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75貴族令嬢は、リスボンへ鉄道を見に行って王様を連れて帰ります   マドリード リスボン間開通

第七十五章 貴族令嬢は、リスボンへ鉄道を見に行って王様を連れて帰ります



 マドリードとリスボンを結ぶ鉄道が、ようやく全線で開通することになりました。


 マドリード側でも式典があります。

 リスボン側でも式典があります。


 最初の列車は、マドリードからリスボンへ向かうルシタニア号。

 反対方向は、ヒスパニア号です。


 車両と電気方式を設計したライデン大学とエルレンフェルトにも招待が届きました。


 ですから、どろちゃんも行きます。


 ただし、今回は行って帰ってくるだけではありません。


「フランス側から、帰りの飛行機をお願いしたいそうです」


 お父様が、届いた電信の紙を机の上へ置きました。


「誰を?」


「ルイ十四世陛下と、何人か。人数はまだ確定していないそうだよ」


「まだ?」


「式典ですからね。増えるかもしれない、と最初から書いてあります」


 どろちゃんは紙を取り上げました。


 帰路。

 リスボンからパリ。

 フランス政府負担。

 有償の旅客チャーター。


 無料の王様送迎ではありません。


 チェブラーシカちゃんを使うなら、ちゃんと料金を払ってもらいます。


「何席にする?」


 工場の人が聞きました。


「六席。乗客だけで六人」


「ずいぶん少ないですね」


「その代わり、広くして。革張りの椅子。できれば、ちょっと寝られるくらい」


「固定はしますよ」


「もちろん。シートベルトも」


 どろちゃんは、飛行機の中で王様が転がるところを想像したくありません。


 いつもの客室を全部捨てるわけではありません。


 床の固定部を使って、交換できるようにします。


 大きな革張りの席を六つ。

 小さなテーブル。

 厚いカーペット。

 食事を置くための金具。


 そして後ろには、普通の客席を四つ残しました。


 こちらは、ハンナさん、いつもの給仕さん、それからフランス側のお世話係二人が使います。


 操縦席側は、どろちゃんとフランソワさん。

 その後ろにある乗員席は、オイゲンさんです。


「私は警備ですか」


 完成しかけた客室を見ながら、オイゲンさんが尋ねました。


「うん。リスボンは、いつものところじゃないから」


「承知しました。では、機体から離れる時間があるなら、その間は私が残りましょう」


「お願いします」


 オイゲンさんは、以前使った銃の、もっと強力な方を持っていくことになりました。


 機内で振り回すものではありません。

 必要がなければ、ずっとケースの中です。


 豪華な座席を入れたからといって、飛行機が宮殿になるわけではありません。


                *


 食事も準備しました。


 ギャレーには冷蔵庫があります。


 リスボンまでの分だけではなく、帰路の分までエルレンフェルトで積みます。


 VIP用は六人分。

 乗員側は五人分。


 どろちゃんとフランソワさんだけ別の料理にする必要はありません。


「六人分でよろしいのですね」


 料理人が念を押しました。


「うん。いま聞いてるのは四人だけど、席が六つあるから、たぶん増える」


「では、六名様分を整えておきます」


「乗員の方は五人分で。ちゃんとおいしいのでお願いします」


 王様だけが食べる飛行機ではありません。


                *


 出発の前日。


 どろちゃんとフランソワさんは、ミツバチちゃんでライデンへ向かいました。


 迎えに行くのは教授や研究者が六人です。


 鉄道を見物するためではありません。


 この人たちは、車両を設計した側です。


 左右が一本の車軸でつながっていない独立回転の車輪。

 従来の輪軸が持つ自己案内に頼らず、車体側からリンクで向きを与える案内機構。

 連接部の左右に支持を分け、床下だけへ押し込まず、縦の面を上まで使ったばねと減衰装置。

 長距離を走る機関車では、二万五千ボルト級の交流を受け、主変圧器で落とし、水銀整流器を通して直流電動機を回します。


 試作をしたのはライデンとエルレンフェルト。

 量産したのはSNCFの工場です。


 先生方は、その量産車が本当に一晩走るところを見たいのです。


 ミツバチちゃんがライデンへ着くと、六人はすでに荷物をまとめて待っていました。


 年配の先生もいます。

 若い先生もいます。


 その中に、若い女性が一人いました。


 助手ではありません。


 ほかの先生と同じように、自分の鞄と記録用紙を持っています。


 どろちゃんは、特に何も思いませんでした。


 ライデンでは珍しくなくなってきました。


 フランソワさんの方が、外から見るともっと目立ちます。


 黒髪で、顔立ちも身体つきも整っています。

 町を歩けば振り返る人がいるくらいです。


 でも本人は、先生方の荷物を数えていました。


「六名様。大きなお荷物が四つ、小さいものが九つでございます。こちらの箱は測定器でしょうか」


「ええ。衝撃を与えない方が助かります」


「では、前側へ置かないようにいたします」


 そのまま積み込みました。


                *


 夕方。


 ミツバチちゃんはエルレンフェルトへ戻りました。


 小さな飛行機を使うときは、三千メートル滑走路まで行きません。


 丘の上の会議棟、その前がエプロンです。


 ミツバチちゃんはそこへ入り、会議棟のすぐ前で止まりました。


 先生方が降りると、一人が周囲を見回しました。


「ここが飛行場なのですか」


「小さい飛行機の方です。チェブラーシカちゃんは別。明日は連絡鉄道で大きい滑走路まで行きます」


「連絡鉄道?」


 その言葉だけで、二人ほど顔が変わりました。


 リスボンへ鉄道を見に行く人たちです。


 エルレンフェルトの鉄道を素通りするはずがありません。


「明日の朝、乗ります」


「どのくらいの距離です?」


「乗れば分かるよ」


「そういう言い方をしますか、設計者が」


「今日はホテルに行く方が先」


 会議棟へ入り、ホテルへ降りる斜行エレベーターの前まで来ました。


 フランソワさんがカードを読取部へ当てます。


 表示が変わり、扉が開きました。


 若い女性の先生が、エレベーターへ乗る前にカードの方を見ました。


「いまの札は、何ですか」


「わたくしのIDカードでございます。こちらへ入る権限も入っております」


「ホテルの鍵とは別ですか」


「ホテルでお渡しするカードは、お部屋の鍵でもございます。ただし、会議棟へ上がる権限がなければ、こちらのエレベーターは動かせません」


 今度は別の先生が足を止めました。


「同じ札で、部屋の鍵と通行許可を分けているのですか」


「はい」


「……鉄道より先に、これを聞きたいですね」


 どろちゃんが振り返ります。


「明日早いよ」


「分かっています。けれど、誰が権限を入れるのです?」


「管理する人」


「それは分かります」


 フランソワさんが少し笑いました。


「詳しいお話は、帰ってからになさった方がよろしいかと存じます。まずホテルまでお降りくださいませ」


 六人は二回に分かれました。


 斜面に沿って箱が静かに下がっていきます。


 鉄道の先生ですから、今度はそちらが気になります。


「普通の昇降機ではないのですね」


「丘に沿って動いていますね。案内はどうなっています?」


「止まったときの制動は?」


 三つ続きました。


 どろちゃんは答えられるところだけ答えました。


 分からないところは、設備を担当した人に聞いてもらうことにしました。


                *


 ホテルへ着くと、それぞれにカードキーが渡されました。


 先生の一人は、部屋へ入る前にカードを裏返して見ています。


「これ一枚で客室の鍵。そして上へ行けるかどうかは別に決められる」


「先生、なくさないでね」


「なくしませんよ。構造を調べたいだけです」


「分解もしないで」


「しません」


 今度は、少し間がありました。


「……たぶん」


「だめです」


 翌朝は早いので、晩餐を長引かせません。


 それでも先生方は食後に図面を広げました。


「明日の折返し、どこで測ります?」


「台車上と連接部の両方。床加速度だけ見ても仕方がないでしょう」


「速度も要ります。曲線へ入るところで、案内リンクの動きが分からなくなる」


「寝台で寝ている場合じゃないですね」


 どろちゃんが言うと、年配の先生が笑いました。


「あなたも同じでしょう。自分で作った飛行機なら、音が少し違うだけで起きるはずです」


「それは起きる」


「ほら」


 フランソワさんは、横で翌朝の集合時間を確認していました。


 研究の話を止める役目まで引き受ける気はありません。


                *


 翌朝。


 先生方には、ホテルで朝食をしっかり取ってもらいました。


 パン。

 卵。

 肉料理。

 温かいもの。

 果物。


 普段より豪華にする必要はありませんが、飛行機へ乗ってから昼食を出す予定もありません。


「皆様、朝食はお済みでございますか」


 フランソワさんが確認しました。


「いただきました。ずいぶん念を押されましたが」


「今日は機内では、お茶とお菓子だけです」


 どろちゃんが言いました。


「帰りのお客さんの食事まで積んであるから、先生たち六人分をここで食べると足りなくなるの」


「なるほど。食料にも座席と同じように定員があるわけですね」


「あります」


「では、しっかり食べておいて正解でした」


 ホテルから斜行エレベーターで会議棟へ上がります。


 昨日のカードの話がまだ続いていました。


 自分たちのホテル用カードでは上がれないので、フランソワさんのカードで扉を開けます。


「権限がないと、客室には入れてもここへは来られない」


「人の移動そのものを管理しているのですね」


「そういう使い方もできます」


「駅の改札にも使えますね」


 どろちゃんが振り向きました。


「先生、それは帰ってから研究して」


「思いついたときに言わないと忘れます」


 会議棟へ上がると、すぐ外がエプロンです。


 昨日乗ってきたミツバチちゃんがいます。


 けれど今日は、そこからさらに移動します。


 三千メートル滑走路へ行く連絡鉄道です。


 先生方は乗る前から線路を見ました。


 設計図で知っている人もいます。

 エルレンフェルトへ来たことがある人もいます。


 それでも、実際に人と荷物を運んでいる線を見るのは別です。


「飛行機のためだけに造ったのですか」


「人も荷物も運ぶよ。工場の方へ行く物もあるし、お弁当を運んだこともある」


「旅客の本線より、こういう線の方が先に役に立つ場合がありますね」


 年配の先生が、窓の外を見ながら言いました。


「距離が短くても、毎日同じ場所の間を人と荷物が動くなら、馬車を何台も往復させるより運行をまとめられる。しかも飛行機の発着に合わせて動かせる」


 別の先生は車内の揺れを見ています。


「線路の方は、こことリスボンでは考え方が違いますね」


「用途が違うから」


「そこが面白いのですよ。同じ方式をどこへでも持っていく必要はない」


 リスボンへ行く前から、もう鉄道の話です。


 連絡鉄道が三千メートル滑走路の側へ着くと、大きな格納庫と、その先の長い滑走路が見えました。


 チェブラーシカちゃんが待っています。


「なるほど」


 若い女性の先生が、滑走路と連絡鉄道を交互に見ました。


「小さい機体は会議棟の前。大きい機体は長い滑走路。その間だけ鉄道で結ぶ。全部を一か所へ押し込まないのですね」


「うん。チェブラーシカちゃんを会議棟の前で離陸させるのは無理だから」


「交通の設計は、車両だけではありませんね」


「そういうことです」


 先生方は、それでようやくチェブラーシカちゃんへ乗りました。


 客室へ入ったところで、また少し止まります。


「これは……昨日のミツバチちゃんとは、ずいぶん違いますね」


 革張りの大きな席が六つ並んでいます。


「帰りに王様を乗せるので、今日は先生たちが使ってください」


「よろしいのですか」


「空けて飛ぶ方がもったいないです」


 無料です。


 同じ大学の研究者を運ぶのに、どろちゃんは運賃を取りません。


 六人が腰を下ろしました。


 座面が沈みます。


 カーペットもあります。

 テーブルもあります。


「これ、研究費で乗ったら怒られる種類の席では?」


「今日は無料だから大丈夫」


 どろちゃんは操縦席へ入りました。


「リスボンまで行きます。機内はお茶とお菓子だけです。朝ごはん食べたから大丈夫でしょう?」


「大丈夫です。むしろ、着くまで図面を広げる時間が増えます」


 給仕さんが後ろから、少し困ったように言いました。


「先生方、お茶を置く場所だけは残していただけますと助かります」


 そこだけは、出発前に約束してもらいました。


                *


 水平飛行に入ると、給仕さんがお茶を出しました。


 先生方はホテルで朝食を済ませています。

 リスボンまでのあいだに用意しているのは、お茶とお菓子だけです。


 小さな焼き菓子と、甘さを控えた菓子。

 机の上には図面がありますので、邪魔にならない量だけ出します。


 先生方は最初こそ革張りの席を楽しんでいましたが、お茶が二杯目になるころには、もうリスボンからマドリードまでの折返し試験の話をしています。


「連接部の上下変位は、あの場所だけでは足りませんね。端部も測りたい」


「終端車は条件が違います。ばねも減衰も同じではありませんから」


「速度と曲線位置も合わせて記録したいですね。案内リンクの動きを、あとで照合できるようにしておきたい」


 給仕さんは、空いた菓子皿だけ静かに下げました。


                *


 リスボンの郊外には、巨大な駅が造られていました。


 将来の拡張を見込んで、最初から用地を広く取っています。


 ですから周囲には、まだ建物のない空き地がたくさんありました。


 その一角を、チェブラーシカちゃんの着陸場所に使います。


 事前に電信で連絡してあります。


 必要な広さ。

 人や馬車を入れないこと。

 障害物を置かないこと。

 警備をつけること。


 リスボン大学の人たちが現地を測り、緯度と経度も送ってくれました。


 経度の基準はグリニッジです。


 こちらの航空地図も同じです。


 変換する必要はありません。


 チェブラーシカちゃんは、駅から一キロほど離れた空き地へ降りました。


 近すぎると、音が大きすぎます。


 式典のすぐ横でエンジンを回すわけにはいきません。


 着陸して機体を止めると、ポルトガル側の警備がすでに外周にいました。


 オイゲンさんは周囲を見てから言いました。


「ここは私が残りましょう。式典へ行ってきてください」


「お願いします。長くなるかも」


「そのつもりでおります。ハンナと給仕の方も機内に残るのでしょう?」


 ハンナさんが答えました。


「はい。先生方がお使いになったあとの清掃をして、帰りのお客様のために整えておきます」


「飾りもお願い」


「もう用意しております」


 小さな花。

 布。

 テーブルの飾り。


 飛行機の中ですから、倒れたり飛んだりしないように固定できるものだけです。


 どろちゃんとフランソワさん、それからライデンの先生方六人は、駅へ向かいました。



                *


 駅前には、人がたくさんいました。


 商人はもっといました。


 式典があれば、人が来ます。

 人が来れば、食べます。


 どろちゃんは途中で止まりました。


「お嬢様」


 フランソワさんが呼びました。


「ちょっとだけ」


 焼いた肉をパンにはさんだもの。

 魚を焼いたもの。

 油で揚げた小さな食べ物。

 甘い菓子。


 見たことのないものがたくさんあります。


「あとで食べる」


「機内のお食事がございますよ」


「それも食べる」


 紙包みが増えました。


 お菓子も買いました。


 フランソワさんは、止めませんでした。


 こういうとき止めても、たぶん別の店で買います。


                *


 式典会場のいちばん良い席には、ポルトガル王家の人々がいました。


 その中に、どろちゃんの知っている名前の人がいます。


 キャサリン・オブ・ブラガンザ王太后。


 チャールズ二世の王妃だった人です。


 いまはポルトガルへ戻っています。


 そして、どろちゃんがロンドンで買ったプレイストーの家。


 あの一帯の上位の荘園権は、この人の終身財産に入っています。


 家そのものの大家さんではありません。


 でも、どろちゃんの中では、だいたい大家さんです。


 王太后は、ライデン大学側の人たちを見ました。


 年配の先生たちの中に、若い女性がいます。


 もう一人、さらに目立つ若い女性がいます。


 フランソワさんです。


 しかも二人とも、後ろへ控えていません。


 設計者側の列にいます。


 王太后が側近へ何か聞きました。


 少しして、こちらへ声がかかりました。


「そちらの若いお二人。少しこちらへ」


 どろちゃんとフランソワさんは前へ出ました。


 王太后は、まずどろちゃんを見ました。


「あなたが、ドロテーヤ伯爵ですか」


「はい。初めてお目にかかります、王太后陛下」


 どろちゃんは、ここではきちんと礼をしました。


「ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルトと申します。ライデン大学で教授をしております。英国王立協会の会員、それからフランス王立科学アカデミーの外国人会員でもございます。今回の鉄道では、ライデン大学とエルレンフェルト側で、車両と電気設備の設計に参加いたしました」


「ずいぶん多いのですね」


「……肩書きは、増えました」


 王太后が少し笑いました。


 次にフランソワさんへ目を向けます。


「あなたも設計者なのですね」


「はい、陛下。エルレンフェルト公国男爵、フランソワ・フォン・ゲーテと申します。ドロテーヤ様とともに、試験、測定、設計確認、それから航空測量にも携わっております」


「助手ではないのですね」


「お嬢様のお世話をする立場でもございますが、鉄道に関しては設計側の仕事もしております」


 言い方がきれいです。


 どちらか一つにしてしまいません。


 王太后は、駅へ入ってきた線路の方を見ました。


「車輪が、普通の鉄道とは違うと聞きました」


「左右の車輪を一本の軸でつないでおりません」


 どろちゃんが答えます。


「別々に回ります。その代わり、普通の輪軸が持っている、線路の中央へ戻ろうとする性質も使えませんので、車体からのリンクで向きを案内しています」


「車輪が勝手に曲がるのではなく、車体が教えるのですか」


「だいたい、その理解で合っています。普通の輪軸で起きる古典的な蛇行動を避けたかったのです。ただ、独立させれば何もしなくてよいわけではありません。まっすぐ走るときも、曲線へ入るときも、案内の仕方を別に作る必要がありました」


「それで、あの車体の間が大きいのですね」


「はい。中央は通路に使いますので、支持するものは左右へ分けています。床下だけに全部を押し込まず、連接面の高さも使いました」


 王太后は、少し考えました。


「昨夜乗ってきた者が、馬車とは比べものにならない、と申していました。揺れないわけではありませんが、身体を放り出されるような揺れではなかった、と」


「それならよかったです。先生方は、帰りのヒスパニア号に乗って、また測ります」


「帰りも?」


「はい。たぶん、寝ないと思います」


 後ろで先生の一人が咳払いしました。


 否定はしませんでした。


                *


「ところで」


 王太后が、少し声を柔らかくしました。


「あなた、ロンドンにも家を買ったそうですね」


 どろちゃんは、一瞬だけ止まりました。


「はい。プレイストーに」


「私の終身財産に入っている土地ですね」


「購入するときに説明を受けました。王太后陛下の終身権が終わったあと、上位の権利が王室へ戻っても、正規に購入した家そのものが取り上げられるわけではない、と確認しております」


「きちんと確認したのなら結構です。あのあたりも、ずいぶん変わるのでしょうね」


「鉄道ができたら、もっと変わると思います」


「あなたは、そこにも鉄道を造るのですか」


「いま、ロンドンからエディンバラまで調べています」


 王太后は少し驚いた顔をしました。


「家を買いに行ったのではなかったのですね」


「家も買いました」


「そうでしたね」


 横にいた侍女が、菓子の入った小さな包みを持っていました。


 王太后がそれを見て、それからどろちゃんを見ました。


「お食べになりますか」


「え?」


「朝からこちらへ来て、ずっと話をしているのでしょう」


「……いただきます」


 侍女から包みを受け取りました。


 教授です。

 伯爵です。

 二つの国のアカデミーに所属しています。


 お菓子をもらいました。


 フランソワさんは何も言いません。


 ただ、少しだけ口元が動きました。


                *


 そうこうしているうちに、駅の方が騒がしくなりました。


 マドリードからの一番列車。


 ルシタニア号が入ってきます。


 長い夜行列車です。


 機関車の後ろに、連接した客車が続きます。


 昨日の夕方、マドリードを出ました。


 その中には、フェリペ五世と、祖父のルイ十四世がいます。


 フェリペ五世が、祖父に鉄道を見せたかったのです。


 列車が止まりました。


 式典の順番があります。

 挨拶があります。

 音楽があります。

 人が動きます。


 そして、ようやく少し自由になると、ルイ十四世がこちらへ来ました。


「いましたな」


 聞き慣れた声です。


 その隣には、若い王がいました。


 どろちゃんは、まだ会ったことがありません。


 フランソワさんも同じです。


 ルイ十四世が言いました。


「まだ紹介していなかったな。私の孫だ」


 どろちゃんとフランソワさんは、きちんと向き直りました。


「初めてお目にかかります、陛下。ドロテーヤ・フォン・エルレンフェルトでございます。ライデン大学教授として、今回の鉄道では車両と電気設備の設計に参加いたしました」


 フェリペ五世は、目の前の少女と、その横のフランソワさんを見ました。


「あなたが、あの車両を?」


「わたし一人ではありません。こちらにいる先生方と、エルレンフェルトの技師さんたちと一緒です。量産はSNCFの工場ですし、スペイン側で線路や設備を作った方々も大勢います」


 フランソワさんも礼をしました。


「エルレンフェルト公国男爵、フランソワ・フォン・ゲーテと申します。ドロテーヤ様とともに、設計、試験、測定、航空測量を担当しております」


 フェリペ五世は、少し表情を緩めました。


「祖父に、これを見せたかったのです。馬車で何日もかかる道を、一晩で走れるものが本当にできたのだと」


 ルイ十四世が横から言いました。


「余は、そのために一晩、孫の自慢する寝台車へ乗せられた」


「眠れました?」


 どろちゃんが聞きます。


「最初にそれを聞くのか」


「作った側なので、そこは気になります」


 ルイ十四世は少し笑いました。


「眠れた。馬車よりは、はるかによい。食事も悪くなかった。もっとも、途中で妙な画家二人と話し込んだので、寝た時間は短くなったが」


「画家さん?」


「あとで話す」


 そのときは、それで終わりました。


 式典が始まったからです。


                *


 開通式は、短くありませんでした。


 王様がいます。

 王太后がいます。

 外国から来た人がいます。

 鉄道を作った人がいます。

 お金を出した人がいます。

 工場の人がいます。


 誰か一人が話して終わり、では済みません。


 どろちゃんは途中から時計を見ました。


 帰りの飛行機は、グリニッジ時で十六時にVIP搭乗予定です。


 六月です。


 まだ明るい時間ですが、だからといって何時まででもよいわけではありません。


 式典が終わると、ライデンの先生方はヒスパニア号へ向かいました。


 ここからが、この人たちの本番です。


「では、マドリードで」


「寝てくださいね」


「努力します」


 誰も約束しませんでした。


                *


 どろちゃんとフランソワさんは、来賓より先に会場を離れました。


 チェブラーシカちゃんは一キロほど離れています。


 先に戻って、離陸準備をしなければなりません。


 馬車で機体へ着くと、オイゲンさんが出迎えました。


「異常はありません。見物人が何度か近づこうとしましたが、ポルトガル側の警備が止めています」


「ありがとう。機体は?」


「問題ありません。ハンナたちが中を別の飛行機のようにしてしまいました」


 中へ入ると、本当に別物でした。


 先生方が使った座席は拭かれています。

 カーペットも掃除されています。

 テーブルには小さな飾り。

 ギャレーには帰路用の食事。

 グラスも食器も、帰りの客用に並べ直されています。


 ハンナさんが最後の布を直していました。


「お嬢様、冷蔵庫も確認いたしました。六名様分、すべてございます」


「よかった。四人って聞いてるけど」


「六席ございますので」


「そうなんだけどね」


 どろちゃんは、自分の紙包みをギャレーの端へ置きました。


「これは?」


 給仕さんが聞きました。


「わたしの」


「ずいぶんございますね」


「屋台で買ったのと、大家さんにもらったの」


 ハンナさんが一瞬だけ止まりました。


「……王太后陛下でございますね」


「うん」


 給仕さんは、それ以上聞きませんでした。


                *


 遠くから馬車が来ました。


 警備の騎馬もいます。


 本来、乗ると聞いていたのは四人です。


 ルイ十四世。

 トルシー侯。

 イングランド銀行側の人。

 SNCFの上の人。


 どろちゃんは、操縦席へ入る前に人数を確認しました。


「一、二、三、四……」


 馬車から、さらに二人降りました。


「六人いる」


 フランソワさんも外を見ました。


「六名でございますね」


「聞いてない」


 ルイ十四世が、何事もなかったように機体へ近づいてきます。


 その後ろに、二人の男がいました。


 一人は、アントニオ・パロミーノ・デ・カストロ・イ・ベラスコ。


 もう一人は、ルカ・ジョルダーノ。


 どちらも画家です。


「陛下」


 どろちゃんが、少し声を低くしました。


「二人増えています」


「見れば分かるであろう」


「どうしてですか」


「昨夜、列車で会った」


 それだけでは説明になっていません。


 トルシー侯が、後ろから補いました。


「陛下が、お二人の話と仕事をたいへんお気に召しまして。パリで、いくつか見せたいものがあるとのことでございます」


「今日決まったの?」


「正確には、昨夜でございます」


 トルシー侯の顔を見ると、本人も予定していたわけではなさそうです。


「席は六つあるのであろう」


 ルイ十四世が言いました。


「あります。食事も六人分あります」


「ならばよい」


「先に言ってください」


                *


 荷物を確認しました。


 人が二人増えれば、荷物も増えます。


 幸い、画家二人は旅行用の大荷物をいくつも抱えているわけではありませんでした。


 フランス側のお世話係二人は、後ろの普通席へ。

 ハンナさんと給仕さんも、それぞれの席へ。

 オイゲンさんは乗員席。


 VIP席六つは、きれいに埋まりました。


 シートベルトを確認します。


 ルカ・ジョルダーノは、金具を見て少し不思議そうにしました。


「これを身体へ?」


「離陸と着陸では必ずお願いします。途中も、座っているときは締めていただいた方が安全です」


「王も?」


 どろちゃんはルイ十四世を見ました。


「王様も」


 ルイ十四世は、もう慣れています。


「逆らっても飛ばんぞ」


「飛びますけど、締めるまで待ちます」


「同じことだ」


 パロミーノが笑いました。


                *


 グリニッジ時、十六時少し前。


 チェブラーシカちゃんは、リスボン郊外の空き地を走り始めました。


 地面が離れます。


 巨大な駅が下へ小さくなっていきます。


 ルシタニア号の長い編成も見えました。


 その近くから、ヒスパニア号がマドリードへ向けて出ていきます。


 あの中では、六人の先生方がもう測定を始めているはずです。


 どろちゃんは機首を北東へ向けました。


 パリへ帰ります。


                *


 水平飛行に入ると、後ろで食事の準備が始まりました。


 VIP用の料理は、往路より少し手が込んでいます。


 冷たい前菜。

 薄く切った燻製肉。

 柔らかい白パン。

 焼いた鶏肉に、香草を使ったソース。

 野菜を煮たもの。

 チーズ。

 果物。

 最後に、小さな焼き菓子。


 ギャレーの冷蔵庫があるので、リスボンで慌てて食材を集める必要はありません。


 ハンナさんと給仕さんが料理を出し、フランス側のお世話係二人が、ルイ十四世を中心にそれぞれの身の回りを整えます。


 六人とも同じVIP客です。


 トルシー侯は、最初の皿が出たところで、もう書類を開いていました。


 ルイ十四世が見ます。


「まだ仕事をするのか」


「陛下が昨夜お二人をお誘いになりましたので、その分も含めて、パリへ着いたあとの予定を少し直す必要がございます」


「二人増えただけではないか」


「陛下にとっては、そうでございましょう」


 パロミーノが少し遠慮して口を挟みました。


「もし、ご迷惑になるようでしたら、私どもは到着後に宿だけご紹介いただければ十分でございます」


 トルシー侯は首を振りました。


「いいえ。その点はご心配なく。陛下が正式にお招きになった以上、こちらで整えます。ただ、王立絵画彫刻アカデミーにも連絡を入れるべきか、それとも先にヴェルサイユで作品をご覧いただくべきか、順序を考えております」


 ジョルダーノが、皿の鶏肉を切りながら言いました。


「アカデミーというところは、順序が大切なのですか」


「たいへん大切にする方々がおられます」


「それは、絵を描く時間より長い?」


 ルイ十四世が笑いました。


「その問いは、パリで本人たちへ聞け」


 トルシー侯は笑いませんでした。


 けれど、否定もしませんでした。


                *


 どろちゃんの食事は、一人だけ違いました。


 乗員側の食事が一人分足りなくなったからです。


「わたし、これ食べるから」


 どろちゃんは、リスボンで買った紙包みを開きました。


 パンにはさんだ肉。

 少し冷めています。


 でも、おいしいです。


 もう一つには、魚を使った揚げ物。


 さらに、自分で買った菓子。


 そして、王太后からもらった菓子。


 フランソワさんが右席で、操縦計器を見ながら横目で紙包みを見ました。


「お嬢様。それだけお持ちでしたら、最初から機内食が不要だったのではございませんか」


「それは別」


「別でございますか」


「ポルトガルで買ったものは、ポルトガルで食べたかったから」


「すでにポルトガルの上空ではございませんね」


「さっきまでいたから大丈夫」


 フランソワさんは、それ以上追及しませんでした。


 自分の食事を食べます。


                *


 客室では、画家二人が窓の外を見ていました。


 雲の上です。


 六月の午後なので、まだ明るい。


 ジョルダーノが、窓から差し込む光へ手をかざしました。


「この高さから見る光は、下とは違いますな」


 パロミーノも窓へ顔を向けます。


「影の境が妙に弱い。雲が下にあるからでしょうか」


 トルシー侯は、その会話を聞きながら書類へ何か書きました。


「お二人をお連れしたのは、正解だったかもしれません」


「余が言ったであろう」


「まだ何も始まっておりません、陛下」


「始まる前から止めようとする者が多いから、始める人間を連れてきたのだ」


 それは、ルイ十四世なりの理屈でした。


 アカデミーが少し固くなっている。


 新しい人が入りにくい。

 違う技法が入りにくい。

 正しい順序を守ることが、いつの間にか目的になりかけている。


 だから改革委員会を作ったわけではありません。


 寝台車でたまたま話した画家を二人、パリへ連れてきただけです。


 でも、そういう人の方が、固まった場所を動かすことがあります。


                *


 食事のあと。


 ルイ十四世は少し静かになりました。


 イングランド銀行側の人も、SNCFの人も、椅子を倒して休んでいます。


 画家二人は、窓から見える雲の色についてまだ話しています。


 そしてトルシー侯だけが、紙を広げています。


 リスボン。

 マドリード。

 パリ。

 ロンドン。

 ロッテルダム。


 人が動きます。


 鉄道が動きます。

 船が動きます。

 飛行機が動きます。


 式典へ来た人たちのうち、飛行機へ乗らない人は、すでに船会社が確保した船へ向かっています。


 船の名前も、ルシタニア号でした。


 リスボンを出て、イベリア半島の北側を回り、フランスへ寄り、英国へ寄り、最後はロッテルダムまで行きます。


 帰国客を運ぶだけではありません。


 船内では、もう商売が始まっています。


 酒。

 菓子。

 香辛料。

 織物。

 小物。

 旅の土産。


 通路を歩けば店があります。

 食堂から客室へ戻れば、また商品があります。


 船会社は、客を運んで終わる気などありません。


 戦争がなくなれば、商人は別の方法で人の財布を軽くします。


 トルシー侯は、そのことも考えていました。


 鉄道の次。

 港の次。

 船の次。


 これから何が動くのか。


 いつもの人は、帰国の飛行機の中でも、帰国だけをしていません。


                *


 前方には、夕方の光が残っています。


 チェブラーシカちゃんは、パリへ向かって飛び続けました。


 どろちゃんは最後の菓子を半分に割りました。


「フランソワさん、食べる?」


「王太后陛下からいただいたものでございますか」


「うん」


「では、少しだけいただきます」


 半分渡しました。


「大家さんのお菓子、おいしいね」


「お嬢様」


「はい」


「パリへ着くまで、その呼び方は操縦席の中だけになさってくださいませ」


「分かってるよ」


 チェブラーシカちゃんは、まだ明るい空をパリへ向かいました。



                           (つづく)



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第七十五章の小さな説明

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【マドリード―リスボン鉄道】

 マドリードからリスボンへ向かう夜行列車を「ルシタニア号」、反対方向を「ヒスパニア号」としています。


【車両設計と量産】

 車両と交流電化方式の設計・試験はライデン大学とエルレンフェルトが担当し、量産はSNCF系の工場が担当しています。客車は一軸連接式で、左右独立回転輪を採用し、通常の輪軸の踏面勾配による自己案内に頼らず、車体側からのリンクで輪の向きを案内します。


【チェブラーシカちゃんのVIP仕様】

 通常客室から交換可能な特別内装です。乗客用の大型革張り席六席、カーペット、小テーブルを備え、各席にシートベルトがあります。後方にはサービス要員用として通常型の四席を残しています。


【リスボンの着陸場所】

 リスボン郊外の巨大駅は将来拡張用地を広く確保しているため、その周辺の空き地を臨時着陸場として利用しています。駅からは約一キロ離し、航空機の騒音と式典会場の警備を分離しています。


【フランソワ・フォン・ゲーテ】

 フランソワさんの正式名はフランソワ・フォン・ゲーテです。エルレンフェルト公国成立後に本人を初代として創設された世襲男爵家の当主であり、正式な外交・宮廷挨拶では家名と爵位を含めて名乗ります。


【プレイストーの家とキャサリン王太后】

 どろちゃんがロンドンで購入した家そのものとは別に、その一帯の上位の荘園権はキャサリン・オブ・ブラガンザ王太后の終身財産に含まれています。どろちゃんの中でだけ、王太后は少し「大家さん」です。


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