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68貴族令嬢はお姉様のところへ除草剤を運びます。  共和国化してしまったお姉様の領地

第68章 貴族令嬢はお姉様のところへ除草剤を運びます



 神聖ローマ帝国が共和国化して成立した、Deutsche Demokratische Republik(ドイツ民主共和国。略称DDR。以下、DDR)ができて、電信線が伸び始めたころ。


 お姉様から手紙が来ました。


 いつもの家族の手紙より、少しだけ厚い。


 最初の一枚には、家族のこと。


 子どもたちは元気。


 町も、いまのところ落ち着いている。


 グライダーも二機とも飛べる。


 そして、二枚目。


「……グリホサート?」


 わたしは、もう一度読みました。


 除草剤を分けてほしい。


 量は、畑一枚を全部枯らすほどではなくてよい。


 場所を見てから、必要なところだけ使いたい。


 できれば、わたしにも一度来てほしい。


「お姉様のところ、雑草で困ってるのかな」


 フランソワさんが、手紙を横から読みました。


「普通の雑草でしたら、ここまで具体的に薬剤を指定なさるでしょうか」


「しないよね」


 もう一度、最後まで読みます。


 追伸がありました。


《例のものです。見れば分かります》


 わたしは、しばらく紙を見ました。


「……あれか」


「お分かりになりましたか」


「たぶん」


 エルレンフェルトにもある。


 オオホウセンカ。


 オオカタバミ。


 熟したものが地面へ当たると、種を勢いよく飛ばします。


 南の伯爵の騎馬隊を追い払ったときにも使いましたし、ベルサイユで使った話も、お姉様にはしていました。


 お姉様のところにあるのも、名前としては同じものです。


 ただし、こちらで育っているのは性質の違う品種でした。


 粒がもう少し細かい。


 そして、飛ぶ速さがずっと大きい。


 エルレンフェルトで使ったものと比べると、だいたい三倍くらい。


 こちらでは少し違う発音で、


 おおほうせんか。


 おおかたばみ。


 と呼んでいます。


 同じ名前でも、わたしには危なさがかなり違って見えます。


 わたしは、この品種を自分から撒こうとは思いません。


「持っていこう」


「コウノトリちゃんでございますか」


「うん。何度も行ってるし」


 お姉様のところへ行くのに、今さら大きな飛行計画を立てる必要はありません。


 着陸場所も知っています。


 風の癖も、丘も、川も、町も知っています。


 コウノトリちゃんで何度も行きました。


 ライデン大学のソアラーを航空機曳航するために呼ばれたこともあります。


 むしろ、知らないのは今の地上の方でした。


 帝国がなくなり始めて。


 DDRができて。


 伯爵領だった場所も、そのままではなくなっています。



          *



 グリホサート系の除草剤は、容器ごと箱へ入れました。


 手袋。


 標識。


 計量器具。


 それから、現場で使う人へ渡す説明書。


「全部積みました」


「ありがとう」


 フランソワさんが後ろの固定を確認します。


「お姉様のところへは、今日は曳航を頼まれておりませんね」


「手紙には書いてないよ」


「では、曳航索は置いて参ります」


「うん。今日は草」


「飛行機で除草剤を届ける日が普通になるとは思いませんでした」


「わたしも」


 でも、飛行機はそういうものです。


 王様を運ぶ日もある。


 病人を運ぶ日もある。


 学者を運ぶ日もある。


 除草剤を運ぶ日もあります。


 コウノトリちゃんは、いつものように離陸しました。



          *



 大きな川を越えます。


 山を越えます。


 昔なら、お姉様のところまで馬車で長くかかった道です。


 今は、空から見慣れた道でした。


 ただ、下の景色には変わったものが増えています。


「電柱」


「ございますね」


 街道に沿って、まだ新しい柱が並んでいました。


 全部つながっているわけではありません。


 途中で工事が止まっているところもある。


 碍子だけ付いて、線がまだないところもある。


 でも、方向は分かります。


 レーゲンスブルクから伸び始めたDDRの電信網です。


「ここまで来たんだ」


「早うございますね」


「町が大きいからかな」


 お姉様のところは、帝国が崩れる前から弱い土地ではありませんでした。


 畑はよく取れる。


 人も、かなり年を取るまで元気に働きます。


 それに、空を飛ぶ回数が増えてから、その傾向はもっと強くなりました。


 この世界は、高いものを偉いと思います。


 領主の家族が空へ行く。


 領兵さんだった人たちが空へ行く。


 ライデン大学から買った部品を組み立てたソアラーまで飛ぶ。


 飛ぶたびに、領地だった場所にも、少しずつ何かが積み重なっていきます。


 わたしには、いまだに仕組みがよく分かりません。


 でも、畑の帳面は嘘をつきません。


 病気で仕事を休む人の数も。


 高齢になっても働いている人の数も。


 帝国から割増しの税を求められたときも、この土地は払いました。


 文句がなかったわけではありません。


 でも、払えた。


 だから払った。


 それでも帝国は壊れました。


「お姉様のところ、ちゃんと払ってたのにね」


「だからこそ、思うところはおありでしょう」


「うん」


 払わなかったから国が壊れたのではない。


 払ったところまで巻き込まれた。


 それが、たぶん一番嫌なところです。



          *



 町へ近づく前に、高度を少し残したまま周囲を見ました。


 これは、もう習慣です。


 お姉様のところだから安全。


 昔から知っている場所だから安全。


 そういう理由では降りません。


 街道。


 橋。


 丘。


 着陸する草地。


 人の集まり。


 馬車。


 変なものはありません。


「今日は普通だね」


「そのようでございます」


 そして、もう一つ。


 上空に、小さな翼が見えました。


「あ、飛んでる」


「一機でございますね」


 長い翼。


 細い胴体。


 ライデン大学で作った、最大滑空比二十八のソアラーです。


 お姉様のところでは、完成機をそのまま二機買ったわけではありません。


 ライデン大学から、二号機と三号機に相当する部品を買っています。


 それをこちらの工房へ運び、組み立て、調整し、検査して飛ばしています。


 いわゆるノックダウン生産です。


 一から空力設計をやり直しているわけではありません。


 でも、ただ箱を開けて翼を付ければ終わりでもありません。


 木部。


 金具。


 索。


 操縦系統。


 接着。


 風防。


 全部を確認しないと、人を乗せて飛ばせません。


 最初のレーィカちゃんを作ったころからいた職人さんたちには、その仕事ができます。


「もう一機は地上かな」


「格納庫側に白い翼が見えます」


「ほんとだ」


 二機ともいる。


 どちらか一機が壊れたら、空から何も見えなくなる土地ではありません。


 帝国が崩れたとき、これはずいぶん役に立ったはずです。


 コウノトリちゃんを着陸させました。



          *



「久しぶり、と言うほどでもないわね」


 お姉様が待っていました。


「この前、曳航したし」


「そうだったわね。今度は除草剤を運んでくるとは思わなかったけれど」


「わたしも思わなかった」


 お姉様は、後ろの箱を見ました。


「ちゃんと持ってきてくれた?」


「持ってきたよ。でも、先に見せて」


「そのつもり。あれ、広がってしまったの」


「やっぱり」


「やっぱり、なのね」


「だって、あれだもの」


 お姉様は少し笑いました。


「あなたがベルサイユで使った話を聞いたとき、後が大変そうだとは思っていたのよ」


「知ってたよね」


「知っていたわ」


「それでも使ったの?」


「それは、旦那様に聞いて」


「使ったよ」


 後ろから声がしました。


 お姉様の旦那様です。


 今でも伯爵です。


 爵位が消えたわけではありません。


 でも、もう伯爵だからこの土地を治める人ではありません。


 税を決める権利も。


 裁判をする権利も。


 領民へ命令する世襲の権利もありません。


 いまの仕事は、この地域で一番大きな町の市長さんです。


「二回?」


 わたしが聞きました。


「大きく使ったのは二度だ。最初は隣の領から武装した一団が入ろうとしたとき。次が、帝国軍が崩れたあとに盗賊になった連中が来たときだな」


「二機とも?」


「二機とも上げた」


 ためらいがありません。


 お父さまとは、そこが違います。


 お父さまは軍人ではありません。


 お姉様の旦那様は、軍役へ行く人です。


 自分の町や周辺の村へ武装した集団を入れるくらいなら、領境だった場所で止める。


 そういう判断をします。


「詳しくは聞かないよ」


「その方がいい。私も説明したい話ではない」


「わたし、あっちのおおかたばみは撒く気になれないもの」


「だから、頼まなかった」


 それで話は終わりました。


 結果だけなら分かっています。


 二つの集団は、町まで来ませんでした。


 そして、別の問題だけが残りました。


「増えたんだね」


「増えた」


 市長さんになった伯爵様は、今度は少し困った顔をしました。



          *



 除草剤の箱を荷車へ載せました。


 でも、すぐには使いません。


 まず現場です。


「空から見る?」


「その方が早いと思う」


 伯爵様が言いました。


「地上からだと、街道沿いに点々と出ているのしか分からない。境の向こう側にもあるらしい」


「向こうにも?」


「種に昔の領境を守る義理はないからな」


「それはそう」


「こちらだけ勝手に薬を撒いて終わり、というわけにもいかなくなった」


 共和国になったから、というだけではありません。


 昔だって隣の領地へ勝手に入ってよいわけではありません。


 でも、今はもっとはっきりしています。


 伯爵様の昔の統治権はありません。


 隣側にも、新しい町や地域の行政があります。


 こちらの市長が、昔の伯爵領だったからという理由で向こうへ命令することはできません。


「向こうの人とは話した?」


「話している。向こうも困っているから、処理すること自体には反対していない。ただ、どこまで広がったか先に見たいそうだ」


「じゃあ、見る」


 今日も、飛行機が役に立ちました。



          *



 コウノトリちゃんをもう一度上げるほどではありませんでした。


 お姉様のところには、二機あります。


 ソアラーの一機を使いました。


 今日は航空機曳航ではなく、地上側の発航設備で十分です。


 高度が必要なのではありません。


 旧領境の周りを、ゆっくり見るだけです。


 わたしは地上に残りました。


 お姉様が一機へ乗ります。


「お姉様が行くの?」


「ここは何度も飛んでいるもの。あなたは薬の方を見ていて」


「分かった」


「それに、どこへ落としたかは私も知っているから」


「……それもそうだね」


 もう一機には、以前の領兵さんだった飛行担当者が乗りました。


 二機。


 別々の方向を見ます。


 最初のレーィカちゃんで、お姉様一人が川を越えたころとは違います。


 飛ぶ人も増えました。


 飛行機も増えました。


 そして、空を見る理由まで増えました。


 ソアラーが上がります。


 長い翼が、旧領境の上をゆっくり動きました。



          *



 戻ってきたお姉様は、地図へ鉛筆で印を付けました。


「思ったより広い」


「やっぱり?」


「街道沿いだけではないわ。ここと、ここ。あと、この斜面にもある」


 もう一人も別の印を付けます。


 旧領境の両側。


 離れた場所にも少し。


 飛散した種がそのまま全部育ったわけではありません。


 でも、残ったものだけでも十分でした。


「これ、今年だけで終わらないね」


「そう思って、あなたに来てもらったの」


「一回薬かけて終わりじゃないよ。来年も見ないと」


「分かってる」


「種が残ってるところもあると思う」


「それも分かってる」


 お姉様は、わたしの顔を見ました。


「ベルサイユのお話、ちゃんと聞いていたのよ」


「はい」


「でも、あのときは使うことにしたの」


 横で伯爵様が続けました。


「私が決めた。隣から入ってきたときも、盗賊のときもな。後始末が必要になることは分かっていたが、町まで武装したまま入られる方を選ぶ気はなかった」


「うん」


 わたしは、それ以上は言いませんでした。


 わたしなら撒かない。


 だからといって、あのときここで暮らしていた人まで、わたしと同じ判断をしなければならないとは思いません。


 立場が違います。


 旦那様は軍役にも行きました。


 実際に、守る側の判断をしてきた人です。


 それより今は、増えたものを減らす仕事があります。



          *



 現場へ行く前に、町の行政館へ寄りました。


 昔からある建物です。


 伯爵領の行政をしていたころから、ここで帳簿を付けています。


 建物そのものは、共和国になったから急に変わりません。


 入口の人も、見覚えがあります。


「ドロテーヤ様、お久しぶりでございます」


「お久しぶりです」


 その人は、伯爵様にも頭を下げました。


「市長、先ほど隣の行政区から返書が届いております」


「あとで読むよ。先にこちらの地図を写しておいてくれないか。上空から確認した範囲を追加した」


「承知しました」


 わたしは、少しだけ入口の札を見ました。


 伯爵家の紋章は、まだあります。


 昔からこの家が使ってきた建物だからです。


 でも、その横の仕事の札は、もう違います。


 市長。


 伯爵様は、いまでも伯爵様です。


 町の人がそう呼ぶこともあります。


 お姉様も伯爵夫人です。


 でも、役所の紙へ署名するときは、伯爵としてではありません。


 市長として署名します。


「変な感じ?」


 お姉様が聞きました。


「ちょっと」


「私も最初は変だったわ」


「お姉様は、伯爵夫人のままだよね」


「家の名前まで変わったわけではないもの。でも、それで町の税金を決められるわけではなくなったわね」


「困った?」


 お姉様は少し考えました。


「思ったよりは。家の帳簿と町の帳簿を、前よりはっきり分けるようになったくらいかしら」


 伯爵様が横から言いました。


「私は、議会へ説明する紙が増えた」


「それは困ってるね」


「ただ、悪いことばかりでもないよ。税を増やすなら、自分で理由を説明しなければならない。昔のように、上から割当てが来たから集める、では済まない」


「帝国の割増し税、払ってたもんね」


「あれは払った。かなり取られたが、払えない額ではなかったからな」


「それなのに帝国なくなった」


「そこは少し言いたいことがある」


 口調は穏やかでした。


 でも、たぶん本当にあります。



          *



 帳簿を見せてもらいました。


 昔の税。


 帝国へ出した分。


 領内で使った分。


 橋。


 道路。


 穀倉。


 医療。


 学校。


 飛行場。


 グライダー工房。


 数字が並んでいます。


「飛行機、意外と使ってるね」


「二機あるからな」


「ライデンの部品、高かったでしょう」


「安くはない。ただ、一から同じ性能のものをこちらで設計するよりはずっと安い。二号機と三号機の部品を買って、こちらで組んだ」


「壊れたところは?」


「交換できるものは部品を取り寄せる。こちらで作れる消耗品は作る。勝手に形を変えるな、と工房には言ってある」


「それ大事」


 最初のころは、未来の飛行機らしい形を見て、職人さんが自分の経験で補いたくなることがありました。


 今は違います。


 ライデン大学の二十八は、見た目を真似してできた数字ではありません。


 測定。


 計算。


 材料試験。


 飛行試験。


 それを積み上げた結果です。


 勝手に桁を太くする。


 勝手に金具を変える。


 勝手に翼型を直す。


 そういうことをすれば、二十八ではなくなります。


 危ないものにもなります。


「曳航は、また頼むと思う」


 お姉様が言いました。


「いいよ。予定合わせて」


「今度は二機とも上げたいの」


「二機一緒には引けないよ」


「分かってるわ。一機ずつ」


「なら大丈夫」


 そこまで話してから、わたしは窓の外を見ました。


 畑が見えます。


 帝国が崩れたからといって、小麦まで崩れるわけではありません。


「収量、落ちてない?」


「むしろ今年はいい方よ」


「やっぱり」


「高く飛ぶのが二機になったからかしら」


「それ、ほんとにあるから困るんだよね」


 お姉様は笑いました。



          *



 DDRへ入ることについても聞きました。


 ここは、助けてもらわないと明日にも飢える土地ではありません。


 むしろ反対です。


 食べ物がある。


 税も払えた。


 職人もいる。


 グライダーまで組み立てている。


「お姉様たち、入るの早かった?」


「早い方だったと思う」


「迷わなかった?」


「迷ったわよ」


 お姉様は、あっさり言いました。


「だって、昨日まで伯爵領だったところが、次の日から共和国です、と言われて、何も思わない方がおかしいでしょう」


「うん」


「でも、帝国に残ると言っても、その帝国がもう仕事をしていなかったの。税の請求は来る。昔の軍事費の話も来る。でも、道の安全も、兵の給金も、通貨の信用も戻してくれない」


 伯爵様が帳簿を閉じました。


「こちらは割増しまで払っていた。払ったことを後悔しているわけではない。当時の制度では義務だったからな。ただ、払った先の仕組みがなくなったあとまで、同じ名目で請求だけ続くのは受け入れられなかった」


「ドイツキリスト教民主同盟、Christlich-Demokratische Union Deutschlands――CDUの公約?」


「大きかったよ。昔の戦争代を、新しい共和国の住民へそのまま割り振らない。少なくとも、何を共和国の債務として引き受けるかは新しい議会で決める。それなら話ができる」


「買収みたいに強いよね」


「金を配られたわけではないからな」


「でも払わなくてよくなる」


「だから強い」


 伯爵様は笑いました。


「私だって一票を持つなら、税の話は読むよ」


「市長さんだものね」


「伯爵でもある」


「両方だね」


「今はな。ただし、伯爵だから票が二票になるわけではない」


「それはよかった」


「そこは本当に安心したような顔をするな」


 お姉様まで笑いました。



          *



 町の市場も見ました。


 閉まっていません。


 パンがあります。


 野菜があります。


 肉があります。


 布があります。


 鉄製品があります。


 以前と同じ商人もいます。


 違うのは、支払いの話でした。


 帝国が崩れ始めたころは、帝国名義の支払証書や手形を嫌がる商人が増えました。


 今は、DDR側の行政と共同銀行につながる決済なら、受ける店が増えています。


 全部が一夜で新しくなったわけではありません。


 銀貨も使う。


 昔からの信用取引も使う。


 商人同士の帳簿も使う。


 でも、「誰が最後に払うのか分からない紙」は減っていました。


「国の中を見るなら、市場が分かりやすいね」


「飛行機からは見えませんものね」


 フランソワさんが言いました。


「市場が開いているかは見えるよ」


「そのパンを、どの支払いなら店主が渡すかまでは見えません」


「それはそう」


 空から見えるものと、地上でしか分からないものがあります。



          *



 午後。


 旧領境だった場所へ行きました。


 昔なら、伯爵様が馬で先頭へ出てもおかしくありません。


 今は市の役人と、隣側の行政から来た人が一緒です。


 地図を持っています。


 お姉様が空から付けた印もあります。


「ここから先は、向こうの管理区域です」


 隣側の人が言いました。


「こちらで勝手に薬剤を使わないようにします」


 伯爵様が答えました。


「処理範囲は一緒に決めましょう。こちら側から飛んだ種が原因なら、費用についてもこちらで持つ部分を考えます」


「助かります」


 昔なら、領境で起きたことは領主同士の話です。


 今は、市長と隣の行政担当者が話しています。


 地面そのものは同じです。


 道も同じ。


 草も同じ。


 でも、誰が決めるのかが変わりました。


 わたしは問題の株を見ました。


「……やっぱり、こっちのは嫌」


「見ただけで分かる?」


 お姉様が聞きました。


「分かるよ。実の感じが違う」


 触りません。


 近づきすぎません。


 成熟しているものは、もっと嫌です。


「グリホサートでいける?」


「植物だから、たぶん効く。でも、これだけ広がってるなら、一回で全部終わりとは思わない方がいい。処理した場所を地図に残して、また出たら次もやる」


「何年くらい?」


「そこは分からない。種がどれくらい残るか、こっちの品種はちゃんと調べてないもの」


「じゃあ、調べるところからか」


「うん。薬を持ってきたから解決、ではないよ」


 伯爵様は地図を見ました。


「分かった。行政の仕事にして記録を残す。昔なら領兵へ草刈りを命じて終わらせていたかもしれんが、これはそのやり方ではまずそうだ」


「刈る前に、どんな状態か見てね」


「分かっている。下手に触って増やしたくはない」


 そこは話が早かった。


 ベルサイユの話を、ちゃんと聞いていたからです。



          *



 帰り道。


 お姉様の旦那様は、町の人から何度も声を掛けられました。


「伯爵様」


 と呼ぶ人もいます。


「市長」


 と呼ぶ人もいます。


 同じ人を呼んでいます。


「どっちで呼ばれる方がいい?」


 わたしが聞きました。


「どちらでもいいよ。伯爵は家の名前と一緒に残る。市長は仕事だ」


「伯爵様って呼ばれたら、昔みたいに命令したくならない?」


「そこまで単純ではない」


「ちょっとくらい?」


「どろちゃん」


「はい」


「家族だから言うが、議会で予算を説明する方が、昔の家臣に命令するより面倒だ」


「やっぱり困ってる」


「面倒と悪いは同じではない」


 少し間を置いてから、続けました。


「私が軍役へ行っている間でも、町は動かなければならない。私が死んでも、次の市長が仕事を続ければよい。それは、考えてみれば悪くないよ」


 お姉様が横で聞いていました。


「でも次の選挙で落ちたら、家にいる時間が増えるわね」


「それはまだ先の話だろう」


「私は困らないわよ」


「私は少し困る」


「グライダーの方を手伝えばいいでしょう」


「それでは市長から飛行場係になるではないか」


「仕事はあるわね」


 二人とも、あまり困っていないように見えました。



          *



 夕方、飛行場へ戻りました。


 昼に飛んでいた一機は、もう格納庫へ入っています。


 もう一機は外に出たまま。


 工房の人が翼の表面を見ています。


 ライデン大学から来た部品を、ここで組んだ機体。


 最大滑空比二十八。


 二機。


 帝国がなくなる少し前には、こんなものが地方の伯爵領に二機あること自体、かなり変な話でした。


 いまは、その伯爵領そのものがなくなりつつあります。


 でも飛行機は残っています。


 工房も残っています。


 職人も残っています。


 畑も残っています。


 町も残っています。


 変わったのは、上に乗っている制度の方でした。


「ねえ、お姉様」


「なに?」


「帝国なくなって、すごく変わった?」


 お姉様は、すぐには答えませんでした。


 格納庫の中を見ます。


 ソアラー。


 工具。


 作業台。


 記録紙。


 その向こうに畑。


「大きく変わったところと、ほとんど変わらないところがあるわね」


「どこが大きい?」


「旦那様が町を治める理由」


「伯爵だから、じゃなくなった」


「そう。それから税金。前は帝国から来たものを、こちらでどう集めるか考えていたでしょう。今は、こちらから共和国へ何を出して、町に何を残すかを説明しなければならない」


「変わらないのは?」


「明日のパンを焼く人」


 お姉様は笑いました。


「畑を耕す人。橋を直す人。子どもを教える人。グライダーの翼を磨く人。そういう人たちは、帝国がなくなった翌朝にも仕事へ来たわ」


「そっか」


「国が変わったからって、小麦は待ってくれないもの」


 それは、その通りでした。



          *



 晩ごはんは、お姉様の家で食べました。


 昔と同じ家です。


 共和国になったからといって、家まで取り上げられてはいません。


 伯爵家の私有財産です。


 食卓には、パン。


 肉。


 野菜。


 川魚。


 果物。


 帝国が崩れているころにも、ここでは食べ物がありました。


「盗賊が来たの、食べ物があるって知ってたから?」


 わたしが聞くと、伯爵様が少し考えました。


「それだけではないだろう。街道が通っている。町がある。馬を休ませられる。倉庫もある。だが、食料があることは理由の一つだったと思う」


「空から見つけた?」


「かなり早く」


 お姉様が答えました。


「二機あると、一機を飛ばしているあいだにもう一機を準備できるでしょう。遠くの街道で人が固まって動いていると分かれば、地上の見張りにも先に知らせられるの」


「それで入れなかったんだ」


「最初は話をしたわよ」


「退かなかった?」


 お姉様は旦那様を見ました。


「その後は、詳しく聞かないんでしょう?」


「うん」


「では、そのままでいいわ」


 パンを一つ取りました。


 おおかたばみの話は、それで終わりです。


 食卓で詳しくする話ではありません。



          *



 食後。


 伯爵様は、明日の市役所の予定表を見ていました。


 隣側との除草範囲の協議。


 電信線工事の用地確認。


 市場の計量器検査。


 橋の補修予算。


 共和国側へ送る税収報告。


 飛行場の草刈り。


「最後だけ昔っぽいね」


「飛行場の草刈りが?」


「伯爵領のころからやってるから」


「それは制度が変わっても草が伸びるからな」


「それもそう」


 お姉様が、別の紙を持ってきました。


「これも見て」


「なに?」


「今年の収穫予測」


 数字を見ます。


「多い」


「でしょう」


「人も足りてる?」


「高齢の人が、前より長く働けるの。もちろん無理はさせないけれど、本人たちが普通に仕事へ来るのよ」


「やっぱり高いと偉いの、効いてる」


「二機も飛ばしているからかしら」


「たぶん積み重なるんだと思う」


 昔、お父さまの領地で気づいた変な世界の規則。


 高く飛ぶと、領地まで少し偉くなる。


 その規則は、共和国になったから消えたわけではありませんでした。


 伯爵が統治していなくても。


 飛行機は飛びます。


 町は、その下にあります。


「じゃあ、伯爵じゃなくなっても大丈夫なのかな」


 わたしが言うと、伯爵様が顔を上げました。


「私は伯爵のままだよ」


「あ、そうだった」


「そこを毎回なくさないでくれ」


「統治権がないだけ」


「そういうことだ」


 お姉様が笑いました。



          *



 翌朝。


 除草剤を市の管理する倉庫へ移しました。


 伯爵家の倉庫ではありません。


「ここなんだ」


「町の仕事で使うものだからな」


 伯爵様が答えました。


「私物と一緒にする理由がない」


「分かりやすいね」


 受領の紙にも、市長として署名しました。


 伯爵の印章ではなく、市の印。


 わたしが持ってきた薬は、伯爵様への贈り物ではありません。


 危険な植物を処理するため、町と周辺行政が使う物資になりました。


「代金は?」


「あとで請求するよ。薬そのものと運送分」


「妹からも取るの?」


 お姉様が言いました。


「お姉様に売るんじゃないよ。市に売るの」


「それなら払います」


 伯爵様が笑いました。


「家族だから無料にされた方が、市長としては処理に困る」


「だよね」


 共和国になると、家族の間でも帳簿が増えます。



          *



 帰る前に、もう一度上空を見ました。


 二機のソアラー。


 今日は飛ばしません。


 格納庫で整備中です。


「次は曳航しに来てね」


 お姉様が言いました。


「予定送って。電信つながったら早いのに」


「もう少しよ。町の端までは来ているから」


「じゃあ、そのうち手紙より先に電文が来るね」


「除草剤を頼む電文?」


「次は増やさないで」


「私に言わないで」


 二人で旦那様を見ました。


「もう使わないとは約束できないよ」


 伯爵様は、困った顔をしませんでした。


「必要がなければ使わない。だが、武装した集団を町へ入れるか、領境だった場所で止めるかという話なら、私は同じ判断をすると思う」


「うん」


「その代わり、今度は後始末まで最初から予算に入れておく」


「そこなの?」


「市長だからな」


 お姉様が笑いました。


 わたしも笑いました。


 お父さまなら、たぶん別の答えをします。


 でも、ここはお父さまの町ではありません。


 共和国になっても、全部の人が同じ考え方になったわけではありません。


 それでいいのだと思います。



          *



 コウノトリちゃんを離陸させました。


 町が下へ小さくなります。


 昔の伯爵領。


 いまはDDRの一地域。


 伯爵様はいる。


 でも、伯爵として町を治めてはいない。


 市長さんとして役所へ行く。


 お姉様は伯爵夫人のまま、グライダーへ乗る。


 二機のソアラーは、ライデン大学から来た部品で組み立てられ、空から街道を見ています。


 畑はよく実る。


 年を取った人も働いている。


 昔の割増し税を払えた土地だから、共和国へ入らなければ明日死ぬという場所ではなかった。


 それでも、新しい国を選びました。


 信用できない帝国の紙より、誰が決めて誰が払うか分かる帳簿を選んだ。


 世襲の統治より、町の仕事をする市長を選んだ。


 その一方で、昔からの家も、爵位も、グライダーも、畑も残っています。


「変わるって、全部なくなることじゃないんだね」


 わたしが言うと、フランソワさんが前を見たまま答えました。


「残すものを選ぶことでもあるのでございましょう」


「そうかも」


 下には、新しい電柱が続いていました。


 まだ線のない柱。


 もう線の張られた柱。


 その向こうに、昨日まで帝国だった土地が続いています。


 帝国は、разваливаться。


(ラズヴァーリヴァツァ。崩れていく。)


 でも、崩れたあとに住んでいる人まで、いなくなるわけではありません。


 町は、今日も仕事をしていました。



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第68章の小さな説明

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【お姉様の嫁ぎ先】

 お姉様が暮らしてきた地域は、大きな川を東へ渡り、山をいくつか越えた先にあります。初期の章では伯爵領として登場し、お姉様はここでレーィカちゃんを使った飛行訓練を始めました。

 本章の時点ではDDRへ参加しているため、伯爵家が世襲の統治権を持つ「伯爵領」ではなくなっています。ただし、家名や爵位、伯爵家の私有財産まで一律に消滅したわけではありません。


【伯爵様と市長】

 お姉様の旦那様は、現在も爵位としては伯爵です。しかし、伯爵であることを理由に課税、司法、行政を世襲で支配する権限はなくなっています。

 現在の公的な仕事は、以前の領地内で最も大きな町の市長です。役所の文書には市長として署名し、市の予算や物資は伯爵家の私有財産と分けて扱います。


【滑空比28の二機】

 ライデン大学では、最初の中間的ソアラーから研究を続け、最大滑空比およそ28の機体まで到達しています。お姉様の地域では、その二号機・三号機に相当する部品をライデン大学から購入し、現地工房でノックダウン生産しています。

 一から独自設計した機体ではありませんが、組立、調整、検査、修理には初期のグライダー製作から蓄積した技術が必要です。二機あるため、偵察、訓練、整備を一機だけに依存せず運用できます。


【コウノトリちゃんによる航空機曳航】

 どろちゃんは以前から何度もコウノトリちゃんでお姉様のところを訪れており、航空機曳航も依頼されています。

 そのため本章では、飛行機の到着そのものを珍しい出来事として描かず、既存の着陸場所、飛行手順、地上側の受入体制を普通に使っています。


【高いものほど偉い世界】

 この物語世界では、地面から高いもの、空へ近いものほど身分的に「高い」という近世的な価値観が、物理法則のように土地や人へ影響します。

 どろちゃんの家の領地では、飛行を繰り返すにつれて作物の収量や人々の健康へ変化が表れました。お姉様の地域でも飛行が積み重なり、農業生産が高く、高齢まで健康に働ける人が多い状態が続いています。


【割増し税を払えていた地域】

 お姉様の地域は、帝国末期に追加の税負担を求められても、経済と農業に余裕があり、実際に支払っていました。

 そのためDDR参加は「税を払えず反乱した貧しい地域が救済された」という形ではありません。義務を果たしていたのに、帝国の信用、軍の給養、治安、決済制度が崩れたため、より機能する国家制度へ参加する選択をした地域として描いています。


【オオホウセンカ・オオカタバミ/おおほうせんか・おおかたばみ】

 初期の章から登場しているオオホウセンカ・オオカタバミと、お姉様の地域で「おおほうせんか・おおかたばみ」と少し違う発音で呼ばれているものは、名前としては同じ植物です。別の植物名ではありません。

 ただし、お姉様側で育っているものは、粒がやや細かく、種子の飛散速度がおよそ三倍に達する、さらに危険な品種です。どろちゃん自身もオオホウセンカ・オオカタバミは南の伯爵の騎馬部隊を追い払う際などに使っていますが、この危険な品種については自分で撒く気にはなれません。

 本章以前には、隣領からの武装侵入と、帝国軍崩壊後に盗賊化した集団の侵入を領境付近で止めるため、お姉様側が二機のグライダーからこの品種を使用しています。具体的な被害は描かず、侵入を止めたことと、その後に種が領境の両側へ広がって除去作業が必要になったことだけを扱っています。


【グリホサート】

 本章では、広がった危険植物を処理するため、お姉様からどろちゃんへグリホサート系除草剤の提供依頼が届きます。

 薬剤を一度使えば永久に終わるとはせず、飛散した種や翌年以降の発芽も考え、位置を記録しながら継続的に確認する設定です。また、旧領境の反対側へも広がっているため、市長が昔の領主権で一方的に処理するのではなく、隣接する行政側と協議して対応します。


【DDR――ドイツ民主共和国】

 本作のDDRは、神聖ローマ帝国が共和国化して成立したDeutsche Demokratische Republik(ドイツ民主共和国)の略称です。1703年にこの物語世界で成立した共和国であり、後世の東ドイツとは別の国家です。

 第67章ではDDR成立を中央側から描きました。本章では、実際に参加した地方から見た変化を描いています。

 共和国になっても、畑、工房、市場、家、家族、爵位などが一斉に消えるわけではありません。一方で、税を決める根拠、行政責任、予算の説明、隣接地域との協議、公共物資と私有財産の区別など、政治の実務は大きく変わっています。


【CDU――ドイツキリスト教民主同盟】

 本作のCDUは、ドイツキリスト教民主同盟、Christlich-Demokratische Union Deutschlandsの略称です。DDR成立期に全国組織を作り、第一回選挙で勝利した、この物語世界の1703年の政治組織です。

 後世の同名政党と略称は同じですが、成立時期も政治史も異なります。本章では、旧皇帝・旧帝国の1703年以前の軍事費を新共和国の住民へ機械的に転嫁しないという公約が、地方側からどのように受け止められたかを描いています。


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