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64貴族令嬢は〇と一を動かします  フォーレンハイトを救出してライプニッツ先生を口説きます  次回からプリンツ オイゲンが登場です。

第六十四章 貴族令嬢は〇と一を動かします



 ライデン大学で鉄道の紙が増えたあと。


 今度は、人のお話になりました。



「十七歳?」


「はい」


「私と同じ?」


「同じ年でございます」



 フランソワさんが、アムステルダムから届いた紙を机へ置きました。



 名前は、ダニエル・ガブリエル・ファーレンハイト。



 両親を亡くしてから、後見人のもとで商人の徒弟になっています。



 商売が悪いわけではありません。


 商人が悪いわけでもありません。



 でも。



「この人、温度計を作る方がいいと思う」


「お嬢様が、そうお考えなのでございますね」


「うん」



 どろちゃんは、紙をもう一度見ました。



 ガラス。


 液体。


 細い管。


 目盛。


 同じものを作ったつもりでも、一本ずつ違います。



 温かい。


 冷たい。


 それだけなら、人の手でも分かります。



 けれど。



 薬を作る。


 培養する。


 恒温槽を使う。


 冷蔵庫を調べる。


 暖房を試す。


 軸受の温度を見る。


 変圧器を見る。


 飛行機を整備する。



 必要なのは、


 昨日と今日で同じ温度。


 別の工房でも同じ温度。


 何十本作っても同じ目盛。


 でした。



「大学からお願いしよう」


「徒弟契約を、でございますか」


「勝手に連れてきたらだめだから」



          *



 アムステルダムへ行ったのは、どろちゃん一人ではありませんでした。



 ライデン大学から先生が一人。


 契約のことを扱える人が一人。



 フランソワさんも一緒です。



 商人の応接室には、帳簿がありました。


 商品見本がありました。


 窓の外を、人と荷車が行き交っています。



 ファーレンハイト本人は、少し離れて立っていました。



 どろちゃんと同じ十七歳です。



 でも、同じ十七歳に見えるかというと、よく分かりません。



 どろちゃんは教授です。


 伯爵でもあります。


 飛行機を操縦します。



 比較する方がおかしいのでした。



「契約を破棄していただきたい、という話ではありません」



 大学の先生が説明します。



「残る期間について、こちらから補償いたします。そのうえで、本人が希望するなら、ライデン大学へ移ってもらいたいのです」



 商人はすぐには返事をしませんでした。



「なぜ、この若者なのです?」



 どろちゃんを見ます。



「器用だから」


「器用な徒弟なら、ほかにもおります」


「温度を測るものを作ってほしいの」


「温度計ですか」


「いっぱい」



 商人が少し眉を上げました。



「いっぱい、とは」


「大学だけじゃ足りない。工場にもいる。薬を作るところにもいる。飛行機にもいる。鉄道にもいる。暖房にもいる」


「……ずいぶん多いですね」


「だから一本だけ上手に作る人じゃなくて、同じものをたくさん作れるようにする人がほしい」



 ファーレンハイトが、初めてどろちゃんを見ました。



「同じ温度計を、たくさん?」


「うん。でも、本当に同じにするのは難しいでしょう」


「管の太さが違います」


「そう」


「ガラスも」


「そう」


「液体も」


「そうなの」



 どろちゃんはうれしくなりました。



 商人は、その二人を交互に見ました。



「なるほど」



 話は、その日に全部終わりませんでした。



 後見人への確認。


 徒弟契約の残期間。


 商人側が負担していた費用。


 引き継ぐ衣類や道具。


 本人の意思。



 大学側は、一つずつ紙へ書きました。



 そして。



 数日後。



 ファーレンハイトは、ライデン大学へ来ました。



 買われたのではありません。



 逃げたのでもありません。



 契約を清算して、本人が来ると決めました。



          *



「これが基準」


「はい」


「こっちが工場用」


「はい」


「こっちは現場へ出すもの」


「……全部、同じ目盛にするのですね」


「なるべくね。まず、どこまで同じにできるか調べよう」



 最初から温度目盛を一つ決めて終わりではありません。



 比較する水槽。


 一定の温度を作る方法。


 ガラス管の選別。


 液体の純度。


 封じ方。


 気泡。


 目盛を刻む位置。



 ファーレンハイトは、大学の工房へ入ると、急に忙しくなりました。



 高純度のアルコールもあります。



 水銀も扱えます。



 真空を作る装置もあります。



 ガラスを扱う人もいます。



 そして。



「これ、何です?」



 ファーレンハイトが、机の上のガラス球を見ました。



「たこさん」


「……たこ?」


「水銀を使う整流器。これは実験用で、見えるようにガラスで作ってるの」


「水銀が、こんなところにも」


「うん。だから先生たちと一緒に、ガラスと水銀のお仕事もお願いしたい」



 十七歳の新しい研究員候補は、しばらくガラス球から離れませんでした。



          *



 そのころ。



 どろちゃんは、別の手紙を書いていました。



 宛先はハノーファー。



 前に、帝国関係者協議会へ来た人です。



 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク。


 いわゆる、ハノーファー側。



 どろちゃんの頭の中では、


 おひさーさん。


 でした。



 もちろん、手紙にはそんなことを書きません。



 先日はエルレンフェルトまでお越しいただき、ありがとうございました。


 その後、お変わりなくお過ごしでしょうか。


 ハノーファーにおられるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ先生に、一度お目にかかりたく存じます。


 もし差し支えなければ、ご紹介いただけないでしょうか。



 丁寧に書きました。



 返事は来ました。



 紹介できます。



 それだけではありません。



 先生ご本人も、会うことに関心を示している。



「じゃあ、行こう」


「何で参りますか」


「チェブラーシカ」



 フランソワさんは、少しだけ考えました。



「ハノーファーの城内へは降りられませんね」


「無理」


「では、前もって草地を」


「お願いしておこう」



          *



 ハノーファーの城壁の外。



 広場ではありません。



 家もありません。



 前もって馬車で確かめてもらった、広い草地です。



 溝。


 大きな石。


 柔らかいところ。


 水の残る場所。



 全部、地上で調べてもらいました。



 その上で、どろちゃんは上空からもう一度見ました。



「ここ」


『了解』



 チェブラーシカが降ります。



 ギュワーン。



 風が草を寝かせます。



 大きな機体が草地を走り、速度を落としました。



 遠くで見ていた馬が、たいへん嫌そうな顔をしていました。



「ごめんね」



 馬には聞こえません。



 後部ランプを開きます。



 そこに四人いました。



 前の説明会で会ったハノーファー側の代表。


 そのお付き。



 そして。



 ライプニッツ先生。


 秘書の人。



「お久しぶりです」



 どろちゃんが先に頭を下げました。



「本当に、お久しぶりです」



 代表の人は、どろちゃんを見ました。



 次に、チェブラーシカを見ました。



 また、どろちゃんを見ました。



「以前の飛行機より、ずいぶん大きくなっていませんか」


「違う子だから」


「そういう問題なのでしょうか」


「たぶん」



 ライプニッツ先生は、まだ何も言いません。



 機体の下を見ます。


 主脚を見ます。


 翼を見ます。


 エンジンを見ます。



 それから、どろちゃんを見ました。



「あなたが操縦なさって来られたのですか」


「はい」


「この機械を」


「はい」


「……まず、それについて質問してよろしいでしょうか」


「飛んでからでもいい?」


「それがよろしいでしょう」



          *



 ハノーファーを離れます。



 城壁が小さくなりました。



 川。


 畑。


 森。



 ライプニッツ先生は、窓から外を見たり、機内を見たり、また外を見たりしています。



 秘書の人は、最初から紙を出していました。



 でも、何を書けばよいのか分からないようでした。



 代表の人は、少し慣れています。



 前にも、エルレンフェルトの飛行機へ乗ったことがあります。



 ただし。



「前回とは、速度が違いますね」


「この子、速いよ」



 しばらくして。



 エルレンフェルトが見えてきました。



 代表の人が窓へ寄ります。



「丘は分かります」


「うん」


「あのあたりが、以前の飛行場ですね」


「そう」



 そして。



 その向こう。



 真っ直ぐな帯が見えました。



 長い。



 とても長い。



 代表の人が黙りました。



「……あれは」


「新しい滑走路」


「ここは、もしや」


「前に買った土地」


「説明会のあと、上から見せていただいた」


「うん。そのときは、まだ畑と森と湿地だったところ」



 代表の人は、もう一度窓を見ました。



「どれほどの長さです」


「三千メートル」


「三千」


「うん」



 ライプニッツ先生が、数字に反応しました。



「三千メートルを、一本の離着陸路として?」


「そうです」


「この機体のために?」


「この子にも使うけど、もっと先のことも考えて」



 チェブラーシカは、その三千メートルへ降りました。



 ハノーファーの草地とは違います。



 中心を合わせます。



 接地。



 速度を落とします。



 まだ、滑走路があります。



 さらに落とします。



 まだあります。



「長いでしょう」


「数字で聞いた方が、まだ理解しやすかったです」



 ライプニッツ先生が言いました。



          *



 降りたあと。



「お屋敷までは、馬車でしょうか」



 秘書の人が聞きました。



「これ」



 どろちゃんが指しました。



 小さな電車が待っています。



 代表の人が止まりました。



「これは、前回ありませんでした」


「うん。あとで作った」



 ドアを開けます。



 みんな乗ります。



 バチン。



 グオーン……。



 電車が動きました。



「馬がいない」



 ライプニッツ先生が、窓の外ではなく、床の下を見ようとしました。



「電気でモーターを回してます」


「電気で、回転を」


「うん」


「止めるのも?」


「電気を切る。必要なら抵抗も使うし、ブレーキもある」


「反対へ走るのは」


「配線を切り替える」



 バチン。



 接触器が動きます。



「今の音は?」


「接触器。中に電磁石があるの」


「電磁石?」


「電気を流したときに鉄を引く磁石。電信とか、モーターとか、いろんなところで使ってる」


「なるほど。電気で働く磁石だから、電磁石」


「うん。そのまま」



 ライプニッツ先生の目が、少し変わりました。



 どろちゃんは、それを見ました。



 でも、まだ何も言いません。



          *



 ホテルへ着きました。



 スィートは使いません。



 主客の二人。



 ハノーファー側の代表と、ライプニッツ先生はファースト。



 お付きと秘書の人はビジネス。



「私の秘書は、私と同じ部屋でなくてよいのですか」


「一人一室あります」


「……そうですか」



 秘書の人が、少しうれしそうでした。



 夕食はホテルで、それぞれ好きなものを頼みました。



 食事が終わっても、ライプニッツ先生の質問は終わりませんでした。



「先ほどの電車の電磁開閉器を、もう少し見せていただくことはできますか」


「できるよ。工場には入れないけど、完成品なら持ってきてもらえる」


「工場は拝見できない」


「ごめんなさい。そこは秘密」


「当然でしょう」



 あっさり納得しました。



          *



 翌朝。



 会議場の一室に、机が増えていました。



 工場から、いろいろなものを運んでもらったのです。



 電鍵。



 サウンダー。



 リレー。



 小型モーター。



 電流計。



 電圧計。



 鉛蓄電池。



 三極管。



 ガラスの実験用水銀整流器。



 いわゆる、たこさん。



 温度計。



 いくつかの機械部品。



「これだけ、同じところで作っているのですか」


「全部同じ工場じゃないよ。でも、作り方と規格を揃えてる」


「工場そのものを見せない理由が、よく分かりました」



 代表の人が言いました。



 ライプニッツ先生は、もうリレーを持っています。



 接点を見ます。



 電磁石を見ます。



 ばねを見ます。



「小さな電流で、別の回路を閉じる」


「うん」


「閉じたことを使って、さらに次を」


「できる」


「何段も?」


「遅くはなるけど、できるよ」



 カチ。



 カチ。



 何度も動かします。



「先生」


「はい」


「二進のお話、読みました」



 ライプニッツ先生の手が止まりました。



「私の二進算術を?」


「うん。〇と一だけで数を書くやつ」



 どろちゃんは黒板へ行きました。



 羽衣フルタッチを一本取ります。



 さらさら。



 まず。



 255



 その横に。



 11111111₂



「二百五十五」


「はい」


「二進なら、これ」


「その通りです」



 その下へ、もう一つだけ書きます。



 FF₁₆



「これは?」


「十六進。二進を四つずつまとめると、一桁で書けるの」


「十より上の記号は?」


「十をA、十一をBって続けて、十五をFにする」


「なぜ十六なのです」


「四つの〇と一で、〇から十五まで作れるから」



 ライプニッツ先生は少し考えて、別の数を一つ口にしました。



 どろちゃんはすぐに二進と十六進で答えます。



 今度は先生と秘書の人が紙の上で確かめました。



「……合っています」


「このくらいなら、頭の中でできるよ」



 しばらく静かになりました。



 ハノーファー側の代表は、とうとう言いました。



「私は、昨日まで飛行機のお話をしていたと思うのですが」


「私も」



 どろちゃんは答えました。



          *



「先生の計算機も見たいです」



 話は、機械式計算機へ移りました。



 ライプニッツ先生は、自分の計算機について説明しました。



 桁。



 歯車。



 段付きの機構。



 繰り返し。



 桁上がり。



「掛け算は、同じ操作を何度も使うんですね」


「基本的にはそうです」


「一桁ずつは正しくても、桁上がりが引っ掛かったら全部だめになる」


「そこが難しいところの一つです」


「十個の位置を正しく止めるのも大変」


「ええ」



 どろちゃんは、机のリレーを一つ持ちました。



「これなら、二つしかない」


「開くか、閉じるか」


「電気が来るか、来ないか」


「〇と一」



 ライプニッツ先生が言いました。



「うん」



 どろちゃんは、リレーを机へ戻しました。



「先生の〇と一、これで動かせないかなって思ってる」


「計算を、電気で?」


「すぐ大きいものは無理。でも、一桁なら」



 紙を一枚出します。



 〇と〇。


 〇と一。


 一と〇。


 一と一。



「足すだけなら、四通り」


「一と一で、桁が上がる」


「そう。答えは〇で、次へ一」



 ライプニッツ先生は、紙を取りました。



 そこからしばらく、どろちゃんはしゃべりませんでした。



 先生が書き始めたからです。



          *



「ところで」



 しばらくして、ライプニッツ先生が自分の鞄を開けました。



 紙が出てきました。



 ヨーロッパの文字だけではありません。



 中国の文字があります。



 線があります。



 切れた線。



 つながった線。



 重なっています。



「中国から伝わった図について、あなたはご存じでしょうか」



 どろちゃんは紙を見ました。



「これ、読んでいい?」


「読めるのですか」



 先生が聞き返しました。



「うん」



 どろちゃんは、書かれた文字を指で追いました。



「乾。坤。ここは八卦の説明。こっちは六十四卦」



 ライプニッツ先生が動かなくなりました。



 代表の人も、秘書の人も止まりました。



「中国語を、お読みになる」


「全部すごく上手じゃないよ。でもこれは読める」



 紙を少し回します。



「陰と陽を二つの状態として見たんですね」


「そうです。私は、自分の二進算術との対応に気づきました」


「二つの状態を六つ並べるから、六十四通り」


「はい」



 どろちゃんは、六十四卦の図と、さっき黒板へ書いた〇と一を見比べました。



「先生が面白いと思ったところ、分かるよ」



 ライプニッツ先生は、紙と黒板を交互に見ました。



「あなたは、二進法をどこで学ばれたのです」


「誰かがまとめたものを読んだの」


「誰が」


「覚えてない」



 ライプニッツ先生は、少し困った顔をしました。



「では、中国語は」


「それも、前に勉強した」



 それ以上は聞かれませんでした。



 でも。



 聞きたい顔は、ずっとしていました。



          *



 午後。



 話は、急に家系図になりました。



 きっかけは、アン女王でした。



「女王陛下は、以前よりお健やかだと聞いております」



 ハノーファー側の代表が言いました。



「元気だよ」


「それは、喜ばしいことです」



 少し間があります。



 どろちゃんにも、その間の意味は分かります。



 イングランドの王位継承。



 ハノーファー家。



「今のご様子なら、ハノーファー側が近いうちにイングランド王位へ入ることを前提にするのは、難しくなったと思う」


「……ええ」


「だから、先生のお仕事も、少し考えた方がいいと思ったの」



 ライプニッツ先生が、どろちゃんを見ました。



「ヴェルフ家の歴史ですか」


「うん。一人で全部調べるの、大きすぎるでしょう」



 どろちゃんは黒板を消しました。



 羽衣フルタッチを持ちます。



「最初の方から行くね」



 名前を書きます。



 古いヴェルフ。



 ユーディト。



 カロリング家との婚姻。



 そこから枝。



 また枝。



 古い男系が途切れます。



 女系からエステ家へつながります。



 ヴェルフ四世。



 バイエルン。



 ザクセン。



 ハインリヒ獅子公。



 さらに分かれます。



 ブラウンシュヴァイク。



 リューネブルク。



 分割。



 相続。



 また分割。



 カレンベルク。



 ハノーファー。



 黒板の横幅が足りなくなりました。



「……お嬢様」



 代表の人が言いました。



「なに?」


「なぜ、私どもの家の系譜を、それほどご存じなのですか」


「資料集で見た」


「どちらの資料集でしょう」


「それが、覚えてないの」



 ライプニッツ先生が、黒板へ近づきました。



「この接続は、何を根拠に?」


「そこも知らない」


「では、なぜここへ線を」


「誰かが調べたあとに整理した図を、私は見たことがあるから」


「一次史料を、ご自身で確認したわけではない」


「うん。だから、これを証拠にしないで」


「では」


「探す場所の目印にして」



 ライプニッツ先生は、しばらく黒板を見ました。



「それは、ずいぶん贅沢な目印です」


「でも、間違ってるところがあるかもしれないよ」


「そこは私が確かめます」



 どろちゃんは笑いました。



「お願いします」



          *



 その晩。



 数学のお話は、まだ続きました。



 数列。



 無限。



 微分。



 記号。



 計算機械。



 どろちゃんが知っていること。



 知らないこと。



 覚えていること。



 忘れていること。



 ライプニッツ先生が考えていること。



 どれも同じではありません。



 だから、話は終わりませんでした。



「この話なら、ヤコブ・ベルヌーイにも聞かせたいですね」


「バーゼルのベルヌーイ先生?」


「ええ。長く手紙を交わしています」


「じゃあ、近いよ」


「近い?」


「水玉船なら一日。毎日出てる」


「……バーゼルまで?」


「うん」


「それは、近いですね」



 先生は少し考えてから、何かを秘書の人へ伝えました。



 すぐ呼ぶのか、まず手紙を書くのか。


 そこまでは、どろちゃんには分かりません。



 夜が遅くなり。



「先生、明日ライデンへ行きませんか」


「大学へ?」


「うん。ここに持ってきたものより、あっちの方が面白いよ」


「それは、困りました」


「だめ?」


「いいえ。今日だけでも予定を大幅に超えています。明日さらに面白いものがあると言われると、帰る日を決められなくなります」


「じゃあ、決めなくていいよ」



          *



 翌朝。



 チェブラーシカは休ませます。



 ライデンへは、ミツバチちゃんで行きます。



 六人。



 荷物は軽い。



 どろちゃんが左席。



 フランソワさんが右席。



 後ろに四人。



 白い双発機が、新しい三千メートル滑走路を走りました。



「こちらの飛行機は、前にも見ました」



 代表の人が言います。



「この子は、前からいるから」


「少し安心します」


「飛行機で安心する基準が変になってるよ」



          *



 ライデン大学。



 ライプニッツ先生が最初に見たのは、建物ではありませんでした。



 人です。



 数学の先生。



 物理の先生。



 天文学の先生。



 学生。



 工房の人。



 測量をしている人。



 ガラスを扱う人。



 電気を扱う人。



 一人が全部やっているのではありません。



「先生、昨日の一桁の足し算ですが」


 もう大学側の数学者が紙を持ってきました。



「二つの入力を、接点の組合せで分ければ――」


「少し待ってください」



 ライプニッツ先生が笑いました。



「私はまだ、到着したばかりです」


「失礼しました」


「いいえ。続けてください」



 結局、その場で始まりました。



          *



 ファーレンハイトも紹介しました。



「先生、この人も十七歳」


「あなたと同じですね」


「うん」


「ダニエル・ガブリエル・ファーレンハイトです」



 若者が頭を下げます。



 机には、何本もの細いガラス管がありました。



「温度計を?」


「はい。まだ、同じものを作ったつもりでも、同じになりません」


「それを同じにする研究?」


「はい」



 ライプニッツ先生は、一本を手に取りました。



「測る道具そのものの差を、先に測らなければならない」


「そうなんです」



 ファーレンハイトの返事が少し速くなります。



「同じ液体でも純度で違います。管の太さも違います。封じるときの――」


「そこを記録しているのですね」


「はい」


「比較用の基準は?」


「こちらです」



 今度は、ファーレンハイトが止まりませんでした。



 どろちゃんは少し離れました。



 話せる人同士は、放っておく方がよいのです。



          *



 そのあと、別の教室へ移りました。



 壁際に、大きな表があります。



 水素。


 ヘリウム。


 その先へ、元素が番号順に並んでいます。



「これは、元素の周期表」


「周期表」



 ライプニッツ先生が、表の前へ立ちました。



「同じような性質が、順番に繰り返して出てくるから、こう並べてるの。重さだけで順番を決めてるわけじゃないよ」



 どろちゃんは、原子番号の列を指しました。



「この番号を基準にする」


「この番号は、何を表すのです」


「原子核の中にある陽子の数。普通の、電気を帯びていない原子なら電子の数も同じ」


「それは、すべて実験で確かめられているのですか」


「今ここにある装置では、まだ全部は無理。だから、確かめられないところは仮説として扱ってもらってる」



 ライプニッツ先生は、しばらく表を見ました。



「ニュートン氏は、この表をご存じなのですか」


「うん。ニュートン先生にも説明したよ。お泊まり会したし」


「……お泊まり会?」


「フック先生とニュートン先生をお招きして、一泊二日で研究をなさいました」



 フランソワさんが、横から静かに直しました。



「ほとんど研究してたよ」


「それを普通は、お泊まり会とは申しません」


「泊まったのに」


「研究会でございます」



 ライプニッツ先生は少し笑いました。



 それから、また周期表へ戻ります。



「元素という言葉は、これ以上分けられないもの、という意味で使っているのですか」


「化学の中では、そういう扱いに近い。でも、先生が聞きたいのは、たぶん別のことだよね」


「別、と申しますと」


「物を分けていったら、最後に何が残るのか、とか」



 先生は少し黙りました。



「私は、部分を持たない単純な実体について考えています。モナド、と呼ぶことがあります」


「うん」


「この表の元素と、それは同じものではない、と?」


「違うと思う。こっちは、反応させたり、測ったりして物質を分類するための表。先生のモナドは、物質を小さく砕いた最後の粒、ってだけのお話じゃないでしょう」


「その通りです」



 ライプニッツ先生の返事は、すぐでした。



「じゃあ、分けて考えた方がいいよ」


「科学と哲学を?」


「測って決めるところと、世界そのものをどう考えるかってところ。つなげて考えるのはいいけど、片方で片方を決めちゃうと、たぶん困る」



 先生は周期表を見ました。



 次に、どろちゃんを見ました。



「あなたは、ずいぶん慎重なのですね」


「前に、答えを先に言いすぎたことがあるから」



 それ以上は説明しませんでした。



          *



 午後。



「飛ぶところも見る?」



 どろちゃんが聞きました。



「ぜひ」



 大学のソアラーを出します。



 ただし、今日は航空機曳航ではありません。



 コウノトリちゃんで三千メートルまで曳航したときの写真と測定記録は、先に見せました。



「ここまで上げたのですか」


「この前はね。でも今日は、こっち」



 重力台車牽引です。



 斜面を下る重い台車。



 索。



 滑車。



 その力を、発航するソアラーへ伝えます。



「動力機を使わずに」


「重力は、いつでも下へ行くから」



 索が張ります。



 機体が走ります。



 翼へ風が入ります。



 浮きました。



 静かです。



 さっきまで数学のお話をしていた先生たちが、今度は空を見上げています。



 ソアラーは上がり。



 索を離し。



 旋回しました。



 すぐには降りません。



「滑空比は、今の機体で二十八くらい」


「二十八」


「高さ一に対して、静かな空気なら二十八進める目安」


「それを木材で」


「木だから低いわけじゃないよ。形と構造と作り方の問題」



 機体は、大学の上をゆっくり回りました。



 上昇する空気を拾います。



「……まだ上がっています」


「いいところ見つけたね」



 ライプニッツ先生は、ずっと空を見ていました。



          *



 次は地面です。



 電気鉄道の試験線。



「昨日も電車に乗りましたが」


「こっちは研究用。止めたり、変えたり、壊れないか調べたりする方」



 試作車へ乗ります。



 計器があります。



 測定線があります。



 接触器の箱があります。



「蓋、開けます?」


「よろしいのですか」


「こっちは見せるために用意したから」



 開けます。



 リレー。



 接触器。



 抵抗器。



 配線。



 モーターへ行く線。



「昨日、机の上にあったものが」


「大きくなった」


「そして、車両を動かしている」


「うん」



 バチン。



 グオーン。



 動きます。



 速度を上げます。



 落とします。



 止まります。



 反対へ。



 また動きます。



 ライプニッツ先生は、窓の外をほとんど見ませんでした。



 電気の流れを追っています。



「〇と一だけではありませんね」


「うん。モーターは途中の大きさも使う。でも、命令を分けるところは二つの状態にできる」


「閉じる。開く」


「そう」


「なら、計算と制御は、同じ部品を使えるかもしれない」


「私も、そこが面白いと思う」



          *



 夕方。



 大学の部屋へ戻りました。



 質問はまだあります。



 大学側からも質問があります。



 ライプニッツ先生の計算機について。



 二進算術について。



 記号について。



 中国から届いた資料について。



 ライプニッツ先生からは。



 電気について。



 真空について。



 三極管について。



 測定について。



 鉄道について。



 ソアラーについて。



「全部を、こちらで研究しているのですか」


「全部一人じゃないよ」


「それが重要なのですね」



 どろちゃんは、少し考えました。



「たぶん」



 先生が考えたものを。



 別の先生が計算します。



 工房の人が作ります。



 学生が測ります。



 失敗します。



 直します。



 また測ります。



 そして、違う人の研究とつながります。



 ライプニッツ先生は、しばらく黙っていました。



「私には、ハノーファーで終えていない仕事があります」


「うん」


「宮廷図書館もあります。家史もあります。それに、ベルリンの科学協会も、まだ形を作っている途中です」


「先生、ベルリンの会長なんだよね」


「ええ」


「でも、いま住んでるのはハノーファー」


「そうです」


「じゃあ、会長のお仕事と住む場所は、最初から別なんだ」


「……そう言われれば、その通りです」



 ライプニッツ先生は、少しだけ考えました。



「ですから、今ここで、帰らないとは申しません」


「言わなくていいよ」



 どろちゃんは笑いました。



「先生がハノーファーで研究するなら、手紙を書く。必要なものがあって、渡せるものなら送る」


「こちらへ来たくなったら?」


「部屋を探す」


「教授職は?」


「それは大学で相談」



 大学の先生たちが、少し笑いました。



「教授会を通していただきませんと」


「ほらね」


「では、簡単ではない」


「ちゃんと大学だから」



 ライプニッツ先生も笑いました。



「安心しました」



          *



 その日の夜。



 ファーレンハイトは、まだ温度計を見ていました。



 ライプニッツ先生は、借りた紙へ〇と一を書いていました。



 その横には。



 十六進の数字。



 リレーの接点。



 中国の六十四卦。



 機械式計算機の桁上がり。



 全部が、同じ机に載っています。



 どろちゃんは、それを見ました。



「先生」


「はい」


「明日もいる?」


「……もう一日」



 秘書の人が、静かに予定表を書き直しました。



 ハノーファー側の代表は、何も言いませんでした。



 前に説明会へ来たときより。



 帰る予定が、ずっと決まりにくい場所になっていたのでした。



                (つづく)



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第64章の小さな説明

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【ファーレンハイト】

 1703年のダニエル・ガブリエル・ファーレンハイトは十七歳です。本章では、商人との徒弟契約を勝手に破らせるのではなく、ライデン大学側が後見・契約関係を確認し、残期間などを金銭補償して円満に解除したうえで、本人の意思で大学へ移る形にしています。

 研究の中心は単に一つの温度目盛を考えることではなく、温度計を再現性よく大量に作り、基準温度計―工場標準―現場用温度計という校正体系を作ることです。アルコール、水銀、ガラス加工、毛細管、封止、比較槽などを研究します。


【ハノーファーへの訪問】

 どろちゃんは、以前の帝国関係者協議会に参加したブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー側)の代表へ手紙を出し、その紹介でライプニッツと会います。ハノーファー城内に大型機を降ろす場所はないため、事前に確認された城外の広い草地へチェブラーシカで着陸します。


【エルレンフェルトの新滑走路】

 ハノーファー側代表が以前訪れた時点では、現在の3000m滑走路はまだありませんでした。彼が知っているのは丘側の旧飛行場と、帝国側から正式購入した約10km²の土地です。当時、その購入地は森・農地・湿地のままでした。今回は、そこが3000m滑走路と格納庫などを持つ新航空拠点へ変わった姿を初めて見ます。


【工場と完成品】

 工場内部、工作機械、治具、量産工程などは公開しません。見学用に、リレー、電信機器、計器、三極管、鉛蓄電池、水銀整流器、温度計などの完成品・試作品を会議場側へ運んで見せます。製品は見せても、生産ノウハウそのものは公開しない方針です。


【電磁石という言葉】

 史実の1703年には、後世の意味での電磁石はまだ発明されていません。本作の世界ではすでに電信、リレー、接触器、モーターなどが実用化されているため、必要に応じて「電磁石」という技術用語も成立済みです。ライプニッツは実物を見たところで、その語と意味を初めて知ります。


【二進法と十六進法】

 ライプニッツは二進算術をすでに研究しています。どろちゃんは、二進数を四桁ずつまとめやすい十六進表記を、一例だけ使って説明します。

 本章では、二進法から即座に近代的電子計算機が完成することにはしていません。まず、リレーの「開/閉」と二進の「0/1」が対応し、一桁の加算や桁上がりをどう機械化できるかを考え始める段階です。


【中国の図】

 ライプニッツは、中国から伝わった『易』の六十四卦の配列と、自分の二進算術との対応に強い関心を持っています。本章でも「中国の書物を読んで二進法を初めて思いついた」とはせず、すでに研究していた二進法と、陰・陽を組み合わせた図との対応を見出している設定です。

 どろちゃんが中国語の記述をその場で読めるため、ライプニッツは別の意味でも驚きます。六十四卦の場面では十六進法の説明を繰り返さず、対応そのものに集中します。


【ヴェルフ家史】

 どろちゃんが知っている系譜は、自分で一次史料を発見して作ったものではなく、以前に誰かが研究・整理した結果を読んで覚えているものです。そのため、ライプニッツには「証拠」ではなく、史料探索の当たりを付けるための仮説・索引として示します。

 また、この世界ではアン女王が非常に健康になっているため、ハノーファー家が近い将来イングランド王位を継ぐことを当然の前提にはできなくなっています。


【周期表とモナド】

 周期表は、どろちゃんがすでにパリのアカデミーなどで説明してきた原子番号順の表です。ニュートンにも、その後の一泊二日の科学研究会で説明済みという扱いにしています。

 ライプニッツは元素の分類を聞いたところから、物質を分け続けた先、単純実体、モナドの方向へ質問します。ただし、本章では元素=モナドとはしません。実験・測定によって扱う物質科学の問題と、存在そのものをどう考えるかという形而上学の問題を、いったん分けて考えます。


【ベルヌーイとバーゼル】

 ライプニッツとヤコブ・ベルヌーイは、すでに数学について長く書簡を交わす関係です。この世界ではバーゼルまで水玉船が毎日運航し、一日程度で移動できるため、必要なら特別な航空便を使わずに往来できます。


【ベルリン科学協会】

 ライプニッツはハノーファーに居住しながら、ベルリンの科学協会の初代会長として立ち上げ作業にも関わっています。したがってライデンへ惹かれても、ハノーファーの宮廷図書館・家史だけでなく、ベルリン側の仕事も既存責務として残ります。一方、そもそも会長職と居住地は最初から一致していないため、活動拠点をどこに置くかは本人が考えられる余地を残しています。


【ライデン大学の展示】

 ライデンのソアラーは、今回は航空機曳航ではなく重力台車牽引で発航します。コウノトリちゃんによる3000m航空機曳航については、写真・測定値・記録を見せます。

 電気鉄道も実際に動かし、完成品を並べるだけでなく、研究者・学生・工房の人が互いに質問しながら試作と測定を続ける研究環境そのものをライプニッツに見てもらいます。


【ライプニッツの今後】

 本章では、どろちゃんから移住を強制的に勧めません。ハノーファーには宮廷・図書館・ヴェルフ家史など未完の仕事があります。一方、ライデンには数学、物理、電気、精密加工、計測、航空、鉄道などを一か所で試作・実験できる環境があります。どちらを活動の中心にするかは、今後のライプニッツ本人の判断に残しています。


ソフトに書いていますが、フォーレンハイトって、両親を毒キノコで同時になくして、後見人に商家へ前払い金で売り飛ばされているんですね。

ライプニッツ先生はとても終わらないハノーファー公の家系図を延々と作って能力と時間をすり減らしていた。

お話が複雑なので、わかりやすくこの章はライトノベル スマートフォンに最適化で作っています。文字をつめない方が良いかなと思いました。

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