08お姉様の丘へ、きちんと降ります。 初めてのタドポール君 自宅以外への着陸です。
第八章 お姉様の丘へ、きちんと降ります
空を飛ぶ約束には、少しだけ条件があります。
晴れていること。
風が悪くないこと。
降りる場所に、人や馬や荷車がいないこと。
そして、降りたあとで、もう一度飛び立てる斜面があることです。
馬車で訪ねる約束より条件が多いように見えますが、宿屋も渡し船も要りません。
どろちゃんは、前にお姉様の伯爵領へ手紙を届けたとき、空から町と丘を見ていました。
伯爵領の仕事をする行政館は、マイン川に近い町の中にあります。
けれど、お姉様と伯爵様が暮らしているのは、町の東側にある丘の上の別邸でした。
町は古く、家も道もすでに詰まっています。
大きなお屋敷を建てるために町を壊すより、まだほとんど何もない丘へ別邸を建てた方が、ずっと簡単だったのです。
別邸という名前でしたが、お姉様夫妻は、ほとんどいつもそこで暮らしていました。
ですから、事実上のお屋敷です。
どろちゃんは、お姉様へ手紙を送りました。
屋敷の横から丘の下へ続く草地のうち、なるべく長く、緩やかに下っているところを空けておいてほしいこと。
荷車、薪の山、大きな石を置かないこと。
牛や羊を入れないこと。
見物する人も、斜面へ出さないこと。
ただし、上空から見て危ないと思ったら、その日は降りないこと。
最後の一文は、約束を破るために書いたのではありません。
無事に会うために書いたのです。
返事には、伯爵様の封蝋が押されていました。
《承知した。指定の斜面は空けておく。人払いも行う》
お姉様からは、もう一枚、小さな紙が入っていました。
《今度は、お手紙だけ落として帰らないでください》
これは、伯爵家の正式な命令ではありません。
けれど、どろちゃんには、こちらの方が大切でした。
訪問の日の朝、お母様は焼き菓子を缶へ詰めました。
「お姉様と皆様で召し上がれるように、多めに入れてあります」
「私の分もある?」
「途中で全部食べなければ、ありますよ」
どろちゃんは、たいへん信用されています。
お父様は伯爵様への手紙を革の筒へ入れ、封を確認しました。
その横には、近くの大きな町で買った土産の包みがあります。
「これは伯爵様へ。落とすのではなく、手渡してくれ」
「今日は降ります」
「上から見て安全なら、だろう」
「はい」
お父様も、飛ぶ約束の条件を覚えていました。
タドポール君の後席には、お母様の焼き菓子と、お土産の包みと、手紙の筒が収まりました。
後席は後ろ向きです。
荷物には、景色の向きは関係ありません。
計器盤の前へ押し込む浅い引き出しには、カップ、茶葉、砂糖、小さな布巾が入りました。
湯を入れた保温ポットは、もっと低い場所へ固定されています。
サモワールを積むほど大げさではありません。
けれど、一時間の飛行で紅茶を飲みたくなることはあります。
「今日はお姉様のところまで、一時間だよ」
『前と同じくらいだね』
「今度は着陸するよ」
『斜面がきれいならね』
タドポール君も、約束の条件を覚えていました。
主翼を取り付け、操縦系統を確認し、荷物の固定をもう一度確かめます。
作業中、頭の中の技師さんたちの声は短くなりました。
――後席の荷物、左右差なし。
――通信筒、固定よし。
――ポットの蓋、ロック。
――引き出し、閉鎖確認。
――主翼結合部、よし。
すべての確認が終わると、声はいつものやさしい調子へ戻りました。
――お菓子の缶は、着陸してから開けた方がいいよ。
「分かっています」
――前に一つ食べたね。
「重量確認です」
技師さんたちは、それ以上追及しませんでした。
丘の上でジェットエンジンが始動しました。
タドポール君は草の斜面を走り、いつものように、きれいに空へ上がりました。
大きな川を越え、山を越えます。
町と畑は、ゆっくり後ろへ流れていきました。
上昇を終えると、どろちゃんはジェットを止めました。
高い音が消え、長い翼のまわりには、風の音だけが残ります。
「お茶にしてもいい?」
『しばらく、まっすぐ飛ぶよ』
どろちゃんは引き出しを開け、カップを出しました。
保温ポットから、少しだけ紅茶を注ぎます。
空の上で飲む紅茶は、地上で飲む紅茶と同じ味です。
ただし、窓の向こうを山がゆっくり流れていくので、たいへん高価な喫茶室のように見えました。
もっとも、料金を取れば、お父様に事業計画を出すよう言われるかもしれません。
どろちゃんは紅茶を飲み終えると、カップを戻し、引き出しを閉めました。
一時間ほどたつと、前方にマイン川が見えてきました。
川は大きく曲がり、その近くに古い町があります。
町の東側には農地と草地が広がり、その先の丘に、お姉様の別邸が見えました。
大きな城壁も、高い塔もありません。
明るい石の壁と、赤い屋根を持つ、まだ新しいお屋敷です。
そのまわりには、建物がほとんどありませんでした。
「見えたよ」
『すぐには降りないよ』
「もちろん」
約束して来たからといって、確認せずに降りる必要はありません。
どろちゃんは別邸の上を一度通り過ぎました。
斜面を見るためです。
荷車はありません。
薪の山もありません。
大きな石も、草地の中央には見えません。
牛も羊もいません。
人の姿も、斜面にはありませんでした。
別邸の前には、お姉様と伯爵様、それに数人の家族だけが立っています。
使用人たちは屋敷の近くへ下がり、兵士も道の入口より先へ出ていません。
伯爵様は、本当に人払いをしていました。
丘の端に立てた細い竿から、長い布が風へ流れています。
風は斜面を上る方向へ吹いていました。
「お手紙どおりだね」
『うん。降りられるよ』
どろちゃんは大きく回り、丘の下側へ出ました。
そこから、斜面を上るように進入します。
速度を落としすぎず、けれど余らせすぎず、地面へ近づきます。
草の一本一本が見える高さになりました。
別邸の窓も、屋根の瓦も、よく見えます。
どろちゃんは操縦桿を少し引きました。
主輪が草へ触れました。
右も左も、ほとんど同時です。
タドポール君は斜面を上りながら速度を失い、別邸から十分に離れたところで、静かに止まりました。
「どう?」
『きっちりだよ』
「右の車輪は?」
『今日は、いっしょ』
これは、たいへんよい採点でした。
車輪が完全に止まるまで、お姉様たちは近づきませんでした。
どろちゃんが風防を開け、ベルトを外し、手を振ってから、ようやくお姉様が歩いてきました。
最初は歩いていましたが、途中から少し走りました。
「どろちゃん!」
「お姉様!」
どろちゃんは操縦席から降りると、そのままお姉様に抱きしめられました。
前に来たときは、空から手紙を落としただけです。
今日は、妹ごと届きました。
伯爵様も近づいてきました。
「よく来てくれた。あの斜面でよかっただろうか」
「はい。とてもきれいでした。大きな石もありませんでした」
「三つあったので、昨日、端へ動かした」
伯爵様は、領地を治める仕事の一つとして、大きな石を三つ動かしたようです。
たいへん正しい判断でした。
どろちゃんは後席から、お父様の手紙を取り出しました。
「お父様からです」
次に、大きな町で買った包みを渡します。
「こちらは伯爵様へ、お土産です」
最後に、お菓子の缶を抱えました。
「これはお母様から。みんなで食べるように、と」
「途中で減っていない?」とお姉様が尋ねました。
「一つだけです」
「重量確認?」
どろちゃんは、お姉様もたいへん物分かりのよい人だと思いました。
タドポール君には車輪止めが置かれ、主翼の端には、近づいてよい者が分かるよう見張りが立ちました。
見物人はいません。
町の人々も、丘へ上がる道で止められています。
空から白い翼が降りてくれば、普通なら大変な騒ぎになります。
けれど今日は、伯爵様が先に騒ぎを休ませておいたのです。
どろちゃんは、お姉様と並んで別邸へ入りました。
夕食は、伯爵家の家族と一緒でした。
食卓には、どろちゃんの家とは少し違うパンが並んでいます。
色が濃く、目が詰まり、皮はしっかりしています。
切ると香りが強く、噛むと少し酸味がありました。
「こちらのパンは、ずいぶん違うのね」
「最初は驚いたでしょう」とお姉様が言いました。
「でも、煮込みやソーセージには、こちらの方が合うの」
その言葉どおり、太いソーセージと、細いソーセージが皿へ並びました。
焼いたものも、茹でたものもあります。
香辛料の使い方も、どろちゃんの家とは少し違いました。
国境がなくなり、言葉が同じでも、パンとソーセージまで同じになる必要はありません。
たいへん賢い食卓です。
どろちゃんは、濃い色のパンへソーセージを載せて食べました。
「おいしい」
「よかった」とお姉様が言いました。
伯爵様は、お父様の手紙を読み終え、土産の包みを開けて礼を言いました。
食事の最後には、お母様の焼き菓子が出されました。
こちらは、どろちゃんの家と同じ味です。
お姉様は一口食べると、少しだけ目を細めました。
遠くへ嫁いでも、母親の焼き菓子は、同じ家から来たことがすぐに分かります。
夕食のあと、みんなは暖炉のある部屋へ移りました。
話題は、もちろんタドポール君です。
「前に手紙を落とした白い鳥と、今日の白い鳥は、同じなのね」とお姉様が言いました。
「同じだよ。タドポール君」
「あなたには、声が聞こえるのでしょう?」
「うん。今は外で休んでる」
伯爵様が尋ねました。
「もう一機、たいへん速いものができたと、手紙にあったが」
「プチーチュカちゃんです。小鳥ちゃん」
「今日、それで来なかったのはなぜだ」
「十分くらいで着くけれど、お菓子と紅茶を載せて、あの斜面へ静かに降りるなら、タドポール君の方が向いています」
速いものが、いつでも便利とは限りません。
食卓へ行くのに大砲を使わないのと、少し似ています。
どろちゃんは、小鳥ちゃんがロケットで丘を駆け上がったことを話しました。
雲より高く上がったこと。
音より速く飛んだこと。
ロケットが燃え終わったところで身体と鉛筆が浮いたこと。
そして、二本目へ点火すると、また座席へ押しつけられたこと。
「身体が浮いたの?」とお姉様が尋ねました。
「うん。シートベルトがなかったら、頭を天井にぶつけていたよ」
伯爵様は、少し考えてから言いました。
「次に来るときも、タドポール君で来てくれ」
たいへん穏当な希望でした。
夜が遅くなると、寝る部屋の話になりました。
どろちゃんは、お姉様へ尋ねました。
「今日は、お姉様のお部屋で一緒に寝てもいい?」
お姉様は、すぐには答えませんでした。
その代わり、伯爵様の方を見ました。
どろちゃんも見ました。
伯爵様は、暖炉のそばで、たいへん静かにしていました。
「いまは、私だけのお部屋ではないの」とお姉様が言いました。
「あ」
どろちゃんは、結婚というものには、こういう不便もあるのだと知りました。
お姉様のお部屋は、夫婦の寝室になっていたのです。
伯爵様を別の部屋へ移す方法もあります。
けれど、妹が泊まりに来るたびに伯爵様を追い出していては、伯爵家の秩序が少し困ります。
「では、来客用のお部屋にします」
「あとで行くわ」
来客用の寝室には、大きなベッドと、小さな暖炉がありました。
窓からは暗い丘と、月明かりを受けたタドポール君の翼が見えます。
どろちゃんが寝間着へ着替えたころ、お姉様がやってきました。
二人はベッドへ並んで座り、家のことを話しました。
お父様のこと。
お母様のこと。
使用人たちのこと。
お姉様が嫁いでから変わったこと。
変わらなかったこと。
それから、どろちゃんは、クリスマスに家で歌ったプライマリーの歌を教えました。
「タドポール君が、飛ぶときに歌うの」
「飛行機が歌うの?」
「私にだけ聞こえるよ」
お姉様は旋律を一度聞き、二度目から小さな声で合わせました。
最初は少し遅れました。
三度目には、ほとんど一緒でした。
二人は声を抑えて歌いました。
夫婦の寝室ではありませんでしたが、お姉様はしばらくそこにいてくれました。
歌が終わると、お姉様はどろちゃんの髪を撫でました。
「次は、私も空を飛べるかしら」
「タドポール君の後ろなら乗れるよ。後ろ向きだけど」
「前は見えるの?」
「鏡で」
お姉様は少し考えました。
「自分で前を見て飛びたいわ」
「では、練習用のものが要るね」
それは、神様へお願いした言葉ではありません。
ただ、姉妹が寝室で話しただけです。
けれど、この世界では、ときどき、その程度でも十分なことがあります。
翌朝、どろちゃんが目を覚ますと、来客用の寝室に箱がありました。
昨夜まではありませんでした。
もちろん、寝室の扉より大きな箱です。
神様は、子爵家でも伯爵家でも、出入口の寸法を気にしないようでした。
箱の側面には、ロシア語で書かれていました。
Доротее и её сестре.
(ドロテーエ・イ・イヨー・シストリェ。)
ドロテーヤと、そのお姉さんへ。
Учебный планёр. Основные узлы.
(ウチェーブヌィー・プラニョール。アスナヴヌィエ・ウズルィ。)
練習用グライダー。主要構成部品。
「お姉様」
どろちゃんが呼ぶと、お姉様は急いでやってきました。
扉を開けようとして、箱へ当たりました。
「どうして、ここにあるの?」
「神様は、扉を使わないみたい」
二人は、箱の蓋を少しだけ開けました。
中には、長い木製の骨組み、翼の桁とリブ、細い胴体の枠、座席、操縦桿、ペダル、滑車、索、それに小さな車輪が並んでいます。
タドポール君より、ずっと簡単です。
エンジンもありません。
風防もありません。
座席の前には、ほとんど何もありません。
空を飛ぶために必要なものだけが、たいへん素直な形で入っていました。
「これが、プライマリー・グライダー?」
「たぶん、お姉様が自分で飛ぶためのもの」
箱の横には、もう一つ、少し小さな箱が置かれていました。
こちらにもロシア語があります。
Резиновый стартовый жгут.
(リジーナヴィ・スタールタヴィ・ジュグート。)
発航用ゴム索。
10 комплектов.
(ヂェーシャチ・カムプレークタフ。)
十セット。
箱の中には、太いゴム索が、きちんと分けて巻かれていました。
「十セットも使うの?」とお姉様が尋ねました。
頭の中で、技師さんたちが目を覚ましました。
――全部を一度に使うわけではないよ。
――でも、ゴム索は消耗するからね。
――それに、二人だけの練習で終わらないかもしれないよ。
どろちゃんは、木の骨組みが入った大きな箱と、十組のゴム索が入った箱を見ました。
一機だけなら、贈り物です。
十組の発航用ゴム索まで付けば、少し学校らしくなります。
お姉様は、まだ空を飛んだことがありません。
伯爵領には、飛ぶという言葉を自分の仕事にする人も、まだ一人もいません。
それでも神様は、もう十組分の練習を考えているようでした。
もっとも、今日はまだ朝食前です。
箱は大きく、部品は多く、別邸には組立作業場もありません。
ですから、プライマリー・グライダーを組み立てるお話は――また次回です。
◇ ◇ ◇
第八章の小さな説明
伯爵領の行政館はマイン川近くの町に置かれ、お姉様夫妻の別邸は町の東側にある丘陵地へ建てられています。別邸の周囲はまだほとんど開発されていないため、新しい飛行場を造ったのではなく、既存の草地から荷車、大きな石、家畜、人を退けただけです。
タドポール君は、着陸前に必ず上空から斜面を確認しています。手紙で着陸を約束していても、障害物や風向きに問題があれば降りません。本章では、斜面を上る方向に着陸して停止距離を短くし、帰路には同じ斜面を下って離陸できます。
プライマリー・グライダーは、初期の滑空訓練に使われた、たいへん簡素な機体です。胴体は露出した骨組みに近く、操縦席も開放され、エンジンを持ちません。斜面と向かい風を利用するほか、発航用ゴム索を人力で引き、機体へ初速を与えて飛ばします。
十セットのゴム索を一度に取り付けるわけではありません。ゴム索は繰り返し伸ばされる消耗品であり、点検、交換、予備が必要です。また、十セットという数量は、神様が一人のお姉様だけでなく、その先の滑空訓練まで考えている可能性を示しています。
本章では箱を開け、中身を確認したところまでです。組み立てと初めての発航は、次章で行います。




