71貴族令嬢は英国で航空測量をします。グレートブリテン島を南北に結ぶ鉄道のための測量です。
第71章 貴族令嬢は英国で航空測量をします
サヴォさんを王様にして、それからイタリアをまとめる。出来れば、ルイ14世が元気なうちに。
そこまで考えたところで、わたしは机の上の地図をもう少し南へずらしました。北イタリアから半島を下り、その先にはシチリアがあります。
「ここも、早いうちに何とかした方がいいよね」
前の世界で知っているようなマフィアが、この時代のシチリアにもう完成しているわけではありません。ただ、大きな土地を持つ人、実際に土地を管理する人、税や小作料を集める人、自分で武装した人たち、それに警察や裁判所の力が十分に届かない地域があります。そういうものが、あとで悪い形につながることはあります。
「王様にして、イタリアまとめて、マフィアの土台も消して……」
そこまで言ったところで、扉がたたかれました。
「お嬢様。英国よりお手紙でございます」
フランソワさんです。
「アン女王?」
「はい。女王陛下ご本人からでございます」
「今?」
「今、届きました」
わたしはシチリアの上へ置いていた指を離し、すぐに封を開きました。アン女王の字です。
最初の数行を読んで、止まりました。
「……え?」
「どうなさいました?」
「男の子、生まれた」
「まあ」
フランソワさんが横から手紙を見ようとして、途中でやめました。女王陛下からの私信ですから、勝手にのぞくものではありません。
「元気だって」
「それは、おめでたいことでございますね」
「うん」
もう一度読みます。アン女王は男の子を出産し、母子ともに健康。今のところ特に心配はなく、よく眠り、よく泣き、よく飲んでいるそうです。
それだけなら、普通のお祝いです。でも、わたしにはそれだけではありませんでした。
「……歴史、また壊れた」
「お嬢様?」
「ううん。こっちの話」
前の世界でアン女王は18回も妊娠しましたが、王位を継いで大人まで生きる子どもは残りませんでした。そのため英国では、誰が次の王になるのかが大きな問題になります。
1701年の王位継承法では、カトリックの王を避けながらプロテスタントの継承者を確保するため、ハノーファーのゾフィーと、その子孫へ王位をつなぐ道が作られています。前の世界では、それによってアン女王のあとにハノーファー家の王が来ました。
でも、アン女王に健康な男の子がいるなら話は変わります。王位継承法そのものがなくなるわけではありませんが、遠い親族へ王位を回す必要がありません。アン女王の子が先にいます。
「ステュアート朝、終わらないかもしれない」
小さな声で言いました。
「何でございますか?」
「アン女王の男の子、元気に育つといいねって」
「はい」
フランソワさんは普通に答えました。その方がいいです。普通のお祝いとして受け取ればいいのに、わたしだけ300年くらい先まで考えています。
机の上には、さっきまで見ていたイタリアの地図があります。サヴォさん、イタリア統一、シチリア。その途中でした。
「……英国が先になった」
「何がでございますか?」
「仕事」
手紙の最後には、もう1枚入っていました。こちらはアン女王本人の私信ではなく、英国側の役所からお父様あてに出された正式書類の写しです。内容は、鉄道建設に向けた航空測量への協力依頼でした。
「あ」
「お仕事も一緒に届きましたか」
「届いた」
フランソワさんが少し笑いました。
「では、お祝いだけ持って行って帰るわけにはまいりませんね」
「そうみたい」
*
お父様のところへ行くと、もう同じ書類を読んでいました。
「来たね」
「はい。アン女王様からも。男の子」
「うん。こちらにも知らせが来ている。母子ともに健康だそうだね」
「よかった」
「本当によかったね」
お父様も、そこは普通のお祝いとして喜びました。それから机の上にある別の書類を指します。
「それで、こっちは仕事の話だよ。英国側が、ロンドンからエディンバラまでの幹線鉄道を本気で考え始めている」
「航空測量。早いね」
「君たちがフランスとスペインで、ずいぶん種をまいたからね」
「わたし、お金は貸してないよ」
「英国が貸した」
「そうだった」
スペインの鉄道には、英国が建設資金を出しています。フェリペ5世が、祖父であるルイ14世の国の鉄道を見て自分も欲しいと言い、最初は軍事上の理由からフランスとは違う広い軌間を求めました。
それを英国が融資条件で止めました。フランスと同じ規格を使い、レール、電車、電気設備などはフランスの工場から買い、技術はライデンが支援する。英国は資金を貸し、スペインは鉄道完成後の営業収入から返済する。大幅に返済が遅れた場合の担保は、ジブラルタルと本土へつながる砂地、それからセウタと必要な周囲です。
英国は、お金だけを出したわけでもありません。路線選定、地上測量、橋梁、軌道、電気設備など、それぞれ必要な工程へ自国の技師を順番に送り込みました。ずっと同じ人が全部を見るのではなく、自分の専門工程が終われば帰国し、次の技師が行きます。
英国にはまだ鉄道がありませんでしたが、建設現場へ人を送り、経験を持ち帰ることは出来ました。
「スペインで最初の路線を決めた英国人の技師は、もう帰っているんだよね」
「そうらしいね」
「アン女王様、連れて行かせてくれるかな」
「そのあたりは、向こうで話がついているんじゃないかな」
「だよね」
お父様は、仕事の書類をわたしへ返しました。
「じゃあ、英国のお仕事なんだね。アン女王陛下によろしく」
「はい」
「それと、気をつけて行っておいで」
「うん」
お父様は、いつでもお父様です。仕事の上司になったことはありません。
わたしは英国の伯爵でもあり、自分の領地ならかなり自由に出来ます。でも、今回は英国の国家事業です。この仕事を命じるのはアン女王陛下です。
*
もう1つ、英国側から大きな話が来ていました。途中の航空拠点に使う土地です。
「10か所?」
「10か所」
「1か所10km²?」
「そう書いてあるね。全部なら100km²になる」
「計算は合ってるけど、大きいよ」
ロンドン郊外には、もう使える滑走路があります。ただ、ロンドンからエディンバラまで調べるのに、毎回そこへ戻るのは不便です。コウノトリちゃんは航続距離が長く短い草地にも降りられますが、途中に前進拠点がある方が楽です。
そこでアン女王側は、必要な場所を10か所まで選び、1か所につき10km²をわたしの英国側の領地として与える案を出してきました。
「滑走路には広すぎるね」
「将来も使うつもりなら、悪くないと思うよ。滑走路だけでなく、格納庫、気象観測、倉庫、宿泊場所を置ける。鉄道が出来たあとも、航空郵便や救急、保守の拠点に出来るだろう」
「チェブラーシカも降ろせるようにする?」
「すぐ全部をそうする必要はないよ。まずは用地を持っておけばいい」
「そうだね」
10km²はコウノトリちゃんには広すぎますが、将来のことまで考えるなら、狭くて困るよりはましです。
「場所は今決めるの?」
「全部は決めなくていいそうだ。英国側の路線技師と相談して、測量しながら選べばいい」
「それがいい」
地図だけを見て決めたら、現地へ行って湿地だった、ということもあります。空から見ても分からない地盤の問題もあります。それでも、村の真ん中、急な斜面、大きな沼地を最初から選ばずに済むだけでかなり違います。
「10個の飛び地かあ」
「英国の中に、君の小さな領地が点々と並ぶことになるね」
「変な地図になるね」
「君の地図は、もうだいぶ変だよ」
「そうかな」
「そうだと思うよ」
*
英国へ持って行くものを決めます。最初は仕事ではなく、アン女王の赤ちゃんへのお祝いです。
「赤ちゃんのお祝い、何がいいかな」
フランソワさんと一緒に考えました。王様の家ですから、お金で買える高価な物ならだいたい持っています。それなら、実際に使える物の方がよさそうです。
柔らかい肌着、おくるみ、小さな帽子、軽い毛布、肌に当たるところを柔らかくしたタオル、それに小さな布のぬいぐるみを机の上へ並べていると、お母様が来ました。
「何をしているの?」
「アン女王様の赤ちゃんのお祝い」
「ずいぶん小さいものが並んでいると思ったら」
お母様は帽子を1つ手に取りました。
「これは生まれたばかりの子にはいいわね。でも、こればかり?」
「だめ?」
「だめではないけれど、赤ちゃんはずっとこの大きさではないでしょう」
「あ」
フランソワさんも帽子を見ました。
「少し大きくなってから使えるものも必要でございますね」
「そうね。それに、肌着や布は何枚あっても困らないわ。汚すもの」
「そんなに?」
「あなたも赤ちゃんだったのよ」
「覚えてない」
「覚えていたら怖いわ」
お母様が笑い、それから机の上をもう一度見ました。
「それで、アン女王陛下のお祝いは?」
「赤ちゃんのじゃなくて?」
「産んだのは女王陛下でしょう」
「……あ」
フランソワさんも同じような顔をしました。
「あなたたちは、まだ子どもを持ったことがないものね。赤ちゃんが生まれると、どうしても赤ちゃんの方ばかり見てしまうけれど、お母さんも大仕事をしたのよ。出産したあとは眠れない日も続くし、赤ちゃんが元気なら、それで全部終わりではないの」
さっきの手紙にも、アン女王は少し眠く、赤ちゃんは夜も泣くと書いてありました。
「じゃあ、女王様にも何か持っていく」
「そうしなさい。高価なものを競う必要はないでしょうけれど、肌触りのよい部屋着や肩掛けなら使えると思うわ」
「選ぶの手伝って」
「もちろん。それから、赤ちゃん用も少し大きいものを何枚か入れましょう」
「はい」
フランソワさんが素直に答えました。
「フランソワさんまで」
「奥様の方が、わたくしたちより詳しいですから」
「それはそう」
お母様が、また笑いました。
「今はそれでいいのよ。そのうち必要になることがあるかもしれないから、そのときまでに覚えておきなさい」
「わたしたち?」
「2人とも」
わたしとフランソワさんは顔を見合わせました。
「まだ先だよ」
「先でもいいでしょう。赤ちゃんは鉄道みたいに工期を決めて造るものではないもの」
「それはそうだけど」
お母様の出番になると、こういう話になります。
結局、生まれたばかりのときに使う肌着と少し大きくなってから使う肌着、おくるみ、帽子、毛布、タオル、布のぬいぐるみをそろえ、アン女王本人には柔らかな部屋着と肩掛けを用意しました。
「薬は?」
わたしが言うと、お母様とフランソワさんがほとんど同時にこちらを見ました。
「お祝いでしょう」
「お祝いでございます」
「はい」
病気でもない健康な赤ちゃんと、元気なアン女王に薬を贈る必要はありません。
アン女王本人には短い手紙も書きました。赤ちゃんの誕生を祝い、元気に育つことを願い、女王陛下にもどうかゆっくり休んでくださいと書きます。
王位継承法がどうなるとか、ハノーファー家がどうなるとか、そんなことは書きません。これは赤ちゃんと、お母さんのお祝いです。
*
次は仕事の荷物です。航空カメラ、交換する感材、予備の光学部品、時計、地図、記録紙、気圧と高度の記録装置、測量用の基準器、現地で写真を整理するための番号札など、こちらはかなり多くなりました。
そして、もう1つあります。
「コウノトリちゃん、ばらします」
『えー』
「チェブラーシカで運ぶから」
『そのまま飛んでいく』
「遠いよ」
『飛べる』
「飛べるけど、今回は機材も人も多いの」
『チェブラーシカに乗るの? わたしが?』
「うん」
『飛行機なのに?』
「飛行機が飛行機に乗る」
『変なの』
「わたしもそう思う」
Аист(アーイスト。コウノトリ。)は、輸送出来るように主翼、尾翼まわりの一部、輸送中に傷めやすい部品などを外します。配線や操縦系統には札を付け、整備の人たちが外した順番と場所を記録していきます。
英国で組み立て直すので、ただ小さくすればいいわけではありません。外した部品は治具へ固定し、ボルトやナットも場所ごとに分けます。再組立時には締結、操縦系統、燃料系統、電気系統を確認し、地上試運転をしてから試験飛行です。
「大旅行だね」
『箱に入れないで』
「箱には入れないよ」
『見えるようにして』
「チェブラーシカの貨物室だから、景色は見えないよ」
『えー』
「着いたら飛ぼう」
『いっぱい?』
「いっぱい飛ぶ」
『じゃあ行く』
納得しました。
*
出発の日、チェブラーシカの貨物室には分解したコウノトリちゃんを固定し、その横へ撮影機材、整備工具、予備部品、個人の荷物を積みました。
アン女王への出産祝いだけは、貨物の奥へ押し込みません。着いてすぐ取り出せるよう、別にしてあります。
「お祝いを最初に出せるように」
「はい。こちらでございます」
フランソワさんが確認しました。仕事の荷物は仕事の荷物、お祝いはお祝いです。
チェブラーシカが離陸し、エルレンフェルトが小さくなります。この前はカナリア諸島まで飛び、ジブラルタルとセウタも見ました。今日は英国です。
そのジブラルタルとセウタは、スペイン鉄道へ英国が貸した資金の大事な担保になっています。鉄道が完成すれば、今度はスペインから返済が始まります。
英国は先にお金を出し、技師を送り、担保も取りました。そして今、スペインで経験を積んだ技師が自国へ戻っています。
「種まいてたんだね」
操縦席で言うと、フランソワさんが聞きました。
「英国が、でございますか?」
「うん。そろそろ収穫」
「スペインから返済が始まることでございますか」
「それも。技師さんも帰ってきた」
「なるほど」
持ち帰ったのは、お金だけではありません。経験もです。
*
ロンドン郊外の滑走路へ降りると、英国側の人たちが待っていました。でも、仕事の前に行くところがあります。
「お祝いから」
「はい」
アン女王のところへ行きました。出産直後ですから、大きな式典にはしません。部屋にいるのはアン女王、ジョージさん、それに赤ちゃんの世話をする人たちだけです。
赤ちゃんは寝ていました。
「ちっちゃい」
思わず言うと、アン女王が笑いました。
「生まれたばかりですから」
「元気?」
「ええ。よく泣きます。夜も泣きます」
「それは元気」
「わたくしは、少し眠いです」
「それは大変」
ジョージさんも笑っています。
わたしは持ってきた包みを渡しました。
「おめでとうございます。こっちは赤ちゃんの服と、おくるみと、毛布。あと、ぬいぐるみ。それと、こっちはアン女王様の」
「わたくしにも?」
「うん。部屋着と肩掛け。お母様が、赤ちゃんだけじゃなくて、産んだ人のお祝いも忘れちゃだめって」
アン女王が少し笑いました。
「お母上に、お礼を申し上げてください」
「伝える。薬は入れてないよ」
アン女王が少しだけ目を丸くしました。
「なぜ、そこで薬の話になるのです?」
「一瞬、持ってこようかと思ったから」
「健康ですよ」
「だからやめた」
「それがよいと思います」
赤ちゃんが少し動きましたが、起きません。ただ普通に寝ている赤ちゃんです。
それだけなのに、わたしにはたいへんなことでした。前の世界では、この子はいません。この子が育てば英国の王位継承は変わり、スコットランドやハノーファーとの関係も変わります。
でも、今はただ寝ています。
「元気に大きくなってね」
小さな声で言いました。
*
お祝いのあとは仕事です。別の部屋へ移ると英国側の地図が広げられていて、アン女王も来ました。
「それでは、今度はこちらですね」
「鉄道」
「ええ。あなたがお祝いだけを届けて帰るとは思っておりません」
「はい。今日は女王陛下がお仕事の上司です」
アン女王が少し笑いました。
「あなたは英国の伯爵ですものね」
「自分の領地ならかなり自由だけど、国家事業では女王陛下の命令に従います」
「では、航空測量をお願いします」
「はい、女王陛下」
アン女王の横には、わたしよりずっと年上の技師が1人いました。当然です。
「この方が?」
「ええ。スペインへ派遣していた者の1人です」
アン女王が紹介したその人は、スペインで最初の路線選定に参加した英国人技師でした。フランス側の工場が施工へ入る前に、ライデンの技術支援を受けながら、鉄道をどこへ通すか、どこを地上測量するか、橋梁の候補をどこに置くかなど、最初の仕事を担当していました。その工程が終わり、すでに英国へ帰っています。
「今度は、自分の国ですね」
わたしが言うと、技師さんは少し笑いました。
「ええ。スペインで学んだことを、ようやくこちらで使えます」
「わたし、写真撮ります」
「助かります。スペインでは、地上から見て回るだけでかなり時間を使いました」
「でも、空から全部決めないよ」
「もちろんです。写真で候補を絞って必要な場所へ地上測量班を入れます。地盤と水、土地所有、既存道路、集落との関係は、地上で確認しなければなりません」
「同じ。わたしもそのつもり。写真で全部決めたら危ないもん」
「それなら話が早いですね」
「うん。今回はアン女王様のお仕事だし、勝手に線は引かないよ」
「国家事業ですからね」
アン女王が笑っています。
*
地図にはロンドンとエディンバラがありますが、その間にまだ線路はありません。英国側が考えているのは、大まかな回廊だけです。
出来るだけ大きな町をつなぎながら、全部の町を経由するために蛇行しすぎない。大きな川をどこで渡り、湿地をどこまで避け、丘を迂回するのか、そのまま越えるのかをこれから決めます。
今回は、最初から電気鉄道です。
アン女王が地図を見ながら聞きました。
「蒸気機関車というものも、今なら造れるのでしょう?」
英国の技師さんが答えます。
「造ることは出来ます。ただ、この幹線では勧めません。石炭と水を機関車へ積み、走る機関車の中でボイラーを焚き続けます。出発前には蒸気圧を上げなければなりませんし、石炭を燃やせば灰も出ます。給水と給炭の設備も、路線の途中へ何か所も必要になります」
わたしも地図を見ながら言いました。
「炭鉱から石炭を運ぶ短い線なら、蒸気機関車でもいいと思う。石炭がすぐそこにあって、水もあって、平らで、列車が少なくて、蒸気が上がるまで待てるところ」
「ええ。そのような条件なら有力です。しかし、ロンドンとエディンバラを結ぶ国の幹線です。列車を何本も走らせ、旅客も貨物も運ぶ。そのために最初から線路を造るのなら、発電所でまとめて燃料を使い、電気を送った方が運用しやすいでしょう」
「機関車にボイラーを1個ずつ積まなくていい」
「はい。給炭所や給水所を列車ごとに使う必要もありません」
電気機関車なら、止まっていた列車を動かす前に火を起こして蒸気を作る必要もありません。回生まで今すぐ全部使えるわけではありませんが、電動機は低速から大きな力を出せるため坂にも強く、その利点を最初から使えます。
「最大25‰までなら、候補から外さなくていいです」
技師さんが言いました。
「1000m進んで25m上がる」
「はい。ただし、何でも25‰にするわけではありません。長い列車や貨物も走りますから、緩く出来るところは緩くします」
「でも、山をものすごく遠回りする必要は減る」
「その通りです」
英国が今から鉄道を造ることには、もう1つ大きな利点があります。
前の世界の英国では鉄道が非常に早く発達しました。世界に先んじて造ったことには大きな意味がありますが、早すぎたために、最初のころの規格も長く残りました。
小さな車両に合わせた橋、狭いトンネル、線路どうしの間隔、駅の形、あとから追加された電化方式、それに会社や路線ごとに積み重なった違いです。鉄道は一度造ると簡単には動かせません。大きな車両を走らせようとしても古い橋やトンネルが邪魔をし、架線を張るために橋を上げたり線路を下げたり、トンネルを直したりしなければならない場所まで出来ます。
先に造ったものが、あとから新しいものを入れるときの制限になります。
でも、こちらの英国にはまだそれがありません。フランスで最初に造り、スペインで次を造り、ライデンでも研究しました。英国の技師はスペインの現場へ行き、失敗も改良も見て帰っています。
世界で最初ではない代わりに、良かったところだけを拾い、あとで困るものを最初から捨てられます。
「規格は、最初に全部そろえるんだよね」
わたしが聞くと、技師さんが別の紙を出しました。
「そのつもりです。軌間は1435mm。フランス、スペインと同じです」
「変な幅を増やさない」
「ええ。国鉄として造る以上、この幹線だけ別の幅にする理由はありません」
その下には、車両長、車体幅、車両限界、構造物限界、線路間隔、橋とトンネルの空間、ホーム位置、軸重、連結器、ブレーキ、信号、架線、電圧まで書かれていました。
「旅客車は25m級、幅は3.5m級まで考えています」
「最初から大きいね」
「途中で車両を大きくしたくなって、橋や駅を全部造り直すより安いでしょう」
「うん」
構造物限界を見ると、車両そのものよりずっと余裕があります。
「上も広く取るんだね」
「架線がありますから」
「それだけじゃなくて、将来もっと背の高い貨物を運ぶかもしれない」
「どのくらいをお考えです?」
「まだ使わなくてもいいから、橋とトンネルは広くしておきたい。あとで削るのは大変だけど、最初から空間を空けておくのは出来るから」
前の世界には、大きな箱を貨車へ載せ、それを2段に積んで運ぶ鉄道まであります。今はそんな荷物がなくても、橋を低く造る理由はありません。
「8mくらいの高さを、構造物側では将来の余裕として考えておきたい」
「旅客車を8mにするのではありませんね」
「それは怖いよ」
技師さんが笑いました。
「分かりました。将来の貨物と架線の余裕ですね」
「うん」
英国は鉄道を造るのが遅れたのではありません。フランスとスペインが先に試してくれたので、3本目では最初から少し賢く造れます。前の世界の英国が100年、200年あとまで抱えた古い規格を、こちらではまだ線路が1本もないうちに削ぎ落とせます。
地図の上には、太い鉛筆で幅を持たせた帯が引かれていました。線路の位置ではなく、候補地域です。
「最初は、この範囲を見たいです」
「広いね」
「ですから、全部を細かく地上測量する前に空から見たいのです」
「了解」
次は、10か所の領地についてです。アン女王が書類を出しました。
「こちらは前にお伝えした通りです。1か所10km²、10か所まで」
「ほんとにいいの?」
「鉄道の測量と、その後の航空拠点に使うのでしょう」
「使います」
「ならば必要です」
「100km²だよ」
「英国全体から見れば、それほど大きくありません」
「わたしから見ると大きい」
「では、大切に使ってください」
「はい」
場所はまだ全部決めません。候補地域を飛び、平坦で水はけが悪くなく、集落をつぶさず、将来滑走路を伸ばせて、出来れば鉄道からも遠くないところを選びます。
「最初から10本の滑走路を造るわけではありません」
技師さんが言いました。
「うん。コウノトリちゃんが使える草地なら、最初はそれでいい」
「将来は?」
「必要なところはチェブラーシカも降りられるようにする」
「ずいぶん大きくなりますね」
「だから10km²もらう」
「なるほど」
*
翌日から、ロンドン郊外の滑走路でコウノトリちゃんを組み立てました。チェブラーシカの貨物室から部品を出します。
『外だ』
「外だよ」
『英国?』
「英国」
『飛ぶ?』
「組み立ててから」
『早く』
「順番」
整備の人たちと一緒に主翼を取り付け、外していた操縦系統、電気系統、燃料系統をつなぎます。締結部、左右の動き、遊び、作動範囲も1つずつ確認します。
急ぎません。飛行機は、組み立て終わったように見えてからが大事です。最後には別の人がもう一度確認します。
「右」
「異常ありません」
「左」
「異常ありません」
「昇降舵」
「異常ありません」
「方向舵」
「異常ありません」
エンジンも動かし、油圧、温度、回転、振動を確認します。異常はありません。
『飛べる』
「まだ。試験飛行の前の点検中」
『今、飛べるって言った』
「機体は言うよね」
英国の技師さんが少し不思議そうな顔をしました。
「飛行機と相談するのですか」
「します」
「スペインでは見ませんでした」
「たぶん、英国でも普通には見ない」
「そうでしょうね」
短い試験飛行で旋回、上昇、降下、低速飛行、着陸まで確認し、異常がないことを確かめてから航空測量の機材を取り付けます。
今回は景色の写真を撮るだけではなく、写真測量です。機体の下向きにカメラを固定し、同じ地面が隣り合う2枚以上に写るよう、進行方向に写真を重ねて撮ります。そうすると立体視によって、丘の高さ、谷の深さ、斜面形状、河岸段丘、水路、道路、建物などを、1枚の写真より正確に読み取れます。
「進行方向は60%くらい重ねます」
「それだけ重ねるのですか」
「重ねないと立体で見にくいから。隣の撮影帯とも少し重ねるし、広く撮るところは何本か平行に飛ぶよ」
「地上測量班へ渡す前に、候補線を比較出来そうですね」
「そのためのお仕事」
ようやく、本来の用事になりました。
*
最初の測量飛行です。前席はわたし、後ろにはスペインから帰ってきた英国の路線技師が乗り、フランソワさんも写真と記録の確認を手伝います。
「行くよ」
『はーい』
コウノトリちゃんが草地を走り、すぐに浮きました。ロンドン郊外の滑走路が下へ離れ、北へ向かいます。
今日は最初からエディンバラまで行くのではなく、まず南側の候補地域を見ます。川、丘、町、道路、農地、林が冬の地面の上に続いています。
まだ線路はありません。盛土も切通しもなく、橋の工事も始まっていません。これから造るために、まず写真を撮ります。
「この先、少し右側も欲しいです」
後ろの技師さんが言いました。
「川の曲がり?」
「はい。地図では分かりにくかったのですが、その丘の東側を通せるなら、橋を短く出来るかもしれません」
「じゃあ、1本追加する」
少し進んで安全なところで旋回し、さっきの撮影帯と重なる位置へ戻ります。
「ここから?」
「もう少し南からお願いします。川へ入る前の斜面も比較したいです」
「了解」
一定の間隔で撮影すると、同じ畑が1枚目、2枚目、3枚目へ、少しずつ位置を変えながら写っていきます。
「写真って、いっぱい撮るんですね」
フランソワさんが言いました。
「1枚だけきれいに撮る仕事じゃないから」
「重なっていることの方が大切なのでございますね」
「うん。あとで測るから」
技師さんは窓の外を見ながら、地図へ印を付けています。
「ここは地上班を入れたい」
「何かある?」
「水です。上から見ても畑の色が少し違います。地下水位が高いかもしれません」
「湿ってる?」
「可能性があります。写真だけでは決めません」
「地上で確認」
「はい」
いい技師さんです。空から全部分かった気になりません。わたしも、そこは気をつけます。
「その先の村は避ける?」
「出来れば。家を壊して直線にするほどの差はありません」
「ちょっと東へ振る」
「ただし、その先の丘が問題です」
「25‰で越えられるか、写真から先に見る?」
「お願いします。そのあと地上で高さを測ります」
コウノトリちゃんは、また少し進路を変えました。
地上には、まだ1本の杭も、1本のレールもありません。これから鉄道になる場所を、わたしたちは空から探しています。
アン女王の男の子が生まれ、英国の未来が大きく変わるかもしれない日に、わたしがやっていることは写真を撮ることです。これはアン女王様の命令で、英国の伯爵として参加する国家事業では、女王陛下が完全な上司です。
「次、撮るよ」
『まっすぐ飛ぶ』
「お願い」
『写真のお仕事』
「そう」
カメラがまた地面を切り取ります。
まだ線路のない英国で、最初の路線は、まず重なった航空写真の中へ現れ始めました。
====================
第71章の小さな説明
====================
【アン女王の男児誕生】
この物語では、以前に治療を受けたアン女王が健康な男児を出産しました。史実のアン女王には王位を継いで成人した子が残らず、1701年の王位継承法によってハノーファー家へ王位が移る道が作られました。本作では健康な嫡男が生まれたため、その後の英国王位継承は史実から大きく分岐する可能性があります。
【スペイン鉄道と英国】
スペイン鉄道では、建設資金を英国が融資し、機材を主にフランス側の工場から調達し、ライデンが技術支援を行っています。英国は自国の技師を各工程へ駐在させ、鉄道を持たない段階から実地経験を蓄積しました。路線選定を担当した技師は自分の工程を終えて帰国しており、今回はアン女王から英国国内の路線選定のために貸し出されています。
スペイン側は鉄道完成後、営業収入から英国への返済を始める契約です。返済が大きく滞った場合の担保として、ジブラルタルと本土をつなぐ砂地、セウタと必要な周囲が設定されています。
【10km²の飛び地領地】
ロンドン郊外の既存滑走路だけでは英国縦断の航空測量に不便なため、アン女王側は、どろちゃんが必要な場所を10か所まで選び、それぞれ10km²を英国側の飛び地領地として持てるようにしました。最初から大規模空港を10か所造るわけではなく、航空測量の前進基地として使い、将来は滑走路、格納庫、気象観測、航空郵便、救急、鉄道保守などへ利用出来る余地を残します。
【蒸気機関車と電気鉄道】
この世界では高圧ボイラーや蒸気機関車を造る技術そのものは成立し始めています。ただし、蒸気機関車は機関車ごとにボイラー、燃料、水を持ち、給炭・給水、灰処理、蒸気圧を上げるまでの時間などを必要とします。本作では、炭鉱からの短距離輸送など条件の合う用途には残しつつ、長距離の高頻度幹線は最初から電気鉄道とします。発電所で燃料をまとめて使い、電力を架線から列車へ供給する方が、英国縦断幹線には適しているという判断です。
【最初からそろえる英国鉄道規格】
史実の英国鉄道は非常に早く発達したため、古い構造物や路線ごとの規格が後世まで残り、車両限界の拡大や電化改良で橋梁、トンネル、線路高さなどの改修が必要になる場所があります。本作の英国は、フランス、スペイン、ライデンの経験を先に利用出来るため、1435mm軌間、車両限界、構造物限界、線路間隔、ホーム、軸重、連結器、ブレーキ、信号、架線などを国鉄の共通規格として最初から決めます。
旅客車は25m級・幅3.5m級を想定しますが、構造物側の高さはそれより大きく取り、将来の大型貨物や高い積荷、架線の安全間隔を確保出来るようにします。8m級という数字は旅客車の高さではなく、将来を見越した構造物側の余裕についての考え方です。
【航空写真測量】
鉄道路線を決める前に、候補地域を空から連続撮影します。隣り合う写真へ同じ地形が重なるように撮ると、立体視によって高低差や斜面形状を読みやすくなります。本作では進行方向に約60%の重なりを持たせています。
航空写真だけで路線を確定するのではなく、写真から候補を絞ったあと、地上測量で標高、地盤、水、土地所有、道路、集落などを確認します。盛土、切通し、橋梁などの工事は、その後です。




