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66王様たちは島へ逃げます。 神聖ローマ帝国の崩壊と帝国内王公の避難サポート

第66章 王様たちは島へ逃げます


 神聖ローマ帝国には、もう戦争を始めるだけのお金がなかった。


 兵士がいないわけではない。大砲も、馬も、将校もいる。

 紙の上に部隊を書き並べれば、まだ相当な数になった。


 けれど、軍隊は紙の上では歩かない。


 兵を集めればパンが要る。馬を集めれば飼葉が要る。荷車を雇い、蹄鉄を打ち、橋を直し、宿を取り、水を運び、負傷者を置く場所もつくらなければならない。

 その一つ一つに、すぐ使えるお金が要った。


 帝国の証文を見せて、あとで払うと言っても、商人たちは首を横に振るようになっていた。


 四か国共同銀行への返済は遅れたまま。

 帝国を構成する国々は、誰がいくら負担するかで揉め続けた。

 小さな国や領主には期限前の返済まで求められ始め、帝国に属しているというだけで信用を落とす者まで出た。


 税を集めようとすれば、今度は別の問題が起きた。


 皇帝から十を求められた領主が、自分の借金を返すために十二を下へ流す。

 その下の領主が十四にして村へ回す。

 古い特権を持つ家は、自分の分を払わず、そのまま下へ押しつける。


 払えるはずのない額を求められた村では、徴税人が追い返された。

 倉を開けて、取り上げられた穀物を奪い返すところも出た。

 それだけでは終わらなかった。


 領主を追い出し、代官所を占め、自分たちで役人を決める村まで出始めた。


 隣村と相談し、さらにその隣とも話をつける。


 一つなら潰される。

 七つ、八つ、十とまとまれば話は違った。


 上から見れば反乱だった。

 下から見れば、生き残るための相談だった。


 皇帝は鎮圧軍を出そうとした。

 ところが、その鎮圧軍を食べさせる金がない。


 徴発すればよい、と言う者もいた。


 そして実際に徴発したところでは、それまで静かだった村まで反乱側へ回った。


 畑を耕すための馬を取られ、来年の種籾まで持っていかれれば、皇帝に忠誠を誓っていた農民でも黙ってはいられない。


 国外へ目を向けても、状況は良くならなかった。


 ロシアにも、スウェーデンにも使者が送られた。

 融資を求めるためだった。


 しかし帝国の信用状態は、使者が説明するより先に伝わっていた。

 アムステルダム、ロンドン、パリにいる大使や商人たちから、帝国の返済遅延も、担保の話も、各地の暴動も流れている。


 貸してほしいと言われた側は、帝国の帳簿だけを信じる必要がなかった。


 結果は、どこも似たようなものだった。


 貸さない。


 さらに悪いことに、帝国がまともな迎撃軍を動かせないことまで知られた。


 金を貸してくれなかった国が、今度は国境の向こうから兵を動かし始めた。


 皇帝は四か国と戦うどころではなかった。

 国内の暴動を抑える軍さえ維持できず、そのうえ外から来る軍にも備えなければならない。


 宮廷の中でも、話が変わった。


 帝国をどう立て直すか、ではない。


 今夜、この宮殿にいて大丈夫なのか。


 その話になった。



          *



「近衛まで、ですか」


 報告を読んでいたお父さまが、同じ行をもう一度見た。


「全部ではない。ただ、給与の遅れだけでは済まなくなっている。家族がいる者ほど動揺しているそうだ。自分の家のある町で暴動が起きているのに、宮殿を守っている兵もいる」


「それは、帰りたいよね」


 わたしが言うと、お父さまは書類を机へ置いた。


「帰りたいだけならまだよい。問題は、命令が出たときに誰へ銃を向けるかだ。自分の村を鎮圧しろと言われる兵も出る」


「もう、皇帝さんを宮殿に置いておく方が危ないね」


「私もそう思う」


 お父さまは、そこで少しだけ黙った。


 帝国を助ける相談ではなかった。


 皇帝を助ける相談だった。


「ルイ陛下からの返事は来てる?」


「来ている。スペイン側とも話はついた。カナリア諸島については、以前に相談した形で進められる」


 机の上には、七つの島が描かれた地図があった。


 一つはスペインがそのまま持つ。

 港や連絡、行政の中心になる島だ。


 残り六つ。


 そこを、国を失う王家や大きな王侯家のための小さな国にする。


 大きな宮廷を移すわけではない。

 そんなことをしたら、小さな島では人を食べさせるだけで大変になる。


「皇帝さんなら、本人と奥さんと子どもたち。それに、本当に身の回りのお世話が必要な人を数人かな」


「侍従長も、将軍も、官僚も連れていかないのか」


「連れていったら、帝国を島に持っていくことになるよ」


 お父さまが苦笑した。


「確かにそうだな」


「側近さんたちは仕事探そうよ。外交ができる人なら外交のお仕事があるし、お金の仕事をしてた人なら銀行でも使える。軍人さんだって、指揮官じゃなくても教育とか軍政とか、いくらでもあるでしょ」


「本人たちには、その方がよいかもしれん。王家と一緒に島へ行って、一生小さな宮廷で昔の役職を続けるよりはな」


「王様も、その方が気が楽だと思うよ。自分についてきたせいで、みんな仕事なくなったら困るもの」


 それで話は決まった。


 王朝は逃がす。


 宮廷は逃がさない。


 軍隊も持っていかない。


 国を失っても、家族まで失う必要はない。



          *



 行くところは多かった。


 まずウィーン。


 それからハノーファー。

 バイエルン。

 ほかにも、帝国の中で家格の高い家はいくつもある。


 辺境伯と呼ばれていても、選帝侯だったりする。

 名前だけ見て、小さな領主だから後回し、とはできない。


 六つしか島はない。


 だから、誰をどこへ移すのかは、それだけで面倒な政治問題になった。


「これ、あとで絶対に学校で覚えさせられるやつだよ」


「何の話だ」


 お父さまが地図から顔を上げた。


「未来の高校生。カナリア諸島小国家群の成立、とか」


「……お前は時々、妙なところを気にするな」


「だって、六個もできるんだよ。地図問題にしやすいもの」


「まだ一つもできていない」


「じゃあ作ろう」


「軽く言うな」


 でも、作らなければならなかった。


 急がないと間に合わない家が出る。



          *



 最初に使うのは、チェブラーシカだった。


 家族を運ぶなら、ミツバチちゃんよりこちらがいい。

 人も荷物も多く積めるし、年を取った人がいても、長い飛行で困りにくい。


 ただし、どこへでも降りられるわけではない。


 着陸できる場所が小さいところでは、ミツバチちゃんを先に使う。

 必要なら安全な場所まで運んで、そこでチェブラーシカへ乗り換えてもらう。


 普通なら、こんな作戦はできない。


 帝国の中には、もう誰の兵なのか分からない武装集団までいる。

 領主軍。

 反乱した村の自警団。

 略奪を始めた兵。

 外国軍。

 給料がなくなって勝手に動いている兵士。


 飛行場へ大きな飛行機が降りてきたら、撃つ者がいても不思議ではない。


 でも、神様の飛行機は撃たれても平気だった。


 だから、制空権を取る必要がない。


 護衛戦闘機もいらない。


 地上から銃を撃たれても、大砲を向けられても、飛行機そのものは困らない。


 技師さんが、頭の中で静かに言った。


『飛んでいる間より、乗せている間を気にした方がいいですね』


「うん。そこだよね」


『機体が大丈夫でも、人は大丈夫ではありませんから』


 その通りだった。


 危ないのは着陸してから離陸するまで。


 皇帝一家が宮殿から飛行場へ移動する時間。

 車から降りる時間。

 階段を上がる時間。


 そこだけは、神様でも消してくれない。


 だから荷物も少なくする。


 家具はいらない。

 大きな美術品も後回し。

 国の役所の書類まで持ち出さない。


 王家にしか持てないもの。

 家族のもの。

 薬。

 衣服。

 それくらいだ。


「お嬢様、宝飾品はどうなさいます?」


 フランソワさんが聞いた。


「本人のものなら持ってきてもいいと思う。でも、国の宝物庫を空にするのはだめ」


「王冠は?」


「うーん」


 これは難しかった。


「その王冠が、王家のものなのか、帝国のものなのかで違うね」


「では、現地で確認ですね」


「そうしよう。勝手に持ってきて、あとで泥棒って言われるの嫌だし」


 王様を逃がすだけでも、細かいところで面倒だった。



          *



 ウィーンへ向かう前夜、お父さまが最後に聞いた。


「本当に、お前が行くのか」


「行くよ。チェブラーシカ、わたしが一番慣れてるし」


「撃たれるかもしれんぞ」


「飛行機は平気」


「お前は飛行機ではない」


「分かってるよ」


 少し間があった。


「だから、地上にいる時間を短くする。皇帝さんにも、先に荷物まとめてもらう。着いてから『どの服を持っていこう』って相談されたら困るもの」


「……それは、確かに困るな」


「あと、近衛兵さんにも無理させない。最後まで守れ、なんて言わないよ。皇帝さんを乗せたら、もう帰っていい」


「長く仕えてきた者には、つらい言葉かもしれん」


「でも、生きて帰ってもらわないと」


 お父さまは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、地図のウィーンを指で押さえた。


「皇帝一家を乗せたら、まっすぐ戻るのか」


「ううん。状況が悪くなかったら、次も見てくる。ハノーファーとバイエルンは、先にミツバチちゃんでも確認してるけど、今は前と違うから」


「欲張るな。一家ずつでいい」


「分かってる」


「お前の『分かってる』は、あまり信用していない」


「ひどい」


「信用していれば、こんなに心配していない」


 それは、反論しにくかった。



          *



 帝国を救うために飛ぶのではない。


 帝国がなくなったあとにも、人が残るように飛ぶ。


 皇帝も。

 皇后も。

 子どもたちも。


 国を失えば、ただの人になるわけではない。

 昔から続いた家の名前も、習慣も、記憶も残る。


 なら、それを無理に消す必要はなかった。


 六つの小さな島で暮らせばいい。


 王様のままで。


 ただし、前よりずっと小さな国の王様として。



 翌朝。


 チェブラーシカは、まだ暗さの残る滑走路で待っていた。


 白い機体の向こうが、少しずつ明るくなる。


「じゃあ、行ってきます」


 フランソワさんが荷物を確認し、お父さまが何か言いかけて、やめた。


 エンジンが回り始める。


 最初の目的地は、ウィーン。


 皇帝一家を迎えに行く。



          *



ウィーンへ近づくにつれて、地上の様子は少しずつおかしくなった。


 畑そのものは変わらない。

 川も、道も、町の屋根も、空から見れば昨日までと同じだった。


 でも、道の上にいる人の動きが違う。


 まとまって歩いている兵。

 荷車を囲んでいる人たち。

 町の入口で止められている馬車。

 道を外れて、畑の縁を急いでいる人。


「前に来たときより、ずいぶん増えましたね」


 フランソワさんが窓の外を見ながら言った。


「うん。軍隊なのか、逃げてる人なのか、上からだと分からないところもあるね」


 チェブラーシカは、その上をそのまま通った。


 こちらを見上げている人もいた。

 銃を持っている人もいた。


 でも、まだ撃ってはこなかった。



          *



 ウィーンでは、前に確認してあった場所を使った。


 大きな飛行機を降ろすには十分な長さがある。

 ただし、今日は地上に長くいたくない。


 着陸して、止まって、すぐに扉を開けた。


 待っていた馬車は三台だけだった。


「少ないね」


『良いことですよ』


 技師さんが言った。


『本当に必要な人だけに絞ったのでしょう』


 一台目から、皇帝陛下が降りた。


 その後ろに皇后陛下。

 子どもたち。

 それから、身の回りの世話をする人が数人。


 荷物も思っていたより少ない。


 大きな箱がいくつか。

 衣服。

 薬。

 書類。

 それに、家族のものらしい小さな箱。


 宮廷を引っ越す荷物ではなかった。


 家族が逃げる荷物だった。


 わたしは階段を下りた。


「陛下、お待ちしておりました」


「……本当に来たのだな」


 皇帝陛下は、チェブラーシカを見上げた。


 前に見たときより、ずっと疲れて見えた。


「はい。すぐに出られます。お荷物も、このくらいなら問題ありません」


「これで全部だ」


「分かりました」


 陛下の後ろには、まだ何人もの人が立っていた。


 侍従。

 役人。

 軍服の人。

 年を取った人もいた。


 でも、その人たちは荷物を持っていない。


 飛行機には乗らない人たちだった。



          *



「ドロテーヤ伯」


 皇帝陛下が、少し離れたところに立っている人たちを見た。


「彼らを連れて行くことは、本当にできぬのか」


「飛行機には乗せられます」


 わたしが答えると、陛下がこちらを見た。


「では」


「でも、島へ連れていくのは違うと思います」


 陛下は黙った。


 言い方を間違えるといけない。


「陛下のお国は、小さくなります。とても小さくなります。そこへ今の宮廷をそのまま持っていったら、島の人たちが宮廷を養うために働くことになります」


「……そうだな」


「それに、この方たちは陛下の持ち物ではありません」


 少しだけ空気が止まった。


 後ろにいた侍従の一人が、驚いた顔をした。


 わたしは続けた。


「お仕事ができる方たちです。外交をしてきた方も、軍のお仕事をしてきた方も、財政を見てきた方もいます。ですから、次のお仕事を探します」


「探す、と?」


「はい。四か国でも、サヴォさんのところでも、ほかにも必要としているところがあります。本人が希望すれば、銀行や学校に行ける方もいます。陛下について島へ行って、昔と同じ役職のまま暮らすより、その方がいいと思います」


 皇帝陛下は、すぐには返事をしなかった。


 やがて、後ろにいた人たちの方を向いた。


「聞いたか」


 一人の年配の侍従が頭を下げた。


「はい、陛下」


「私は、お前たちを連れて行けぬ」


「承知しております」


「……すまぬな」


 その人は、少し困ったように笑った。


「陛下。私どもは長く陛下にお仕えしましたが、陛下と一緒に死ぬために仕えていたわけではございません」


 皇帝陛下が、ほんの少し目を見開いた。


「そうか」


「はい。ですから、どうぞお行きください」


 その言葉のあとで、誰もすぐには動かなかった。


 でも、時間はなかった。



          *



 荷物を積み始める。


 フランソワさんが箱を一つずつ確認した。


「こちらは衣類ですね」


「はい」


「こちらは薬品」


「はい」


「こちらは?」


 担当の侍従が少し言いにくそうに答えた。


「皇后陛下の宝飾品の一部です」


 フランソワさんがわたしを見た。


「個人のもの?」


「そのように伺っております」


「じゃあ大丈夫」


 次の箱は重かった。


「これは?」


「文書です」


「国の?」


「いいえ。家のものです。婚姻、相続、家系に関するものが中心です」


「それも持っていこう」


 そして、最後に細長い箱が出てきた。


 わたしは嫌な予感がした。


「それ、何?」


 侍従が目を伏せた。


「王冠に関係する品でございます」


「関係する?」


「王冠そのものではございません」


「よかった」


 思わず言ってしまった。


 皇帝陛下が、初めて少し笑った。


「王冠を持ち出せば、お前は怒るのか」


「怒るというより、困ります。陛下のものなのか、帝国のものなのか、あとで絶対に揉めますから」


「もっともだ」


「今は人を先に運びます」


「王冠より人か」


「はい」


 陛下は少しだけ考えて、それから頷いた。


「それでよい」



          *



 近衛兵は、滑走路の周囲に少しだけ残っていた。


 前のような整った儀仗ではない。


 制服も汚れている。

 疲れた顔の兵もいる。


 その一人が、皇帝陛下のところまで来た。


「陛下」


「何だ」


「ここから先は、我々がお守りいたします」


 わたしは反射的に口を開きかけたけれど、黙った。


 皇帝陛下が先に答えた。


「いや」


 兵士が顔を上げた。


「私が飛行機へ乗ったら、お前たちの任務は終わりだ」


「しかし」


「家へ帰れ」


 短い言葉だった。


 でも、そのあと陛下は少し間を置いた。


「家族のいる者は家族のところへ戻れ。帰る場所のない者は、ここに残ってもよいし、別の仕事を探してもよい。もう私のために死ぬ必要はない」


 兵士は何も言えなくなった。


 しばらくして、敬礼した。


「……承知いたしました」


 その敬礼を見ていたほかの兵たちも、ゆっくり姿勢を正した。


 最後の儀仗みたいだった。


 音楽もない。

 旗も少ない。

 観衆もいない。


 ただ、何年も守ってきた人を見送っている。



          *



 皇后陛下と子どもたちを先に乗せた。


 世話をする人たちも続く。


 皇帝陛下は最後まで地上に残った。


 宮殿の方向を見ている。


「陛下」


「分かっている。もう行く」


 それでも、すぐには動かなかった。


「私は、ここへ戻れると思うか」


 わたしには答えられなかった。


「分かりません」


 未来を知っていたとしても、もう未来は変わっている。


「でも、生きていれば、戻るかどうかをあとで決められます」


「死ねば決められぬか」


「はい」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないです」


 陛下はわたしを見た。


「わたし、お国を捨ててくださいって言いに来たんじゃありません。ご家族を連れて、生きてくださいって言いに来ました」


 皇帝陛下は、また宮殿の方向を見た。


 それから、階段へ足をかけた。


「では、生きてみるか」


「はい」



          *



 扉を閉めた。


 ここから先は、少し安心できる。


 エンジンの音が大きくなった。


 チェブラーシカが動き始める。


 そのときだった。


 乾いた音がした。


 ぱん。


 少し遅れて、もう一つ。


 ぱん、ぱん。


 皇后陛下が驚いて顔を上げた。


「銃声?」


「はい」


 わたしは窓の外を見た。


 遠くの道路脇に、人影がいくつかある。


 誰なのかは分からない。


 反乱側なのか。

 略奪している兵なのか。

 ただ撃ってみただけなのか。


 どちらでもよかった。


 もう扉は閉まっている。


「大丈夫です」


 皇帝陛下が、機体の壁を見た。


 また一発。


 今度は、外板のどこかで硬い音がした。


 こん。


「今、当たったのではないか」


「当たったと思います」


「……平気なのか」


「平気です」


「本当に神様の飛行機なのだな」


「こういう時だけは、すごく助かります」


 速度が上がる。


 滑走路の端が近づく。


 機首が上がった。


 地面が離れる。


 さっきまでこちらへ向いていた銃も、人も、馬車も、どんどん小さくなっていった。


 皇帝陛下は窓から下を見ていた。


 ウィーンが遠ざかる。


 誰も何も言わなかった。



          *



 しばらくして、皇帝陛下が口を開いた。


「島には、何人いる」


「最初は少ないです。陛下のご家族と、お世話をする方が数人。それからスペイン側の人たちです」


「宮廷とは呼べんな」


「呼ばなくてもいいんじゃないですか」


「では、何と呼ぶ」


「おうち」


 皇帝陛下がこちらを見た。


 皇后陛下が、先に笑った。


「私は、それでよいと思います」


「お前までか」


「宮廷には、もう十分長く住みました」


 陛下は何か言い返そうとして、やめた。


 少ししてから、小さく息を吐いた。


「そうかもしれんな」


 チェブラーシカは西へ向かって飛んでいた。


 一つ目の王家を乗せた。


 でも、まだ終わりではない。


 ハノーファーもある。

 バイエルンもある。


 六つの島は、まだ空いていた。


 次に誰を迎えに行くか。


 それを決める仕事が、もう待っている。



          *



ウィーンから皇帝一家を連れ帰ると、そのままエルレンフェルトのホテルへ入ってもらった。


 皇帝陛下と皇后陛下にはスィート。

 子どもたちと、身の回りの世話をする数人には、近いところのファーストをまとめて使ってもらう。


 使用人が少ないことは、ここではほとんど問題にならなかった。


 食事は厨房から出る。

 部屋の掃除も、寝具も、湯も、洗濯もホテルの仕事だ。

 着替えや薬、子どもの世話のように本人の近くでなければできないことだけ、連れてきた人たちに頼めばよい。


 しかも、このホテルの従業員は、王侯貴族が泊まったくらいでは固まらない。


 四か国会議のたびに各国の王侯や随員を迎えてきた。

 ルイ陛下だって二度泊まっているし、皇帝陛下も以前に宿泊している。


 だから、敬称を間違えない。

 食事を出す間合いも、部屋へ入るときの作法も知っている。

 何かを頼まれても、いちいち大騒ぎしない。


 今回は宿泊の理由がずいぶん違うだけで、王侯を泊めることそのものは、ホテルにとって初めての仕事ではなかった。


 翌朝、皇帝陛下はスィートの居間で朝食を取りながら、少し不思議そうに言った。


「侍従をほとんど連れてこなかったのに、何も困らんな」


「ホテルですから。ここでは、陛下のお部屋を維持するために宮廷を一つ連れてくる必要ないですよ」


 皇后陛下はそれを聞いて笑った。


 陛下は少し不満そうだったけれど、前日より顔色がよかった。


 ウィーンから一緒に来なかった侍従や役人たちについては、もう別に名簿を作り始めていた。


 外交。

 財務。

 法律。

 軍務。

 宮廷実務。

 医療。

 教育。


 何ができる人なのかを書き出して、それぞれ仕事を探す。


「本当に、そこまでするのか」


 皇帝陛下が名簿を見た。


「しますよ。陛下についていかなかったから失業、では困るもの」


「私が解任した形にしておいた方がよいか」


「その方がいいです。ちゃんと奉公を解いてもらった方が、次のお仕事に行きやすいですから」


 陛下はしばらく考えてから、書記を呼んだ。


 王朝だけを残して、宮廷はほどいていく。


 なんだか大きな機械を分解して、まだ使える部品を別のところへ配っているみたいだった。



          *



 次に行くところは、ハノーファーになった。


 理由は一つではない。


 帝国の中でも大きな家だったこと。

 選帝侯家だったこと。

 そして、もう一つ。


「このおばあさま、英国の王位にも関係してるんだよね」


 わたしは届いた書類を見ながら言った。


 お父さまが眉を寄せた。


「だから面倒なのだ」


「逃がしたら、女王様に怒られるかな」


「怒られるというより、先に話を通しておけ」


「うん」


 ハノーファーのゾフィーさん。


 もう若くはない。

 でも、英国では王位継承に関係する大事な人だった。


 だから、


 帝国が危ないので島へ逃がしました。


 あとから英国で、


 その人を探していたのだが。


 となるのは困る。


 女王様へ事情を伝えると、返事は思ったより早かった。


 逃がすこと自体には反対しない。

 ただし、住む場所が変わったからといって、勝手に王位継承の権利まで消したことにしてはいけない。


 だいたい、そういう内容だった。


「そりゃそうだよね」


「当然だ」


「じゃあ、島に住んでても英国の王様になる可能性あるの?」


「可能性としては残る」


「小さな島の王様をしてたら、急にロンドンから呼ばれるのか」


「そうなるかもしれんな」


「島へ逃がしたら、それで話が終わる家じゃないんだね」


「だから面倒だと言ったのだ」


 お父さまに言われた。



          *



 ハノーファーへはチェブラーシカで行った。


 高齢のゾフィーさんを長時間、小さなミツバチちゃんに乗せるのは避けたかった。


 事前に確認していた平らな草地へ降りる。


 ウィーンほど切迫した様子ではなかった。


 でも、平穏とも言えない。


 町へ入る道には警備の兵がいて、遠くには荷物を積んだ馬車が何台も並んでいた。


 逃げる人なのか、物資を運ぶ人なのかは分からない。


 わたしたちが降りるころには、ハノーファー側の馬車がもう近くまで来ていた。



          *



「ドロテーヤ伯。これは、本当に避難なのか」


 ゲオルク・ルートヴィヒさんは、最初から警戒していた。


 無理もない。


 国を捨てて島へ行け。


 そう聞こえれば、誰だって嫌だと思う。


「避難です。領地を譲ってくださいって話じゃないですよ」


「だが、皇帝はもうウィーンを離れたのだろう」


「はい」


「それで、次は我々か」


「順番が来た、というだけです」


「ずいぶん軽く言うな」


「重く言っても飛行機の座席は増えませんから」


 横で、年を取った女性が笑った。


「この子は面白いわね」


 ゾフィーさんだった。


 七十を過ぎているのに、目はとてもはっきりしている。


「あなたが、空を飛んで王様を拾って歩いているお嬢さん?」


「拾って歩いてるわけじゃないです」


「飛んでいるものね」


「はい」


「なら、拾って飛んでいるのね」


 言い返せなかった。


 ゲオルクさんが少し困った顔をした。


「母上」


「何です。こんな時にまで難しい顔をしていても仕方がないでしょう」


 ゾフィーさんはチェブラーシカを見上げた。


「これに乗れば、少なくとも今夜、誰かが宮殿へ押し入ってくる心配はしなくてよいのですね」


「はい。飛んでしまえば大丈夫です」


「撃たれても?」


「飛行機は平気です」


「中の人は?」


「地上にいる間は平気じゃないです。だから、早く乗ってほしいです」


「よく分かりました」


 話が早かった。



          *



 問題は荷物だった。


 ウィーンで一度やったので、こちらも最初から説明していた。


 家具は持っていかない。

 大きな絵も持っていかない。

 宮廷の食器を全部持っていかない。

 役所の文書も持っていかない。


 それでも、馬車から箱が次々に出てきた。


「多くない?」


 フランソワさんが、一つ目を開けた。


 衣類。


 二つ目。


 書類。


 三つ目。


 銀器。


「これは減らしましょう」


「銀器は必要ではありませんか」


 ハノーファー側の侍従が聞いた。


「島にもお皿ありますよ」


「しかし、選帝侯家の」


「選帝侯家のお皿じゃないと、ご飯食べられない?」


 侍従が黙った。


 ゾフィーさんが後ろから言った。


「置いていきなさい。どうせ海のそばなら魚を食べるのでしょう。皿はスペインのもので十分です」


「母上……」


「あなたは銀の皿がないと魚が食べられないの?」


「そういう話ではありません」


 また少し荷物が減った。


 王家を小さくする作業は、だいたい荷物を減らすところから始まるらしい。



          *



「ところで」


 搭乗前、ゾフィーさんがわたしを呼んだ。


「英国の女王陛下には、話をしてあるのですね」


「はい。女王様からも返事をもらいました」


「何と?」


「逃げていい。でも、勝手に王位継承から外したことにはしないで、って」


 ゾフィーさんは、しばらく黙ったあと、声を立てて笑った。


「そう。それは困りましたね」


「困るんですか」


「私はもう七十を過ぎています。小さな島で静かに暮らせると思ったら、まだロンドンから呼ばれる可能性が残っているのでしょう」


「そうみたいです」


「では、死なない方がよさそうですね」


「はい」


「英国のためにも?」


「それもあるけど、ご家族のために」


 ゾフィーさんは少しだけ表情を変えた。


「あなたは、そういうところが変わっていますね」


「そうですか?」


「普通なら、王位のために生きろと言うところです」


「王位って、死んだら使えないですよ」


「それはその通りです」


 また笑った。



          *



 乗る人は、やはり少なかった。


 ゲオルクさん。

 ゾフィーさん。

 子どもたち。

 それに身の回りの世話をする人たち。


 宮廷の役人や軍人は残った。


 こちらも、あとで仕事を探す。


 一人の将校が、ゲオルクさんへ最後までついて行きたいと言った。


 ゲオルクさんはかなり長く話をした。


「お前が私について来ても、島には軍隊がない。連隊もない。守る城もない。お前は兵を扱える。それなら、その腕を必要としているところへ行け」


「しかし、殿下」


「私の家族を守るのは、この飛行機がやるそうだ」


 将校が、ものすごく納得しにくそうな顔でチェブラーシカを見た。


 わたしは何も言わなかった。


 さすがに、


 銃で撃たれても平気ですよ。


 と横から入る場面ではない。



          *



 全員が乗った。


 扉を閉める。


 今度は銃声はなかった。


 草地の向こうで、残った人たちが並んでいる。


 チェブラーシカが走り出す。


 ゾフィーさんは窓の外を見ていた。


「本当に飛ぶのね」


「はい」


「皇帝陛下も、これで逃げたの?」


「同じ飛行機です」


「なら、ずいぶん立派な逃亡ですね」


「逃亡って言わないでください」


「では?」


「避難」


「同じ方向へ行くのに、言葉だけ違うのね」


「大事なんです」


「そういうことにしておきましょう」


 機体が地面を離れた。


 ハノーファーの町が、少しずつ小さくなっていく。


 六つの島のうち、どの島へこの家を入れるかはまだ決まっていない。


 でも、二つ目の王家は空へ上がった。



          *



「次はどこ?」


 フランソワさんが聞いた。


「バイエルンかな」


「また王様ですか」


「王様じゃない人もいるよ。選帝侯とか辺境伯とか、公爵とか」


「私には、だんだん分からなくなってまいりました」


「わたしも」


 技師さんが頭の中で笑った。


『飛行計画だけは、分からなくならないでくださいね』


「そっちは大丈夫」


『それなら結構です』


 外はもう暗くなり始めていた。


 次も急がないといけない。


 島は六つ。


 助けたい家は、それより多かった。



          *



ハノーファーから戻ると、今度は島を決める仕事が待っていた。


 逃がすだけなら、とりあえずエルレンフェルトへ連れてくればいい。


 ホテルなら、使用人をほとんど連れてこない一家でもすぐ生活できる。

 スィートとファーストをまとめて押さえれば、食事も洗濯も掃除もこちらで一から人を集める必要がない。


 ただし、ホテルは王家を何年も住まわせるための宮殿ではない。

 救出が続くなら、揃った家から次の住まいへ移していかなければならなかった。


 七つの島。


 そのうち一つはスペインが持つ。


 港を整え、船を置き、病院や役所を置く。

 六つの小さな国とスペイン本土をつなぐ中心になる島だ。


 残り六つを、帝国がなくなったあとも残しておきたい家に使う。


「でも、島って同じ大きさじゃないよね」


 わたしが地図を広げると、お父さまが呆れたような顔をした。


「今ごろ気づいたのか」


「大きさだけじゃなくて、住みやすさも全然違うよ」


「だから決めろと言っている」


「うーん」


 面積が広ければよいわけではない。


 水が少なくて、人があまり住めない島もある。

 山が多くても、水があって畑を作りやすいところもある。

 港に向いた場所が多いかどうかでも違う。


 スペイン側から届いた報告を机に並べた。


 人口。

 集落の大きさ。

 水場。

 耕地。

 港。

 島どうしを結ぶ船の便。


「人がたくさん暮らしている島から上にしよう」


「面積ではなく、人口か」


「うん。広くても水が少なくて暮らしにくい島はあるもの。今そこにどれだけ人が住めているかなら、かなり分かりやすいよ」


 お父さまは報告書を一枚ずつ見た。


「ただし、人口だけで決めるわけではないな」


「もちろん。水場とか畑とか港も見る。でも、最初の順番はこれでいいと思う」


「なら、それで進めよう」


 島の広さではなく、そこで実際に人が暮らせているかを基準にすることになった。



          *



「まず、スペインはここ」


 わたしはテネリフェを指した。


「一番人が多い島だったな」


「うん。だから、ここは王家にあげない」


「なぜだ」


「中心島が貧弱だと、六つの国を支える方が困るから」


 スペインは島を渡して終わりではない。


 船を出す。

 医者を置く。

 不足した食料を運ぶ。

 各島から本土へ行く人を受け入れる。

 外交官や商人も、まずここを通るようになる。


「王様たちに立派な島を全部配って、面倒を見るスペインだけ小さい島、は変だよ」


「それは確かにそうだな」


「それに六つの島は軍隊を大きくしないから、港と海の守りはスペイン側に頼ることになるし」


「ではテネリフェは、諸国の一つではなく、全体を支える島か」


「うん。スペインの島」


 これで一つ。



          *



「一番住みやすい方は?」


「グラン・カナリア」


「皇帝か」


「うん。ハプスブルクさん」


 ここは迷わなかった。


 帝国を失う現皇帝家を、残る六島の中で一番条件のよい島へ入れる。


 皇帝でなくなっても、家そのものは残す。


「その次はランサローテ」


「誰だ」


「ホーエンツォレルンさん」


「プロイセン王家か」


「うん」


「帝国外にも国を持っているぞ」


「今すぐ逃げてくる必要がなければ、空けておけばいいよ。でも、最後まで大丈夫とは限らないし」


 帝国の内側だけが壊れて終わるとは、もう思えなかった。


 税の暴動は国境で止まらない。

 兵士が給料をもらえない話も、借金の話も、隣へ伝わる。


 外国軍まで入り始めている。


「じゃあ、三番目。フエルテベントゥラはヴェッティンさん」


「ザクセンか」


「ポーランド王でもあるけど」


「それも面倒だな」


「王様って、だいたい面倒だね」


「お前が言うな」


 なんで怒られたのか分からない。



          *



「次はラ・パルマ。ここはバイエルンのヴィッテルスバッハさん」


「ハノーファーより上なのか」


「今の家格と力を考えたら、こっちかな。ハノーファーは英国の継承があるから将来すごく大きくなるかもしれないけど、それを先に島の大きさへ入れると変でしょ」


「確かにな」


「ハノーファーのヴェルフさんはラ・ゴメラ」


「ゾフィー殿が聞けば笑いそうだな」


「『英国の王様になるかもしれないのに、小さい方なのね』って言いそう」


「言いそうだ」


 最後がエル・イエロ。


「ここはプファルツのヴィッテルスバッハさん」


「バイエルンと同じ家ではないか」


「同じ大きな一族だけど、別々に国を持ってるんだから、一緒の島に押し込んだらだめでしょ」


「仲がよければまだしもな」


「親戚だから一緒に住め、は危ないよ」


 これは家族でも同じだと思う。


 まして国を持っていた人たちだ。


 島が小さいからといって、二つの宮廷を一つにしたら、たぶんすぐ揉める。



          *



 紙に並べると、こうなった。


 テネリフェ――スペイン。


 グラン・カナリア――ハプスブルク家。


 ランサローテ――ホーエンツォレルン家。


 フエルテベントゥラ――ヴェッティン家。


 ラ・パルマ――バイエルンのヴィッテルスバッハ家。


 ラ・ゴメラ――ハノーファーのヴェルフ家。


 エル・イエロ――プファルツのヴィッテルスバッハ家。


 もちろん、紙に書いたから決定ではない。


 本人たちの同意もいる。


 スペイン側との細かい取り決めもいる。


 島に昔から住んでいる人たちを、突然、新しい王様の持ち物にするわけにもいかない。


 王家へ渡すのは、島の人間ではなく統治の形だ。


「ここ、大事だよ」


「何がだ」


「島を王様にあげる、って言うと、島に住んでる人まで一緒にあげるみたいに聞こえる」


「それは避けなければならんな」


「税も法律も勝手に好き放題できる国にはしない方がいい。小さい王国だけど、住民の権利はスペイン側と話して最初から決めよう」


「王家を守るための島が、島民を苦しめる仕組みになれば本末転倒だ」


「うん」


 お父さまが地図を見た。


「しかし、お前は王家を助けながら、ずいぶん王権を削るのだな」


「だって、大きすぎたから今こうなってるところもあるでしょ」


「本人の前では、もう少し柔らかく言え」


「分かってる」


「またその返事か」


 信用されていない。



          *



 島の順番を決めたら、今度はバイエルンだった。


 ハノーファー一家はすでに安全なところへ移した。


 皇帝一家もいる。


 でもバイエルンは、少し面倒だった。


「選帝侯本人がいない?」


「軍の方へ出ている」


 届いた連絡を読んだお父さまが答えた。


「家族は?」


「残っている者がいる。子どもも多い」


「じゃあ、先に家族」


「本人を置いていくのか」


「軍の中にいる本人より、屋敷にいる奥さんと子どもの方が危なくなるかもしれないでしょ。先に乗せる」


「本人が怒るぞ」


「あとで拾うよ」


「拾うと言うな」


「迎えに行く」


 言い直した。



          *



 バイエルンへ向かうチェブラーシカの中で、フランソワさんが名簿を見ていた。


「お嬢様」


「なに?」


「お子さま、多いですね」


「多いね」


「これ、本当に数人のお世話係で足りますか」


「……そこはちょっと増やそう」


 皇帝一家のときと同じ人数、とはいかない。


 幼い子どもが何人もいれば、着替えも食事も寝かせるのも大変だ。


「王家一律、使用人五人、とかにしなくてよかった」


「そんな決まりを作るおつもりだったのですか」


「作ってないよ」


「安心いたしました」


 フランソワさんが本当に安心した顔をした。


 こういうところは人数で決めるものではなかった。



          *



 バイエルン側の着陸場所へ近づく。


 今度も上から先に周囲を見る。


 道には兵がいる。


 荷車も多い。


 遠くに煙が見えた。


 町が燃えているほど大きくはない。

 でも、炊事の煙だけとも思えなかった。


『少し北側を回って確認しましょうか』


 技師さんが言った。


「うん。急いで降りて、変なところに入る方が危ない」


 チェブラーシカがゆっくり旋回する。


 下の草地。


 道。


 林。


 馬車。


 こちらに気づいて走り出す人がいた。


 味方なのかどうか、まだ分からない。


「旗、見える?」


 フランソワさんが窓へ顔を寄せた。


「まだ分からない」


『予定の場所そのものは使えそうです』


「じゃあ降りよう。長居しない」


 高度を下げる。


 バイエルンの地面が近づいてきた。


 今度乗せるのは、王様一人ではない。


 子どもがたくさんいる。


 それだけで、今までより少し怖かった。



          *



チェブラーシカは、予定していた草地へ向かった。


 でも、そのまま高度は下げなかった。


 さっき見えた煙は、町全体が燃えているものではない。

 道沿いの建物がいくつか焼けている。


 その近くには人が集まっていた。


 兵もいる。

 馬車もある。

 農民らしい人もいる。


 誰と誰が争っているのか、上から見ただけでは分からない。


「降りる前に筒ね」


 フランソワさんが、赤い布のついた通信筒を出した。


 前に派手な軍服さんのところで撃たれてから、いきなり知らない草地へ降りるのはやめた。


 小銃で狙われにくい距離を保ったまま、まず通信筒を落とす。


 中には、


 ドロテーヤが迎えに来たこと。

 着陸予定の草地から人と馬車をどけること。

 武装した人は近づかないこと。

 安全なら白い布を三枚並べること。


 それを書いてある。


『投下するなら、あの道の曲がり角の内側がいいですね。見張りから見えますし、拾いに行く人も確認できます』


「うん。派手軍服さんのときと同じだね」


 チェブラーシカは、まだ高いところを一度横切った。


「いま」


 フランソワさんが通信筒を落とした。


 赤い布が伸びながら草地へ落ちる。


 すぐには降りない。


 少し離れて旋回して待った。


 やがて、一人が筒を拾いに来た。


 それから人が動き始める。


 草地にいた人が外へ出る。

 馬車も端へ寄る。

 武装した兵も離れていった。


 しばらくして、白い布が三枚並んだ。


「これなら降りられるね」


『はい。周囲も今のところ問題ありません』


 そこで初めて高度を下げた。


 車輪が草に触れる。


 機体が跳ねる。


 もう一度地面へついて、そのまま減速した。


 止まりきる前から、予定の旗をつけた馬車がこちらへ動き始めている。


「今度は間違いないね」


「はい」


 扉を開ける。


 今度は、荷物より先に子どもの声が聞こえた。



          *



 テレーゼ・クニグンデさんは、馬車を降りるなりこちらへ歩いてきた。


「夫は一緒ではありません」


「聞いてます。軍の方ですよね」


「ええ。ですから、私はここを離れるつもりはありませんでした」


 最初から難しい。


「でも、お子さんたちは先に出した方がいいです」


「それも分かっています」


「じゃあ」


「分かっていることと、できることは違います」


 後ろの馬車から、また子どもが降りてきた。


 小さい。


 一人ではない。


 六歳くらいの男の子の後ろから、もっと小さな子が続く。

 乳母らしい女性が手を引いている子もいた。


 これは、大人の王様を一人乗せるのとは違う。


「……多いね」


 小さな声で言ったつもりだった。


「聞こえていますよ」


 テレーゼさんに言われた。


「すみません」


「事実ですから構いません」


 フランソワさんが横で笑いをこらえていた。



          *



「夫は、ここへ戻るつもりです」


 テレーゼさんは、子どもたちが荷物と一緒に飛行機へ向かうのを見ながら言った。


「軍を放り出して逃げる人ではありません」


「はい」


「なら、私だけ先に逃げれば、夫が戻ったとき家族が誰もいないことになります」


「でも、ご家族がここにいると、戻ってくる理由にもなりますよ」


 テレーゼさんがこちらを見た。


「どういう意味です」


「軍が動けなくなったときでも、ここに奥さんと子どもがいると思ったら、選帝侯さまは戻ろうとするでしょ」


「当然です」


「その道が安全とは限りません」


 少し離れたところで、また煙が上がっている。


「だから、ご家族は先に安全なところへ移します。そのあと選帝侯さま本人を迎えに行きます」


「どこへ」


「軍のところへ」


「この大きな飛行機で?」


「これは置いていきます。ミツバチちゃんで行きます」


 テレーゼさんは、わたしの顔をじっと見た。


「あなたが?」


「はい」


「戦場へ?」


「まだ、どこが戦場なのかも分からないけど」


「それを普通は戦場と言うのではないですか」


「そうかもしれません」


 また怒られた。



          *



 子どもの移動は、大人より時間がかかった。


 乗れば終わり、ではない。


 小さい子は知らない飛行機を怖がる。

 抱いて上がる子もいる。

 階段の途中で止まる子もいる。


 一人が泣くと、別の子も不安になる。


「お母さまも乗る?」


 小さな声がした。


 テレーゼさんは、すぐにしゃがんだ。


「乗りますよ」


「お父さまは?」


「あとから来ます」


「ほんとう?」


 少しだけ間があった。


「本当です」


 言い切った。


 わたしも、これは本当にしないといけなくなった。



          *



 荷物は、やっぱり多かった。


 でも今回は、簡単に減らせないものが多い。


 子どもの衣類。

 薬。

 寝具。

 乳児の世話に使うもの。

 乳母の荷物。

 食べ物。


「銀器は?」


 わたしが聞くと、フランソワさんが首を振った。


「ございません」


「えらい」


「代わりに、お子さまのお着替えがたくさんございます」


「それはいるね」


「ですから、今回は箱の数で判断してはいけません」


「はい」


 フランソワさんに注意された。


 王様の荷物と、子どもの荷物は違う。



          *



 六歳の男の子が、機体の前の方を見たがった。


「ここから先は操縦するところだから、飛んでる間は入らないでね」


「どうして?」


「触ったら困るものがいっぱいあるから」


「触らない」


「その約束が守れるくらい大きくなったら、止まってるときに見せてあげる」


「今は?」


「今はだめ」


 不満そうだった。


 その後ろから、さらに小さな男の子が顔を出した。


「ぼくも」


「あなたも、もう少し大きくなってから」


 今度は二人とも不満そうになった。


 テレーゼさんが後ろから来た。


「二人とも、困らせないの」


「困ってないですよ」


「甘やかすと、ずっと前へ行きたがります」


「それは困る」


「でしょう」


 この人、強い。


 夫が軍に出ている間、家を守っているだけの人ではなさそうだった。



          *



 搭乗が終わるころ、遠くで銃声がした。


 一発。


 少し間を置いて、何発か続いた。


 馬車を扱っていた人たちの動きが変わる。


「お嬢様」


「うん。もう荷物はいい。全員乗って」


 フランソワさんはすぐに頷いた。


 ここまで家族を運んできた侍従も、乳母も、御者も、警護についてきた人も、こんなところへ置いていく理由はない。


 王家の宮廷を丸ごと島へ持っていくつもりはなかったけれど、それと、銃声のする草地に人を置き去りにすることは別だった。


「皆さん、そのまま乗ってください。残った荷物は置いていきます」


 テレーゼさんも異論はなかった。


「聞こえましたね。ここに残る者はいません」


 御者の一人が馬車を振り返った。


「車と馬は」


「置いていきましょう。今から馬車まで積んでいたら、ここにいる時間が長くなります」


 技師さんもすぐに続けた。


『その方がいいですね。車輪の付いた重いものを急いで積むより、人を先に入れて離陸しましょう』


 必要な箱だけ、すでに機内へ移してある。


 残りは諦めた。


 馬車も、馬も、ここでは財産だった。

 でも、人より先に助けるものではない。


 御者たちまで乗ったのを確認して、扉を閉める。


 チェブラーシカが動き出す。


 今度は、離陸する直前に銃声が近くなった。


 ぱん。


 ぱん、ぱん。


「また?」


 フランソワさんが言った。


「まただね」


 弾が当たった音はしない。


 誰が撃っているのかも分からない。


 こちらを狙っているのか、別の相手と撃ち合っているのかも分からなかった。


 でも、調べに行く必要はない。


 機体が加速する。


 子どもたちが座席で固くなっている。


「もうすぐ浮くよ」


 わたしが言った。


 六歳の子が窓に顔を向けた。


 草地が流れる。


 機首が上がる。


 地面が離れた。


「飛んだ」


「飛んだね」


「お父さまも、これに乗る?」


「違う飛行機で迎えに行くよ」


「小さいの?」


「これより小さい」


「ぼくも行く」


「行きません」


 後ろからお母さんの声が飛んできた。


 わたしは笑ってしまった。



          *



 エルレンフェルトへ戻る間、テレーゼさんはほとんど眠らなかった。


 子どもたちが落ち着いたあとも、窓の外を見ていた。


「選帝侯さまの居場所は、どのくらい分かっていますか」


 わたしが聞いた。


「最後に届いた報告ならあります。ただ、軍は動きます」


「うん」


「使者を出しても、あなたの飛行機の方が先に着くでしょう」


「たぶん」


「なら、どうやって探すのです」


「上から」


「……上から?」


「道と軍の移動を見ます。場所が大きく変わってなければ、見つけられると思う」


 テレーゼさんは、しばらく黙っていた。


「ずいぶん乱暴な探し方ですね」


「空からだと、軍隊は結構見えるんですよ」


「見つけたあと、どこへ降りるのです」


「そこは見つけてから考えます」


「ドロテーヤ伯」


「はい」


「夫を連れて帰る前に、あなたまで帰ってこなくなるのは困ります」


「大丈夫です」


「その言葉を、私はまだ信用していません」


 お父さまと同じことを言われた。


 どうしてみんな、わたしの大丈夫を信用しないのだろう。



          *



 夕方、チェブラーシカはエルレンフェルトへ戻った。


 子どもたちを降ろすだけでも、また時間がかかった。


 そのあと、侍従も乳母も御者も、全員降りた。


 行き先は、皇帝一家と同じホテルだった。


 テレーゼさんたちにはスィートと近くのファーストをまとめて使ってもらう。

 ここまで一緒に来た人たちも、まずホテルへ入れる。


 これなら、到着したその日から食事も湯も寝具もある。

 乳母や身の回りの世話をする人以外は、王家のために急いで新しい使用人を集める必要もない。


 島へ残る人、別の仕事へ移る人は、安全な場所であとから決めればいい。


 テレーゼさんは、荷物が全部ホテルへ運ばれるのを確認してから、わたしのところへ来た。


「いつ行くのです」


「明日の朝」


「早いですね」


「動かれたら探すの大変になるもの」


「そうですか」


 少し間があった。


「夫に会ったら、伝えてください」


「はい」


「家族は全員無事だと」


「伝えます」


「それから」


 テレーゼさんは、少し考えた。


「私が勝手に逃げたのではなく、あなたに押し切られたことにしておいてください」


「え」


「その方が、最初の喧嘩が短く済みます」


「わたしが怒られるんですか」


「大丈夫なのでしょう?」


 さっき言った言葉を返された。


「……大丈夫です」


「では、お願いします」


 笑って行ってしまった。


 強い。



          *



 翌朝。


 今度はチェブラーシカではない。


 白いミツバチちゃんが、短い滑走路の端で待っていた。


 大きな家族を運ぶ仕事は終わった。


 次は、一人の選帝侯を軍隊の中から連れてくる。


 フランソワさんが乗り込んできた。


「一緒に来るの?」


「お嬢様一人で行かせますと、皆さまに叱られますので」


「飛行機には技師さんたちもいるよ」


「私には見えません」


「そうだった」


 扉を閉める。


 選帝侯の最後の居場所を書いた紙を、もう一度確認した。


「じゃあ、探しに行こうか」


『まずは予定地点まで普通に飛びましょう』


 技師さんが言った。


『空から探すのは、そのあとです』


「はい」


 ミツバチちゃんが走り始めた。


 今日迎えに行く人は、家で待っていてくれない。


 そこだけが、今までと違っていた。



          *



ミツバチちゃんでバイエルンへ戻ると、昨日より道が空いていた。


 人がいなくなったわけではない。


 むしろ逆だった。


 大きな道を避けて、畑の縁や林の中を進む人が増えている。

 荷車を引く馬も、兵の列も、昨日見た場所とは違うところにいた。


「軍隊って、空からだと分かりやすいと思ってたんだけどな」


 わたしが言うと、技師さんが答えた。


『まとまっていれば分かりやすいですよ。問題は、今はまとまり方が悪いことです』


「ですよね」


 正規の部隊なのか。

 徴発に出ている兵なのか。

 別の領主の兵なのか。

 逃げている兵なのか。


 上から見ても、旗が出ていなければ分からない。


 しかも、軍が昨日までいた場所へ行っても、今日はもういない。


 最後に届いた報告では、選帝侯さまは川沿いの町の近くにいることになっていた。


 そこへ向かう。



          *



 最初の場所には、もう大きな陣地はなかった。


 炊事の跡。

 踏み荒らされた草。

 馬の跡。

 壊れた荷車。


 人は少ない。


「移動してるね」


『はい。道を見ると、北西へ動いたように見えます』


 技師さんの言葉どおり、地面にはかなり太い車輪の跡が続いていた。


 大砲を引いたのかもしれない。


「追いますか?」


 フランソワさんが聞いた。


「うん。道沿いに行けば、どこかで見えると思う」


 ミツバチちゃんは高度を上げすぎず、その道を追った。


 しばらくすると、林の向こうに人の集まりが見えた。


 最初は町かと思った。


 でも、屋根ではない。


 天幕だった。


「いた」


 かなり大きい。


 馬も多い。

 大砲も見える。

 荷車が列になっている。


 軍隊だった。



          *



 近づきすぎる前に、いったん距離を取った。


 人が走る。


 馬が動く。


 旗が上がる。


「旗、見える?」


「バイエルンのものがあります」


 フランソワさんが確認した。


「じゃあ、あそこだね。でも降りないよ」


 赤い布のついた通信筒を出す。


 派手な軍服さんのところで、一度撃たれてから覚えたやり方だった。


 知らない軍隊へ、まず飛行機を近づけない。


 小銃で狙われにくい距離から通信筒を落として、相手がこちらを確認してから降りる。


「何て書く?」


「エルレンフェルトのドロテーヤです。選帝侯マクシミリアンさまにお会いしたい。着陸場所を示して、そこから兵を離してください。安全なら白い布を三枚、でいいと思う」


『投下地点は、陣地の東側の広場がよさそうです。見張りから見えて、拾いに出る人も分かります』


「そこにしよう」


 ミツバチちゃんは陣地へ突っ込まず、広場の外れへ通信筒を落とせるところだけを通った。


「いま」


 赤い布が空中で伸びた。


 通信筒が地面へ落ちる。


 そのまま離れる。


 しばらく旋回していると、騎兵が一人、筒のところへ来た。


 拾う。


 陣地へ戻る。


 それから少し長く待った。


「読んでるのかな」


『将校まで回しているのでしょう』


 やがて、陣地から少し離れた道脇の長い草地へ人が出てきた。


 草を確認する。


 荷車をどける。


 その人たちも離れる。


 最後に白い布が三枚並んだ。


「返事来た」


『はい。あそこなら使えます。少し柔らかいので、急制動は避けましょう』


「分かった」


 ここで初めて高度を下げた。


 陣地の真ん中へ降りる必要はない。


 むしろ少し離れた場所を向こうから指定してもらった方が安全だった。



          *



 着陸して止まると、騎兵が三人だけこちらへ来た。


 さっきまでと違って、銃は手に持っていない。


 先頭は将校らしい。


「これなら扉を開けてもいいね」


『はい』


 扉を開けた。


「エルレンフェルトのドロテーヤです」


 将校がこちらを見上げた。


「通信筒を落とした方ですな」


「はい。選帝侯マクシミリアンさまにお会いしたいです」


「伝えてあります。少々お待ちを」


 今度は、話が最初から通じた。



          *



 それからが長かった。


 すぐに選帝侯さまが出てくるわけではない。


 将校が戻る。

 別の将校が来る。

 誰が来たのか確認する。

 何の用なのか聞かれる。


 その間も、わたしたちは機体から出なかった。


「お嬢様、ずいぶん慎重ですね」


「前に一回撃たれてるからね。安全って分かるまでは外に出ないよ」


「それはそうですね」


 やっと、見覚えのある人が馬で来た。


 マクシミリアンさんだった。


 機体の近くまで来て、まず飛行機を見た。


 それから、扉のところにいるわたしを見た。


「……なぜ君がここにいる」


「迎えに来ました」


「誰を」


「選帝侯さまを」


「私か」


「はい」


 ものすごく嫌そうな顔をされた。



          *



「家族はどうした」


 最初の質問はそれだった。


「全員無事です。昨日、エルレンフェルトへ運びました」


「全員?」


「はい。奥さまも、お子さんたちも、乳母さんも、侍従さんも、御者さんも。発砲が始まったので、その場にいた人はみんな乗せました」


 マクシミリアンさんの顔が少し変わった。


「妻も行ったのか」


「はい」


「自分から?」


 来た。


 わたしは昨日頼まれたことを思い出した。


「ええと」


「どうした」


「わたしが押し切りました」


「何を」


「奥さまは残るって言ったんですけど、危ないので、わたしが連れていきました」


 マクシミリアンさんは、しばらく黙った。


「本当に?」


「はい」


 嘘ではない。


 細かいところを省略しただけだ。


「……そうか」


 なんだか、少し安心した顔をした。


 あとで怒られるのはわたしらしい。



          *



「それで、私にも来いというのか」


「はい」


「私は軍を率いている」


「見れば分かります」


 後ろには大勢の兵がいる。


「これを置いて行けと言うのか」


「置いていくっていうより、もう維持できないんじゃないですか」


 言ってから、少し強すぎたかなと思った。


 でも、マクシミリアンさんは怒らなかった。


「誰から聞いた」


「聞かなくても見えます。昨日も今日も、道を見ながら飛んできました。荷車が足りないところもあるし、馬を探してる兵もいる。炊事の場所が小さすぎる部隊もありました」


「空から軍を査定してきたのか」


「査定じゃないです」


「似たようなものだ」


 選帝侯さまは、少し離れたところにいる自分の軍を見た。


「兵はいる」


「はい」


「大砲もある」


「あります」


「だが、明日のパンを確実に用意できるかと聞かれると、答えに困る」


「だから迎えに来ました」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないです。ここまで探すの大変だったし」


 マクシミリアンさんが、少しだけ笑った。



          *



「私は逃げたと思われる」


「思う人はいるでしょうね」


「君は否定しないのだな」


「だって、飛行機に乗って軍から離れるんだから、そう言う人はいますよ」


「では、どうする」


「家族を守るために軍を離れたって言えばいいんじゃないですか」


「それで兵が納得すると?」


「納得しない人もいると思います」


 わたしは陣地の方を見た。


「でも、選帝侯さまがここに残って、兵に払うお金も、食べさせるものもなくなったら、その方がひどくないですか」


 返事はなかった。


「最後まで一緒にいる、って格好はいいけど、最後に兵から食べ物取り上げることになったら嫌でしょ」


「……君は、時々ひどく嫌なことをそのまま言うな」


「すみません」


「謝るくらいなら少し包め」


「努力します」


「今後に期待しよう」


 怒ってはいなかった。



          *



 選帝侯さまは、すぐには乗らなかった。


 当然だった。


 将校を何人か呼んだ。


 かなり長く話した。


 わたしたちは中で待った。


 何を話しているのかは聞こえない。


 やがて、一人ずつ将校が離れていく。


 最後に残った年配の将校と、選帝侯さまは握手した。


 それからこちらへ歩いてきた。


「終わりましたか」


「終わったことにした」


「違うんですか」


「軍というものは、一言で終わりにはならん」


「そうですよね」


「私の名で動かしていた部隊は、それぞれ帰せるところから帰す。雇われている者には、払えるところまで払う。砲は勝手に持ち去らせない。倉庫は町と話をつける」


「それ、大変ですね」


「だから君は簡単に『乗って』と言うな」


「ごめんなさい」


 今度は本当に謝った。



          *



「荷物は?」


「これだけだ」


 小さな鞄が一つ。


「少ない」


「軍にいたのだぞ」


「そうでした」


「馬は置いていく」


「はい」


「部下も連れていかない」


「危なくないですか」


「ここはまだ私の軍だ」


 それはそうだった。


「それに、全員を連れて行ったら、君はまた私の宮廷を運ぶなと言うのだろう」


「言います」


「分かっている」


 階段を上がる。


 扉を閉める。


 やっと、一人の選帝侯を軍隊の中から拾えた。


 いや。


 迎えに来た。



          *



 離陸するとき、地上の兵たちは撃たなかった。


 むしろ、かなりの人数がこちらを見ていた。


 マクシミリアンさんも窓の外を見ている。


「後悔してます?」


「まだ分からん」


「家族に会ったら、少しは減ると思います」


「妻は何と言っていた」


「全員無事だって伝えてくださいって」


「それだけか」


 来た。


「……あと、わたしに押し切られたことにしてって」


 選帝侯さまがこちらを見た。


「やはりか」


「分かってたんですか」


「長い付き合いだ」


「じゃあ、わたし怒られ損じゃないですか」


「安心しろ。君にも文句を言うが、妻にも言う」


「安心できません」


 初めて、選帝侯さまが声を出して笑った。



          *



 エルレンフェルトが見えてくるころには、日が傾いていた。


 着陸すると、滑走路の端に人がいる。


 テレーゼさんだった。


 その後ろに子どもたちもいる。


「来てる」


 わたしが言うと、マクシミリアンさんは窓の外を見た。


 しばらく何も言わなかった。


「降ります?」


「そのために来た」


 扉を開ける。


 選帝侯さまが階段を下りる。


 最初に走ってきたのは子どもだった。


 大人どうしの話は、そのあとでいい。


 わたしは少し離れた。


 フランソワさんも一緒に下がった。


「お嬢様」


「なに?」


「怒られるのは、あとになりそうですね」


「忘れてくれないかな」


「無理だと思います」


「だよね」


 でも、とりあえず一人連れて帰れた。


 次の家へ行ける。



          *



バイエルンの選帝侯さまを連れて帰った翌朝、わたしはまた地図の前にいた。


 今度はザクセン。


 島の順番でいえば、フエルテベントゥラを使ってもらう予定の家だ。


 でも、地図の上に置かれている紙が一枚ではなかった。


「なんでこんなにあるの」


 わたしが聞くと、お父さまが一枚を持ち上げた。


「選帝侯であり、別の国では王でもあるからだ」


「分かってるけど」


「なら聞くな」


「だって、迎えに行く方は困るんだよ」


 本人がザクセンにいるとは限らない。


 軍の近くにいるかもしれない。

 別の国にいるかもしれない。

 妻子も同じ場所にいるとは限らない。


「一家を一つの屋敷から乗せれば終わり、っていう家が少ないね」


「王侯とは、そういうものだ」


「面倒」


「本人の前で言うな」


 最近、そればかり注意されている気がする。



          *



 まず助けるのは、ザクセン側にいる家族になった。


 本人を探すより先に、所在が分かっている人を安全なところへ移す。


 バイエルンでやったのと同じだった。


 ただ、今回は前より準備を変えた。


 危なくなったところに着いたら、王家の人だけではなく、そこまで一緒に来た人は全員乗せる。


 侍従も。

 乳母も。

 御者も。

 警護も。


 島へ行く人数を減らすのは、安全なところへ着いてからでいい。


 その代わり、馬車は最初から運ばないことにした。


「荷物も、必要なものから先に積み替えよう。途中で危なくなったら、残りは置いていく」


「その方がよろしいですね」


 フランソワさんも頷いた。


 馬車を後部扉まで運び、馬を外し、機内へ押し込んで固定するより、人を乗せて扉を閉めた方がずっと早い。


 逃げるための飛行機に、逃げたあとでも買い直せる車まで持ち込む必要はなかった。



          *



 チェブラーシカでザクセンへ向かう。


 途中から、地上に軍の動きが増えた。


 まとまった部隊だけではない。


 小さな集団が道を移動している。


 荷車を何台か連れているもの。

 馬だけのもの。

 銃を持っているけれど、制服が揃っていないもの。


「また分からないね」


『分からない時は、近づかない方がいいですね』


 技師さんが言った。


「うん」


 予定の着陸場所まで一直線には行かず、離れたところから周囲を見た。


 草地は使えそうだった。


 近くの道には兵がいる。


 しかも、迎えの馬車がまだ見えない。


「ここでは降りないよ」


「はい」


 フランソワさんは、もう通信筒を用意していた。


 危ないところでは、地上の人が誰なのか分かるまで降りない。


 前に派手な軍服さんのところで覚えてから、これは決まりになっていた。


 しばらく離れて旋回していると、予定の旗をつけた馬車が一台見えた。


 でも、まだ一台だけだった。


「まず筒を落とそう」


 中には、草地を空けること、武装した人を近づけないこと、全員が揃って安全なら白い布を三枚並べることを書いてある。


 馬車から見える場所へ通信筒を落とした。


 赤い布を見つけた人が拾いに行く。


 それから、二台目。


 さらに少し遅れて三台目。


 最後に騎馬の警護が来た。


 全員が揃ったあと、草地から人と馬車が離れていく。


 白い布が三枚並んだ。


「じゃあ、今度こそ降りよう」


『周囲も問題ありません』


 そこで初めて機体を下ろした。



          *



 迎えの人たちは、着陸が終わるまで草地の外で待っていた。


 近くまで来た人たちの顔は、かなり疲れていた。


 最初に声をかけてきた女性が、こちらを見た。


「あなたがドロテーヤ伯ですね」


「はい」


「夫は一緒ではありません」


「聞いています」


「それでも出ろと?」


「はい。まず皆さんだけでも」


「夫が戻ったとき、誰もいなければどうするのです」


 また同じ話だった。


 でも、同じ答えでいいとは限らない。


「行き先を残します」


「書き置きで?」


「書き置きだけじゃなくて、複数の人に伝えます。どこへ移したか、誰に聞けば分かるか。あと、こちらからも探しに行きます」


「あなたが?」


「はい」


 女性は少し困ったような顔をした。


「皆さん、本当にあなたを一人で行かせるのですか」


「一人じゃないですよ」


 フランソワさんが横で咳払いした。


「フランソワさんもいます」


「そこではありません」


 どうも最近、この返しが通じない。



          *



 子どもは一人だった。


 バイエルンのあとだったので、少なく感じる。


「少ないって顔をしましたね」


「してません」


「しました」


「ごめんなさい」


「素直なのはよいことです」


 怒ってはいないらしい。


 その少年は、チェブラーシカを見上げていた。


「これで本当に飛ぶのですか」


「飛ぶよ」


「大砲を積めますか」


「積めるけど、今日は積まない」


「騎兵は?」


「馬ごとは、あんまりたくさん無理かな」


「兵を運ぶための飛行機ではないのですか」


「今日は逃がすための飛行機」


 少年は少し考えた。


「逃げるのですか」


「避難」


「同じでは?」


 どこかで聞いた。


「大事なんだよ、言い方」


「そうですか」


 あまり納得していなかった。



          *



 荷物を積む。


 馬車は最初から機内へ入れない。


 必要な箱だけを後部扉から積み替え、人も全員乗せる。


 残すのは馬車と馬だ。


 まだ周囲に余裕があったので、馬は近くの農家と話をつけて預かってもらうことになった。


「あとで持ち主が戻ってきたら返してください」


 わたしが頼むと、農家の人は困ったような顔をした。


「戻ってくるのでしょうか」


「分かりません。でも、戻ってきたら」


「分かりました」


 今はそれしか言えない。



          *



 全員が乗り終わる前に、道の向こうで馬が走ってきた。


 警護の人がすぐに反応した。


「味方です!」


 先頭の騎手が大きく手を振っている。


 伝令だった。


 馬から降りるなり、紙を差し出した。


 女性が読んだ。


 顔が変わる。


「何かありました?」


「夫の所在が変わりました」


「どこへ?」


「さらに東へ動いたそうです」


「軍と一緒?」


「そのようです」


 また遠くなった。


「今日、追いますか」


 女性が聞いた。


「今日は皆さんを安全なところへ運びます」


「夫は?」


「明日、探します」


「探す、と?」


「はい。最後にいた場所から、軍の動いた方を見て追います」


「この飛行機で?」


「これは大きすぎるので、もっと小さい飛行機を使います」


 女性は、そこで初めて少し驚いた顔をした。


「そんな飛行機まであるのですか」


「あります。短い草地にも降りやすいので、こういう時はそっちの方が便利なんです」


「……あなたは、本当に迎えに行くつもりなのですね」


「はい」


 フランソワさんが横で、小さく息をついた。



          *



 離陸したあと、少年はずっと窓の外を見ていた。


「速い」


「馬よりはね」


「これなら、父上もすぐ見つかるのでは?」


「見つけるだけならね」


「乗せれば終わりでしょう」


「軍を持ってる人は、そう簡単に乗ってくれないの」


「なぜです」


「置いていく人がいっぱいいるから」


 少年は少し黙った。


「父上も置いていくのですか」


「全部を捨てるんじゃないよ。引き継いだり、帰したりしてから来てもらう」


「来なかったら?」


 答えに困った。


「もう一回、話す」


「それでも来なかったら?」


「また話す」


「何回?」


「来るまで」


 少年が笑った。


「父上は大変ですね」


「わたしも大変なんだけど」


「でも、あなたは飛行機があります」


 それはそうだった。



          *



 エルレンフェルトへ戻ると、ザクセンの家族もホテルへ入った。


 皇帝一家。


 ハノーファーの家。


 バイエルンの家。


 今度はザクセンの家族。


 スィートとファーストを使えば、到着したその日から生活はできる。

 ホテルの従業員は、もともと四か国会議や王侯の宿泊に慣れている。

 この数日で増えたのは、王侯を迎える経験ではなく、避難してきた一家を次々に受け入れる経験の方だった。


「本当に王様の避難所みたいになってきたね」


「ホテルだから回っているだけだ。ここを恒久的な宮廷街にするわけではないぞ」


 お父さまが言った。


「でも、まだ本人がいない家もあるよ」


「本人が揃っている家まで待たせる理由はない。島の受け入れ準備ができたところから移せ」


「じゃあ、揃った家からカナリアへ?」


「そうした方がよい。ホテルの部屋を空けておけば、次に連れてきた家もすぐ入れられる」


 それはそうだった。


 ハプスブルク家は揃っている。


 ハノーファーも、必要な家族はいる。


 バイエルンも本人を連れて帰った。


「じゃあ、カナリア便も始める?」


「始めろ。救出と移住を並行しなければ追いつかん」


 仕事が二つになった。



          *



 その夜。


 わたしは予定表を見た。


 明日は、ザクセンの王様を探す。


 その次には、グラン・カナリアへ皇帝一家を運ぶ。


 さらにハノーファー。


 バイエルン。


 ほかの家も迎えに行かなければならない。


「飛行機、もう一機ほしい」


 わたしが言うと、技師さんがすぐ答えた。


『増えたら、お嬢さんが二人になるわけではありませんよ』


「そうなんだよね」


『ですから、寝てください』


「はい」


 飛行機より先に、わたしの方が足りなくなるらしい。


          *



 翌朝は、ミツバチちゃんだった。


 昨日届いた伝令の紙をもう一度見る。


 ザクセン選帝侯で、ポーランドでは王様でもあるアウグストさんは、軍と一緒にさらに東へ動いている。


「王様を探すのに、住所が動くの困るね」


「軍を率いておられるのですから、仕方ございません」


 フランソワさんはそう言いながら、赤い布のついた通信筒を三本確認していた。


 一つで足りるとは限らない。


 落とした筒を誰も拾わないこともあるし、違う部隊へ落としてしまうこともある。


「今度は、見つけても近づかないよ」


「はい」


『それでお願いします』


 技師さんたちにも念を押された。


 前に派手な軍服さんのところで撃たれてから、知らない軍隊のそばへいきなり降りるのはやめている。


 見つける。


 離れたところから通信筒を落とす。


 向こうがこちらを確認する。


 着陸場所を空けてもらう。


 合図を見る。


 それから降りる。


 順番を変えなければいい。



          *



 昨日教えてもらったところには、軍はいなかった。


 でも、跡は残っていた。


 馬が何度も通った道。

 荷車の轍。

 炊事をした黒い場所。


『東へ続いていますね』


「追おう」


 ミツバチちゃんで道をたどる。


 一時間もしないうちに、それらしい集団が見えた。


 大きかった。


 天幕だけでもかなりある。

 馬も多い。

 砲も見える。


 でも、それだけではアウグストさんの軍とは限らない。


「旗は?」


「まだ分かりません」


 近づかずに、少し横へ回る。


 風上側から見直した。


「あれ、ザクセンの旗じゃない?」


「そう見えます」


『では、筒を落としましょう。陣地の外に、見張りがいる道があります』


「そこね」


 通信筒には、もう書いてある。


 エルレンフェルトのドロテーヤが来たこと。


 アウグスト選帝侯に会いたいこと。


 陣地から離れた場所に着陸したいこと。


 着陸場所には武装した人を近づけないこと。


 安全なら白い布を三枚、間をあけて並べること。


 ミツバチちゃんは陣地へ向かわず、その外側の道を横切った。


「いま」


 フランソワさんが筒を落とした。


 赤い布が開く。


 地上へ落ちる。


 そのまま離れた。



          *



 待つ時間は長かった。


「拾った?」


「拾いました」


「戻っていくね」


 騎手が一人、筒を持って陣地の中へ入っていった。


 でも、それからが長い。


 一周。


 二周。


 三周。


「これ、読んでから本人まで持っていってるのかな」


『その可能性が高いですね。王様ですから』


「王様って連絡するだけでも大変」


『お嬢さんも似たようなものですよ』


「わたし?」


『会うまでに何人か通す人は増えましたよ』


「……そうだった」


 自分のことは分からないものだった。


 四周目。


 やっと人が動き始めた。


 陣地からかなり離れた草地へ何人か出てくる。


 地面を見て歩く。


 石か何かをどける。


 そのあと全員離れた。


 白い布。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


「来た」


『周囲も離れています。使えますよ』


「じゃあ降りる」



          *



 着陸しても、すぐには扉を開けなかった。


 向こうから馬が二頭来る。


 通信筒を持った将校と、もう一人。


 武器は腰にあるけれど、手には持っていない。


 そこで扉を開けた。


「ドロテーヤ伯で間違いありませんか」


「はい」


「陛下がお会いになります。こちらへ?」


「できれば、こちらへ来てもらえますか。飛行機を長く置きたくないので」


 将校は少し妙な顔をした。


 王様を呼びつけるように聞こえたのかもしれない。


「失礼なのは分かってます。でも、今は地上にいる時間を短くしたいんです」


「伝えましょう」


 怒られなかった。



          *



 アウグストさんは、馬で来た。


 大柄だった。


 以前会ったときも大きい人だと思ったけれど、馬から降りるとさらに大きく見える。


「ドロテーヤ伯」


「お久しぶりです」


「私の家族を連れ去ったそうだな」


 最初からそこだった。


「助けました」


「妻からの手紙も読んだ」


「もう届いたんですか」


「君の飛行機ほど速くはないが、我々にも伝令はいる」


「そうでした」


 アウグストさんはミツバチちゃんを見た。


「それで、今度は私を連れ去りに来たのか」


「迎えに来ました」


「言葉を変えただけではないか」


「大事なんです」


 またこの話になった。



          *



「妻と息子は無事なのだな」


「はい。エルレンフェルトのホテルにいます」


「ホテル?」


「スィートとファーストを使ってもらってます。食事も洗濯も掃除もホテルでやってくれるので、使用人さんが少なくても困りません」


「……選帝侯家をホテルへ入れたのか」


「皇帝陛下もいますよ」


 アウグストさんが黙った。


「皇帝が?」


「はい」


「同じホテルに?」


「はい。階は違いますけど」


 しばらく返事がなかった。


「ずいぶん妙なホテルになったな」


「従業員さんたちは普通に仕事してます」


「それが一番驚くところではないか」


 そうかもしれない。



          *



「それで」


 アウグストさんの顔が変わった。


「君は、私にザクセンを捨てろと言いに来たのか。それともポーランドを捨てろと言いに来たのか」


「どっちも違います」


「では何だ」


「今日は、アウグストさん本人を、家族のところへ連れて帰りに来ました」


「同じことだろう」


「違いますよ。ザクセンのことはザクセンの人たちと決めないといけないし、ポーランドの王様のことは、もっと勝手に決めたらだめでしょ」


 アウグストさんが少し目を細めた。


「分けて考えるのか」


「だって別の国ですよね」


「そうだ」


「カナリアの島に移すのは、ザクセンの選帝侯家を残すためです。ポーランドまで島へ持っていく話じゃありません」


「当然だ」


「だから、ポーランドの王位をどうするかは、ここでわたしと決めることじゃないです」


 少し間があった。


「君は、そこまで分かっていて私を連れていくのか」


「分かってるからです」


「面倒なものを一つ増やすことになるぞ」


「王様は、だいたい面倒です」


 言ってしまった。


 アウグストさんがこちらを見た。


「……本人の前では言わぬよう教わっていないか」


「何回も」


「直っていないな」


「すみません」


 笑われた。



          *



 でも、すぐに乗るとは言わなかった。


 軍がある。


 アウグストさんには、バイエルンの選帝侯さまよりさらに二つの立場がある。


「兵を置いて、私だけ飛ぶわけにはいかぬ」


「じゃあ、どうしたら置いていけます?」


「置いていけることを前提に聞くな」


「でも、このままずっとここにいるのも無理ですよね」


 後ろの陣地を見る。


「パン、足りてます?」


 アウグストさんが嫌な顔をした。


「君は、なぜ最初にそこを聞く」


「軍隊って、そこがないと動かないから」


「三日ならある」


「そのあと」


「買う」


「現金で?」


 返事が止まった。


「売ってくれます?」


 さらに止まった。


「……値を上げられている」


「ですよね」


 銀行が貸さない。


 帝国の証文も嫌われる。


 軍が近づけば、商人はさらに現金を欲しがる。


「兵がいるから戦える、ではないんです」


「分かっている」


 低い声だった。


「分かっているから、腹が立つ」



          *



 アウグストさんは、将校を何人か呼んだ。


 今度も長かった。


 でも、バイエルンのときと違って、わたしは急かさなかった。


 ここで急かして、軍を無秩序に置いていったら、あとで略奪する集団を増やすだけだ。


 部隊をどう分けるか。


 誰をどこへ戻すか。


 倉庫に残っている食料をどうするか。


 砲を誰が管理するか。


 払える給金をどこまで払うか。


 かなり時間がかかった。


 途中でフランソワさんが、小さなパンと飲み物を持ってきた。


「食べます?」


「私は王を迎えに来た令嬢に、飛行機の横でパンを渡されるのか」


「お昼です」


「……もらおう」


 アウグストさんも食べた。


 将校も何人か食べた。


 話は続いた。



          *



 日が傾き始めるころ、ようやく終わった。


「全部終わったの?」


「終わるものか」


 また同じ返事だった。


「だよね」


「だが、私が今日ここを離れても、明朝すぐに軍が崩れることはないところまでは決めた」


「じゃあ行ける?」


「君は本当に急ぐな」


「暗くなる前に飛びたいです」


「それは正しい」


 荷物は小さな鞄一つだった。


 従者を一人だけ連れてきた。


「この人は?」


「私の身の回りを扱う者だ。ホテルで全部できると言うなら、多くは要らぬのだろう」


「はい。一人なら全然」


「なら一人でいい」


 合理的だった。



          *



 ミツバチちゃんが地面を離れる。


 アウグストさんはしばらく窓の外を見ていた。


「私がポーランド王であることは、島へ行っても変わらぬのだな」


「そこは、わたしが変えるものじゃないです」


「では、ザクセン選帝侯であることは?」


「それも、今ここでわたしが取り上げるものじゃないです」


「それなのに島をくれるのか」


「家を残す場所です」


「国ではなく?」


「小さい国にはします。でも、前の国を小さくして持っていくんじゃないです」


 アウグストさんは考えていた。


「王朝の家だけを抜いて、別の場所へ置くのか」


「そういう感じ」


「妙なことを考える」


「殺されるよりいいでしょ」


「それはそうだ」


 それ以上は言わなかった。



          *



 ホテルへ着いたときには、もう暗かった。


 玄関には明かりがついている。


 ホテルの人が普通に待っていた。


「アウグスト陛下、お部屋をご用意しております」


 それだけだった。


 大騒ぎしない。


 鐘も鳴らさない。


 楽隊も出ない。


 荷物を受け取って、部屋へ案内する。


 アウグストさんが、歩きながらわたしに小声で言った。


「本当に慣れているな」


「四か国会議でも王様たち泊まってますから。ルイ陛下も二回来てるし、皇帝陛下も前に泊まってますよ」


「なるほど。今回は客の肩書ではなく、泊まりに来た事情の方が異常なのだな」


「そういうことです」


 奥の階段から、少年が走ってきた。


「父上!」


 アウグストさんの顔が変わった。


 あとは家族の時間だった。



          *



 翌朝は、王様を迎えに行かなかった。


 今度は、王様をカナリア諸島へ運ぶ日だった。


 ただし、グラン・カナリアへ直接行くわけではない。


 行き先はテネリフェ。


 七島の中心としてスペインがそのまま持つ島だ。


 ここには神様燃料のタンクも置いてある。


 チェブラーシカは、まず全員をテネリフェへ運ぶ。

 そこで燃料を補給する。

 王家の人たちはスペイン側へ引き渡す。


 そこから先は、船でも何でも、島のことをよく知っているスペイン側に任せればいい。


「そっちの方がずっと楽だね」


 地図を見ながら言うと、お父さまも頷いた。


「六つの島すべてに、お前の飛行機を降ろせる場所を用意する必要がなくなる」


「うん。それに、毎回知らない地面にチェブラーシカで降りる必要もない」


「テネリフェまでを、お前たちの仕事にするのだな」


「そうする」


 スペイン側にとっても、その方が都合がいい。


 テネリフェには港がある。


 船もある。


 各島の役人とも連絡がつく。


 どの港へ入り、どの道を通って、どの家を使うのか。

 そこから先は、飛行機で来たわたしよりスペイン側の方がずっと詳しい。


 王家を助けるからといって、全部わたしがやる必要はなかった。



          *



「陛下、荷物はこれで全部ですか」


 ホテルの玄関で聞くと、皇帝陛下は小さな箱を見た。


「ウィーンを出たときより減ったぞ」


「ホテルで暮らして、いらないもの分かりました?」


「……少しな」


 皇后陛下が笑った。


「陛下は、銀の燭台がなくても朝食を召し上がれると分かったそうです」


「それは言わなくてよい」


「テネリフェにも燭台くらいありますよ」


「お前まで言うな」


 ホテルの従業員が、笑わずに荷物を運んでいた。


 さすがだった。


 今日は、その荷物にもう少し加わる。


 ホテルのレストランから、


 食事。

 食器。

 飲み物。

 紅茶。


 そして、いつもの給仕さんも一人。


 前にチェブラーシカで食事を出した人だ。


「今日もお願いいたします」


「承知しております」


 本人は皇帝一家と飛ぶことより、料理をどう出すかの方を気にしている顔だった。


 そのくらいでちょうどいい。



          *



 ホテルから、斜行エレベーターで丘の上へ上がる。


 皇帝一家と、身の回りの人たち。


 給仕さん。


 荷物と食事の箱。


 一度に全部を押し込まず、人と荷物を分けながら何回かに分けた。


 着いた先は会議棟の横。


 そこに、新しい三千メートル滑走路へ向かう小さな電車の終点がある。


 単線。

 車両は一編成だけ。


 表示灯を見ると、今日はちょうどこちら側にいた。


「呼ばなくてよかったね」


 扉を開けてもらい、皇帝一家と荷物を乗せる。


 食事の箱も載せる。


 グオーン。


 小さな電車が丘を離れ、約三キロ先の新滑走路へ向かった。


 ホテルは川沿いの低いところにあるので、建物そのものは斜面の下に隠れて見えない。


 少し離れると、後ろに残るのは丘の上の会議棟だった。



          *



 新滑走路側の終点で降りる。


 すぐそばには格納庫とエプロンがある。


 チェブラーシカには、もう給仕さんが食事を運び込んでいる。


 食器。


 飲み物。


 紅茶。


 ギャレーも使う。



          *



 チェブラーシカへ乗る。


 皇帝一家。


 身の回りの世話をする人が数人。


 いつもの給仕さんが一人。


 それだけ。


 大きな宮廷はない。


 近衛兵もいない。


 官僚もいない。


 でも、今度は逃げる飛行ではなかった。


 行き先がある。


「次に降りるところが、私の国か」


 皇帝陛下が聞いた。


「違います。テネリフェです」


「スペインの島だな」


「はい。そこで降りてもらいます。グラン・カナリアまではスペイン側にお願いしました」


「君は来ないのか」


「毎回六つの島を回ってたら、迎えに行く方が終わりません」


「なるほど」


「テネリフェには神様燃料のタンクもあるから、チェブラーシカもそこで燃料を入れられます」


「我々を降ろし、飛行機は燃料を入れて戻るのか」


「そうです」


「ずいぶん効率的に扱われる皇帝一家だな」


「安全に着けばいいでしょ」


「それはそうだ」


 チェブラーシカが三千メートル滑走路を走る。


 機首が上がる。


 地面が離れる。


 遠くに見える丘の上の会議棟が、少しずつ小さくなっていった。



          *



 高度を取る。


 今日は、速く着くだけが目的ではない。


 皇帝一家には長い飛行になる。


 揺れの少ないところを選んで巡航する。


 しばらくして、いつもの給仕さんが操縦席まで来た。


「お食事をお出しいたします」


「お願い」


「お二人の分はこちらへお持ちします」


「うん」


 前と同じだった。


 わたしとフランソワさんは操縦席を離れない。


 給仕さんが、こちらの分を持ってきてくれる。


 客室では、ギャレーから料理が出た。


 皇帝陛下も皇后陛下も、もう飛行機の中で食事が出ることそのものには驚かなかった。


 でも、陛下は皿を見てから言った。


「逃げる途中より、ずいぶん扱いが良くなったな」


「今回は時間ありますから」


「ウィーンでは、着いたらすぐ乗れと言われた」


「撃たれるかもしれなかったからです」


「分かっている」


 給仕さんが料理を置く。


 飛行機の中でも、ホテルで食事を出す時とほとんど変わらない。


「陛下、紅茶はいかがなさいますか」


「いただこう」


 給仕さんは普通に答えた。


「かしこまりました」


 皇帝陛下が、その後ろ姿を見た。


「この者も、私が皇帝だから緊張しないのか」


「四か国会議で王様たちに給仕してる人ですよ」


「そうだったな」


「それに飛行機で給仕するのも、もう初めてじゃないです」


「エルレンフェルトには、妙な経験を積んだ者が多すぎる」


 それは少し思った。



          *



 食事が終わっても、まだ飛ぶ。


 子どもたちは途中で眠った。


 皇后陛下も少し休む。


 皇帝陛下は、ときどき窓の外を見ていた。


「テネリフェからグラン・カナリアまでは、船か」


「たぶん船です。そこはスペイン側に任せてあります」


「ずいぶん任せるのだな」


「島の人と話すのも、港を決めるのも、スペイン側の仕事にした方がいいです」


「君が一つずつ決めるのではないのか」


「わたし、カナリアの領主じゃないですよ」


「それはそうだ」


「王家を殺されないように運ぶところまで。島でどう暮らすかは、本人とスペインと島の人たちで決めてください」


 皇帝陛下は少し笑った。


「ようやく自分の仕事を減らすことを覚えたのか」


「最初からやってます」


「そうだったか?」


「たぶん」


「その『たぶん』は信用しない方がよさそうだな」


 お父さまと同じことを言われた。



          *



 テネリフェが見えてきた。


 海の上から、大きな島が持ち上がっている。


 ここはスペインが残した中心島。


 これから六つの小さな国へ向かう人たちは、みんな一度ここへ来る。


 王家だけではない。


 必要な物資。


 手紙。


 役人。


 医者。


 商人。


 船。


 全部をつなぐ場所になる。


 そして、チェブラーシカにとっては燃料を入れられる場所でもある。


『着陸場所が見えます』


「うん」


 前から使う場所は決めてある。


 周囲を確認する。


 風。


 地面。


 人。


 問題なし。


 チェブラーシカが降りる。


 どん。


 もう一度つく。


 速度が落ちる。


「到着です」


 給仕さんが、なぜか一番ホテルらしい声で言った。


 皇后陛下が笑った。



          *



 停止すると、スペイン側の人たちが待っていた。


 役人。


 島の担当者。


 皇帝一家をこの先グラン・カナリアまで案内する人。


 荷物を扱う人。


 こちらは、もう準備ができている。


 皇帝陛下が降りる。


「ここでお別れか」


「いったん」


「君は燃料を入れたら帰るのだな」


「はい。次の人を迎えに行かないと」


「本当に、次から次へと運ぶつもりなのだな」


「六家ありますから」


「分かった」


 陛下は、スペイン側の人たちを見た。


「では、ここから先は彼らに任せよう」


「その方がいいです」


「ドロテーヤ伯」


「はい」


「助かった」


 短かった。


 わたしも短く答えた。


「はい」


 それで十分だった。



          *



 皇帝一家の荷物が降りる。


 給仕さんも、食器をまとめる。


 こちらは帰りも一緒だ。


 その間に、チェブラーシカへ燃料を入れる。


 テネリフェに置いてある神様燃料のタンクから、必要な量を補給する。


 これがあるから、カナリア便を毎回同じところへ集められる。


 六つの島へ飛行機を散らすより、ずっと扱いやすい。


 給油の間、皇帝一家はスペイン側の人たちと話していた。


 このあと港へ向かう。


 グラン・カナリアへ渡る。


 どの家を最初に使うのか。


 誰が案内するのか。


 もう、わたしが決めることではない。



          *



 帰りのチェブラーシカは、客室がずいぶん静かになった。


 皇帝一家はもういない。


 いるのは、給仕さんと、持ち帰る食器や箱くらい。


「お嬢様」


 給仕さんが聞いた。


「帰りもお食事をお出ししますか」


「お願いします」


「承知しております」


 何も変わらない。


 皇帝を降ろした帰りでも、食事の時間は来る。


 チェブラーシカは滑走を始めた。


 テネリフェを離れる。


 テネリフェから、そのままエルレンフェルトへ戻る。


 これなら、次の家も同じやり方で運べる。


 ハノーファーも。


 バイエルンも。


 ザクセンも。


 みんなテネリフェまで。


 その先はスペインに任せる。


 ようやく、王家を助ける仕事にも定期便みたいな形が見えてきた。



          *



 エルレンフェルトへ戻ると、ホテルの受付はいつもどおりだった。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「ただいま。空いた?」


「はい。皇帝陛下ご一家がお使いだったスィートとファーストは、清掃を終えております」


「早い」


「ホテルですので」


 当たり前の顔で言われた。


 確かにホテルだった。


「次のご一家について、部屋割りはいかがいたしましょう」


「まだ迎えに行く方が先かな。誰が何人来るか変わるかもしれないし」


「承知いたしました。空室のまま確保しておきます」


 これで、また一つ受け入れられる。



          *



 上へ行く前に、ロビーでハノーファーのゾフィーさんに捕まった。


「聞きましたよ」


「何を?」


「皇帝陛下をテネリフェでスペインの方へお渡ししたのでしょう」


「はい。そこからグラン・カナリアへは向こうにお願いしました」


「では、次は私たち?」


「たぶん」


 ゾフィーさんは少し楽しそうだった。


「私たちもテネリフェまで?」


「はい。その先のラ・ゴメラまではスペイン側です」


「なるほど。あなたの飛行機は、六島を巡回しないのね」


「その方が早いです」


「賢明です」


「英国の王位に関係する老女を、ずいぶん小さな島へ送るのね」


 やっぱり言った。


「家格と島の順番を決めたときは、英国で将来どうなるかまで入れてませんから」


「それでよいのです」


「いいんですか」


「私のために順番を変えたら、もっと面倒になるでしょう」


「なります」


「なら、そのままで結構」


 話が早い。


「ただし」


「はい」


「ラ・ゴメラで使う家について、寝室までの階段がどうなっているか、スペイン側へ確認しておいてください。七十を過ぎた人間を、毎日長い階段へ上らせるのは困ります」


「あ」


「考えていなかったでしょう」


「今、確認することにしました」


「それを、考えていなかったと言うのです」


 また怒られた。


 飛行機で運ぶところだけ考えていてはだめだった。

 そこから先をスペイン側へ任せるなら、なおさら、必要な条件を先に伝えておかなければならない。


          *



 その日のうちに、スペイン側へ電信を出した。


 ラ・ゴメラでハノーファー家が最初に使う家。


 寝室までの階段。


 坂道。


 馬車をどこまで寄せられるか。


 医者。


 水。


 わたしが書いている横で、ゾフィーさんが見ている。


「ほかには?」


「夜中に必要になったとき、呼び鈴で人を呼べるように」


「それも書きます」


「お風呂まで長い階段があるのも困ります」


「それも」


「私は七十を過ぎていますが、病人ではありませんからね。何でも人に抱えてもらうような家も嫌です」


「難しいですね」


「年寄りの家は、そういうものです」


 そう言われると、反論できない。


 結局、かなり細かい確認になった。



          *



 返事は翌朝に来た。


 用意していた家には、寝室へ上がる階段がある。


 でも、同じ建物の一階にも、十分広い部屋がある。


 そこを寝室として使えるように変える。


 馬車は玄関の近くまで入れる。


 医師は町から呼べる。


 水は問題なし。


 お風呂については、建物の中を少し直す。


「これなら?」


 ゾフィーさんへ見せる。


「よろしいでしょう」


「よかった」


「最初から聞いておけば、もっとよかったのですけれど」


「はい」


 最後だけ余計だった。



          *



 その次のテネリフェ便は、ハノーファー家だった。


 朝食のあと、荷物をまとめる。


 斜行エレベーターで会議棟の横へ上がる。


 小さな電車で新滑走路へ行く。


 チェブラーシカには、食事と給仕さんも乗っている。


 ゾフィーさんは、乗り込む前に大きな機体を見上げた。


「これなら、馬車で何週間も揺られるより楽そうですね」


「楽ですよ。お昼も出ます」


「それは聞きました」


「皇帝陛下も食べました」


「それを基準にされても困ります」


 元気だった。



          *



 飛び始めてしばらくすると、客室は静かになった。


 子どももいる。


 大人もいる。


 でも、大勢の随員はいない。


 食事の時間になると、給仕さんがいつものように客室へ出した。


 ゾフィーさんは、紅茶を一口飲んでから、窓の外を見た。


「こんなところで英国のことを考えるとは思いませんでした」


「まだ関係あるんですよね」


「ありますよ。住む場所が変わっただけですから」


「ラ・ゴメラに住んでても?」


「ええ」


「遠いですね」


「王位というのは、ときどき住んでいる場所より遠いところからやって来るものです」


 わたしには、よく分からない言い方だった。


「でも、呼ばれたら行くんですか」


「その時に考えます」


「今決めないんだ」


「あなたも、全部を今決めないでしょう?」


「……そうでした」


 一本取られた。



          *



 テネリフェでは、スペイン側が待っていた。


 今度は皇帝一家のときより、こちらも慣れている。


 荷物を降ろす。


 人を引き渡す。


 ラ・ゴメラで使う家について、届いていた返事をもう一度確認する。


 ゾフィーさんは、スペイン側の担当者にも同じことを聞いた。


「一階の部屋を寝室にしていただけるのですね」


「はい。すでに準備を始めております」


「では結構です」


 話が早い。


「ドロテーヤさん」


「はい」


「ここまででよいですよ」


「うん」


「あなたは次を迎えに行きなさい」


「はい」


「それから、寝なさい」


「……はい」


 どこへ行っても言われる。



          *



 それから、同じ道を何度か飛んだ。


 エルレンフェルト。


 テネリフェ。


 給油。


 引き渡し。


 帰る。


 バイエルン家は、ラ・パルマへ。


 ザクセン家は、フエルテベントゥラへ。


 そこから先はスペインの船だった。


 毎回、チェブラーシカには給仕さんが乗った。


 食事の内容は少し変わる。


 子どもが多い家では、食べやすいものが増えた。


 年配の人が多い便では、量よりも温かいものを優先した。


 紅茶は変わらなかった。



          *



 バイエルンの選帝侯さまは、テネリフェで降りる前に一度だけ客室を振り返った。


「ここへ来るまで、こんなに静かな移動は久しぶりだった」


「軍隊と一緒じゃないから?」


「それもある」


 少し考えた。


「誰も私に、明日の兵糧を聞きに来ない」


「島では聞かれるかもしれませんよ」


「何を」


「水とか、小麦とか、船とか」


「……結局、同じではないか」


「規模は小さいです」


「それが救いだな」


 笑って降りた。



          *



 アウグストさんの便では、逆に質問が多かった。


「フエルテベントゥラには、どれくらい馬がいる」


「知りません」


「港は」


「スペイン側の資料ならあります」


「砲台は」


「アウグストさん」


「何だ」


「着いた初日から軍隊作る話しないでください」


「聞いただけだ」


「顔が違います」


「どんな顔だ」


「軍隊考えてる顔」


「そんな顔があるものか」


 隣で奥さまが笑っていた。


「ありますよ」


 味方が増えた。



          *



 三つの家を送り出すと、ホテルは急に静かになった。


 昨日まで王侯の家族がいたスィートも、ファーストも空いている。


 受付の人は、いつもどおり空室表を持っている。


「次は、どちらのご一家でしょうか」


「まだ連れてきてない」


「では、空けておきます」


「お願いします」


 このホテルは、王様がいなくなったからといって寂しがったりしない。


 次のお客さんが来るなら部屋を整える。


 来ないなら普通のお客さんを泊める。


 それだけだった。



          *



 会議棟へ上がると、お父さまが地図を広げていた。


 カナリアの六つの島のうち、四つにはもう行き先が決まり、王家も動き始めている。


 グラン・カナリア。


 ラ・ゴメラ。


 ラ・パルマ。


 フエルテベントゥラ。


 残りは二つ。


 ランサローテ。


 エル・イエロ。


「ホテルも空いたよ」


「なら、次を迎えられるな」


「うん」


「まだ二家ある」


 お父さまが別の紙を出した。


 一つは、ブランデンブルク=プロイセン側。


 もう一つは、プファルツ側。


「どっちから?」


「安全の悪い方からだ」


「そりゃそうだね」


「ただし、今度も先に所在を確かめろ。王家だからといって、城にいるとは限らん」


「アウグストさんで覚えました」


「本当に覚えたならよい」


「通信筒も使う」


「それもだ」


 迎えに行く家が変わっても、やることは同じだった。


 まず、生きている場所を見つける。


 話をする。


 連れてこられる人を連れてくる。


 ホテルへ入れる。


 そして、テネリフェまで運ぶ。


 そこから先はスペイン。


 六つの島のうち、まだ二つが待っていた。


          *



 安全が悪い方は、ブランデンブルク=プロイセン側だった。


 朝になって届いた紙を、お父さまが机の上へ置いた。


 王家そのものが襲われたわけではない。


 でも、近くの街道では徴税人が追い返され、別の町では倉庫が開けられて穀物を持ち出された。

 兵を出そうにも、今度は兵の給金と食事が要る。


 昨日まで通れた道が、今日も通れるとは限らない。


「本人は?」


「王妃と家族と一緒に、まだ宮廷のある場所にいるらしい。ただ、周囲へ出した使者の戻りが遅くなっている」


「じゃあ、先にこっちだね」


「そうしろ。ただし、城の庭へいきなり降りるなよ」


「降りません」


「本当だな」


「通信筒持っていきます」


「ならよい」


 信用が少し戻ったらしい。



          *



 ミツバチちゃんで飛んだ。


 チェブラーシカでは大きすぎる。


 迎える人数がまだ分からないし、最初から長い滑走路があるとも限らない。


 それに今日は、王家を運ぶ前に、まず話をしなければならない。


 目的地が近づくと、高度を下げすぎないまま周囲を見る。


 大きな建物。


 町。


 道。


 騎兵らしい一団。


 門の外にも人がいる。


「近づかない方がいいね」


「はい」


 フランソワさんが通信筒を出した。


 赤い布。


 中には手紙。


 エルレンフェルトのドロテーヤが来たこと。

 ブランデンブルク選帝侯であり、プロイセンの王でもある方と話したいこと。

 飛行機を降ろす場所から武装した人を離してほしいこと。

 安全なら白い布を三枚並べてほしいこと。


 建物の真上へは行かない。


 少し離れた道の近くに人が集まっているところを選んだ。


「落とすよ」


「はい」


 筒を落とす。


 赤い布が開く。


 地上の人が走った。


 わたしたちは、そのまま離れる。


 待つ。


 一周。


 もう一周。


 まだ何もない。


「時間かかるね」


「王様まで紙が届いて、返事を決めて、着陸場所を選んでいただくのですから」


「そりゃそうか」


 さらに待った。


 やがて、建物から少し離れた草地で人が動き始めた。


 馬が出ていく。


 武装した兵も離れる。


 最後に。


 白。


 白。


 白。


 三枚。


「見えた」


「はい」


『地面も見ましょう』


「うん」


 一度、上から確認する。


 長さ。


 傾き。


 溝。


 石。


 人の位置。


 それから、やっと降りた。



          *



 待っていた人の中に、王様がいた。


 豪華な儀式の格好ではない。


 でも、誰なのかはすぐ分かった。


 わたしが降りると、向こうから先に言った。


「ドロテーヤ伯。空から手紙を落として王を呼び出す者は、そう多くないだろうな」


「地上まで近づいて撃たれるよりいいです」


「以前に何かあったのか」


「ありました」


「聞かない方がよさそうだ」


「その方がいいです」


 王様はミツバチちゃんを見た。


「それで、今日は何をしに来た。帝国の話なら、私は選帝侯として聞く。プロイセンの話なら、王として聞く。家族の話なら、夫と父として聞こう」


 最初からややこしい。


「今日は、最後です」


「家族か」


「はい。ご家族をエルレンフェルトへ避難させたいです」


 少し間があった。


「私もか」


「できれば」


「できれば、とは随分弱い言い方だな」


「王様を飛行機へ押し込めませんから」


 王様は笑わなかった。


 怒りもしなかった。


「私がここを離れれば、逃げたと言われる」


「そう言う人はいると思います」


「プロイセン王が国を捨てた、ともな」


「それは違います」


「なぜだ」


「今日わたしが持って帰るのは、国じゃなくて人です。王位も領地も飛行機には積めません」


 そこで、やっと少し表情が動いた。


「妙な言い方だが、分かりやすい」


「それに、プロイセンの王位は帝国の中の話と同じに扱えませんよね」


「分かっているではないか」


「そこは大事なので」


「ならば、私がエルレンフェルトへ行ったからといって、君は私に王位を捨てたことにはしないのだな」


「しません。そんな権限ないです」


「その先は?」


「あとで話します」


「決めていないのか」


「いま危ないところから家族を動かす話と、これから国をどうするかの話を一緒にしたら、どっちも進まなくなるでしょ」


 王様はしばらく黙った。


 後ろにいた人たちも、黙っている。


 やがて。


「家族だけ先に出すことはできるか」


「できます」


「私は残る」


「それもできます。でも、残るなら、いつ迎えに来ればいいか決めてください」


「君はまた来るのか」


「来ます」


「危なくなれば?」


「危なくなる前に来たいです」


「それは私も同じだ」


 少しだけ話が近づいた。



          *



 結局、その場では家族を先に出すことになった。


 王妃。


 子どもたち。


 身の回りの世話に必要な人を数人。


 大きな家財は持たない。


 衣類。


 薬。


 書類。


 小さな身の回り品。


 それだけ。


「宝飾品は?」


 誰かが聞いた。


「持てる分なら」


 わたしが答える前に、王様が言った。


「箱を増やすな。人が先だ」


 そこは話が早かった。


 ただ、王様自身は乗らない。


 家族を送ったあと、残っている役人や軍の指揮を整理してから来るという。


「三日」


 王様が言った。


「三日後に、同じ場所へ来てくれ」


「白い布も?」


「同じ手順にしよう。その方が間違いがない」


「分かりました」


「私の兵が君の飛行機を見て勝手に近づかないようにも伝えておく」


「お願いします」


 前よりずっと楽だった。



          *



 王妃たちが出てくるまでには、時間がかかった。


 避難すると決めても、五分で家族全員が飛行機へ乗れるわけではない。


 子どもを集める。


 薬を確認する。


 着替えを詰める。


 誰が一緒に行くか決める。


 残る人へ言葉をかける。


 王様も、その間ずっと忙しかった。


 わたしたちは草地で待った。


 フランソワさんが小さな籠を開いた。


「お昼になりましたので」


「食べよう」


 パンと肉と果物。


 王様にも勧めた。


「私にもあるのか」


「待ってる間にお昼になると思ったので」


「避難を勧めに来た相手へ昼食まで持ってくるのか」


「わたしも食べるから多めにしただけです」


「そういうことにしておこう」


 今度は少し笑った。



          *



 午後になって、ようやく全員が揃った。


 王妃は、ミツバチちゃんの前で一度立ち止まった。


「これでエルレンフェルトまで?」


「はい」


「どのくらいかかります」


「馬車よりずっと早いです」


「それは見れば分かります」


「ですよね」


 王妃は笑った。


 王様は家族を一人ずつ見送った。


 最後に、王妃と短く話した。


 声は聞こえなかった。


 聞かない方がいいと思った。



          *



 離陸する。


 草地が下がる。


 窓から見ていた子どもの一人が、急に身を乗り出しかけた。


「お父さまが見える」


 王妃がすぐ肩を押さえた。


「座っていなさい。まだ上がっている途中ですよ」


「でも」


「また会えます」


 子どもは座った。


 小さくなっていく草地に、王様がまだ立っていた。


 わたしは前を見た。


 三日後。


 もう一度来る。



          *



 エルレンフェルトの旧飛行場へ着くころには、子どもたちはかなり疲れていた。


 ホテルまでは、いつもの道だった。


 丘側へ移り、会議棟から斜行エレベーターで下りる。


 川沿いのホテル。


 受付では、もう部屋が用意されている。


「プロイセン王妃殿下、ご到着でございますね」


 従業員は普通に案内を始めた。


 スィート。


 近くのファースト。


 食事。


 風呂。


 呼び鈴。


 洗濯。


 荷物は少ない。


 だから、着いたその日から生活できる。


 王妃が受付の人へ何かを頼んでいる間、子どもたちはロビーの椅子へ座り込んでいた。


「疲れた?」


 聞くと、一人が頷いた。


「でも、馬車じゃなかった」


「うん」


「明日も飛ぶの?」


「今日はもう飛びません」


 わたしが答えると、フランソワさんが横から言った。


「お嬢様も、でございます」


「はい」


 そこまで付けなくてもよかった。



          *



 夜。


 お父さまへ報告する。


「家族は来た。でも王様は残った。三日後にもう一回」


「自分で期限を決めたのか」


「うん。役人と軍を整理してから来るって」


「なら、その三日は待て」


「その間にプファルツ行けるよ」


「行けるが、明日の朝から飛ぶ必要はない」


「午後?」


「午前は寝ろ」


「午後ならいい?」


「……昼食を食べてからだ」


 許可が出た。


 たぶん。


「で、プファルツ側は?」


 お父さまが別の紙を開いた。


「こちらは、家族の所在そのものは確認できている。ただし、話が少し違う」


「何が?」


「当主一人だけを連れてくれば終わる家ではないらしい」


 紙には、名前がいくつも並んでいた。


 プファルツの家。


 近親者。


 別の場所にいる者。


 すぐ一緒に動ける人。


 動けない人。


「また集めるところから?」


「そうなる」


「ホテル、空けておいてよかったね」


「だから空けたのだ」


 残る最後の一つは、人数より先に、家族を一か所へ集めるところから始まりそうだった。


          *



 翌日は、本当に午前中ずっと寝た。


 起きたのは昼前。


 食事をしてから会議棟へ上がると、昨夜の紙に、もう少し書き込みが増えていた。


「全部迎えに行くの?」


「全部ではない」


 お父さまが紙を裏返した。


「宮廷に出入りしている親族まで数え始めたら切りがない。必要なのは、家そのものを残すための近い家族と、今後の継承に直接関わる者だ。侍従や役人まで島へ連れて行く話ではない」


「じゃあ、この印の人たち?」


「そうだ。本人たちの意思も確認する。家族だからといって、勝手に荷物のように運ぶわけにはいかん」


 印のついた名前は、最初の一覧よりずっと少なかった。


 ただし、一か所にはいない。


「わたしが一人ずつ拾いに行くより、どこかへ集まってもらった方がいいね」


「私もそう思う。まず当主と話せ。集める場所を決めるのは向こうの仕事だ」


「了解」


「軍隊の上を低く飛ぶなよ」


「もう分かってます」


「それならよい」


 何回言われるのだろう。



          *



 プファルツ側は、ブランデンブルクより静かだった。


 道には馬車がいる。


 町も普通に動いている。


 それでも、宮廷の近くへそのまま降りることはしない。


 先に知らせてある場所を探し、少し離れたところから通信筒を落とした。


 返事の白い布が出るまで待つ。


 草地を一度上から見る。


 それからミツバチちゃんを降ろした。


 迎えに来た人たちの中に、選帝侯本人がいた。


「昨日、家族を集めたいという知らせを受けたが」


「はい。でも、親戚全員じゃないです」


 持ってきた紙を渡す。


 選帝侯は目を通したあと、少し笑った。


「この程度まで絞ったか。最初に届いた問い合わせでは、私の親族を一族ごと持っていくのかと思ったぞ」


「それやったらホテルがいっぱいになります」


「ホテルの都合なのか」


「それだけじゃないです。島へ宮廷を丸ごと引っ越す話でもないので」


「では、誰を残すかはこちらで決めてよいのだな」


「この人たちは継承に関係するから確認してほしい、という候補です。事情が違うなら教えてください」


 選帝侯はもう一度紙を見た。


「一人、いま別の町にいる。もう一人はここから馬車で半日ほどだ。今日中には無理だな」


「明日でも明後日でもいいですよ。集まったら迎えに来ます」


「君は待たないのか」


「三日目に、プロイセンの王様を迎えに行く約束があります」


「あちらもか」


「家族はもうホテルです」


 選帝侯は顔を上げた。


「王だけ残ったのか」


「自分で三日って決めました」


「それなら、こちらもその間に集めよう。三日後ではぶつかるな。四日後でどうだ」


「大丈夫です」


「場所はここでよい。この草地なら、いま降りられたのだろう?」


「はい。でも、四日後も上から見てから降ります」


「慎重になったものだな」


「撃たれると覚えます」


「本当に何があったのだ」


「聞かない方がいいです」


 この会話、前にもした気がする。



          *



 帰りは急がなかった。


 約束は四日後。


 明日はチェブラーシカの整備を見て、ホテルにいる王妃たちの様子も聞く。


 三日目に、もう一度ブランデンブルクへ行く。


 予定表にそう書くと、お父さまが横から見た。


「一日に一つしか書いていないな」


「だめ?」


「いや。それでよい」


 意外だった。


「もっと詰めろって言うかと思った」


「お前が自分から空白を作ったのだから、邪魔はせん」


「わたしだって学習するよ」


「そうであってほしい」


 まだ完全には信用されていない。



          *



 三日目。


 同じ草地が見えた。


 白い布も三枚並んでいた。


 約束した通りだった。


 周囲を見てから降りる。


 王様は、前より少ない人数で待っていた。


 軍装でも旅装でもない。


 その中間くらい。


「来たな」


「来ました」


「三日と言ったからな。昨日から、残す書類と持っていく書類を分けていた」


「終わりました?」


「終わった、とは言えん。だが、私がここに立って命令し続けなければ明日すべてが止まる、という状態ではなくした」


 それなら十分だった。


 王様の荷物は小さかった。


 衣類。


 書類。


 薬。


 箱が二つ。


「それだけ?」


「家族に『箱を増やすな』と言った手前、自分だけ増やすわけにもいかん」


「えらい」


「王に向かって、その褒め方はどうなのだ」


「ちゃんと守ったから」


「子ども扱いされている気がする」


 そう言いながら、少し笑っていた。


 従う人も一人だけ。


 軍の副官ではなく、身の回りと書類を扱う人だった。


「残した者たちは?」


「職務のある者は職務へ戻す。私について来ることを仕事にしていた者も、いったん解いた。必要なら後で別の仕事を探す」


「エルレンフェルトで雇える人もいると思います」


「それを期待してよいのか」


「全員は無理です。でも、事務、会計、外国語、軍の補給、学校で教えられる人なら欲しいところはあります」


「島へ連れて行くより、その方がよい者もいるだろうな」


「うん」


 王様は、残っていた人たちを振り返った。


「では行こう。家族を三日もホテルに置いている」


「ホテルだから大丈夫ですよ」


「それは聞いている。だから余計に、私だけ遅れているのが落ち着かん」


 やっぱり家族の話だった。



          *



 ホテルへ着いたとき、王様はロビーで立ち止まった。


 王妃が先に気づいた。


 子どもたちも続いて走ってくる。


「お父さま!」


 さすがに、ホテルの従業員もその間へは入らない。


 荷物だけ受け取って、少し離れて待っている。


 王様は子どもを抱き上げた。


「三日と言っただろう」


「長かった」


「私には短かったぞ」


「ずるい」


「何がだ」


 王妃が横から言った。


「こちらは、あなたが本当に三日後に来るのか、ずっと待っていたのですよ」


「来ただろう」


「ええ。ですから、今は何も言いません」


「今は、か」


 続きは家族だけでやってもらうことにした。



          *



 翌日のテネリフェ便で、プロイセンの王家を送った。


 ランサローテへ向かう一家だ。


 給仕さんも乗る。


 昼食も出る。


 王様は食事のあと、窓の外を長く見ていたが、軍隊の話はしなかった。


 テネリフェでスペイン側へ引き渡すときになって、ようやく聞いた。


「ランサローテには、私が連れて行ける兵の数に決まりはあるのか」


「大きな軍隊は作らない約束です」


「人数を聞いただけだ」


「その顔、アウグストさんと同じです」


「誰と一緒にする」


「だから、詳しいところはスペイン側と島の人と話してください」


 横で王妃が笑った。


 どうも、軍人の顔は家族にはよく分かるらしい。



          *



 四日後。


 プファルツ側の草地には、前より馬車が多かった。


 白い布を確認してから降りる。


 選帝侯が待っていた。


「集められたぞ」


 その後ろに、先日はいなかった顔がいくつかある。


「全員?」


「君の紙に印があった者で、来ることに同意した者はな。事情があって残る者もいる。その者については、後継や財産の扱いを別に書いた」


「見せてください」


 机代わりにした荷箱の上で書類を見る。


 誰が来る。


 誰が残る。


 誰に何を任せる。


 残る財産。


 持っていく書類。


 島へ持ち込まない公的なもの。


 かなり整理されていた。


「すごい」


「四日あったからな。それに、君が『家を残す人だけ』と言ったので仕事が減った」


「宮廷全部だったら?」


「まだ名簿を作っているところだろう」


「やめてよかった」


「私もそう思う」


 荷物も、思ったほど多くない。


 それでもミツバチちゃん一便では、人と荷物を無理なくまとめきれない。


「二回にしよう」


「私が最後でよい」


 選帝侯が言った。


「先に、年齢の高い者と、長い旅に慣れていない者を運んでくれ。私は残りの書類を確認して待つ」


「じゃあ、今日二往復?」


「できるのか」


「できます。でも日が遅くなるなら、二便目は明日にします」


「それでよい。急がせて事故を起こす意味はない」


 そこは、話が合った。



          *



 一便目をエルレンフェルトへ運んだ。


 ホテルへ入れて、ミツバチちゃんへ戻る。


 夕方の光を見て、二便目は翌朝にした。


 選帝侯へ電信を送る。


 明朝。


 同じ場所。


 同じ合図。


 返事もすぐ来た。



          *



 翌朝。


 最後の一便を迎えた。


 選帝侯と、残っていた近親者。


 必要な身の回りの人。


 荷物。


 離陸するとき、選帝侯は窓から自分の土地を見ていた。


「これで終わりですか」


 わたしが聞くと、首を振った。


「終わりではない。私はまだ選帝侯だ。帝国も、紙の上ではまだある」


「そうですね」


「だが、家族がここに残って殺される心配をしながら判断する必要はなくなった。それは大きい」


 少し間を置いてから続けた。


「妙なものだな。領地から家族を外へ出した方が、領地のことを考えやすくなるとは」


「人質みたいにならないから?」


「そういうことだ」


 帝国が崩れていくとき、王家を助ける意味は、島を六つ用意することだけではなかった。



          *



 最後の家族がホテルへ入った。


 その翌日。


 チェブラーシカは、またテネリフェへ向かった。


 行き先はエル・イエロ。


 もちろん、チェブラーシカがそこまで行くわけではない。


 テネリフェで降りる。


 スペイン側へ引き渡す。


 給油する。


 帰る。


 給仕さんは、いつものように昼食を出した。


 選帝侯は、食後の紅茶を飲みながら言った。


「六番目だそうだな」


「はい。これで最後」


「最後の島が、一番小さいのか」


「住める人数とか、水とか、畑とか、港とかを見て順番を決めたので」


「私の家は六番目だった、と」


「はい」


「正直だな」


「嘘ついても島は大きくなりません」


「それもそうだ」


 怒らなかった。


 窓の外を見て、むしろ少し面白そうにしていた。



          *



 テネリフェで最後の家族を降ろした。


 スペイン側の人が、名簿を一枚ずつ確認する。


 グラン・カナリア。


 ランサローテ。


 フエルテベントゥラ。


 ラ・パルマ。


 ラ・ゴメラ。


 エル・イエロ。


 六つ。


 まだ国の名前も、法律も、税の仕組みも、港の扱いも、決めることはたくさん残っている。


 でも、人は着いた。


 選帝侯が最後に振り返った。


「ドロテーヤ伯」


「はい」


「島が小さいことは、着いてから文句を言うことにする」


「スペインの人に言ってください」


「君には言わんのか」


「言われても大きくできません」


「それもそうだな」


 笑って、スペイン側の人たちと歩いていった。



          *



 帰りの客室には、給仕さんとフランソワさんと、わたし。


 それから、空いた座席。


 ホテルへ戻れば、スィートもファーストもまた空く。


 けれど、今度は次の王家のために取っておく必要はない。


 受付へ戻ると、従業員さんが空室表を見ながら聞いた。


「こちらのお部屋は、通常のお客様へ戻してよろしいでしょうか」


「うん。お願いします」


「承知いたしました」


 それだけだった。


 何日も皇帝や王様や選帝侯の家族が出入りしていた部屋に、次は商人や学者や旅人が泊まる。


 ホテルなのだから、それでいい。



          *



 夜。


 会議棟の机に、六つの島の紙を並べた。


 お父さまが一枚ずつ見ていく。


「全家、テネリフェまで移したな」


「うん」


「スペイン側の受領確認もある」


「あるよ」


「では、避難輸送はいったん終わりだ」


 わたしは椅子の背にもたれた。


「長かった」


「まだ終わったのは輸送だけだ」


「分かってる」


 大陸では、帝国がまだ崩れている途中だった。


 税を払えない村。


 給金の出ない兵。


 戻らない使者。


 金を貸さない商人。


 王家を島へ運んだからといって、そこが消えるわけではない。


 お父さまが、カナリアの紙を端へ寄せた。


 代わりに、帝国の地図を机の中央へ戻す。


「次はこちらだ」


「うん」


 王様たちを逃がす場所はできた。


 だから今度は、王様たちがいなくなっても、人が暮らしていける方を考えなければならなかった。



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第66章の小さな説明

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【神聖ローマ帝国の軍隊とお金】

 本章では、兵士・馬・大砲が残っていても、それだけでは軍隊を動かせない状態を描いています。兵糧、飼葉、荷車、宿営、橋の修理、蹄鉄、負傷者の収容などには、その場で使える信用とお金が必要です。

 四か国共同銀行への返済遅延、帝国内部での負担の押しつけ合い、徴税への抵抗が重なり、紙の上には兵力が残っていても、実際の軍事行動を続ける力が失われていきます。


【王朝は逃がす、宮廷は逃がさない】

 避難させるのは、原則として君主本人、配偶者、子どもなどの近親者と、生活に本当に必要な少数の随員です。宮廷官僚、将軍、侍従、近衛部隊などを一緒に島へ移して、旧国家をそのまま小さく再現することはしません。

 残る人々は、本人の希望と能力に応じて、外交、行政、銀行、教育、軍政など別の仕事へ移れるようにします。「王家を守ること」と「旧宮廷を保存すること」は別の仕事として扱っています。


【カナリア諸島の七島】

 本章の島の配分は、この物語世界で新しく作る仕組みです。


 テネリフェ――スペイン

 グラン・カナリア――ハプスブルク家

 ランサローテ――ホーエンツォレルン家

 フエルテベントゥラ――ヴェッティン家

 ラ・パルマ――バイエルンのヴィッテルスバッハ家

 ラ・ゴメラ――ハノーファーのヴェルフ家

 エル・イエロ――プファルツのヴィッテルスバッハ家


 島の単純な面積だけではなく、当時スペイン側から得られる人口、集落、水場、耕地、港、船便などの報告を見て、実際に人が暮らせる条件を重視して順番を決めています。


【テネリフェはスペインのままです】

 テネリフェは六王家へ配る島にはしません。スペイン側が持ち続け、港、行政、医療、物資輸送、各島との船便などを支える中心島になります。

 チェブラーシカも六島を順番に回りません。エルレンフェルトからテネリフェまで運び、そこで王家をスペイン側へ引き渡し、燃料を補給してエルレンフェルトへ戻ります。その先の各島への移動は、現地の港や船をよく知るスペイン側が担当します。


【島に住んでいる人は王家の持ち物ではありません】

 「島を王家へ渡す」といっても、そこに以前から暮らしている住民まで王家の所有物になるわけではありません。

 本章では、住民の権利、税、法律、港の扱いなどをスペイン側や現地の人々と決めたうえで、小さな国家としての統治の形を用意する方向にしています。王家を助けるために、島民へ無制限の負担を押しつける制度にはしません。


【大きな軍隊は島へ持っていきません】

 六つの小国家は、旧帝国の軍隊をそのまま移して再軍備するための場所ではありません。近衛や野戦軍を丸ごと運ぶことはせず、海上交通や外部からの大きな脅威についてはスペイン側との協力を前提にしています。

 そのため、王家は残っても、以前と同じ規模の軍事国家を島で再現することはできません。


【危険地域への着陸】

 帝国内では、領主軍、反乱側の自警団、給金を失った兵、外国軍などが入り交じり、地上から見ただけでは誰の部隊か分からない場所もあります。

 そこで本章でも、知らない武装集団の近くへいきなり降りません。上空から確認し、赤い布を付けた通信筒を落とし、安全な着陸場所を空けてもらい、武装した人を離して、白布三枚で合図してもらってから着陸します。機体が銃撃に耐えられても、乗降中の人間は耐えられないためです。


【ホテルは一時的な避難場所です】

 エルレンフェルトのホテルは、王家をそのまま長期間住まわせる新宮殿ではありません。食事、清掃、洗濯、風呂、寝具などが最初から揃っているため、少人数で避難してきた一家が、その日から生活を始められる中継地として使います。

 カナリアへ移った一家の部屋は順次通常客へ戻し、次の王家だけのためにホテル全体を固定しておくこともしません。


【ハノーファーのゾフィー】

 ハノーファー側では、ゾフィーも避難対象になります。ただし、この世界ではアン女王が健康で、イングランド王位継承の将来は史実どおりとは限りません。そのため、島へ避難することと、将来の王位継承上の位置を失うことは別問題として扱っています。


【ブランデンブルクとプロイセン】

 ホーエンツォレルン家の場合、ブランデンブルクは神聖ローマ帝国内ですが、プロイセン王国側は帝国の外です。本章でも、この二つを同じ法的な箱として扱わず、王家の避難と、それぞれの領域・行政・軍の扱いを分けて考えています。

 王本人は家族を先に避難させたあと、三日だけ現地に残り、行政や軍の整理をしてからエルレンフェルトへ移ります。


【六家を助けても帝国問題は終わりません】

 本章で終わるのは、王家の緊急避難輸送です。税制の崩壊、信用の消失、給金のない兵、各地の騒乱、外国軍の接近などは大陸側に残っています。

 そのため章末では、カナリア諸島の書類を机の端へ寄せ、もう一度帝国の地図を中央へ戻します。次に必要なのは、王様を逃がす仕事ではなく、王様がいなくなったあとにも住民が暮らせる仕組みを考える仕事です。



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