65プリンツ・オイゲン移籍編 今回は神聖ローマ帝国無敵の将軍 プリンツオイゲンが主役です。
第65章 プリンツ・オイゲン移籍編
プリンツ・オイゲンのところへ、サヴォ家から呼出状が届いたのは、朝の報告を終えたあとだった。
封を切り、二度読んだ。
軍務上の命令ではない。帝国からの文書でもない。家の者として、一度こちらへ来るように、という内容だった。
副官が顔を上げた。
「サヴォ家からですか。何か急なことでしょうか」
「家の用事らしい。私自身に来いと書いてある。軍務の命令ではないから、ここは任せるよ」
「では、お戻りになるのは数日ほどでしょうか」
オイゲンは手紙をもう一度見た。
「そこまでは書いていないな。まあ、そう長くはかからんだろう。戻る日が決まったら知らせる」
本人はそのつもりだった。
現在の駐屯地からサヴォ家のところまでは、自分で移動した。帝国軍の部隊を伴う理由はない。副官も従兵も、身の回りを世話していた者まで軍に属する人間である。親族からの呼出しに連れて行くわけにはいかなかった。
荷物も必要なものだけにした。
「それじゃ、戻るまで頼んだ。何かあれば、いつもの経路で知らせてくれ」
「承知しました。どうぞお気をつけて」
それが、部下たちへのいつもの挨拶になった。
*
サヴォ家に着いてみると、話は思っていたより大きかった。
どろちゃんが普段「サヴォさん」と呼んでいるのは、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ二世だった。この時点では、まだ王ではない。サヴォイア家の本流を率いる公爵である。
一方のプリンツ・オイゲンは、フランソワ・ウジェーヌ、あるいはイタリア語ならエウジェーニオ・フランチェスコ・ディ・サヴォイアと呼ばれる人物だった。父はソワソン伯ウジェーヌ・モーリス、母はオリンピア・マンチーニ。サヴォイア=カリニャーノ家につながる王侯家の公子ではあるが、自分で治める公国を持つ君主ではない。
ヴィットーリオ・アメデーオ二世とオイゲンは、同じサヴォイア家の別の枝に属する親族だった。
だからこそ、サヴォ家が「他国で保証債務を抱えて首の回らなくなった一族の者を引き取る」と言えば、少なくとも外形はきちんと家門内部の処理になる。
「まあ、まず座ってくれ。少し長い話になる」
「その言い方だと、あまり愉快な話ではなさそうだな」
「愉快なら呼出状までは出さんよ。オイゲン、お前、自分が何に署名したのか、本当に分かっているのか」
机の上に、見覚えのある証書が置かれた。
どろちゃんから帝国の細かな決済資金を借りたときのものだった。
「帝国の支払いに必要な金だ。私が保証した。それだけの話だろう」
「一枚なら、まだそう言っていられたかもしれんな。問題は、これが一枚ではないことだ。そこまで把握しているか」
「何度か同じ形で借りたのは覚えているが……」
さらに数枚置かれた。
オイゲンの顔から、少しずつ表情が消えた。
「……これは、どこから持ってきた」
「ドロテーヤ嬢から買った。帝国への債権と、お前の保証に関する権利をまとめてな」
「買ったのか。彼女が売った?」
「そうだ。こちらが買うと言ったら、妙にあっさりしたものだったよ」
オイゲンはしばらく黙った。
「彼女は、何か条件を付けたのか」
「いや。『売った後はサヴォさんのものだから、どうするかはそちらで決めて』だそうだ」
オイゲンは額に手をやった。
「……そう言いそうだ」
「そこで感心するな。こちらは、その後始末をしているところなんだ」
サヴォ側の親族は、証書の束を指先で軽く叩いた。
サヴォ家が買ったのは、紙切れになった債権ではなかった。
帝国側の決済は遅れていたが、オイゲン自身にはまだウィーンの住居をはじめ、売却できる資産が残っていた。
そこで、それらは順に処分された。
ウィーンの商人たちが買い手になった。
急いで現金化する以上、値段は相場より下がる。屋敷も家財も、そのほか換金できる資産も、時間をかけて最良の買い手を探すのではなく、割引した価格で売られていった。
その代金は債務の整理へ回った。
結果として、サヴォ家がどろちゃんから買い取った債権についても、額面どおりではないにせよ相当部分を回収できた。サヴォ家が負担した損失は、主として急いで資産を処分したことによる割引分であって、債権全体を丸ごと失ったわけではない。
ただし、その帳尻が合ったころには、オイゲンの側には何も残っていなかった。
現金がない。
ウィーンの家もない。
土地もない。
金融資産もない。
売って換金できるものは、すでに債務整理のために売られている。
サヴォ家が「親族だから面倒を見る」と言わなければ、王侯家の公子であり、帝国の名将でもある四十歳の男が、自分の住む場所さえ持っていない状態だった。
「お前は戦場ではあれだけ用心深いのに、どうして金の話になると、こう簡単に自分の名を書けるんだ」
「帝国の支払いだ。私が使った金ではないし、最後には帝国が払う」
「その『最後』がいつ来る。誰が払うのかさえ、まだ決まっていないのだろう」
「帝国内で負担を決めることにはなっている。いずれは……」
「その『いずれ』が来るまで、お前個人の財産が保証にぶら下がる。そこを分かっていなかったのか」
オイゲンは、証書の束を見たまま答えなかった。
オイゲンは答えなかった。
四か国共同銀行から帝国が借りた大口資金も、返済する金そのものが全くないわけではなかった。問題は、帝国内のどの国がどれだけ負担するのかがまとまらないことだった。
帝国共通の支出として扱うのか。
皇帝領が多く負担するのか。
関係した領邦だけが出すのか。
自由都市はどうするのか。
人口や税収に応じて割るのか。
皇帝のところにある白い板には、それらを整理するための文字と線が増え続けている。
整理するほど、決まっていないことだけがよく分かる。
その一方で、職人の賃金や資材代は待ってくれない。
オイゲンは説明会で知り合ったどろちゃんへ、最初はエルレンフェルトから短期間だけ貸してもらえないかと尋ねた。
「国から貸すと、決裁するのに時間がかかるよ」
どろちゃんは少し考えてから、あっさり言った。
「私のお金でいい?」
オイゲンは、そのとき深く考えなかった。
どろちゃんの個人資産は、普通の貴族令嬢の財布ではなかった。
鉄鋼、鉄道、燃料、発電その他の技術に関する権利があり、鉄道が延び、製鉄所が動き、発電所が増えるほど、各国から金が入った。
帝国の小口決済を一時的につなぐくらいなら、個人で出せてしまった。
そしてオイゲンは、
「帝国が支払う。私が保証しよう」
と言った。
一度ではなかった。
何度も同じことがあり、最後には一件ごとの保証ではなく、継続して発生する対象債務をまとめて保証する「根保証」の形になった。
どろちゃんたちの金融実務では意味のはっきりした言葉だったが、オイゲンは、その重さを軍務上の「私が責任を持つ」と大差ないものとして受け取っていた。
*
「話は分かった。それで、私はいつ駐屯地へ戻ればいい」
「そこなんだが、すぐ戻すつもりはない。しばらくはこちらで過ごしてもらいたい」
オイゲンは一瞬、聞き違えたような顔をした。
「私は軍務の途中だぞ。親族から呼ばれたから来ただけで、数日で戻るつもりだった。荷物だってほとんど持ってきていない」
「分かっている。だから軍務の扱いも含めて、こちらからきちんと話を通す。着替えでも馬でも、当面必要なものはこちらで用意するよ」
オイゲンは、机の上の証書を見た。
「……まさか、私をここへ拘束するつもりではないだろうな」
「借金をした親族を縛って置いて、こちらに何の得がある。そうではない。お前が帝国の公務で必要な支払いを自分の遊興に使ったわけではないことくらい、こちらも分かっている」
「なら、なおさら戻って仕事を――」
「戻った翌日に、また『私が保証する』と署名されたら困るんだよ。まずは一度、帝国とお前の財布を切り離したい。それが済むまでは、ここで暮らしてくれ」
オイゲンはしばらく黙り、やがて部屋を見回した。
「つまり、食事も部屋も、こちらに世話になるということか」
「馬も必要なら使えばいい。家の者として扱う」
「……それを普通は、食客と言うのではないか」
「そう言いたければ、そう言ってもいい」
プリンツ・オイゲン、四十歳。
戦場では名の知られた軍人である。
家柄も申し分ない。
そして、その日から親族の家の食客になった。
*
待遇が悪ければ、まだ腹も立った。
悪くないのである。
朝になれば食事が出る。
部屋は整えられている。
必要な衣服も用意された。
馬を使いたければ頼める。
書斎まで使わせてもらえる。
ただし、全部サヴォ家のものだった。
最初の朝、オイゲンは廊下へ出て立ち止まった。
いつもなら、身支度のどこかに軍の者がいる。
副官も、従兵も、使い走りをする兵もいない。
ここにいる使用人は、皆サヴォ家の使用人であって、自分の部下ではなかった。
一人が丁寧に頭を下げた。
「何か御用でしょうか」
「……いや」
「承知いたしました」
去っていった。
オイゲンは自分の部屋へ戻った。
*
数日後。
数日後、朝食の席で親族が何気なく尋ねた。
「今日はどうする。昨日もかなり長いこと町を歩いていたようだが」
「昨日は西側しか見ていない。今日は川の方まで行ってみようと思っている」
「なるほど。ずいぶん念入りな見物だな。せっかく軍務から離れたのだから、少しくらい休暇と思って過ごせばいい」
オイゲンはパンを置いた。
「私はもう十分に休んでいる。昨日も町を見ただけで、報告書一枚書いていない」
「それなら結構じゃないか」
「その顔で言われると、まったく結構に聞こえん」
そこで会話が途切れた。
朝食は、腹立たしいほどきちんとうまかった。
*
別の日には、書斎で一日を過ごした。
軍事報告を読む仕事はない。
部下の配置を決める必要もない。
補給表も来ない。
借りた本を一冊読み終えた。
二冊目も半分まで進んだ。
夕食になると、また親族が聞いた。
「今日は書斎にいたそうだな。何か面白いものでも見つけたか」
「本を一冊読み終えた。二冊目も半分まで進んだ。……その顔は何だ」
「いや、ずいぶん読書が進むものだと思ってな」
「仕事が来ないからだ。毎日『今日は何をした』と聞かれるのも、そろそろつらいぞ」
「では、働き口を探そうか。もっとも、こちらにはお前に任せるような戦争もないし、屋敷の警備をさせるわけにもいかん」
「だったら最初から、そういう話をしてくれ」
親族は少し笑って、杯を置いた。
「こちらも、お前の借金を全部ただで肩代わりしたわけではない。ウィーンの商人に急いで売ったから値は落ちたが、債権の大半は回収できている。だから、そんなに飯を食うたび申し訳なさそうな顔をするな」
「そう言われると、ますます食べにくいんだ」
食卓の端で、今度ははっきり笑い声が漏れた。
*
婚姻の話まで出たのは、その少しあとだった。
「ところでオイゲン、お前は婚姻をどう考えている」
「なぜ、仕事の話からそこへ飛ぶ」
「飛んでいない。領地はない、財産も今はない、それなのに家柄だけは妙に高い。しかも四十歳だ。貴賤結婚を避けようとすれば、放っておくほど縁談は難しくなる」
「年齢まで並べなくても、事情は自分で分かっている」
「だから、婿に出る方がよいのか、こちらへ嫁を迎える方がよいのか、考えておいた方がいいと言っている」
オイゲンは嫌そうに杯を持ち上げた。
「私は家財道具ではないぞ。『どこへ出すか』という言い方はやめてくれ」
「では先に、働き口を見つけよう。食客のままでは縁談以前の問題だ」
「……それを本人の前で言う必要があるか」
「言わないと、お前は本を三冊目まで読むだろう」
「分かった。働き口の方を先に頼む」
*
エルレンフェルトから話が来たのは、その後だった。
いきなり軍を任せるという話ではなかった。
参謀。
軍政。
兵站。
防衛。
外交。
必要なときに意見を聞きたい、という。
話を聞いたオイゲンは腕を組んだ。
「つまり、当面は相談役か。自分の兵も部隊も持たず、指揮権もない。軍政や兵站、防衛、外交について、必要なときに意見を出すと」
「そういうことだ。いきなり別の国の軍を預ければ、帝国から見ても角が立つ。向こうも、そのくらいは考えている」
「ずいぶん何も持たない役目だな」
「ここで三冊目を読むよりは、ずっと仕事らしいと思うが」
オイゲンは間を置かずに答えた。
「分かった。行こう」
*
手続きが済み、エルレンフェルトへ帰化する話までまとまると、迎えに来たのはどろちゃん本人だった。
サヴォ家の者が空を見上げる。
白い双発機が降りてくる。
機体には、
「Пчёлка(プチョールカ。ミツバチ。)」
と書かれていた。
ミツバチちゃんだった。
後部扉が開き、どろちゃんが降りてきた。
「オイゲンさん、迎えに来たよ。思ったより早く降りられた」
「本当に飛行機で迎えに来るとは思わなかった。馬車か何かだと思っていたよ」
「荷物、どれくらいある? 後ろはかなり載るから大丈夫だけど」
「それほどない。駐屯地から出るとき、軍の者は誰も連れて来られなかったからな」
どろちゃんは、足元の荷物を見て少し黙った。
「……ほんとに、これだけなんだね」
副官も従兵も、身の回りを世話していた兵もいない。
オイゲン個人の荷物だけだった。
どろちゃんは、それ以上は言わなかった。
「じゃあ、これならすぐ積めるね。向こうで足りないものは揃えればいいよ」
サヴォ家の親族が、送り出す段になってようやく笑った。
「今度はちゃんと働いてこいよ。たまに顔を出すのは構わんが、飯だけ食いに戻ってくるのはなしだ」
「その話はもう十分聞いた。仕事をするために行くんだ」
「それなら結構。縁談の方も、こちらで何か見つかったら連絡する」
「それだけは、本人に断りなく決めないでくれ」
荷物を持っていたどろちゃんが、そこで振り返った。
「縁談って、お嫁さんの話?」
「ドロテーヤ嬢、その部分だけ聞かなかったことにしてくれ」
「うん。じゃあ向こうに着いてから聞くね」
「それは聞かなかったことになっていない」
*
エルレンフェルトへ着いて、別の問題が分かった。
オイゲンには、本当に付き人が一人もいない。
軍人だった者の生活の世話をしていたのも軍人である。帝国軍を離れるとき、それらを持ってくることはできなかった。
そこでフランソワさんが、友人のハンナさんに頼んだ。
「しばらくの間だけお願いできませんか。こちらの暮らし方が分かれば、殿下ご自身で何とかされるでしょうから」
「ええ。フランソワさんのお友達なら、私も安心です」
ハンナさんはオイゲンに丁寧に頭を下げた。
「ハンナと申します。こちらで何を誰に頼めばいいのか、最初は分かりにくいと思いますので、しばらくお手伝いいたします」
「それはありがたい。正直に言えば、何を頼めばよいのか以前に、誰に頼めばよいのかもまだ分かっていないんだ」
「そこからご案内します。分かってしまえば、難しいことはありませんよ」
翌朝、オイゲンは書類を手にして廊下でハンナさんを呼び止めた。
「ハンナ殿、これをお父上のところへ届けたいのだが、こちらでは誰に渡すのが普通なんだ。伝令を呼ぶほどの距離でもないようだし」
「でしたら私がお預かりして、事務の方へ回しておきます。急ぎなら、その旨も添えておきますね」
「なるほど。軍の癖で、何でも伝令を探してしまう」
「そのうち慣れますよ」
少しして今度は、着替えた服を手にして戻ってきた。
「ついでにもう一つ聞いていいか。この服は自分で持っていくつもりなんだが、洗濯物を集める場所がどこなのか分からない」
ハンナさんは笑いをこらえた。
「場所をご案内してもいいですけれど、今日はお預かりします。次から覚えていただければ十分です」
「助かる。何万人分の補給表より、自分一人の暮らしの方が勝手が違うものだな」
軍隊では何万人という兵の移動と補給を考えていた男が、自分の上着をどこへ出すのか分からなかった。
*
それでも、仕事の話になれば早かった。
鉄道を見れば輸送量を聞く。
橋を見れば荷重を聞く。
電信を見れば、切断された場合の代替手段を聞く。
飛行場を見れば、敵が近づいた場合の防衛と燃料の保管位置を聞く。
お父様も、次第に何かあるたびオイゲンへ聞くようになった。
「殿下は、こちらでは何をご担当なのでしょう。軍務の方と伺ってはいるのですが」
役人の一人に尋ねられ、オイゲンは少し考えた。
「肩書きは相談役らしい。軍政も兵站も防衛も外交も、何かあれば意見を求められるので、正直なところ私にも範囲がよく分からん」
横からどろちゃんが口を挟んだ。
「困ったときに聞く人、でいいと思うよ。分かりやすいし」
「それを正式な役職名にするのはやめてくれ、ドロテーヤ嬢」
「便利なのに」
「便利かどうかと、役職名として成立するかは別の話だ」
*
帰化後しばらくして、どろちゃんはオイゲンを射撃場へ連れていった。
「見せたいものがあるの」
持ってきたのは、どろちゃんが単品で作らせた狙撃銃だった。
「これ、前にフランスの派手な軍服の人にも見せたことがあるよ」
「フランス軍人にも、これを見せたのか」
「撃つところだけね。あの人はまだ外国の軍人さんだったから、銃の近くまでは来てもらわなかった」
「では、私は近くで見てもよいということか」
どろちゃんは、むしろ当然という顔をした。
「オイゲンさんは、もううちの人でしょ。質問があるなら、そのあとちゃんと見てもらうよ」
それだけだった。
標的は、以前よりずっと遠かった。
五百メートルほど先に、瓶が五本置かれている。
一本だけ、高い杭の上。
残り四本は、低い台の上だった。
オイゲンは距離を見てから、どろちゃんを見た。
「五百メートルほどあるぞ。本当にここから撃つのか。前に見せたときは二百だったのだろう」
「うん。でも、この銃なら五百メートルでも当たるよ。今日はそっちも見てもらおうと思って」
どろちゃんは、それを特別なことのようには言わなかった。
伏せる。
オイゲンは標的より先に、その姿勢を見た。
立たない。身体を大きく見せない。
一発。
高い杭の上の瓶が消えた。
オイゲンの表情が止まった。
説明はいらなかった。
馬上の指揮官。
周囲より目立つ軍服。
部下たちが視線を向ける場所。
遠くからでも、そこに偉い者がいると分かる位置。
戦場で、自分が何度そこにいたか。
どろちゃんは立たなかった。
銃口へ火薬も弾も入れない。
手元を短く操作した。
二発目。
低い台の瓶が一つ消えた。
三発目。
また一つ。
四発目。
残り一つ。
五発目。
最後の瓶も砕けた。
五百メートル。
五発。
五本。
オイゲンはしばらく何も言わなかった。
高い杭の上だけを見ていた。
自分は何度も戦場へ出た。
勝ったこともある。
危ない場所へ自分から出たこともある。
母は、そのたびに心配した。
どれほど軍人として名を上げても、出征する息子を見送る母にとっては同じだった。
自分は何度も、大丈夫だと答えてきた。
五百メートル先の高い瓶が最初の一発で消えた。
もし、これを持つ相手と戦っていたら。
自分が今ここに立っているのは、自分の判断や腕だけのおかげではない。
相手が、まだこの銃を持っていなかった。
それも理由の一つだった。
「……ドロテーヤ嬢。最初の一本だけ高いところへ置いたのは、やはりわざとなのだな」
「うん。オイゲンさんなら、何を意味するか分かると思った」
「そうか。なら、説明はいらない」
それ以上は聞かなかった。
分かっているからだった。
どろちゃんは撃ち終えた銃の安全を確かめた。
どろちゃんは撃ち終えた銃の安全を確かめ、少しだけ銃を見た。
「これね、祖国を守った銃だよ。この形の銃を持って、ものすごく大きな戦いをした人たちがいたの」
オイゲンの目が、また銃へ戻った。
「ということは、珍しい試作品を一挺だけ作ったという話ではないのだな。実際の戦争で、兵が使った?」
「うん。ここにあるのは一つだけ作ってもらったものだけど、もとになった銃はたくさん作られて、本当に戦争で使われたよ」
その一言で、意味が変わった。
よく当たる変わった銃を一挺作ったのではない。
どこかの国がこれを兵器として作り、兵が持ち、戦争をした。
そして、その国を守った。
「それなら、なおさら近くで見たい。撃ち終わった後で構わないから、機構も見せてもらえるか」
「もちろん。安全を確認したら、こっちへ来ていいよ」
今回は止める者はいない。
オイゲンはまず外から見た。
照準器。
銃の後ろ側にある機構。
銃口から装填する必要のない構造。
どろちゃんが五発のあいだ繰り返していた短い操作。
「二発目を撃ったあたりから、私は標的よりあなたの手元を見ていた。五百メートルで当たることも異常だが、それ以上に、なぜもう次が撃てるのか分からなかったんだ」
「銃口から入れないで、後ろから次の弾が入るからだよ」
「そこまでは見れば分かる。だが、それだけでは五発とも同じように当たる理由にならない」
「銃も弾も、最初からそういうふうに揃えて作ってあるの。どっちかだけじゃだめだよ」
オイゲンは少し黙った。
「銃身の中も見せてもらえるか。外から見ただけでは、まだ分からないことが多すぎる」
「いいよ。こっちからなら見えるから、少し待ってね」
どろちゃんは銃口を射線方向へ保ったまま、機関部を開いて安全を確かめた。
オイゲンは、そこで初めて銃身の内側まで見ることができた。
「……中には溝まで切ってあるのか」
「あるよ。でも、昔の前込めのライフルと同じように考えない方がいいと思う」
オイゲンはもう一度、五百メートル先を見た。
施条された銃そのものなら、存在を知らないわけではない。
だが、彼の知るそれは、こういう銃ではなかった。
命中を得るために、装填の手間を我慢する銃。
軍隊の普通の歩兵銃とは別の、扱いにくい特殊なもの。
目の前にあるのは、その延長として簡単に理解できるものではなかった。
遠くへ当てる。
次をすぐ撃つ。
五発とも同じように撃つ。
その三つが一挺の中で同時に成立している。
「ここにあるのは、この一挺だけなのか。同じものを増やすこと自体はできる?」
「作ろうと思えばできるよ。でも、簡単にたくさん作るつもりはないの」
「弾も一発ごとに適当に作るのではなく、同じ寸法、同じ条件で揃えるわけだな」
「そう。銃だけ同じでもだめだから」
オイゲンの質問が速くなった。
「では、雨の中ではどうなる。汚れたときは。何発くらい続けて使える。兵に持たせるなら、どういう者を選ぶべきだ。照準器が壊れた場合はどうする。弾の補給は――」
「オイゲンさん、ちょっと待って。質問、多いね」
「これだけ見せられて、二つ三つで済ませろという方が無理だよ。私は軍人なんだから」
どろちゃんは笑った。
しかしオイゲンは、そこでようやく別のことに気づいたように彼女を見た。
「それと、銃とは別にもう一つ聞きたい。ドロテーヤ嬢は十七歳だったな。兵でも猟師でもないのに、五百メートルで五発とも当てている」
「ときどき練習してるからね。これ、前から使ってるし」
「『ときどき』だけで済む射撃には見えなかったが……前から、というのはいつからだ」
「かなり前からだよ」
オイゲンは少し眉を上げたが、それ以上は追わなかった。
オイゲンは、それ以上は聞かなかった。
どろちゃんの「前から」には、ときどき普通の年齢の計算では説明できないものが混じる。
それはもう、少し分かってきていた。
少し離れたところでハンナさんが見ていた。
つい先日まで、洗濯物をどこへ出すのか分からなかった人である。
いまは五百メートル先の標的と一挺の銃を前にして、質問が止まらない。
どろちゃんが、開いた機関部を指しながら言った。
「フランスの人には、ここまで見せてないよ。あの人は外国の軍人さんだったから」
「それは当然だろう。むしろ、私にここまで見せていることの方が重い」
オイゲンは機関部をもう一度見た。
「帰化したというのは、こういうことでもあるのだな。これを知った以上、相談役として知らなかったことにはできない」
「だから見せたんだよ。一緒に考えてほしいから」
オイゲンは遠くの高い杭を見た。
瓶はもうなかった。
「最初に考え直すべきなのは、目立つ指揮官を平気で戦場の前へ出すことだな。あの高い瓶を見れば、嫌でも分かる」
「うん。オイゲンさんも、そういうところに何度もいたんでしょ」
「いた。だから今になって、自分がずいぶん運よく生き残ったらしいと分かった」
どろちゃんは少しだけ首を傾けた。
「じゃあ、生きててよかったね」
「それを母上の前では言わないでくれ。昔から出征のたびに心配されていたんだ。今さら『相手がこの銃を持っていなかったから助かった』などと聞かせたら、また話が長くなる」
「それは、たぶん心配されるね」
*
オイゲンがエルレンフェルトでの暮らしに少し慣れたころ、サヴォ家から電信が届いた。
アルプスを越える電信線は、ほかの地域より開通が遅かった。
山を越えて直接つなぐより先に、南へ回してモナコを経由する線が通り、途中にはすでに中継器も入っている。以前なら何日もかかった連絡が、いまではその日のうちに届くようになっていた。
電文を読んだどろちゃんが、オイゲンを探しに来た。
「オイゲンさん、サヴォさんから電信が来たよ。お母様と、ウィーンで面倒を見てもらっていた親類の人たちも、いったん向こうへ集まったって」
オイゲンの手が止まった。
「母まで、もうサヴォへ移ったのか」
「うん。だから、今度はこちらから迎えに行こうと思ってる」
「またミツバチちゃんで行くのか」
「今度はチェブラーシカ。人数も荷物もあるし、お母様もいるでしょ。長く乗るなら座席に余裕がある方がいいし、ちゃんとトイレもあるから」
「なるほど。大きい方を出すわけか」
オイゲンは少しだけ困った顔をした。
「しかし、母にいきなり飛行機へ乗れと言うのは、なかなか勇気が要るな」
「馬車で何日もかけてアルプスを越えるより、ずっと楽だと思うよ。途中で宿を替えなくていいし」
「理屈ではそうなんだが、本人が空を飛ぶことをどう思うかだな」
「その辺はサヴォさんにも先に説明してもらうよ。それに、向こうの滑走路は何度もミツバチちゃんで使ってるから、状態も分かってる」
どろちゃんは当然のように続けた。
「前から、滑走路の部分だけは草刈りや地面の手入れをお願いしてあるの。サヴォさん、ちゃんと維持してくれてるから、チェブラーシカでも入れると思う」
「いつの間に、彼は飛行場の管理まで引き受けたんだ」
「飛行場全部じゃないよ。私たちが降りるところだけ。そこが使えれば十分でしょ」
「こちらから頼んでおいて何だが、それだけでも十分大仕事に聞こえるよ」
どろちゃんは電文を折った。
「じゃあ、行く日を返しておくね。オイゲンさんも一緒に行くでしょ」
「もちろん行く。ただ、母には先に『空を飛んで帰る』と、できるだけ穏やかに説明しておいてくれ」
「サヴォさんがもう説明してると思うよ」
「それを聞くと、なぜか余計に不安になる」
*
出発前、どろちゃんはモナコ経由の電信線で時刻を送った。
サヴォ家からは、滑走路の状態、風、迎えに出る人数まで返ってきた。
中継器が入ってからは、長距離でも音が弱くなりすぎることが少なくなっている。
山の向こうと、ほとんど同じ紙を見ながら話しているようなものだった。
「これは便利だな。山の向こうと、ほとんどその日のうちに話ができる」
オイゲンが電文を見ながら言うと、どろちゃんが笑った。
「帝国にも欲しくなった?」
「欲しい。軍務にも行政にも、使い道はいくらでもある」
「じゃあ、誰が払うか先に決めないとね」
オイゲンはしばらく黙ってから、ゆっくりどろちゃんを見た。
「ドロテーヤ嬢。今、その話を入れる必要はあったか」
「ちょっとだけ」
「一つだけはっきりした。私はもう、帝国のためでも根保証だけはしない」
「うん。それは覚えておいた方がいいと思う」
*
チェブラーシカは、ミツバチちゃんよりずっと大きかった。
サヴォ家の上空へ来るころには、どろちゃんも何度も見た景色だった。
以前ミツバチちゃんで出入りした場所が下に見える。
滑走路部分は、頼んだとおり維持されていた。
草は短く、轍になるような深い凹みもない。排水も悪くない。
「ちゃんと手入れしてくれてる。草も短いし、深い轍もなさそう」
「疑っていたわけではないのだろう」
「もちろん。でも、飛行機で使う場所は、自分の目でも見るのが大事だから」
チェブラーシカはそのまま進入した。
オイゲンは窓の外を見ていた。
自分が食客として何週間も過ごした屋敷が近づいてくる。
「またここへ戻ってきた気分はどう?」
「前はここで飯だけ食っていたからな。今は仕事をしてから来ている分、少しましだ」
「やっぱり、まだ気にしてるんだ」
「できれば、その時期のことは少しずつ忘れさせてくれ」
*
機体が止まると、サヴォ家の者たちが待っていた。
その中に、オイゲンの母もいた。
オイゲンは、どろちゃんより先に降りた。
「母上」
母は息子を上から下まで見た。
「少し痩せたのではない? ちゃんと食べているのでしょうね」
「気のせいです。食事なら、むしろ十分すぎるほど出ています」
「それならいいけれど。借金で大変だったと聞いたときは、何をしているのかと思いましたよ」
「私が使った金ではありません。帝国の支払いを一時的につないだだけです」
「その説明はもう聞きました。それでも、自分の名前で保証したのでしょう」
後ろでサヴォ家の親族が、わざとらしく咳払いをした。
「一度ではなく、根保証までしていた」
「そこまで母上に説明しなくてもいいだろう」
「根保証、というのは何です?」
オイゲンは一度目を閉じた。
「母上。その話は機内でゆっくりします。それより先に、今日乗っていただく飛行機の説明を――」
「いま、きれいに話をそらしましたね」
どろちゃんは少し離れたところで、何も聞いていない顔をした。
*
今回、迎えるのはオイゲン一人ではなかった。
ウィーンで母の面倒を見ていた親類も、サヴォ家が一度こちらへ集めていた。
帝国軍の副官や従兵ではない。軍務と切り離せる、家族と親類の側の人々である。
荷物も、一人分だった前回とはまるで違った。
積み込みを見ていたどろちゃんが、並んだ箱の数に目を丸くした。
「これ、全部持っていくの? 前にオイゲンさんを迎えに来たときとは全然違うね」
「今回は家族が生活するための荷物だ。私一人のときと一緒にしないでくれ」
「だって、あのときほんとに少なかったから」
「その話は、もうサヴォでも十分されたよ」
「分かった。じゃあ、重い箱から積もう」
チェブラーシカの後部へ、衣類、箱、書類、身の回りの品が順に積み込まれていく。
高齢の者には、乗り降りに時間を取った。
どろちゃんは急かさなかった。
「お手洗いは中にありますから、我慢しなくて大丈夫ですよ」
その説明には、何人かが明らかに安心した顔をした。
馬車で何日も揺られ、宿を替えながら山を越える旅ではない。
座席に座り、必要なら立ち、用を足すこともできる。
揺れはあるが、移動時間は比べものにならないほど短い。
オイゲンの母は、乗り込んでから機内を見回した。
「これが、あなたの新しい国で使っている飛行機なのね」
「そうです。ただ、『私の国』という言い方には、まだ少し慣れません」
「帰化したのでしょう。なら、もう他人の国のように言う必要はないのではなくて?」
オイゲンは少し黙ってから、窓の外を見た。
「……そうですね。まだ口が追いついていないだけなのだと思います」
*
離陸してしばらくすると、母は窓の外を見た。
「本当に、このまま山を越えてしまうのね。馬車なら何日もかかるところでしょう」
「ええ。私はまだ相談役なので、こういう飛行機に乗って毎日どこかへ行く仕事ではありませんが」
「相談役というのは、具体的には何を相談されるの?」
「軍政、兵站、防衛、外交、それから新しい設備の使い方まで。いろいろです。自分でも境目がよく分かりません」
通路の向こうから、どろちゃんが顔を出した。
「困ったときに聞く人、でだいたい合ってるよ」
「ドロテーヤ嬢、その説明を母上にまで広めないでくれ」
「だって分かりやすいでしょ」
母が笑った。
「少なくとも、ちゃんと働いているのね。それなら安心しました」
「サヴォでは、働こうにも私向きの仕事がありませんでしたから」
「でも、ご飯はきちんと食べさせてもらっていたのでしょう?」
「母上。その話だけは、もうサヴォで十分に聞きました」
どろちゃんは笑いそうになって、前を向いた。
*
エルレンフェルトへ到着すると、ハンナさんも迎えに出ていた。
「お帰りなさいませ。皆さま、お疲れでしょうから、まず中でお休みになれるようにしてあります」
「ありがとう。『ただいま』と言ってよいのか、まだ少し迷うな」
「もうこちらがお住まいですから、私はそのつもりでお迎えしています」
オイゲンの母が、ハンナさんを見た。
「あなたが、この人の身の回りを手伝ってくださっている方?」
「はい。こちらの生活に慣れるまでの間だけです。今はもう、ご自分で分かることもずいぶん増えました」
「ご迷惑をかけていませんか。軍の中では人に世話をしてもらうのが当たり前だったでしょうから」
「母上、私はもう四十歳です。そこまで子供のように言わなくても」
ハンナさんが少し笑った。
「最近は、洗濯物を出す場所もご存じですし、書類をどこへ回せばよいかも分かっていらっしゃいます」
「ハンナ殿、それは褒めているようで、最初の状態を全部ばらしている」
どろちゃんは今度こそ笑った。
オイゲンの新しい生活は、ようやく一人暮らしではなくなった。
*
母や親類が到着したので、いつまでも客用の部屋を使っているわけにもいかなかった。
エルレンフェルトには、使われていない家がいくつもあった。
ただの空き家ではない。戦乱で住民が逃れた町から、持ち主との売買を済ませたうえで解体し、部材に番号を振り、こちらへ運んで組み直した建物である。
そういう家は、すでに珍しくなかった。
オイゲンたちに用意されたのは、その中でもかなり大きな一軒だった。
プファルツ継承戦争の末期、ライン川沿いのケールから逃れた商人が手放した屋敷を買い取り、エルレンフェルトへ移築してあったものである。
商人の家なので宮殿ではない。
しかし、客を迎える部屋があり、家族が暮らす部屋があり、使用人が働ける場所があり、荷物を納める余裕もある。ひとり暮らしなら持て余すほどだった。
どろちゃんは玄関で鍵を渡した。
「オイゲンさん、この家を使って。家族で住むなら、このくらいあった方がいいと思う」
オイゲンは鍵を受け取り、改めて建物を見上げた。
「……これを、私たちに? 『空き家がある』と聞いていたが、ずいぶん立派だな」
「ケールの商人さんが手放したおうちだよ。買い取って、部材を運んで、こっちで組み直したの」
「家そのものを移したのか」
「そう。こういう家、ここにはけっこうあるよ。戦争で戻れなくなった人から、ちゃんと買ったものだけだけど」
オイゲンの母が中を見回した。
「あなた、ずいぶん立派な家を用意していただいたのね」
「私のために新しく建てたわけではありません。空いていたものを使わせてもらうだけで……」
「住む人がいなかった家に、あなたたちが住むのでしょう。それなら十分ありがたいことです」
「それは、もちろん」
どろちゃんは二人を見比べた。
「気に入らないわけじゃないよね? 部屋が足りなかったら困ると思って、大きめのところにしたんだけど」
「いや、そういう意味ではない。むしろ十分すぎるくらいだ」
「じゃあよかった」
オイゲンにとっては、ウィーンの自宅を失ってから初めて、「帰る場所」と呼べる建物だった。
ただし、まだ自分の財産で買った家ではない。
エルレンフェルトで仕事をし、ここで家族と暮らし、これから生活を作るための家だった。
母は奥の部屋を見に行き、親類は荷物の置き場所を相談し始めた。
ハンナさんも、台所や洗濯物の扱いを説明するためについて回る。
オイゲンだけが玄関に少し残った。
「オイゲンさん、みんなもう中に入ってるよ。ここで何してるの?」
「少し見ていただけだ。ウィーンの家を失ってから、こうして『帰る場所』を持つことはもうないと思っていたのでね」
「ここなら、ちゃんと帰ってきていいよ。家族もいるし」
オイゲンは一度だけ建物を振り返った。
「……そうなるのだな。まだ、実感がない」
「そのうち慣れるよ。もうサヴォさんちで無駄飯食べなくていいし」
「最後の一言で、せっかくの話が全部台無しだ」
中から母の声がした。
「オイゲン、こちらの部屋を一度見て。荷物の置き方を決めたいの」
「はい、母上。今行きます」
返事をして、ようやく中へ入った。




