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73貴族令嬢はサヴォさんを王様にして暖かい島へ向かいます カナリア諸島へリゾート旅行です

第73章 貴族令嬢はサヴォさんを王様にして暖かい島へ向かいます



 英国から戻って、ようやくエルレンフェルトの自分の部屋で眠れるようになりました。


 冬から春にかけて、ロンドンからエディンバラまで何度も飛びました。コウノトリちゃんで先へ行って地面を見て、チェブラーシカちゃんを移し、また先へ進みます。英国北部は寒く、飛行場に使う牧草地へ降りれば風もあります。それでも、馬車で何日も揺られながら同じ距離を進むのとは違いました。


 それに、この世界では、飛行にはもう1つ意味があります。


 飛行機に乗っているあいだだけ病気にならない、という仕組みではありません。高さと、そこにいた時間を組み合わせたものが、点数のように少しずつ積み上がります。ただ高い場所へ運ばれるより、自分で上がったり、高さを保つために働いたりする方が大きく評価されます。積み上がった値が一定のところを越えると、生き物としての階級そのものが上がります。


 昔から貴族の食卓では、土の中にある芋より、地面から持ち上がった蔓に実るブドウの方が高貴なものと考えられてきました。家畜の肉より、空を飛ぶキジやヤマウズラの方が上席の料理にふさわしいとされます。


 この世界は、その考え方を比喩ではなく、本当に採点していました。


 これまでの飛行で積み上がったものは、着陸したら消えるわけではありません。病気に絶対かからなくなるわけでもありませんが、同じ病気でも重くなりにくかったり、治りが早かったりするようです。


 便利です。


 でも、スコットランドの風が暖かくなるわけではありません。


 帰ってきた翌朝、フランソワさんが窓を開けたので、外の空気を吸いながら机の上の書類を見ました。英国へ行く前に4か国へ送った、サヴォさんの王号についての電信です。


 返事はもう全部そろっています。


 フランスは賛成。イングランドも賛成。ネーデルラント連邦共和国も賛成。サヴォさん本人も、現在統治している北西イタリアを王国として整え、王号を受けることに同意しています。


 エルレンフェルトも承認します。


 つまり、政治的な中身はほとんど終わっています。


 残っているのは、以前の晩餐会で非公式に話したことを、今度は正式な文書にして確認する作業でした。


「ジェノバでやるのがいいと思う」


 朝食のあと、お父様の部屋へ行って言いました。


 お父様は、わたしが持ってきた文書を読みながらうなずきました。


「サヴォイア側の領内で、しかも今の王国が昔の公国より大きくなったことが分かりやすい場所だからね。トリノでやるより、ジェノバでやる方が、新しい王国になったことも見えやすいと思うよ」


「うん。ミラノもジェノバも持っていて、まだ公爵です、という方が変になってきたから。正式に王様として扱うところまでやってしまいたい」


「それでいいと思う。ただし、イタリア全部を一緒に渡すような書き方にはしない方がいいね」


「そこは前の電信と同じ。今治めているところを王国にするだけ。残りのイタリアは、また別に話す」


 お父様は文書の余白へ何かを書き込み、それから顔を上げました。


「会議そのものは、それほど長くならないね」


「たぶん、すぐ終わるよ。前の4か国会議みたいに、戦争をどう止めるかを最初から話すわけじゃないし」


「では、祝賀会はジェノバで?」


「カナリア諸島」


 お父様の手が止まりました。


「ずいぶん離れたね」


「英国で寒かったから」


「それは外交上の理由ではないよね」


「祝賀会の場所くらい、暖かいところでもいいでしょう。ジェノバではちゃんと仕事するし」


 お父様は少し笑ってから、もう一度書類を見ました。


「サヴォイア王国の成立を確認して、そのあと関係者をカナリアへ運ぶ、と。飛行機は大丈夫?」


「そこが問題」


 チェブラーシカちゃんの客室は、普通の旅客用座席を使うなら乗客38人が最大です。軍用輸送なら、もっと簡単な座席に替えて人数を増やすことは出来ます。でも、今回は王様や政府の人を運ぶ外交旅行です。荷物もありますし、軍隊みたいに詰め込む話にはしません。


「フランス8人、イングランド8人、ネーデルラント8人にする」


「24人だね」


「エルレンフェルトから6人。お父様、オイゲンさん、ハンナさん、給仕さん、執事さん、それから何でも手伝える人を1人。わたしとフランソワさんは操縦するから、乗客38人には入れない」


「ジェノバまでは30人か」


「そう。それでジェノバからサヴォさん側が8人乗る。38人ちょうど」


 お父様はそこで、少し考えました。


「各国へは、最初から8人までと書いた方がいいね。ジェノバの会議だけ参加する人を余分に連れて来られると、カナリアへ出るときに困る」


「それ。会議が終わってから、あなたはサヴォさんのお屋敷で待っていてください、なんて言えないもの」


「しかも、祝賀会がカナリアだと最初から知らせるんでしょう」


「知らせるよ」


「では、増えるね」


 その言い方があまりにも普通だったので、わたしもすぐ分かりました。


 会議だけなら、王国承認の文書を確認する法務や外交の人だけで足ります。でも、そのあとカナリア諸島で祝賀会をすると書けば、事情が変わります。冬から春のナーロッパにいる人から見れば、仕事のついでに暖かい島へ行けるのです。


「8人までって、太字にしたい」


「電信に太字はないよ」


「じゃあ2回書く?」


「それは少し失礼だから、人数の理由を書いておけばいいと思う。通常の旅客定員が38人で、ジェノバから開催国側8人が加わる。したがって3か国はそれぞれ8人まで。これなら分かるでしょう」


「うん。それと、ジェノバへ来る8人とカナリアへ行く8人は同じ人にしてもらう」


「それが安全だね」


 これで、人だけは決まりました。


 次は泊まるところです。


 カナリア諸島には、38人の王侯貴族をそれぞれ豪華な部屋へ入れられるような大きな宿泊所はありません。そもそも、そんな施設を常に維持しておく必要もありません。


 ただし、帝国が崩れたとき、本島へ避難してきた王様方や、その近い人たちを泊めるために使った施設があります。宮殿ではありませんが、寝室、食堂、応接に使える部屋、使用人側の部屋、浴室などがまとまっていて、少人数の王侯と随行者を受け入れた実績があります。


「そこを使えばいいよね。全員が王様じゃないし」


「それで十分だと思うよ。豪華さを競うための旅行ではないからね。ただ、各国には宿泊条件も先に知らせた方がいい」


「王様用のお部屋が38個あると思われても困るし」


「そういうことだね」


 招待の文面には、会議場所、カナリアで祝賀会をすること、各国8人までであること、宿泊は以前に王侯の避難に使った施設を利用することを書きました。衣装箪笥まで持ってくるような旅行ではないことも、遠回しに分かるようにしておきます。


 送ってから、それほど待ちませんでした。


 3か国とも、8人で来ると返事をしてきました。


「やっぱり8人なんだ」


 返事を持ってきたフランソワさんに言うと、彼女は少し笑いました。


「会議のためだけでございましたら、もう少し少なかったかもしれませんね。カナリア諸島での祝賀会までご案内に入っておりますので、各国とも定員を使い切られたようでございます」


「乗せられるからいいけど。これ、10人までって書いていたら10人来たよね」


「おそらく、そのようになったかと存じます」


「38人乗りでよかった」


「お嬢様が増やしたわけではございません」


「うん。チェブラーシカちゃんに感謝する」


                *


 出発の日、エルレンフェルトから乗った6人は、予定どおりでした。


 お父様は外交文書と衣類だけを持ち、荷物をかなり少なくしています。オイゲンさんも同じで、大きな旅行鞄をいくつも持ち込むようなことはありません。


 ハンナさんは、オイゲンさんの身の回りの仕事をするために同行します。オイゲンさんがエルレンフェルトで働くようになってから、彼女もこちらでの暮らしにかなり慣れました。


 あとの3人は、給仕さん、執事さん、それから荷物、衣類、連絡、細かな用事を何でも引き受けられる人です。


 外交団というより、少人数で外へ出ても自分たちのことを自分たちで回せる組み合わせにしました。


 わたしとフランソワさんは操縦席へ入ります。


「今日は、途中でどんどん増えます」


 後ろへ声をかけると、お父様が客室から返しました。


「最後は満席なんでしょう。ちゃんと数えたんだから大丈夫だよ」


「ジェノバまでは30人」


「そこから38人ですね」


 ハンナさんが言いました。


「はい。だからジェノバで、知らない人が2人くらい増えていても乗せられない」


 オイゲンさんが、座席に腰を下ろしたままこちらを見ました。


「その場で言うことにならないよう、人数を先に決めたのではありませんか」


「そうです。サヴォさんのお屋敷に、祝賀会へ行くつもりだった人を置いてくるのは嫌なので」


「ならば問題はありません。あちらも8人という数字は理解しています」


 オイゲンさんはそれだけ言って、持ってきた書類を開きました。


 親類が公爵から王になるというのに、ずいぶん普通です。


「オイゲンさん、サヴォさんが王様になるの、変な感じしません?」


「家の格から見れば、王号を求めても不思議ではありませんでした。領地の方が、ようやく称号に追いついたのでしょう。私は今さら驚きません」


「親類の王様が増えるね」


「親類が王であることより、親類が債務保証の意味を理解していないことの方が、私にはよほど問題でした」


 お父様が笑いました。


 オイゲンさんは笑いませんでした。


 でも、本気で機嫌が悪いわけでもなさそうです。


 チェブラーシカちゃんは滑走路を離れました。


                *


 最初の寄港地で、ネーデルラント側の8人が乗りました。


 上位2人は、アントニー・ハインシウスとフランソワ・ファーゲルです。王様のいない共和国なので、王族夫妻が前に出る形にはなりません。政治と外交を扱う人と、連邦議会の文書を扱う人が中心になります。


 次にイングランドへ寄りました。


 こちらの上位2人は、アン女王とジョージ王配です。


 アン女王は乗り込む前に、客室の窓を見上げました。


「前に乗ったときより、今日はずいぶん人が多いのですね。ジェノバからは、さらに増えるのでしょう?」


「はい。今は30人で、ジェノバからサヴォさん側の8人が加わります。そこで38人、通常の旅客用座席は満席です。ですから、今回は各国とも最初から8人までにしていただきました」


 アン女王は、後ろにいる随行者を一度見ました。


「それなら、勝手に9人目を連れて来なかったのは正解でしたね。カナリアまで行けると聞いて、同行したがった者はもう少しいました」


 ジョージ王配が笑いながら続けました。


「人より荷物の方が増えるのではないかと思っていたが、そちらにも制限があるのだろうね。暖かい島へ行くとなると、短い会議より旅行の支度を始める者が多い」


「あります。38人分の引っ越し荷物まで積んだら、別の飛行になってしまいます」


「では、私たちは小さな荷物でよかった」


 最後にフランスへ寄りました。


 先頭はルイ14世陛下です。その少し後ろに、サヴォさんの娘、マリー=アデライード・ド・サヴォワがいました。


 ブルゴーニュ公ルイの妻で、いまは妊娠しています。


 名簿で来ることは知っていましたが、実際に本人を見ると、やはり少し気になります。


「陛下。マリー=アデライード様も、本当にジェノバからカナリアまでご一緒なのですね」


 ルイ14世陛下は、わたしが何を気にしているのか分かっているようでした。


「余も、何日も馬車に揺られ、山を越える旅なら止めたであろう。だが、この飛行機での移動がそれと同じではないことは、余自身がもう知っている。それに、父が王になる場へ行きたいと本人が言うのを、理由もなく止める必要はあるまい」


 マリー=アデライード様も、ゆっくり答えました。


「出発前に診ていただきました。今のところ経過に問題はありません。何日も宿を替えながら馬車でジェノバへ向かうのでしたら、私も考えます。でも、こちらなら座っている時間の方が長いでしょう。それに、父上が公爵から王になるところを、あとで手紙だけで知るのは嫌なのです」


「無理をしないなら、わたしも反対しません。途中で気分が悪くなったら、すぐに教えてください」


「はい。それは約束します」


 フランスの外交実務には、トルシー侯も来ています。儀礼上の上位にはルイ14世陛下とマリー=アデライード様が入り、文書の細部を詰めるところではトルシー侯が前へ出る組み合わせです。


 ルイ14世陛下も周囲の人たちも、飛行機の旅が馬車の長旅とは違うことを、もう経験として理解しています。泥道も石畳も峠道もなく、移動時間も短いので、飛行そのものを特別な苦行とは考えなくなっていました。


 ただ、わたしには別のことも見えています。


 マリー=アデライード様のお腹の中にいる子どもも、一緒に空へ上がります。この世界の高さの採点が、母親の体の外に出てから急に始まるとは考えにくいので、胎児も母体と一緒に高度と時間の加算を受けるようです。


 前の世界なら、この子は1704年6月25日に生まれる最初の男の子です。そして、1歳になる前に亡くなります。


 でも、こちらでは、生まれる前から高いところへ何時間も行くことになります。


 未来は、また少し変わるかもしれません。


 各国とも、本当に8人です。


 最後の8人が乗ったところで、フランソワさんが乗客名簿をもう一度確認しました。


「お嬢様、エルレンフェルト6名、ネーデルラント8名、イングランド8名、フランス8名。現在30名でございます」


「合ってる。ジェノバで8人増えるから、そこから38人」


「お荷物の方も、各国とも事前にお願いした範囲に収まっております」


「よかった。人が38人で荷物まで38人分の引っ越しだったら困るからね」


 客室をのぞくと、以前なら敵国として向かい合っていた人たちが、同じ飛行機の座席に普通に座っています。


 ハインシウスとファーゲルは文書を見ていて、トルシー侯も別の紙を広げています。アン女王とジョージ王配は窓側で話し、ルイ14世陛下はマリー=アデライード様へ何度目かの確認をしていました。


「本当に苦しくはないのか。余に遠慮しているなら、その必要はないぞ」


「陛下。出発前から同じことを何度もお尋ねです。いまは大丈夫です。それより、父上が自分の署名欄に『国王』と書かれたものを見る方が楽しみです」


「父親が王になることを、その娘がこれほど面白がるものか」


「陛下が国王でいらっしゃることは、生まれたときから当たり前でした。でも、父上は昨日まで公爵ですもの。明日から呼び方が変わるところを見られるのは、1度だけです」


 近くでアン女王が笑いました。


「それは分かります。国の名前や称号が変わる日は、後になれば歴史の1行になりますが、その場にいる人にとっては、もっと生活に近い出来事です。手紙の宛名も、公文書の肩書も、翌日から変わりますから」


 ルイ14世陛下は少し考えてから答えました。


「役所の者には、王冠より先に、印刷し直す紙の枚数が見えているかもしれぬな」


 ハインシウスが文書から顔を上げました。


「共和国では、称号が増えるより、条文が増える方を心配いたします」


 今度は何人かが笑いました。


 全員が政治だけを考えている顔には見えません。


 王国を1つ増やす確認をしたあとに暖かい島へ行くのですから、少しくらい楽しみにしていてもらった方がいいでしょう。


                *


 ジェノバへ近づくと、海が見えました。


 北西イタリアの山地から地中海へ落ちていく土地の間に、市街地と港があります。


 以前の世界の地図を知っているわたしには、トリノ、ミラノ、ジェノバが同じ国の中にあること自体が大きな変化に見えます。


 今のサヴォイアは、内陸のピエモンテとサヴォイアだけでなく、ミラノを中心とするロンバルディアから、海へ開くジェノバとリグーリアまでまとめて治めています。


 帝国が崩れたあと、北イタリアまでまた戦争の材料にしたくありませんでした。フランス、イングランド、ネーデルラントも、そこは同じです。


 だから今回の会議は、何かを一から決めるためのものではありません。


 もう出来ている現実に、正式な名前を付けます。


 チェブラーシカちゃんを降ろすと、サヴォさん側の迎えが待っていました。


 サヴォさん本人も来ています。


 まだ正式な式典で王冠をかぶったわけではありません。でも、こちらはもう王として扱うつもりで来ています。


 飛行機から降りた各国の人たちが挨拶を始めると、サヴォさんの視線がフランス側へ動きました。


「アデライード。お前まで来たのか」


 マリー=アデライード様は、ゆっくり階段を降りました。


「父上。私の父が今日から王になるのに、ヴェルサイユで手紙を待っているだけというのは嫌でした。もちろん、診察も受けていますし、陛下にも許していただいております」


 サヴォさんは娘のお腹を一度見てから、ルイ14世陛下へ向きました。


「陛下。ありがたいとは思いますが、よくお連れになりましたな」


「余が無理に連れ回しているように言わないでもらいたい。本人が来ると言ったのだ。馬車で何日も揺らすのであれば余も止める。しかし、この飛行機なら余も移動がどういうものか知っている。それに、今から帰れと言えば、余が恨まれる」


「それは、私でも止めにくいでしょうな」


 サヴォさんが笑いました。


 アンナ・マリア妃は夫たちの話が終わるのを待たず、娘のところへ行きました。


「顔色は悪くありませんね。飛んでいるあいだはどうでした?」


「馬車よりずっと楽でした。少し眠れたくらいです」


「それならよかった。あなたが来ると聞いてから、こちらでは父上よりあなたの部屋の準備の方が細かくなっていたのですよ」


「母上まで」


 王国承認の会議へ来たはずなのに、最初の数分は普通の家族の話になりました。


 それでいいと思います。


 挨拶が一通り終わってから、わたしも近くまで行きました。


「サヴォさん、お久しぶりです。今日は本当に王様にするところまでやります」


 サヴォさんは、少し困ったような顔をしました。


「あなたが言うと、まるで朝の予定表にでも書いてあったように聞こえるな。こちらは、そのために何日も文書を確認しているのだが」


「こっちも確認しましたよ。でも、3か国とも先に賛成って返事をくれたし、サヴォさんも受けるって言ったでしょう。今日は最後の確認です」


「その通りではある」


「だから、あまり長い会議にはならないと思います」


「そのあとのカナリア諸島の方が長いのではないか」


「暖かいですから」


 サヴォさんは一度こちらを見て、それ以上は聞きませんでした。


 お屋敷へ移る途中で、オイゲンさんがサヴォさんと挨拶しました。


 親類同士なので、知らない相手ではありません。


 ただ、前に会ったときと今では立場が違います。サヴォさんは王になるところで、オイゲンさんは帝国の軍人ではなく、エルレンフェルトで働く人になっています。


「元気そうで何よりだ」


 サヴォさんが先に言いました。


「こちらでも仕事がありますので、暇を持て余すことはありません」


「それならよい。ハンナも一緒なのだな」


「はい。今はこちらで働いております」


 ハンナさんは丁寧に挨拶しました。


 それ以上、昔の債務や家の整理の話を、この場で蒸し返すことはありませんでした。


 今日は別の話です。


                *


 会議室には、大きすぎる机を置きませんでした。


 前の4か国会議のように、戦争中の国々がそれぞれ大量の条件を持ち寄るわけではありません。今回確認する文書は、すでに電信で基本内容を合意しています。


 現在ヴィットーリオ・アメデーオ2世が実際に統治している北西イタリアの領域を、サヴォイア王国として承認すること。


 ヴィットーリオ・アメデーオ2世を、サヴォイア王国の国王として承認すること。


 国境の細部について、現地での確認が必要なところは従来どおり調整を続けること。


 そして、この王号は、まだ統治していないイタリアの国や都市に対する自動的な領有権を意味しないこと。


 ここが大事です。


 今からイタリア王を名乗って、半島全体を自分の領地だと言い始めたら、戦争を減らすために王国を作った意味がなくなります。


 最初にルイ14世陛下が話しました。


「余が認めるのは、すでに統治されている国を王国として扱うことである。新しい王号を与えて、南へ戦争を始めさせるためではない。その点が文書に残るなら、フランスに異論はない」


 アン女王も続けました。


「イングランドも同じです。現在の統治が安定し、既存の通商条件が引き継がれるなら、新しい王国の成立を支持します。王号が変わるたびに港の条件まで一から争うのであれば、商人の方が困ります」


 ハインシウスは、王様たちの発言を聞いてから文書の該当箇所を示しました。


「ネーデルラント側は、王国成立後も国境通過、港湾利用、商業上の既存合意が継続することを確認出来れば十分です。称号の問題と、契約の継続は分けて扱いたいと考えます」


 サヴォさんは、しばらく文面を見てから答えました。


「私も、今日王号を受けたからといって、明日には半島全体へ軍を出すつもりはない。今ある国を安定させるための王号なら受ける。残りのイタリアについて何かを話すのであれば、それは別の会議で、別の合意として扱えばよい」


「そこまで一緒なら、あとはかなり簡単です」


 国境の細部を後日確定するときには、港と自然な後背地を不必要に切り離さないという以前の原則も、そのまま維持します。


 どれも、新しい問題を持ち込む話ではありません。


 前に決めたことを、新しい王国にも引き継ぐための確認です。


 文書を読み終えると、署名に移りました。


 サヴォさんの名前の横に、今までの「サヴォイア公」ではなく、「サヴォイア王国国王」と書かれます。


 それを見たときだけ、少し不思議な感じがしました。


 前の世界なら、ヴィットーリオ・アメデーオ2世が王になるのは、もう少し先です。しかも最初に得る王号も、今とは違います。


 こちらでは、北西イタリアを実際にまとめた結果として王になります。


 フランス、イングランド、ネーデルラントが正式に承認し、エルレンフェルトも承認文書を出しました。


 サヴォさんは、本当に王様になりました。


「おめでとうございます、陛下」


 署名が終わってから言うと、サヴォさんは、署名したばかりの文書を見ながら答えました。


「先ほどまで私をサヴォさんと呼んでいた人が、急に陛下と言うのだな」


「正式なところでは、ちゃんと言います。公文書も間違えません」


「では、食事になれば戻るのか」


「たぶん戻ります」


 近くにいたお父様が笑いました。


「そこは諦めていただいた方が早いかもしれません。ただ、この子は称号そのものを軽く考えているわけではありません。間違えてはいけない場所では間違えませんから」


「それならよい。私も、娘から急に『国王陛下』とだけ呼ばれ続けたら落ち着かない」


 マリー=アデライード様が、少し離れたところから聞いていました。


「では父上、私はこれまでどおりでよろしいのですね」


「家族まで全部変えなくてよい」


 アン女王がそこで口をはさみました。


「それがよろしいでしょう。国が変わった日は、公の呼び方と家の中の呼び方が同時に変わるわけではありませんから。私も、夫から『女王陛下』とだけ呼ばれて暮らすのは困ります」


 ジョージ王配が静かにうなずきました。


「私も困ります」


 ルイ14世陛下は、そのやり取りを聞いてからサヴォさんへ言いました。


「王になった初日に分かることが、国境や軍隊ではなく、家族にどう呼ばれるかとはな。だが、それくらいで始まる王国の方がよいのかもしれぬ。少なくとも、今日は誰も戦場で王号を得ていない」


 サヴォさんは少しだけ表情を改めました。


「それは、私もありがたいと思っております。帝国が崩れたときには、北イタリアがさらに長い戦場になることも覚悟しました。結果として国をまとめることになりましたが、今日の署名まで戦争を続けなければ王になれなかった、という形ではありません」


「ならば、その方がよい」


 ルイ14世陛下は短く答えました。


 会議は、本当に長くなりませんでした。


 もともと反対している国がいないのです。


 戦争を始めるための王国ではなく、帝国崩壊後に出来た統治のまとまりを安定させるための王国です。正式な国家承認と王号承認を済ませれば、今回の目的は達成です。


 細かな式典や王冠、国璽、国内官庁の名前などは、サヴォイア王国自身が決めればよいことです。


 わたしたちが全部決める話ではありません。


                *


 署名後の昼食はジェノバでいただきました。


 でも、本当の締結祝賀会はここではありません。


 カナリア諸島です。


 そのため、昼食が終わるころには、サヴォイア側の8人も出発の支度を済ませていました。


 人数は、ちゃんと8人です。


 追加はいません。


 わたしは少し安心しました。


「お嬢様、サヴォイア王国側8名、全員のお荷物も確認出来ております」


 フランソワさんが名簿を見せてくれました。


「よかった。これで誰もお屋敷に置いていかなくて済む」


「先方にも、人数については十分にご理解いただいております」


「会議だけ出たい人があと3人います、って言われたらどうしようかと思ってた」


「その場合も、事前の名簿にない方は搭乗なさらない予定でございました」


「分かってるけど、王様のお屋敷でそれをやるのは嫌でしょう」


「はい。ですので、事前に決めておいて正解でございました」


 サヴォさん側の8人が乗り込み、最後に人数を確認します。上位2人は、新しいサヴォイア王ヴィットーリオ・アメデーオ2世と、アンナ・マリア王妃です。


 フランス8人、イングランド8人、ネーデルラント8人、サヴォイア王国8人、エルレンフェルト6人で、乗客は38人になりました。


 通常旅客運用では満席です。


 わたしとフランソワさんは、その人数には入っていません。2人で操縦席へ行きます。


 客室では、給仕さんがカナリアまでの飲み物と食事の準備を始めました。今回は各国の人が混ざっているので、誰か1つの宮廷の作法だけに合わせるのではなく、飛行機の中では飛行機のやり方で出します。


 全員が座り、荷物が固定され、扉が閉まりました。


「38人、乗ったね」


 操縦席で言うと、フランソワさんは名簿をしまいました。


「はい。ジェノバに残された方もございません。あとはカナリア諸島までお運びするだけでございます」


「今度は暖かいところだね。祝賀会だから、仕事を増やしすぎないようにしよう」


「それは、お嬢様が最初に守られる必要がありそうでございます」


「……気をつけます」


 滑走を始めると、ジェノバの港と市街が少しずつ後ろへ下がりました。


 上昇してから客室を見ると、ルイ14世陛下、アン女王、新しくサヴォイア王になったヴィットーリオ・アメデーオ2世が、同じあたりの席で話していました。


 アン女王が、まずサヴォさんへ言いました。


「これで署名は終わりましたね。次の仕事を今から始めるのでなければ、しばらくは祝賀だけでよいでしょう。ドロテーヤ伯爵は英国で冬から春まで働いていましたから、暖かい島へ行きたいという希望くらいは聞いてあげてもよいと思います」


 サヴォさんが笑いました。


「私としては、自分が王になった祝賀会なのに、場所を決めた理由が『ドロテーヤが寒かったから』というところだけは、後世の記録から外してもらいたいものです」


 ルイ14世陛下は窓の外を見ながら答えました。


「余は残してもよいと思うがな。王国が出来た理由ならともかく、宴会を暖かい島で開いた理由まで、すべて荘厳である必要はない」


「陛下は、ご自分の記録ではないからそう言えるのではありませんか」


「余の記録にも、もっと妙な話はいくらでも残るであろう」


 少し離れた席では、マリー=アデライード様がアンナ・マリア王妃と話しています。


 そのお腹の中には、まだ生まれていない男の子がいます。


 前の世界では、その子はルイという名前を受け、ブルターニュ公になり、1705年4月に亡くなります。その次の男の子もルイと名付けられ、1712年に麻疹で亡くなります。そして3人目のルイが、前の世界のルイ15世になります。


 でも、こちらでは最初の子が生まれる前から高い空を飛っています。


 生物的な階級が上がっても、麻疹そのものが存在しなくなるわけではありません。まだ麻疹のワクチンもありません。だから、すべての子が必ず助かるとは言えません。


 それでも、最初の子が史実とは違って育てば、将来「ルイ15世」と呼ばれる人物そのものが変わります。


 王様の番号は、最初から誰かの体に書いてあるものではありません。誰が生きて、誰が王位へ着くかで決まります。


 今日までは、そこを治めている人をサヴォイア公と呼んでいました。


 今は、サヴォイア王です。


 そして客室には、その新しい王国を承認した国々の人たちと、新しく王様になった本人の一行が、同じ飛行機に乗っています。


 会議は終わりました。


 チェブラーシカちゃんは地中海の上で針路を取り、38人の乗客を乗せて、カナリア諸島へ向かいました。


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第73章の小さな説明

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【高さと生物的階級】


 本作の「飛行によって健康面にも変化が出る」仕組みは、飛行機の中にいる間だけ病原体が効かなくなる一時的な防護ではありません。


 この世界では、かつてのヨーロッパ貴族社会にあった「上にあるものほど高貴で、下にあるものほど低い」という価値観が、生物に対する実際の世界法則として働いています。


 高度と滞在時間を組み合わせた値が点数のように蓄積し、一定の段階を越えると生物的階級が上がります。また、単に高い場所へ運ばれるだけより、自分の力で上がる、高さを保つために働く、といった要素がある方が大きく評価されます。蓄積した値は、着陸したからといって消えません。


 空を飛ぶキジやヤマウズラが貴族の宴席にふさわしい料理とされ、地面から持ち上がった蔓に実るブドウが、土中の芋より高貴なものと考えられてきた文化も、この世界では単なる象徴ではありません。人々が長い経験の中で、この法則を不完全ながら感じ取った結果です。


【マリー=アデライードと王位継承】


 1704年3月初め、マリー=アデライード・ド・サヴォワは第1子を妊娠中です。


 史実では1704年6月25日に第1子の男子ルイが生まれ、ブルターニュ公となりますが、1705年4月13日に1歳になる前に死亡します。


 本作では、母親が妊娠中にチェブラーシカちゃんへ乗り、ジェノバからさらにカナリア諸島まで飛ぶため、胎児も母体とともに高度・時間の加算を受けます。そのため、第1子が史実と同じ経過で死亡するとは限りません。


 史実の第2子ルイは1707年生まれで、1712年に麻疹で死亡します。本作の1704年時点では麻疹ワクチンはまだないため、生物的階級が上がる仕組みがあっても、将来の麻疹による死亡まで自動的に消えるとはしません。


 史実では1710年生まれの第3子ルイが生き残り、後のルイ15世になります。しかし本作で1704年生まれの第1子が成長し、将来王位へ就けば、その人物が「ルイ15世」と呼ばれることになります。王号の番号は人物に固定されたものではないため、本作では史実のルイ15世と同じ人物が必ずルイ15世になるとはしません。


【代表団の上位2人】


 フランスはルイ14世とマリー=アデライード・ド・サヴォワ。外交実務にはトルシー侯が同行します。


 イングランドはアン女王とジョージ王配。


 ネーデルラント連邦共和国はアントニー・ハインシウスとフランソワ・ファーゲル。


 サヴォイア王国はヴィットーリオ・アメデーオ2世とアンナ・マリア王妃。


 エルレンフェルトはお父様とプリンツ・オイゲン。


 各国8人、エルレンフェルト6人で、ジェノバからカナリア諸島へ向かう時点の乗客は38人です。



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