67貴族令嬢は帝国議会へ通信筒を落とします 250年早くドイツ民主共和国誕生 東ドイツと偶然同名です
第67章 貴族令嬢は帝国議会へ通信筒を落とします
王様たちをテネリフェまで運び終わっても、帝国の方は終わっていなかった。
むしろ、王家を先に逃がしたので、残ったものがよく見えるようになった。
給金の出ない兵隊。
命令の来ない守備隊。
自分の村へ帰りたい人。
帰ろうにも食べるものがない人。
馬と銃と砲だけはある部隊。
徴税人を追い返した村。
領主がいなくなって、そのまま町の人たちで仕事を続けているところ。
反対に、誰が仕事をするのか分からなくなったところ。
会議棟の大きな机へ帝国の地図を広げると、お父さまが腕を組んだ。
「これを、エルレンフェルトでどうにかする話ではないな」
「うん。小さいし」
「そういう意味でもあるが、それ以前に、よその国だ」
そうだった。
帝国がぐずぐずになったからといって、エルレンフェルトのお父さまが地図へ線を引いて、
ここはオランダ。
ここはフランス。
ここはイングランド。
と決めていいわけがない。
オイゲンさんも地図を見ていた。
「それに、私が知っている状況も古い」
「どのくらい?」
「私が帝国を離れたところまでだ。それから先は、届いた話を聞いているだけになる」
「でも、どこに軍がいたかは分かる?」
「当時ならな。どの街道を補給に使っていたか、どの要塞に何があったか、どの指揮官がどこを見ていたか。その程度なら話せる」
「今もそこにいるとは限らない」
「そういうことだ」
オイゲンさんは、そこで少し地図から離れた。
「むしろ今は、『いるはずだ』と思って行く方が危ない。部隊がなくなっているかもしれんし、別の部隊が入っているかもしれん」
「じゃあ、見に行かないとね」
「それはそうだが、全部を飛んで見るのは無理だぞ」
「全部は見ないよ」
お父さまが笑った。
「その前に、相談する相手を集めた方がよさそうだな。周辺国だって、武装した兵が何千人も国境へ流れてきたら困る。自分たちの問題でもある」
「四か国?」
「条約を結んだ四か国なら、少なくとも話は通じる。軍人だけでは足りないだろう。兵站、行政、国境、財務、それぞれ実際に仕事をしている人を出してもらった方がいい」
「エルレンフェルトで会議?」
「会議棟はそのためにあるんだから、使えばいいだろう。ただ、こちらから『来てください』と頼むところまでだ。誰がどこへ兵を出すかは、来た人たちで決めてもらうことになる」
「それがいいね」
やっと、最初にやることが決まった。
*
フランス。
イングランド。
ネーデルラント連邦共和国。
サヴォイア。
四か国へは電信が通じている。
だから、話は早かった。
帝国軍の指揮と給養が崩れつつあり、武装したまま帰郷できない兵が増えていること。
周辺国へ武装した人の集団が流れ出す可能性があること。
エルレンフェルトで軍・兵站・行政・国境管理・財務の実務者会議を開きたいこと。
こちらには、帝国を離れるまで帝国軍中枢にいたプリンツ・オイゲンさんがいること。
ただし、オイゲンさんの情報は離脱時点までであり、現在については推測になること。
そこまで書いた。
「最後の一文、いる?」
お父さまに見せる。
「いるだろう。オイゲン殿がいる、とだけ書けば、今の帝国軍を全部知っているように読める」
「だよね」
送った。
返事は次々に来た。
参加。
参加。
参加。
参加。
「全員来るね」
「困っているのは向こうも同じだからな」
代表者の人数も知らせてもらった。
将軍を何人も集める会議ではない。
実際に部隊を動かす人。
食料を運ぶ人。
金を払う人。
国境で人を扱う人。
町の行政を知っている人。
そういう人を中心にしてもらった。
迎えにはチェブラーシカを出すことにした。
ホテルへ泊まってもらえばいい。
会議棟へは、ホテルから斜行エレベーターで上がれる。
ここまでは簡単だった。
問題は、帝国側だった。
「電信、ないんだよね」
「ない」
「やっぱり」
ただ、本当にない。
レーゲンスブルクに帝国議会があっても、そこへ電鍵を叩けば届く線は一本もなかった。
*
「帝国側から誰も来ない会議で、帝国領へ兵を入れる相談するのはだめだよね」
「だめだろうな」
「じゃあ、ランベルクさん」
ヨハン・フィリップ・フォン・ランベルク枢機卿。
レーゲンスブルクの帝国議会で、皇帝側の代表をしている人。
この人なら、帝国全部を一人で好きにできるわけではない。
でも、少なくとも、
誰が何を決める権限を持っているのか。
帝国議会に誰が残っているのか。
どの書面なら帝国側の正式なものとして扱えるのか。
そこを相談できる。
「行ってくる」
「私も行こう」
お父さまが言った。
「ぱぱも?」
「帝国側へ何を頼むかは政治の話になる。お前一人に説明させるより、私もいた方がいいだろう」
「オイゲンさんは?」
「行く」
オイゲンさんが先に答えた。
「レーゲンスブルクの周りなら、私がいた頃の軍の動きと比べられる。もっとも、違っていても驚かないでくれ」
「違ってるところを見るんだから、それでいいよ」
フランソワさんは、もう赤い布のついた通信筒を用意していた。
*
通信筒の文面は、いつもより長くなった。
エルレンフェルトで四か国の軍・行政実務者会議を開くこと。
帝国軍の崩壊と武装兵の流出について相談したいこと。
ランベルク枢機卿に、帝国側の事情を説明する立場として参加していただきたいこと。
一時間後にもう一度戻ってくること。
そのとき話ができるなら、郊外の草地から武装した人を離し、白い布を三枚並べてもらいたいこと。
それから、もう一つ。
「これ、絶対いるよね」
書き足した。
ランベルク枢機卿がエルレンフェルトへ行っている間も、帝国議会にいる各地の使節には、できるだけレーゲンスブルクを離れずに待っていただきたい。
枢機卿は会議後、こちらからレーゲンスブルクへお送りする。
「どうしてそこまで?」
オイゲンさんが聞いた。
「ランベルクさんだけ連れてきて、戻したら議会の人がみんな国へ帰ってたら困るもの」
「ああ」
「帝国側から治安維持をお願いする書面を作ることになるかもしれないでしょ。そのとき、相談する人がいなくなってたら作れない」
お父さまが頷いた。
「それも最初に伝えておいた方がいいな。数日待ってもらうだけなら、理由も説明できる」
通信筒へ入れた。
*
ミツバチちゃんでレーゲンスブルクへ向かった。
わたし。
フランソワさん。
お父さま。
オイゲンさん。
町へ近づいても、低く降りない。
帝国議会があるから安全。
そんな保証はない。
少し離れたところから町と道路を見た。
「人はいるね」
「いるな」
オイゲンさんが窓の外を見ている。
「ただ、あの道は以前ならもっと軍の荷車が多かった。今見えているのは民間の車が多そうだ」
「いなくなった?」
「そこまでは言えん。別の道へ移ったのかもしれんし、時間が違うだけかもしれん」
こういう答えになった。
それでいい。
適当なところへ通信筒を落とした。
赤い布が開く。
「一時間」
「時計を見ておきます」
フランソワさんが言った。
ミツバチちゃんは、そのまま町から離れた。
*
一時間、空で待つ必要はなかった。
「どこ見る?」
わたしが聞くと、オイゲンさんが少し考えてから地図を開いた。
「大きく回るなら、北東側の街道と、南へ下る道を見たい。私がいた頃なら軍の移動が多かったところだ」
「じゃあ、そこ」
お父さまは別のところを見ていた。
「私は町の外の市場と荷車の方が気になる。軍が動けないだけなら軍の問題だが、食料が町へ入らなくなっているなら住民の問題になる」
「両方見よう」
道に沿って飛んだ。
最初の街道には、馬車がいくつもいた。
軍の行列ではない。
家財を積んだ車。
家族連れ。
歩いている人。
「避難してる?」
「そう見えるが、どこからどこへ行く人かまでは上からでは分からん」
オイゲンさんは断定しない。
少し先。
空いた野営地。
焚き火の跡。
踏み荒らされた草。
「ここ、使ってたね」
「使った跡はある。いつ出たかは分からん」
さらに先。
橋の近くに、まとまった兵らしい集団。
でも整然と行軍している様子ではない。
馬はいる。
荷車もある。
道の端へ人が広がっている。
「止まってる?」
「補給を待っているのかもしれん。命令を待っているのかもしれん。休んでいるだけかもしれん」
「分からないこと多いね」
「今の帝国で、空から一度見ただけで分かった気になる方が危ない」
「はい」
お父さまは町の方を見ていた。
「あの市場は開いているな」
「人いるね」
「反対に、こっちの町は門の外に荷車が溜まっている。中へ入れない理由があるのかもしれない」
兵士の数だけ数えても、状況は分からない。
一時間は、すぐに過ぎた。
*
レーゲンスブルクへ戻った。
白い布が三枚。
間をあけて並んでいる。
「出てる」
「では、地面を確認しましょう」
フランソワさんが窓から見た。
一度上を通る。
人。
馬。
溝。
石。
風。
問題なし。
ミツバチちゃんを降ろした。
*
ランベルク枢機卿は、思っていたより落ち着いた人だった。
飛行機を見ても、最初に聞いたのは飛び方ではない。
「四か国が、帝国内へ軍を入れる相談をするのですか」
「はい。でも、わたしたちが勝手に範囲を決めるつもりはないです」
わたしが答えた。
「周りの国も、武装した兵隊がそのまま国境へ来たら困るので、どうしたらいいか一緒に相談したいんです。それで、帝国側の人がいないともっと困るから、ランベルクさんに来てほしいです」
「私が帝国全体を代表して決定できるわけではありませんよ」
「それも分かってます」
「本当に?」
「だから、議会の人に帰らないで待っててくださいって書きました」
ランベルクさんは、そこで通信筒の紙をもう一度見た。
「なるほど。私が戻るまで、という意味でしたか」
「はい。ずっと残ってくださいじゃないです」
「それなら、頼めるでしょう。この状況で使節が一斉に帰国してしまえば、帝国議会そのものが仕事をできなくなります」
「それが困るんです」
「分かりました。私が出る前に伝えます」
話が一つ進んだ。
*
その場で、さっき上から見たものも話した。
オイゲンさんは地図へ指を置いた。
「ここに部隊らしい集団が見えました。ただし、何者かは確認できていません。私が帝国にいた頃なら、この街道を使う部隊はいくつか考えられますが、今それを当てはめるのは危険です」
「十分です」
ランベルクさんは別の道を指した。
「こちらは見ましたか」
「まだです」
「昨日届いた報告では、この先の二つの町で守備兵への給金が止まっているそうです。しかし報告自体が数日前のものです」
「見てきます?」
「お願いできますか」
「はい」
こうして、偵察する場所が増えた。
ランベルクさんが出発の準備をして、議会の使節へ待機をお願いしている間に、こちらはもう一度飛んだ。
今度は頼まれた二つの町。
片方は普通に見えた。
門も開いている。
市場にも人がいる。
もう片方は違った。
城壁の外に人が多い。
馬車が止まっている。
兵らしい人もいる。
煙が上がっているけれど、火事なのか炊事なのかは分からない。
「ここは、地上へ降りて確認しないと分からないね」
「そうだな。だが、『普通ではない』ことだけは言える」
お父さまが答えた。
それで十分だった。
*
ランベルクさんは、書記役を二人連れてきた。
帝国議会の人たちへは、
数日の間、離任を待ってほしい。
自分はエルレンフェルトで緊急会議へ参加し、必ず戻る。
と伝えたという。
「みんな残ってくれる?」
「全員を拘束する権限はありません。ただ、今帰れば何を決める場所もなくなる、とは説明しました。少なくとも、すぐに荷物をまとめて出ていく人はいないでしょう」
「よかった」
ミツバチちゃんへ乗ってもらった。
ランベルクさんは座席へ座ってから、窓の外を見た。
「帝国議会へ出席するために、空を飛ぶことになるとは思いませんでした」
「会議はエルレンフェルトですけどね」
「なおさらです」
離陸した。
*
四か国の代表団は、チェブラーシカで順番に迎えた。
フランス。
イングランド。
ネーデルラント。
サヴォイア。
王様や女王様を呼ぶ会議ではない。
制服の人もいる。
制服でない人もいる。
兵站の担当者。
国境管理の担当者。
軍の会計。
地方行政を知る人。
港と河川輸送の人。
銀行側の実務者も来た。
ホテルは、また急に忙しくなった。
でも、王家の避難とは違う。
大きな荷物は少ない。
会議に使う書類と地図の方が多かった。
*
会議棟の大きな机へ、何枚もの地図を重ねた。
一番古いのは、オイゲンさんが帝国を離れる少し前の軍の配置。
その上へ、使者が持ってきた報告。
商人の話。
銀行へ届いた情報。
外国側が国境で確認したこと。
わたしたちが飛んで見たこと。
日付も全部書いた。
「最初に、一つだけ」
オイゲンさんが立った。
「私が説明できるのは、帝国を離れるまでに知っていた軍の状態です。その後については、当時の配置や補給線から推測はできますが、現在の事実として扱わないでいただきたい」
みんな頷いた。
オイゲンさんは続けた。
「当時ここにいた部隊なら、この道を使う可能性が高い。ここは要塞の備蓄が比較的多かった。ただし、それが現在も残っている保証はありません。逆に、この方面は給養が切れれば短期間で動けなくなるはずでした」
それから、わたしたちが見た場所を重ねる。
「ここ、野営地は空いてました」
「ここは兵らしい人がいました。でもどこの兵か分かりません」
「この町は門の外に荷車がたくさんいました」
分かることと、分からないことを分けた。
それだけで地図はかなり変わった。
*
話はすぐに、
誰がどこまでなら実際に見られるか。
になった。
ネーデルラント側は、南ネーデルラントとルクセンブルク方面なら、自分たちの既存の兵站と商業路を使いやすいと言った。
「港、河川、主要街道をつないで見ます。農村を一軒ずつ軍政下に置くつもりはありません」
フランス側は、上ライン方面からスイス北側を東へ見て、ボーデン湖周辺、リヒテンシュタインを経てオーストリア側とつながるところまでなら、補給を組めると言った。
「そこから先へ際限なく東へ行くつもりはありません。どこで接続するかは、現地の状況を見ながら詰めたい」
イングランド側は海だった。
「北海側の港と河口から始めます。北部沿岸を東へ見て、バルト海側も船から補給できる範囲を使います。ポーランド側へ届くまでの帝国領は検討できます。ただし、プロイセン王国の領地を帝国領の続きとして扱うことはしません」
サヴォイア側は、地図に巨大な帯を要求しなかった。
「我々は北海や低地地方のような大きな連続区域を持つ必要はありません。アルプス側の通路、南部の連絡、負傷者や避難民の受け入れ、必要な場所への増援と輸送を引き受ける方が現実的でしょう」
その方が自然だった。
四か国だから、四等分しなければならないわけではない。
*
しばらく聞いていて、気になった。
「ちょっといいですか」
みんながこちらを見る。
「このまま決めたら、外国の軍隊が帝国領へ入るんですよね」
「そうなります」
フランス側の人が答えた。
「じゃあ、紙がいります」
「紙?」
「あとで『帝国が弱ってる間に勝手に入ってきた』って言われたら困るでしょ。帝国側から、治安維持を頼みました、って書面を作りましょう」
少し静かになった。
ランベルクさんが先に頷いた。
「その通りでしょう。ただし、私一人の署名で帝国の全身分を拘束する文書にはできません」
「だから、レーゲンスブルクの人たちに待っててもらったんです」
「ああ」
「ランベルクさんが皇帝側の立場で出して、帝国議会に残っている人にも見てもらう。賛成する人には連署してもらう。実際に軍が入る領邦や自由都市でも、できるところは受け入れる書面を作ってもらう。それでどうですか」
ランベルクさんは少し考えた。
「現実的です。それなら、少なくとも『四か国が自分たちだけで作った占領文書』にはなりません」
「それと、領地をあげる紙じゃないって書いてください」
「もちろんです」
「税金とか裁判とかも、軍が全部勝手に変えない」
「そこも必要でしょう」
書記の人たちが、もう書き始めていた。
*
文書は、その日のうちには終わらなかった。
治安維持の支援を要請する。
住民、街道、港、市場、倉庫、橋などを保護する。
四か国軍の進入は、領土・主権・帝国身分・都市特権などの移転を意味しない。
現地行政が機能している場所では、可能な限りそれを使う。
兵糧や飼料は原則として代金を払って調達する。
武装した旧帝国兵については、まず食料と安全を確保し、その後に武装解除、本人確認、帰郷、再就職などを扱う。
旧部隊を指揮官ごと外国軍へ買い取ることを前提にしない。
必要のない占領を長引かせない。
「これなら?」
わたしが読んだ。
「だいぶいい」
お父さまも読んでいる。
「これをこちらだけで完成させず、一度レーゲンスブルクへ戻した方がよさそうだな。向こうの使節が読んで、直したいところもあるだろう」
「そうする」
ランベルクさんも頷いた。
「私もそのつもりです。帝国議会を残してきた意味がなくなりますから」
*
翌日、ランベルクさんをレーゲンスブルクへ送った。
わたしも一緒に行った。
白い布は、もう約束どおり出ていた。
降りる。
ランベルクさんが持ってきた文書を、残っていた使節たちへ見せる。
全員が同じ意見ではない。
当然だった。
「フランス兵を入れるのは嫌だ」
という人もいる。
「オランダならよいが、ここまでは来てほしくない」
という人もいる。
「そもそも自分の領邦はまだ治安を維持できている」
という人もいる。
それでいい。
全部を一枚の命令で塗りつぶす話ではない。
それでも、
武装した兵が流れ出すこと。
補給の切れた部隊が村から食料を取り始めること。
周辺国が何の取り決めもなく国境を閉じたり、逆に勝手に軍を入れたりすること。
その方がもっと困るというところでは、かなり一致した。
文書は直された。
条件が増えた。
適用する地域ごとに、現地側の同意を取れる場合は取る。
現地に機能する行政があるなら、その行政を飛ばして軍政を敷かない。
帝国議会側の要請は、緊急の治安維持と住民保護のためのものとする。
領有権の根拠には使えない。
ランベルクさんが署名した。
帝国議会に残っている使節のうち、賛同する人たちも連署した。
反対や留保も記録に残した。
全員賛成、と嘘を書く必要はない。
紙はできた。
*
その紙をエルレンフェルトへ持ち帰った。
「これで、少なくとも『誰にも頼まれていないのに来た外国軍』ではなくなります」
ランベルクさんが言った。
「うん。大事」
四か国の人たちも、署名のある紙を何度も確認した。
ここから先は、エルレンフェルトのお父さまが決める話ではない。
四か国側が、自分たちの兵站、国境、港、道路、手持ちの部隊を見て協議した。
ネーデルラントは西側。
フランスは南側。
イングランドは北側。
サヴォイアはアルプス側の連絡と支援、それから必要な場所への増援。
中央部は、町や領邦で自分たちの治安を維持できるところまで外国軍を置かない。
必要なところだけ、現地と話して入る。
地図の色は国境ではない。
誰が責任を持って状況を見るかの色だった。
*
治安維持部隊が入り始めると、最初に起きたのは大きな戦いではなかった。
ごはんだった。
給金が止まっている。
命令もない。
帰る金もない。
でも銃は持っている。
そんな兵隊へ、
「武器を置け」
だけ言っても、あまりうまくいかない。
まずパン。
温かい汁。
馬には飼葉。
それから名前を書く。
どこの部隊。
どこの出身。
家へ帰りたいか。
怪我はあるか。
仕事は何ができるか。
武器を預ける。
帰郷費を受け取る。
あるいは、町の警備や普通の仕事へ応募する。
部隊のまま外国軍へ入るのではない。
一人ずつ戻す。
「軍隊を解散するのも、兵站なんだね」
わたしが言うと、オイゲンさんが頷いた。
「戦争が終わったから、兵がその場で消えるわけではないからな。むしろ帰すところまで考えないと、最後にもう一度戦争を作ることになる」
それは、かなり嫌だった。
*
しばらくすると、西側の街道が少し落ち着いた。
北の港にも船が戻った。
南側では、兵隊を見ると戸を閉めていた村が、現金で払うと分かってからパンを売るようになった。
もちろん、全部ではない。
まだ騒乱はある。
徴税人を追い返す村もある。
領主が逃げるところもある。
でも、武装した人が何千人もまとまって国境を越えてくる一番嫌な形は、少しずつ減った。
そこで、次の問題が出てきた。
「帝国、どうするんです?」
ランベルクさんが言った。
エルレンフェルトの会議ではなく、レーゲンスブルクへ戻ってから届いた手紙だった。
*
帝国を元に戻す。
それは、だんだん現実的ではなくなっていた。
皇帝の家はもう大陸の真ん中にいない。
多くの領邦で税の仕組みが壊れている。
帝国の信用はほとんどない。
昔の軍事費の請求だけは村へ下りてくる。
通貨も信用されない。
商人は銀貨か、信用できる相手の手形しか受けたがらない。
それでも町はある。
村もある。
商人も職人も農民もいる。
行政の仕事を続けている人もいる。
「王様をもう一人選んで、上に置けば元どおり、って感じじゃないね」
「その方法を望む人もいるでしょう」
ランベルクさんは言った。
「ですが、私はもう一度同じ仕組みを作ることには賛成できません」
「共和国?」
「その方向を考えています」
枢機卿が共和国と言った。
でも、別におかしくはなかった。
教会の人だから、王様でなければならないという決まりはない。
*
「だったら、最初に代表を選ぶしかないですね」
「選挙ですか」
「はい。でも、今すぐ全員が一票ずつ、は無理だと思います」
名簿がない。
住民登録もばらばら。
読み書きのできない人も多い。
女の人をどうするか。
奉公人をどうするか。
兵役中の人をどうするか。
村と都市で同じにできるのか。
一気に全部を完成させようとしたら、選挙そのものが始まらない。
「最初は今ある町や村の名簿、納税の記録、職人組合、地域の代表の仕組みを使って、できるところからやるしかないと思います。でも、それが完成形だとは書かないでください」
「次の議会で、選挙権そのものも改める」
「うん。それがいいです」
不完全でも、世襲だけで決めるよりは先へ進める。
*
政党も作ることになった。
ただし、政党は一つだけではない。
王制を残したい人が組織を作ってもいい。
自由都市を強くしたい人たちでもいい。
農民の税を軽くしたい人たちでもいい。
教会を重く見る人たちでもいい。
反対するだけの人たちでもいい。
だめなのは、
私兵を持つ。
投票所を武器で囲む。
相手の候補を殴る。
暗殺する。
武装蜂起を準備する。
そういうところ。
「言っている内容ではなく、やることの方で止めるんですね」
「その方がいいと思います」
ランベルクさんは、かなり気に入ったらしい。
*
その中で一番早く全国へ広がった組織があった。
Christlich-Demokratische Union Deutschlands。
キリスト教民主同盟。
長い。
「CDUでいい?」
「略すのですか」
「長いから」
ランベルクさんたちは、カトリックだけの党にはしなかった。
ルター派でも。
改革派でも。
共和国の議会政治を受け入れ、宗派の違いだけで国を割らない人なら一緒にする。
教会。
町。
商人。
法律家。
旧帝国の行政官。
地方の名望家。
そういう人たちのつながりを使ったので、組織が広がるのは早かった。
そして、公約が強かった。
*
「これ、本当にやるんですか」
銀行側の人が聞いた。
CDUの公約には、こうあった。
千七百三年以前の軍事費について、皇帝または帝国側が立て替えた費用を、旧来の税制度によって新共和国の住民や村落へ一律に転嫁する義務を廃止する。
「やります」
ランベルクさんが答えた。
「ただし、借金を全部なかったことにする、ではありません」
そこは重要だった。
ハプスブルク家が自分の資産を担保に借りた金。
特定の領邦が借りた金。
特定の税収を担保にした契約。
個人が保証した債務。
それまで全部、
共和国になったので消えました。
では、銀行の方が死ぬ。
そうではない。
元の債務者と担保に対する請求は残る。
新しい共和国が公債務として引き受けるものは、新しい議会が確認して決める。
でも、
皇帝が戦争で立て替えた。
だから帝国の村々へ割り振る。
払え。
という仕組みは引き継がない。
「村の人から見たら、かなり大きいよね」
「大きいどころではありません」
銀行の人が言った。
「地域によっては、今後何年も払うと思っていた額が消えます」
「お金配ってないけど、選挙ではすごく強いね」
「ええ」
ランベルクさんも否定しなかった。
「しかし、私はそれでよいと思っています。残すべきでない制度を廃止すると公約して票を得るのなら、それは選挙でしょう」
その通りだった。
*
第一回の選挙では、代表を選ぶだけにしなかった。
大きなことを二つ、同時に投票へかけた。
一つ。
王制、つまり世襲君主による国家統治を廃止するか。
二つ。
貴族制、つまり生まれによって政治、税、司法などに特別な地位を持つ制度を廃止するか。
姓まで消す話ではない。
家まで取り上げる話でもない。
昔公爵だった人を、知り合いが公爵さんと呼ぶことまで禁止する話でもない。
法律上、別の身分として扱わない。
世襲で議席を持たない。
貴族だから税を免れない。
自分の領民を自分の裁判だけで扱わない。
そこを終わらせる。
「一度にやるね」
わたしが言うと、ランベルクさんは少し笑った。
「一度壊れた国を、半分だけ元へ戻す方が難しいのですよ」
そういうものらしい。
*
普通選挙ではなかった。
そこは、仕方がなかった。
投票できる人の範囲は地域によって少し違う。
都市では住民名簿と納税者名簿、職人組合などを使う。
農村では家や土地の記録と村の代表制度を使う。
あまり公平とは言えない。
わたしなら直したいところはいっぱいあった。
でも、
選挙をやらない理由にするより、最初の議会を作って、次に直す。
そう決めた。
*
結果は、かなりはっきりしていた。
CDUが勝った。
王制の廃止も通った。
貴族制の廃止も通った。
昔の軍事費を村へ押しつけない、という公約がどれだけ効いたのか。
正確には分からない。
でも、かなり効いたと思う。
「払わなくてよくなるんだろう?」
選挙のあと、そう聞く人は多かった。
「昔の戦争代を、いまの村へ割り当てる仕組みはなくなります」
CDUの人たちは何度も説明していた。
難しい憲法の話より、そこはすぐ伝わった。
*
新しい国の名前を決める会議で、また長い紙が回ってきた。
Deutsche Demokratische Republik。
ドイツ民主共和国。
「これ?」
「分かりやすいでしょう」
ランベルクさんが言った。
「ドイツの共和国で、選挙による民主的な国家を目指す。それ以上に凝った名前を付ける必要もないと思います」
「略したらDDRだね」
「また略すのですか」
「長いもの」
名前は決まった。
DDR。
昔の帝国の地図を、そのまま全部DDRの色へ塗ったわけではない。
参加を決めていない地域もある。
自分たちだけでやりたい自由都市もある。
しばらく様子を見る領邦もある。
でも、参加するところは思ったより多かった。
理由は、難しくない。
帝国の通貨は信用されない。
帝国名義の借金は、誰が払うか分からない。
古い税の請求だけは来る。
街道の安全も分からない。
そこから、
新しい税制度。
新しい議会。
治安維持の仕組み。
共同銀行とも話ができる新政府。
古い軍事費を住民へ押しつけないルール。
そこへ入れるなら、入りたい地域は多かった。
「国って、領土が欲しいから大きくなるだけじゃないんだね」
わたしが言うと、お父さまは地図を見たまま答えた。
「今は、信用のある帳簿と税の方へ人が寄ってきているんだろうな。軍隊で押さえるより、ずっと安い」
「ぱぱ、言い方が銀行の人みたい」
「この何か月かで、嫌でも覚えた」
それはそうだった。
*
DDRが広がるのと一緒に、電信線も伸びた。
帝国にはなかった。
だから、最初から作る。
レーゲンスブルク。
主要都市。
大きな市場。
行政の中心。
国境の受付。
銀行。
それから、四か国側の既存線へつながるところ。
電柱を立てる。
碍子を付ける。
線を張る。
中継所を作る。
小水力が使えるところでは、電源も整える。
エルレンフェルト側で作ってきた電鍵やリレーも使う。
「党の線にしないでね」
わたしは言った。
「もちろんです」
CDUの人が答えた。
「政府と党は別にします。ほかの政党も、定めた料金と規則で使えるようにします」
「それがいい」
自分たちが選挙で勝ったからといって、通信まで自分のものにしたら、次の選挙が変になる。
*
最初の電信がレーゲンスブルクから届いた日。
会議棟のサウンダーが音を立てた。
かち。
かちかち。
かち。
何日も馬で運ばれていた報告が、その日のうちに来る。
市場が開いた。
橋が通れる。
武装解除した兵が何人帰った。
選挙の集計が終わった。
新しく共和国への参加を決めた町がある。
前なら、全部違う日付の紙になって届いていた。
「国らしくなってきたね」
わたしが言うと、お父さまは少し考えた。
「まだ始まったばかりだろう。ただ、昨日の出来事を今日知ることができるなら、帝国の頃よりは仕事をしやすいだろうな」
「うん」
王様たちを島へ逃がしたあと。
空っぽになったところへ、別の王様を置くことはしなかった。
通信筒を落として。
人を集めて。
外国軍が勝手に入ったことにならないよう紙を作って。
選挙をして。
電線を張った。
神聖ローマ帝国のあとにできたものは、最初から立派な国ではなかった。
でも、少なくとも、誰が払うのか分からない戦争代だけが村へ届く国ではなくなり始めていた。
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第67章の小さな説明
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【レーゲンスブルクの帝国議会】
レーゲンスブルクでは1663年から常設の帝国議会が続いています。皇帝本人が常駐するのではなく、皇帝側と帝国諸侯・自由都市などの使節が集まり、帝国の案件を扱います。
本章では、帝国の政治と軍の連絡が崩れ始めても、この議会そのものはまだ残っているため、外国軍による治安維持を「帝国が消えた後の空白地への進駐」とは扱っていません。
【ヨハン・フィリップ・フォン・ランベルク】
ランベルク枢機卿は史実の人物です。パッサウ司教であり、1701年からレーゲンスブルクの帝国議会で皇帝を代表するプリンツィパルコミッサールを務めています。
ただし、皇帝の代理だからといって、彼一人で全帝国諸侯・自由都市を拘束できるわけではありません。そのため本章では、ランベルクさんだけの署名で外国軍の進入を決めず、レーゲンスブルクに残る帝国議会使節にも文書を示し、賛同する使節の連署と、可能な地域では現地側の受入確認を重ねています。
【議会の使節に帰国を待ってもらう理由】
帝国の崩壊が進む中で、使節が三々五々それぞれの領邦へ帰ってしまうと、ランベルクさんがエルレンフェルトから戻った時点で帝国議会そのものが実務を行えなくなる可能性があります。
どろちゃんは最初の通信筒で、ランベルクさんを必ずレーゲンスブルクへ送り返すことと、それまで数日だけ離任を待ってほしいことを伝えています。帝国議会を永久に延命するためではなく、治安維持要請の文書を帝国側で検討できる窓口を残すためです。
【オイゲンさんの情報】
プリンツ・オイゲンさんは帝国軍中枢にいた経験がありますが、本章の時点ではすでに帝国を離れています。したがって、確実に説明できるのは離脱時点までの配置、補給線、指揮官、要塞備蓄などです。
その後の部隊位置については推測にすぎません。本章では、商人、使者、銀行、周辺国から届く新しい報告と、どろちゃんたちの偵察飛行で実際に見た状況を重ね、古い軍事情報と現在の断片情報を区別して扱っています。
【四か国の治安維持部隊】
四か国は、フランス、イングランド、ネーデルラント連邦共和国、サヴォイアです。四か国間とエルレンフェルトにはすでに電信がありますが、帝国内にはまだ電信網がありません。
治安維持区域はエルレンフェルト公爵が割り振ったものではありません。各国の軍・兵站・行政・国境管理の実務者が、自国の補給線、港、道路、既存部隊などを持ち寄って協議し、「どこまでなら現実に責任を持って治安を見られるか」を調整した結果です。
地図に塗る色も新しい国境ではなく、暫定的な治安維持の担当範囲です。
【帝国側からの治安維持要請書】
外国軍が帝国領へ入る以上、「帝国が弱った隙に勝手に占領した」とならないための書面が必要です。ここに最初に気づいて提案するのは、主人公のどろちゃんです。
文書では、住民保護、街道・港・市場などの安全確保を目的とし、外国軍の進入が領土・主権・帝国身分・都市特権などの移転を意味しないことを明記します。現地行政が機能している場合はそれを残し、可能なら各領邦や自由都市からも受入確認を取ります。
【武装した兵を帰す費用】
帝国軍が解散しても、兵士、馬、銃、砲がその場から消えるわけではありません。給金も食料も帰郷費もない兵を武装したまま放置すると、村から食料を取ったり、まとまって周辺国へ流出したりする危険があります。
本章の治安維持では、まず食事と飼料を与え、その後に本人確認、武装解除、帰郷費、再就職などを扱います。旧部隊を指揮官ごと外国軍へ編入することは基本にしていません。
【Christlich-Demokratische Union Deutschlands】
本章のChristlich-Demokratische Union Deutschlands(CDU)は、この物語世界で1703年に成立する架空の政治組織です。史実の同名政党とは成立時期も経緯も異なります。
カトリックだけの政党にはせず、ルター派や改革派を含め、議会政治と共和国制を受け入れるキリスト教系の政治勢力として全国組織を作っていきます。他の政治組織も、私兵、暴力、暗殺、投票妨害などに進まない限り活動できます。
【昔の戦争代を誰が払うのか】
CDUの強い公約は、1703年以前の軍事費について、皇帝や帝国側が立て替えた額を旧来の仕組みで村や住民へ機械的に割り振る制度を廃止することです。
これは、すべての借金を消すという意味ではありません。ハプスブルク家の担保付き債務、特定領邦の借入、特定税収を担保にした契約、個人保証などは、それぞれ元の契約関係に従って処理します。新共和国が公債務として引き受けるものは、新しい議会が確認して決めます。
【第一回選挙】
第一回選挙は、現代的な普通選挙ではありません。地域ごとの住民記録、納税記録、職人組合、村落の代表制度など、当時利用できる仕組みを使って代表を選びます。
同時に、世襲君主による統治を廃止するか、貴族身分に伴う政治・租税・司法上の特権を廃止するかも投票にかけます。爵位を私的な呼称として使うことや、旧貴族の私有財産を一律に没収することとは分けて扱います。
【ドイツ民主共和国 DDR】
Deutsche Demokratische Republik、ドイツ民主共和国(DDR)も、この物語世界で1703年に成立する架空国家です。後世の同名国家とは成立経緯も政治制度も別物です。
旧帝国領をそのまま一括して新国家へ塗り替えるのではなく、参加を決めた領邦、都市、地域から加わります。帝国通貨と国家信用が大きく崩れ、旧軍事費の負担だけが残る状況に対して、新しい税制度、議会、治安、共同銀行との決済関係を持つ国家へ参加する利点が大きいため、かなり広い範囲が参加する設定です。
【電信網】
旧帝国内には電信網がないため、DDR成立後は政治組織の拡大と並行して電信線を敷きます。主要都市、行政拠点、市場、国境、銀行を結び、四か国側の既存網とも接続します。
電信はCDUの党有設備にはせず、政府の公共通信網として他政党や民間も規則と料金の下で利用できるようにします。馬と使者に頼っていた旧帝国に対し、同じ日の情報を中央と地方で共有できること自体が、新共和国を一つの国家として動かす重要な基盤になります。




