へ倒し、そのお腹を枕にしました。


 少し高いです。


 でも、柔らかい。


 目を閉じました。


 次に目を開けたときには、ずいぶん時間が経っていました。



     ◇ ◇ ◇



 夕方です。


 でも、外はまだ明るいままです。


 夏至に近い季節です。


 西の空で太陽は低くなっていますが、沈むまでにはまだ二時間以上あります。


 どろちゃんは、しばらく天井を見ました。


「……おなかすいた」


 起きます。


 着替えて、部屋を出ました。


 領主館から会議棟の横を通り、斜行エレベーターへ乗ります。


 丘を下ります。


 途中はホテル棟です。


 そこを抜けて表の道へ出ました。


 道の向こうが、水玉船の乗り場です。


 待合室があります。


 売店もあります。


 どろちゃんは道を渡りました。


「ピロシキください」


「どちらを?」


「普通の」


 挽き肉の入った方です。


 それから紅茶。


 ジャムも入れてもらいます。


 どろちゃんは、川の見えるところへ座りました。


 水玉船が来ます。


 人が降ります。


 また乗ります。


 出ていきます。


 少しすると、別の船が向こうから来ました。


「増えたなあ」


 昔は、一隻出るとしばらく川面が空いていました。


 今は違います。


 一隻。


 もう一隻。


 少し離れて、また一隻。


 西の低い太陽が川面へ斜めに光を落としています。


 でも、夕焼けにはまだ早い時間です。


 これから出かける人もいます。


 仕事を終えて帰る人もいます。


 買い物の人もいます。


 ホテルへ行く人もいます。


 対岸へ食事に行く人もいます。


 水玉船は、夕方になってからむしろ忙しくなっていました。


 どろちゃんはピロシキを食べます。


 紅茶を飲みます。


 甘いジャムの味。


 川を見ます。


 それだけです。


 大西洋のことは考えません。


 二つの島のことも考えません。


 飛行機の座席のことも、銃のことも、今日はもう終わっています。


 ただ、水玉船が行ったり来たりしています。



     ◇ ◇ ◇



 水玉船は、もうこの辺りだけの船ではなくなりつつありました。


 ライン川の整備が進み、ストラスブールから下流へ長く走れる区間が増えています。


 今度は、寝台を付けた船も走らせる予定です。


 ストラスブールから海側まで、およそ一日。


 一日といっても、二十四時間ほどです。


 船は夜も進みます。


 乗務員は途中で交代します。


 乗客には食事を何度か出します。


 そのため、途中には水玉船のための補給と休憩の拠点も作ることになりました。


 鉄道建設の基地とは別です。


 長距離便には、乗務員だけを交代し、食事や飲料水を短時間で積んですぐ出る便もあります。


 もう一つ。


 高速バスのように、途中で少し長めに止まり、乗客も岸へ出られる便も作ります。


 船の中にトイレはあります。


 寝台船には二つ。


 故障対策ではありません。


 二十四時間も乗る船で一つだけでは、単純に使いにくいからです。


 途中で止まるのも、トイレのためではありません。


 少し歩きたい人もいます。


 温かい物を買いたい人もいます。


 岸の空気を吸いたい人もいます。


 その代わり、停船した分だけ到着は遅くなります。


 速い便と、休憩する便。


 どちらも走らせます。


 政府専用の複数色の水玉船も、いまでは三つのユニットをつないだ構造になりました。


 長時間乗っても困らないよう、居住設備もギャレーも良くなっています。


 小さな渡し船から始まったものが、少しずつ別の乗り物へ育っていました。


 どろちゃんは、それを考えながら見ていたわけではありません。


 今日は、ただ川を見ていました。



     ◇ ◇ ◇



 しばらくすると、少し暑くなってきました。


 太陽はまだ西の空にあります。


 低いのですが、まだ強い光です。


「帰ろ」


 紅茶を飲み終えます。


 待合室を出ました。


 道を渡ります。


 ホテル棟へ入ります。


 外より少し涼しいところを抜け、斜行エレベーターへ。


 ゆっくり上へ戻ります。


 上には会議棟。


 その横が領主館です。


 フランソワさんはいません。


 今日は男爵としてのお仕事をしています。


 どろちゃんの方は、この国では特別な爵位を持っていません。


 元首の娘です。


 英国へ行けば伯爵ですが、ここで英国伯爵として暮らしているわけではありません。


 自分の家へ帰ります。


「ただいま」


 返事をする使用人さんがいました。


 どろちゃんは中へ入りました。


 今日したこと。


 電信を少し。


 飛行機の椅子を降ろした。


 銃を二丁見た。


 寝た。


 ピロシキを食べた。


 紅茶を飲んだ。


 川を見た。


 ほとんど、何もしていません。


 そういう日もあります。



                *



【小さな説明】


■ アゾレス諸島の二つの滑走路

 大西洋航路では、アゾレス諸島の一島だけを中継地にはしません。予定していた島の滑走路が天候や地上事情などで使えなくなった場合、リスボンやボストンまで引き返せる燃料が残っているとは限らないためです。二つの別の島に滑走路を用意し、片方が使えない場合にはもう片方へ向かえるようにします。具体的な二島はまだ決定していません。


■ ポルトガル王宮の電信

 カタリナ・デ・ブラガンサの王宮には専用の通信室があります。通信士がモールス符号を受信して文面にし、カタリナへ届けます。返信も通信室から送ります。どろちゃん自身はモールス符号を理解できるため、自分の側では直接内容を確認できます。


■ チェブラーシカちゃんの九人仕様

 大西洋航路調査に向け、客席の大半を降ろしました。客室にはソファー式のVIP席二席、ギャレー付近に通常席四席を残します。乗客六人に、どろちゃん、フランソワ、オイゲンの乗員三人を加え、乗員乗客九人仕様です。


■ 水玉船の長距離運航

 ライン川の航行環境が改善されたため、水玉船は下流側まで長距離運航できるようになり、ストラスブールから海側まで約二十四時間で結ぶ寝台付き船を計画しています。途中で乗務員を交代し、複数回の食事を提供します。短時間の補給だけで進む便と、高速バスのサービスエリア休憩のように乗客も岸へ出られる便を併用します。寝台船のトイレは二か所です。


■ 鉄道建設基地とは別

 水玉船の長距離便用の補給・休憩拠点は、鉄道建設基地とは関係ありません。鉄道建設基地は現時点ではストラスブールの少し下流、ガンブスハイム方面の一か所だけです。ライン川を遡上してきたレールを引き上げ、枕木へ取り付け、組み立てた軌道を貨車へ載せて建設現場へ送ります。重いレールを積んだ船の遡上距離を少しでも短くできるため、市街より下流に置くことにも意味があります。ストラスブール側の鉄道が北側から回って市街へ入る線形ともつながっています。


■ どろちゃんの爵位

 どろちゃんはエルレンフェルトでは元首の娘であり、国内で本人に特別な爵位はありません。国外で持つ爵位は英国の伯爵位です。エルレンフェルトでの日常生活では、英国伯爵として扱われて暮らしているわけではありません。


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