62貴族令嬢は三千メートルまで引っぱります ライデングライダー航空曳航とフランソワさんの初単独遠距離操縦回
第六十二章 貴族令嬢は三千メートルまで引っぱります
最初に忙しくなったのは、プレス機ではありませんでした。
木型屋さんです。
机の上には、どろちゃんが持ってきた寸法と、何枚もの図が広げられています。
作りたいのは、二十リットルの平たい携行缶でした。
「このまま木で作ればよろしいので?」
「そのままじゃなくて、鋳物にするための木型」
「でしたら、縮む分と、あとで削る分を足しておきます」
「うん。それと、型から抜けるように少し傾けて」
「そこは分かっておりますよ」
木型屋さんは笑いました。
木を切ります。
鉋をかけます。
曲面を合わせます。
角には丸みを付けます。
左右の缶の半身を成形するための金型なので、完成した携行缶そのものを木で作るわけではありません。
プレスで鉄板を押し込む側。
受ける側。
それぞれの形を考えて、鋳物にするための木型を作ります。
何日かして、できあがった木型が鋳物場へ運ばれました。
砂へ埋めます。
木型を抜きます。
できた空間へ溶けた鉄を流します。
冷えるまで待ちます。
砂を落とすと、大きな鋳物が出てきました。
でも、まだ金型ではありません。
表面はざらざらです。
寸法も、そのままでは使えません。
今度は機械工場です。
基準面を削ります。
プレス機へ固定する面を出します。
成形面を少しずつ削ります。
最後は、手で当たりを見ました。
煤を付ける。
合わせる。
高く当たったところを削る。
もう一度合わせる。
「まだここが強いですね」
「もう少し落としますか」
「少しだけ。削りすぎると戻せません」
金型を作る方が、携行缶を作るよりずっと時間がかかりました。
*
工場には、百トン級の油圧プレスがあります。
百トンといっても、高速で、
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
と打ち続ける機械ではありません。
大きな油圧シリンダーが、ゆっくり動きます。
鉄板を置きます。
位置を合わせます。
手を出している人がいないことを確認します。
「下げます」
油圧ポンプが鳴りました。
ぐしゅうう……。
上の型が、ゆっくり降りてきます。
鉄板へ触れます。
さらに押します。
ぐしゅ……。
平らだった鋼板が、少しずつ金型の中へ入っていきました。
止まります。
圧力を抜きます。
ゆっくり上がります。
「一回で終わりじゃないんだね」
「これだけ深いものを、一度に無理やり押せば、しわになるか裂けます」
最初は浅く。
次の工程でもう少し深く。
形を整えます。
別の型で、側面の補強の凹凸も付けます。
最後に余分な縁を切りそろえます。
一枚の鋼板が、何度もプレス機の前へ戻ってきます。
ぐしゅう……。
待つ。
上がる。
取り出す。
次の型へ。
高速ではありません。
でも、急ぐ必要もありませんでした。
今日必要なのは、まず二十個です。
*
最初の試し打ちは、きれいにはできませんでした。
「ここ、しわが出てる」
「材料が入りすぎていますね」
「こっちは薄くなってる」
「押さえ方を変えましょう」
金型を外します。
また削ります。
当たりを直します。
押さえる力も変えます。
もう一度。
ぐしゅう……。
今度は、さっきより良くなりました。
三個目。
四個目。
ようやく、左右の半身が同じ形で続けて作れるようになりました。
二枚を合わせます。
周囲を溶接します。
三本並んだ持ち手を付けます。
口金を付けます。
漏れがないか調べます。
できあがったのは、二十リットルの携行缶でした。
後世なら、ドイツ軍式ジェリカンと呼ばれる形です。
どろちゃんは、できあがった一個を両手で持ちました。
「これ、いいね。平たいから並べやすい」
工場の親方が、三本の持ち手を指で叩きました。
「一人なら真ん中を持てます。二人なら両側を一本ずつ持てますし、受け渡す時にも掴む場所がございます」
「じゃあ、この形でそろえよう」
「何個お作りになります?」
どろちゃんは少し考えました。
「いっぱい」
「数をお願いします」
「まず二十個。これはライデン用。そのあとも作っておいて」
「承知しました」
航空燃料だけに使うとは限りません。
水。
潤滑油。
薬品原料。
中身を明確に分ければ、同じ大きさの携行缶はどこでも使えます。
ただし、今日の二十個には全部、エタノールを入れました。
二十リットル。
二十個。
四百リットル。
コウノトリちゃん用です。
*
格納庫では、もう一つの荷物が待っていました。
木の枠。
革。
詰め物。
織帯。
鉄の金具。
タドポール君の後部座席です。
以前、ライデン大学の工房で作ってもらったものです。
タドポール君へ正規に取り付けて、フランソワさんを乗せて、ロンドンへも飛びました。
その後も使いました。
けれど、これはライデン大学の工房が作ったものです。
「返すの、ずいぶん遅くなったね」
「先方には、次に伺う時にお返しするとお伝えしております」
フランソワさんが座席の帯を軽くなぞりました。
「かなり使いましたね」
「うん」
「作った方々は、喜ばれるでしょうか」
「たぶん。壊れずにちゃんと働いたから」
後部座席は、ミツバチちゃんの貨物室へ固定しました。
その周囲へ、エタノール入りの携行缶を並べます。
一缶ずつ。
二十缶。
動かないように固縛します。
今日はミツバチちゃんだけではありません。
格納庫の外には、
Аист(アーイスト。コウノトリ。)
コウノトリちゃんも待っていました。
いつもの三人乗りではありません。
今日はフランソワさん一人。
空いた場所には、長距離用の増槽を載せています。
どろちゃんが操縦席の横へ立ちました。
「本当に一人で行ける?」
「何度目のお尋ねでしょう」
「数えてない」
「わたくしも数えておりません」
フランソワさんは笑いました。
コウノトリちゃんでの単独飛行は、もう経験しています。
離陸。
着陸。
場周。
近距離の往復。
でも、今日は違います。
エルレンフェルトからライデン大学まで。
初めての単独長距離飛行です。
「途中で天候が悪くなったら、無理しないでね」
「はい」
「分からなくなったら戻るか、降りられるところを探して」
「はい」
「燃料は?」
「主槽、増槽とも確認済みでございます」
「航法は?」
「地図、時計、方位、途中の確認地点。すべて確認しました」
「無線は?」
「確認済みです」
「じゃあ――」
どろちゃんは、まだ何か言おうとしてやめました。
「行ってらっしゃい」
「行って参ります」
*
今日は二機で同じ場所へ行きます。
でも、二機並んでは飛びません。
コウノトリちゃんとミツバチちゃんでは、巡航速度が違いすぎます。
遅い方に合わせてミツバチちゃんを飛ばす意味もありません。
近づけば、プロペラ後流や後方の乱れもあります。
だから、出発時刻をずらしました。
先に、コウノトリちゃん。
フランソワさんが滑走路へ出ます。
長距離用の燃料を積んでいるため、普段の軽い状態のように短く飛び上がろうとはしません。
十分に走ります。
速度がつきます。
ふわり。
コウノトリちゃんが地面を離れました。
少しずつ高度を上げます。
どろちゃんは、機影が小さくなるまで見送りました。
「一人で行っちゃった」
格納庫の前にいた技師さんが笑いました。
「行けるようになるまで練習したでしょう」
「そうだけど」
「帰ってくるまで心配するのも、お嬢様のお仕事ですか?」
「それは仕事じゃないと思う」
「では、ご趣味ですね」
「趣味にしないで」
時間を置いて、今度はミツバチちゃんです。
どろちゃんが左席へ座ります。
後ろには四百リットルのエタノール。
タドポール君の後席。
そして、ライデンへ持っていく細かな荷物。
ミツバチちゃんは、コウノトリちゃんとは違う速度で空へ上がりました。
*
ライデン大学の飛行場。
ミツバチちゃんが先に降りました。
貨物扉を開けると、大学の人たちがすぐに集まってきます。
「これは全部、燃料ですか?」
「うん。コウノトリちゃん用」
「四百リットル?」
「二十リットルが二十個」
携行缶を一つずつ降ろします。
平たいので、並べやすい。
三本の持ち手があるので、受け渡しもしやすい。
「この容器も、そちらで作られたのですか」
「工場で量産を始めたところです」
「これは使いやすそうですね」
「たぶん、いっぱい増えるよ」
エタノールは、大学側に用意した施錠できる燃料庫へ運ばれました。
容器は密閉。
火気厳禁。
給油担当者を決めます。
飲めなくするための毒物などは入れません。
燃料であることを明記して、管理で事故を防ぎます。
そして最後に、タドポール君の後席。
工房の職人さんが、しばらく何も言わずに見ていました。
「戻ってきました」
どろちゃんが言いました。
「ずいぶん使われましたね」
「ロンドンにも行きました」
「これが?」
「うん。フランソワさんを乗せて」
職人さんは、革の擦れたところを見ました。
帯の跡。
金具の細かな傷。
座面のわずかなへこみ。
「壊れませんでしたか」
「一度も」
職人さんが笑いました。
「それなら、作った甲斐がございました」
座席は、元の工房へ戻りました。
*
それから、少し時間が経ちました。
飛行場の見張り役が声を上げます。
「来ました!」
東南の空。
小さな点。
ゆっくり大きくなります。
高翼。
細い胴体。
長い脚。
コウノトリちゃんです。
「来た」
どろちゃんは、無意識に前へ出ていました。
場周へ入ります。
進入。
接地。
増槽を積んだ長距離仕様なので、無理に短く止まりません。
十分な距離を使って減速しました。
駐機位置まで来ます。
エンジン停止。
フランソワさんが扉を開けました。
「ただいま到着いたしました」
「おかえり」
「はい」
「迷わなかった?」
「少しも」
「ほんと?」
「少しだけ確認に時間を使った場所はございました」
「ほら」
「迷ったのではなく、確認したのでございます」
「はいはい」
初めての単独長距離飛行は、無事に終わりました。
でも、今日はここで終わりではありません。
*
コウノトリちゃんから、長距離用増槽を降ろします。
燃料配管を閉じます。
残った燃料を確認します。
固定具を外します。
空いた場所へ、今度はフランソワさんの席を戻します。
今日はこれから二人乗り。
どろちゃんが操縦。
フランソワさんが、その後ろです。
そして尾部には、いつもと違うものが付きました。
曳航フック。
長い植物繊維のロープ。
ライデン大学のソアラーを引くためです。
「これをやりたかったんだよね」
どろちゃんがロープを持ちました。
先生がうなずきます。
「地上から引く方法では、高度を得るのに限界があります。せっかくここまで滑る機体になりましたので、もっと高いところから飛ばしてみたいのです」
「二十八だものね」
「はい。最大滑空比、二十八」
第一世代は十八前後でした。
木で作ったから十八だったのではありません。
翼型。
表面。
翼端。
翼と胴体のつながり。
工作精度。
桁。
外皮。
接着。
重量。
一つずつ測り、一つずつ変えてきました。
そして、いま目の前にあるソアラーは、風防を除けば、この時代に手に入る材料で作られています。
木。
布。
金属金具。
接着材。
風防だけは、エルレンフェルト側で作った透明樹脂を使っています。
見た目だけ未来のソアラーへ似せた第一世代とは違います。
いまは、ライデン大学が自分たちで測って決めた形です。
*
いきなり三千メートルまでは上げませんでした。
最初は短く。
ロープを伸ばします。
コウノトリちゃん。
曳航索。
その後ろにソアラー。
地上の人が、索のねじれと接続を確認します。
ソアラー側の切り離し装置。
コウノトリちゃん側の切り離し装置。
両方を何度も試します。
非常時には、どちら側からでも離せます。
どろちゃんが操縦席へ座りました。
フランソワさんは、曳航索側の操作を担当します。
「曳航中は、わたくしが索を見ます」
「お願い。変だったらすぐ言って」
「はい」
「切れそうでも言って」
「もちろんです」
「ソアラーが上に行きすぎても」
「はい」
「下に――」
「お嬢様」
「なに?」
「全部申し上げますので、操縦をお願いいたします」
「はい」
最初の離陸。
ロープが伸びます。
たるみが消えます。
コウノトリちゃんがゆっくり力を掛けます。
後ろのソアラーが動き始めます。
速くなる。
先にソアラーの車輪が軽くなりました。
少し浮きます。
まだ高くは上げません。
コウノトリちゃんも地面を離れます。
十分な安全高度。
そこで、ソアラー側が切り離しました。
「離れました」
フランソワさんが言います。
ロープの張りが消えます。
後ろのソアラーは、与えられた速度を使って少し上がり、そのあと滑空へ移りました。
大学の人たちは、時計と測定器と記録紙を見ます。
どれくらいの速度で離したか。
どれくらい上がったか。
どれくらい飛んだか。
地上から引く時とは違います。
航空機曳航なら、速度を与えて早く離すこともできます。
高度を与えてから離すこともできます。
同じ「空へ上げる」でも、中身が違います。
*
二回目は、もう少し高く。
離陸。
上昇。
低いところで急に曲がりません。
速度を変えすぎません。
後ろのソアラーが無理をしないように、コウノトリちゃんもゆっくり飛びます。
今度は、前より高いところで切り離しました。
また記録。
大学の研究者は、飛行記録を横に並べます。
「速度を多く残して離した場合は、そのあと一度高度へ変えられます」
「でも、すぐ使っちゃうね」
「はい。高度そのものを与えた場合は、もっと長く探せます」
「じゃあ、次は上まで行こうか」
先生が、少しだけ空を見ました。
「三千メートルまで、お願いできますか」
「やってみよう」
*
三回目。
今日の本番です。
コウノトリちゃんの燃料を確認します。
ライデンへ運んできたエタノールから必要量を補給しました。
曳航索。
フック。
切り離し。
風。
雲。
視程。
全部確認します。
どろちゃんが前。
フランソワさんが後ろ。
ソアラーには、ライデン側の飛行担当者が乗ります。
ロープが伸びました。
張りました。
「行きます」
「はい」
出力を上げます。
コウノトリちゃんが走ります。
ソアラーも走ります。
地上の人たちが遠ざかります。
ソアラーが浮く。
コウノトリちゃんも浮く。
上昇。
今日は、すぐには離しません。
五百メートル。
まだ上。
千メートル。
まだ上。
曳航中は、速く飛べばいいわけではありません。
コウノトリちゃん自身が飛びやすい速度だけで決めることもできません。
後ろには別の飛行機がいます。
その飛行機も、同じ空気の中で飛んでいます。
どろちゃんは急な操作を避けました。
フランソワさんは、後ろを何度も確認します。
「安定しております」
「索は?」
「異常ございません」
「ソアラーは?」
「少し上。許容範囲です」
「じゃあ、そのまま」
二千メートル。
ライデンの町が小さくなります。
水路。
畑。
道路。
さらに上。
二千五百。
そして、三千メートル。
「三千」
どろちゃんが言いました。
「確認いたしました」
後ろのソアラーから、切り離しの合図。
「切り離します」
ソアラー側のフックが外れました。
ロープが軽くなります。
「離れました」
どろちゃんは、すぐに大きく旋回しません。
まず距離を取ります。
ソアラーが自由になりました。
上空三千メートル。
最大滑空比二十八。
無風で、最良滑空だけを続けられたと仮定すれば、三千メートルの高度は八十キロメートルを超える水平距離に相当します。
もちろん、実際にはそんな使い方はしません。
旋回します。
風があります。
着陸へ入るための高度も残します。
でも、地上曳航とはまったく違います。
上昇気流を探す時間があります。
探せる範囲があります。
沈んでも、すぐには地面が来ません。
*
コウノトリちゃん側には、まだ曳航索が残っています。
「海へ行こう」
「はい」
西へ向かいます。
北海の海岸線。
船のいない場所を確認します。
十分に沖へ出ました。
「ここならいい?」
「下方、船舶ございません」
「じゃあ、お願い」
フランソワさんが、曳航機側の切り離しを操作しました。
カチン。
長い植物繊維のロープが離れます。
空中で大きく曲がりながら落ちていきました。
海面へ。
これで着陸時にロープを引きずることはありません。
「切り離し完了いたしました」
「帰ろう」
*
コウノトリちゃんは、ソアラーより先にライデンへ戻りました。
進入。
着陸。
駐機。
エンジン停止。
どろちゃんとフランソワさんが降ります。
上空には、まだソアラーがいます。
「まだ帰ってこないね」
「三千メートルまで上げましたので」
「それに二十八」
「はい」
その時です。
「フランソワ様」
学生が一人、近づいてきました。
「はい?」
「先ほどの飛行機ですが、ここへ来られた時は、お一人だったのですか」
「はい。エルレンフェルトから一人で操縦して参りました」
「全部ですか」
フランソワさんが少し困った顔をしました。
「離陸してから着陸するまで、途中で操縦を代わる方はおりませんので」
「あ、いえ、そうなのですが……」
別の学生も来ました。
「どのくらいの時間、ずっと操縦されるのですか」
「巡航中は、ずっと手を動かしているわけではございません。機体が安定していれば、計器と地形と方位を確認しながら飛びます」
「怖くは?」
「最初は怖いこともございました」
「今は?」
「怖いと思うべきものは、今でも怖いです」
もう一人。
さらに一人。
なぜか増えました。
どろちゃんは、少し離れたところから見ていました。
質問は航空機のことです。
単独飛行。
航法。
高度。
着陸。
風。
ちゃんと航空の質問です。
でも、同じ質問をさっき聞いていた学生まで、もう一度前へ出てきます。
フランソワさんは気づいていません。
黒い髪。
整った顔。
小柄な身体。
しかも男爵。
その男爵が、侍女のようにどろちゃんのそばで働きながら、今日は一人で飛行機を操縦して外国から来ています。
学生が集まらない方が不自然でした。
「フランソワさん」
「はい、お嬢様」
「人気あるね」
「飛行機が珍しいのでございましょう」
「うん。たぶん飛行機も」
フランソワさんは、少しだけ首を傾げました。
*
その間にも、ライデン大学の研究者たちは空を見ていました。
「あれです」
小さなソアラー。
さっきより、少し位置が変わっています。
「高度は?」
観測担当が答えます。
「切り離し後、一度下がりました。そのあと、少し戻しております」
「上昇気流?」
「そのようです」
どろちゃんも空を見ます。
「探せるんだね」
「三千メートルからなら、探して外れても帰る余裕があります」
「でも、上がりすぎたらだめだよ」
先生が振り返りました。
「酸素ですね」
「うん。三千メートルならすぐ危なくなるわけじゃない。でも、そこから上昇気流をつかんで、もっと上へ行けちゃうでしょう」
「本日は上限を決めてあります」
「何メートル?」
「三千五百を目安に離脱。四千には入らない」
「それがいいと思う」
飛行機の性能が上がると、今度は人間の身体が先に問題になります。
もっと上がれる。
もっと長く飛べる。
でも、できることと、やってよいことは同じではありません。
*
ソアラーは、まだ飛びました。
第一世代なら、もうずっと前に着陸していた時間です。
学生たちも、途中からフランソワさんへの質問をやめて空を見始めました。
「あれ、本当に戻ってくるのですか」
「戻ってきます」
先生が答えます。
「戻る高度を残して飛ばせています」
やがて、ソアラーが場周へ入りました。
まだ余裕があります。
進入。
着陸。
静かに地面へ戻りました。
大学の人たちが走っていきます。
飛行担当者が降ります。
「どうでした?」
どろちゃんが聞きました。
「地上から引いていた時とは、別の飛行機になったようでした」
「同じ飛行機だよ」
「はい。ですから、余計にそう感じます」
先生が記録紙を受け取ります。
切り離し高度。
速度。
沈下。
旋回。
上昇気流。
滞空。
帰投時の高度。
今日だけでも、また紙が増えました。
*
夕方。
飛行場には三種類の飛行機が並んでいました。
ミツバチちゃん。
コウノトリちゃん。
ライデン大学のソアラー。
燃料庫には、ドイツ軍式の携行缶が並んでいます。
工房には、返ってきたタドポール君の後部座席。
そして研究室には、今日の航空機曳航の記録。
速度を与えて離す。
高度を与えて離す。
上昇気流を探す。
三千メートルから飛ばす。
地上から引くだけだったころには、調べにくかったことが一気に増えました。
どろちゃんは、ソアラーの翼を見ました。
「二十八まで来たね」
先生が言いました。
「まだ、二十八です」
「もっとやるの?」
「測れるようになりましたので」
どろちゃんは笑いました。
「じゃあ、また来るね」
「次は、何を持って来られます?」
「まだ決めてない」
少し離れたところでは、また学生がフランソワさんへ何か聞いていました。
「……あっちはまだ質問されてる」
先生もそちらを見ました。
「今日は人気ですね」
「飛行機が珍しいらしいです」
「そうでしょうか」
「本人がそう言ってるから」
上空には、もうソアラーはいません。
でも、三千メートルまで続いた曳航索の跡だけが、どろちゃんにはまだ空に残っているように見えました。
地上から引く方法をやめる必要はありません。
短く飛ばすなら、それで十分です。
でも今日からは、もう一つあります。
空へ引き上げてから、放す。
ライデン大学のソアラーは、ようやく広い空を使えるようになりました。
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小さな説明
■ ドイツ軍式ジェリカン
本章でエルレンフェルト工場が量産を始めた携行缶は、後世のドイツ軍式20Lジェリカンを参考にした形です。
鋼板をプレスした左右の殻を溶接し、平たい形状と三本の持ち手を持ちます。
航空機や車両へ積みやすく、積み重ね、固縛、二人での受け渡しにも向くため、コウノトリちゃん用エタノールの前置き輸送に使います。
ライデンへ最初に置く量は20L缶20個、約400Lです。
■ 二機で同じ目的地へ
今回、エルレンフェルトからライデンへ、ミツバチちゃんとコウノトリちゃんが初めて同じ日に向かいます。
ただし編隊飛行はしません。
An-28系のミツバチちゃんとOKA-38系のコウノトリちゃんでは巡航速度が大きく異なり、接近飛行には後流などの危険もあります。
そのため出発時刻をずらし、それぞれ独立して航法し、ライデン大学飛行場へ時間差で到着します。
フランソワさんはコウノトリちゃんを一人で操縦してライデンまで飛びます。
■ コウノトリちゃんの長距離仕様
ライデンへの移動時には、コウノトリちゃんの乗客分の余裕を着脱式増槽へ振り替えます。
極端な短距離離陸性能を使う必要はなく、十分な滑走距離を使って離陸します。
ライデン到着後は増槽を外し、どろちゃんとフランソワさんが乗れる通常配置へ戻して、曳航機として使用します。
帰路用燃料や曳航試験用燃料は、ミツバチちゃんが先に運んだエタノールから補給できます。
■ 航空機曳航
航空機曳航では、曳航機とグライダーを長い曳航索でつなぎ、曳航機がグライダーを空中へ引き上げます。
本章では植物繊維のロープを使用します。
グライダー側と曳航機側の双方に切り離し機構を設け、異常時にはどちらからでも分離できるようにします。
初回の曳航は危険度が高いため、コウノトリちゃんの操縦はどろちゃんが担当し、フランソワさんは曳航索の監視と曳航機側の切り離しを担当します。
グライダーが上空で離れたあと、コウノトリちゃん側に残ったロープは、船のいない海上で切り離してから着陸します。
■ 速度を与える曳航と、高度を与える曳航
航空機曳航では、比較的低い安全高度で速度を持たせて早く切り離すことも、長く上昇して高度を与えてから切り離すこともできます。
前者では、切り離し時に持っていた速度の一部を一時的に高度へ変えることができます。
後者では、大きな位置エネルギーを持って滑空を始められるため、広い範囲から上昇気流を探し、長く飛ぶ余裕が生まれます。
ライデン大学では、切り離し高度、速度、滞空時間、沈下、旋回、帰投時高度、気象条件などを記録し、両者の違いを比較します。
■ 滑空比28と3000m
ライデン大学の新しいソアラーは、最大滑空比およそ28へ到達しています。
風防を除く主要部分は、1700年ごろに利用できる木材、布、金属金具、接着材などで成立しています。
風防のみ、エルレンフェルト側で製作できる透明樹脂を使用します。
滑空比28の機体を地上高3000mで切り離した場合、無風、上昇気流なし、最良滑空を維持するという単純な理論条件では、3000m×28で約84kmの水平到達距離に相当します。
実際の飛行では、風、旋回、速度変化、上昇・下降気流、着陸進入のために残す高度などがあるため、この数字をそのまま飛ぶわけではありません。
しかし3000mから始めれば、上昇気流を探す範囲と時間が大きく増えます。
■ 高高度と酸素
3000mは、健康な人がただちに行動不能になる高度ではありません。
一方で、高度がさらに上がれば低酸素の影響が大きくなり、判断力や注意力への影響が問題になります。
特にソアラーは上昇気流を利用して、切り離し高度よりさらに上へ上がれる可能性があります。
そのためライデン大学では、酸素装備を持たない現在の試験では高度上限を決め、上昇気流を見つけても無制限には上昇しない運用にします。




