61女王陛下は岩山の前で座席に押しつけられます ジブラルタルでタッチアンドGO
第61章 女王様は岩山の前で座席に押しつけられます
ろばーとっちとニュートンを乗せた長距離慣熟飛行から戻った翌日。
どろちゃんは朝から電鍵を操作して電信を打っていました。
「アン女王陛下へ?」
フランソワさんが聞きました。
「うん」
「やはり、お乗せするのですね」
「だって、見てもらった方が早いでしょう」
「何を、でございますか」
「ジブラルタルとセウタ」
フランソワさんは、少しだけ黙りました。
「鉄道融資のお話でございましたね」
「うん」
「では、王配殿下も?」
「もちろん」
どろちゃんは電信文を見直しました。
アン女王と王配ジョージに、チェブラーシカでジブラルタルとセウタを上空から見ませんか、と誘います。
観光ではありません。
スペイン鉄道融資の担保として話に出ている場所を、実際に見るためです。
「ろばーとっちのところには入らないよ」
「研究施設でございますからね」
「病原菌も扱うし」
「陛下のお付きの方々が、まず止めると思います」
「わたしも止める」
「はい」
ですから、アン女王たちには馬車で滑走路まで直接来てもらいます。
研究所へ立ち寄る必要はありません。
*
返事は、やはり早く来ました。
アン女王。
参加。
王配ジョージ。
参加。
「来る」
「来ますね」
「じゃあ、ごはんもちゃんとしないと」
「そこからでございますか」
「大事だよ」
前回の慣熟飛行で、給仕さんからいくつか改善点が出ています。
食器の固定。
温かい料理の出し方。
降下前に片づけを始める時間。
電気ポット。
保温ポット。
紅茶。
全部見直しました。
ホテルの料理長さんも来ました。
「今回は女王陛下でございますね」
「うん」
「では、揺れても食べやすいものを中心にいたしましょう」
「九千から一万メートルくらい。なるべく圏界面の上の静かなところを選ぶつもり」
「揺れない時ほど、突然揺れます」
「それはそう」
「汁の多いものは控えます。骨のある肉も避けましょう」
「それがいい」
料理長さんは、考えていた献立を読み上げました。
骨を外した鶏肉の香草焼き。
人参と蕪、それに玉ねぎをバターでゆっくり焼いたもの。
小さな丸パン。
冷めても食べやすい、りんごの焼き菓子。
果物は、汁の垂れにくいものを少し。
「鶏肉は、最初からナイフで切り分けやすい厚さにしておきます」
「機内で大きなお肉と格闘しなくていいね」
「はい。ソースも皿の底に流れるほどは使いません」
「紅茶は前回と同じものを」
「それがいい」
四か国会議で使った、神様の上等な紅茶。
お湯は電気ポットで沸かします。
保温ポットにも入れておきます。
今回も、乗る人数は多くしません。
操縦席は、どろちゃんとフランソワさん。
客室には英国側から六人です。
アン女王陛下。
王配ジョージ殿下。
女王付きの侍女。
王室の側近。
海軍関係者。
そして、鉄道融資と担保の話を担当する財政関係者。
さらに別枠で、エルレンフェルトの給仕さんが一人乗ります。
機内で料理を温めたり、紅茶の湯を用意したりするのは、エルレンフェルトの給仕さんが中心になります。
でも、女王陛下のお席へ料理や紅茶を運び、身の回りを整えるところまで、すべてエルレンフェルト側の人間がする必要はありません。
そこは、いつもアン女王陛下に仕えている侍女が担当します。
王室の側近は外交と公務。
海軍関係者は、ジブラルタルとセウタを港や補給拠点として見る役目。
財政関係者は、鉄道融資と担保の条件を見る役目です。
もう一つ、長い飛行では大事なものがあります。
トイレです。
ロンドン近郊からジブラルタルとセウタを見て戻れば、飛行時間は六時間から七時間ほどになります。
途中で地上の休憩所へ寄ることはできません。
チェブラーシカには機内トイレがあります。
汚物は神様の仕組みで処理され、必要な水も補われます。
でも、便器の表面や床、洗面台、水滴や小さな汚れまで勝手にきれいになるわけではありません。
そこは人が掃除します。
女王陛下が乗っている間は、女王付きの侍女が時々中を見て、必要なら軽く拭き掃除をすることになりました。
エルレンフェルトの給仕さんはギャレー。
女王付きの侍女は、女王陛下の身の回り。
仕事を分けた方が自然です。
*
出発の日。
どろちゃんたちは、丘の上の領主館から会議棟の横へ出ました。
ここに、新しい三千メートル滑走路へ向かう小さな鉄道の終点があります。
単線です。
車両も一編成だけです。
ですから、乗りたい時に車両がこちら側にあるとは限りません。
どろちゃんが表示灯を見ました。
「向こうだ」
滑走路側を示す灯りが点いています。
終点の壁には、押しボタンがあります。
運転係を呼ぶためのものです。
どろちゃんが押しました。
カチン。
三キロほど向こう。
滑走路側の詰所でベルが鳴ります。
しばらくすると。
グオーン。
小さな電車が、単線の向こうからやってきました。
運転係のおじさんが窓から顔を出します。
「お待たせしました」
「ありがとう」
「今日は飛行場ですね」
「うん。女王様を乗せるの」
「……それは先に聞かなくてもよかったかな」
「もう聞いたよ」
おじさんは少し姿勢を正しました。
この呼出設備には、もう一つ使い方があります。
運転係が反対側にいない時には、自動回送のスイッチを入れて呼ぶこともできます。
扉が閉じていることを確かめる。
リレーが呼出要求を保持する。
車両が自分で発車する。
三キロを走る。
呼んだ側の終点で止まる。
でも普段は、なるべく運転係にも乗ってもらいます。
機械に任せられることと、人が運転を覚えなくてよいことは、別だからです。
料理の箱。
食器。
紅茶。
給仕さん。
どろちゃん。
フランソワさん。
みんな乗りました。
グオーン。
領主館の丘を離れ、単線の電車は新しい滑走路へ向かいます。
*
チェブラーシカには、エルレンフェルトで燃料を八割ほど入れました。
「満タンじゃないの?」
給仕さんが聞きました。
「ロンドンまでなら、これで十分。向こうで入れられるから」
「なるほど」
「重くしすぎない方がいいし」
荷物も多くありません。
どろちゃんは、機体のまわりを見ます。
大きな二つの吸入口。
脚。
翼。
後部ランプ。
左前方の乗降口。
『今日は女王様?』
「うん」
『どんな人?』
「女王様」
『それは知ってる』
「今は見た目が若い」
『どのくらい?』
「十八歳くらい」
『ほんとは?』
「もっと上」
『ふしぎ』
「そうなの」
アン女王は、神様からプレゼントされたエリクサーのおかげで身体だけ若返っています。
記憶も考え方も、女王として生きてきた年月も、そのままです。
見た目と身体は十八歳ほど。
中身は三十八歳ほど。
そのため、立ち上がるのも歩くのも、以前よりずっと速くなりました。
*
離陸。
ギュワーン。
今日は燃料をかなり積んでいます。
短く浮かせる必要はありません。
三千メートルの滑走路を使えるのですから、無理にSTOLらしい離陸をするより、速度を十分に作ってから上がります。
滑走を始めて、およそ九百メートル。
チェブラーシカは、ゆっくり前脚を浮かせました。
主脚が離れます。
滑走路を離れたら、すぐ高度を取ります。
「今日も低く飛ばないのですね」
フランソワさんが言いました。
「用がないから」
「ジブラルタルでは?」
「そこは降りる」
「砂州ですね」
「うん」
ロンドン近郊へ向かいます。
チェブラーシカは、心を通わせたまま自分で高度と針路を保ちます。
普通の自動操縦装置も働かせます。
『このまま?』
「うん。お願い」
『はーい』
どろちゃんは操縦桿から手を離しました。
でも、席からは離れません。
「今日は、ずっとここ」
「練習も兼ねておりますからね」
「うん」
*
ろばーとっちの領地が見えてきました。
研究施設。
その隣の滑走路。
前回と同じように、普通に進入します。
着陸。
接地してから、およそ七百メートルを使って減速します。
短く止めようとはしません。
ブレーキや逆推力を強く使わなくても、滑走路には十分な長さがあります。
停止。
エンジン停止。
必要な確認をしてから、大きな吸入口に赤いカバーを付けます。
「耳ふさいだ」
『また言った』
「だってそう見える」
『聞こえるよ』
「知ってる」
*
滑走路管理のおじさんが来ました。
「おお、来たな」
「タラップどう?」
「見てみな」
保管小屋から、あの木製タラップが出てきました。
でも、前とは違います。
下に小さな車輪が付いていました。
手すりの根元にも補強があります。
「動く」
「ひとりで全部は無理だが、前よりずっと楽だ」
管理人のおじさんは、木製タラップを転がしてきます。
機体の左前方の乗降口へ寄せます。
「ここで持ち上げる」
「うん」
「それから脚を下ろす」
使用中に動かないよう、簡単な脚と止め具も付いています。
「すごい」
「毎回持ち上げるより、この方がいい」
「ありがとう」
「で、今日は誰が使うんだ?」
どろちゃんは少し笑いました。
「女王様」
管理人のおじさんの手が止まりました。
「……ほんとかい」
「ほんと」
「先に言ってくれ」
「言ったら緊張するでしょう」
「今したよ」
*
しばらくして、馬車が来ました。
研究所の方へは向かいません。
そのまま滑走路です。
先に、王室の側近と海軍関係者が降ります。
周囲を見る。
機体を見る。
木製タラップを見る。
続いて女王付きの侍女。
財政関係者。
そして、アン女王陛下。
「これは、前よりずいぶん大きいですね」
女王はチェブラーシカを見上げました。
十八歳ほどに見える身体。
歩き方も軽いです。
そのあとから王配ジョージが降りました。
「昔を思い出しますな」
ジョージが言いました。
「何がです?」
「あなたが、そのくらいの速さで歩いていた頃です」
「今も歩いております」
「だから思い出すのです」
アン女王は少しだけ笑いました。
「この階段は、あなたが?」
女王が聞きます。
「エルレンフェルトで作ってもらいました。車輪を付けたのは、こちらの滑走路を管理している方です」
「なるほど。よくできています」
管理人のおじさんは、少し遠くで固くなっていました。
幅のある踏板。
両側の手すり。
急すぎない角度。
アン女王は、普通に上がっていきます。
いまの身体なら、写真にあった細い梯子でも登れたかもしれません。
でも、王室の乗降にそんなものを使う必要はありません。
王配ジョージ殿下も続きます。
最後に英国側の同行者を確認してから、エルレンフェルトの給仕さんも乗ります。
全員が乗ると、木製タラップは外されました。
「小屋へ戻しておくよ」
管理人のおじさんが言いました。
「お願い」
「帰ってくるんだろう?」
「うん」
「じゃあ、また出しとく」
「ありがとう」
*
燃料を補います。
ロンドン近郊の神様燃料タンクから、ジブラルタルとセウタを見て、ここまで戻ってこられるだけの燃料を入れます。
乗っている人も荷物も少ないのですが、長距離往復分の燃料を積むので、機体は軽くありません。
吸入口カバーを外します。
エンジン始動。
ギュワーン。
アン女王が窓の外を見ました。
「これは、かなり大きな音ですね」
「はい。ですから、離陸したらすぐに高度を取ります」
「その方が民家には親切でしょう」
「はい。わたしも、その方がよいと思います」
離陸。
今度はジブラルタル往復分の燃料があります。
やはり短距離離陸は狙いません。
滑走を始めて、およそ千メートル。
十分に速度を作ってから、前脚を上げます。
主脚が離れました。
チェブラーシカは高度を取ります。
九千メートルを越えました。
その日の圏界面を見ながら、九千から一万メートルの間で、なるべくその上側を選びます。
巡航。
『まっすぐ南?』
「うん。お願い」
『はーい』
*
対流圏の中を無理に一定高度で進むより、圏界面の高さを見ながら、その少し上へ出られるところでは上へ出ます。
九千メートルで十分なら九千メートル。
少し上げた方が静かなら、一万メートル近く。
前回、一万メートルまで問題なく上がれることは確認済みです。
今回は高度記録を作る飛行ではありません。
女王様に、なるべく揺れないところで食事をしてもらう方が大事です。
女王便でも、どろちゃんは操縦席を離れません。
まだ練習中です。
チェブラーシカとは心が通じています。
自動操縦もできます。
だからといって、初めての女王便で機長席を空ける必要はありません。
フランソワさんも右席にいます。
INS。
エンジン。
燃料。
高度。
針路。
全部見ます。
しばらくすると、エルレンフェルトの給仕さんが来ました。
「お食事をお出しいたします」
「お願い」
「お二人の分はこちらへお持ちします」
「うん」
どろちゃんとフランソワさんは操縦席で食べます。
客室では、エルレンフェルトの給仕さんがギャレーから料理を出します。
最初は、骨を外した鶏肉の香草焼きです。
表面には少し焼き色がついています。
機内で大きな肉を切り分けなくてよいように、料理長さんが最初から食べやすい大きさに整えてあります。
付け合わせは、人参と蕪と玉ねぎ。
バターでゆっくり火を通してあるので、汁は皿の底にほとんどたまりません。
小さな丸パン。
そのあとに、りんごの焼き菓子と果物。
最後に紅茶です。
電気ポットで沸かした湯。
保温ポット。
九千メートルを少し越えたところ。
その日の圏界面より上側の、比較的静かな空気を選んでいます。
皿はほとんど動きません。
それでも、給仕さんは料理長さんに言われた通り、カップも皿も一度にたくさん出しません。
そこから先は、女王付きの侍女も手を出します。
女王陛下のお席へ皿を置く。
紅茶を渡す。
王配ジョージ殿下の分も整える。
普段から仕えている人がそばにいる方が、女王陛下も自然です。
エルレンフェルトの給仕さんは、機内設備と料理の扱いに集中できます。
前回より、動きがずっと滑らかです。
*
食事が終わっても、まだ先は長いです。
何時間も同じ機内にいます。
最初にトイレの状態を確かめたのは、女王付きの侍女でした。
使ったついでに、中を見ます。
洗面台。
床。
便器。
手を洗った水が少し跳ねています。
布で拭きます。
汚物そのものは残りません。
神様の仕組みで処理されます。
水もなくなりません。
でも、だからといって掃除が要らないわけではありません。
「こちらは、ずいぶん便利でございますね」
侍女が戻ってきて言いました。
「中身は勝手に処理してくれます。でも、掃除まではしてくれません」
どろちゃんが答えます。
「では、陛下がお使いになる前に、わたくしが一度ずつ見てまいります」
「お願いいたします」
しばらくして、アン女王陛下も席を立ちました。
侍女が先に中を確認します。
女王陛下が使ったあとも、侍女がもう一度状態を見ます。
長距離を飛べる飛行機には、長距離を飛ぶための設備が要ります。
燃料だけたくさん積めても、人間の方が六時間も七時間も我慢しなければならないのでは、VIP輸送機としては困ります。
*
しばらくして、アン女王陛下が操縦席の近くまで来ました。
「よろしいですか?」
「はい、陛下。どうぞこちらの席へお掛けください。巡航中ですが、念のため座ったままでお願いいたします」
「分かりました」
アン女王陛下は、操縦席の後ろ側にある席へ座ります。
王配ジョージ殿下も来ました。
「いま、誰が操縦しているのです?」
女王が聞きました。
「いまはチェブラーシカに操縦を任せております。わたしは機長席で計器と航法を監視しております」
「では、あなたは操縦していないのですか?」
「はい。操縦席にはおりますが、いまは操縦桿を動かしておりません」
「手を離しているのですね?」
「はい。手は離していますが、機体の状態と進路はずっと見ています」
アン女王は、どろちゃんの手を見ました。
「本当に触っていませんね」
「はい。心が通じておりますので、この子自身に飛行を任せることができます」
「機械が?」
「普通の自動操縦装置でも飛べます。ただ、この子はわたしと心が通じておりますので、お願いした針路や高度も分かってくれます」
『ちゃんと飛んでる』
「『ちゃんと飛んでる』と申しております」
「それは、私には聞こえないのですね」
「はい。残念ですが、声として聞こえるのはわたしだけです」
「少し残念です」
王配ジョージは、前方を見ながら言いました。
「しかし、操縦士が休めるのは大きい」
「完全に休んでいるわけではありません。操縦桿を動かす手だけは休ませられます」
「手は休んでいます」
「はい。その間も、目と頭は休ませずに監視を続けています」
「なるほど」
*
そこで、話は自然にスペインへ戻りました。
「実際に見る前に、もう一度確認しておきたいのですが」
アン女王陛下が言いました。
「ジブラルタルは、岩山だけではないのですね」
「はい。岩山の北側に、本土へつながる低い砂州があります」
「そこまで必要」
「はい。借地にするなら、そこまで含める必要があると思います」
どろちゃんは航空図を示しました。
「岩山だけを借りても、この細い土地が別なら陸側の出入りで困ります」
「陸からの出入りを他国の土地に頼ることになる」
ジョージが言いました。
「それに、平らな土地がほとんどない」
「そうです。岩山の中だけでは、使える平地が限られます」
「船を置くには岩山そのものより湾が重要だが、陸上の設備を置くには平地が要る」
「はい。その点でも、北側の砂州は残しておきたい土地です」
アン女王陛下は地図を見ます。
「アルヘシラスまでは要らないのですね」
「はい。アルヘシラスまで求める必要はありません」
「スペイン側にも、それくらいは残すべきでしょう」
「わたしもそう思います。そこまで求めれば、スペイン側も強く反対するでしょう」
「でしょうね」
ジョージが少し笑いました。
「では、岩山と、その北の細い土地」
「はい。その範囲がよいと思います」
「そして南側がセウタ」
「はい。南側はセウタと、必要最小限の周辺です」
「タンジェは?」
「タンジェまでは求めない方がよいと思います」
どろちゃんは、すぐに答えました。
「モロッコ側まで広げすぎますと、あとで外交上の問題が増えます」
「フランスとも?」
「はい。フランスとの関係でも、余計な火種になる可能性があります」
アン女王陛下は、そこで何も言いませんでした。
でも、覚えました。
*
エルレンフェルトの給仕さんが紅茶を用意します。
それを、女王付きの侍女が受け取りました。
「陛下」
「ありがとう」
アン女王陛下は、いつもの侍女からカップを受け取ります。
「四か国会議と同じですね」
「はい。同じ紅茶を用意しました」
「この紅茶を出しながら担保の話をするのは、少し悪いですね」
「そうかもしれません。でも、紅茶そのものはおいしいです」
「それがさらに悪い」
王配ジョージが笑いました。
「返済されれば、何も起こりません」
「はい。約束どおり返済されれば、借地の話そのものが実行されません」
「返済されれば、ね」
アン女王陛下は紅茶を飲みました。
どろちゃんも操縦席で飲みます。
高度は九千から一万メートルの間。
チェブラーシカは、何事もないように南へ飛んでいます。
*
やがて、どろちゃんが言いました。
「そろそろ片づけて」
エルレンフェルトの給仕さんと女王付きの侍女が、すぐに動きます。
「降りるのでございますね」
「うん。今度は低く見る」
「承知いたしました」
前回より早く食器が片づけられます。
全員着席。
アン女王と王配ジョージも、きちんとベルトを締めました。
「どのくらい低く?」
女王が聞きます。
「地形と砂州の状態をはっきり確認できるところまで下ります」
「そして?」
「人や馬、荷車、家畜がいないことを確認できましたら、砂州へ一度だけ車輪を触れさせます」
「……着陸するのですか」
「完全には止まりません。接地して、そのまま再び離陸します」
「それを着陸と言わないのですか?」
「タッチアンドゴーと呼びます。接地して、すぐに離陸する方法です」
「触って、行く」
「はい。ちょうど、そのような意味です」
王配ジョージは、もう窓の外を見ています。
「それは面白い」
*
高度を下げます。
雲の下。
海。
スペイン南部。
アルヘシラス湾。
そして。
「見えた」
ジブラルタルの岩山が立っています。
灰白色の大きな石灰岩の塊。
「ずいぶん目立ちますね」
アン女王陛下が言いました。
「海からでも分かりやすい」
ジョージも答えます。
その北。
岩山から本土へつながる、低い細い砂州。
「そこ?」
「はい。あの岩山と本土をつないでいる細いところです」
どろちゃんは高度を下げます。
今日は、ここへ来ることそのものが目的です。
低空飛行禁止の例外です。
チェブラーシカの音が、急に地上へ近くなります。
ギュワァァァーン。
ファンの太い音。
タービンの高い音。
排気の音。
それが、巨大な岩山へぶつかります。
返ってきます。
湾側へ。
砂州へ。
スペイン本土側へ。
ギュワーン。
ギュワァーン。
岩山が、飛行機の音をもう一度鳴らしているようでした。
*
少し離れたところで猟をしていた男が、思わず伏せました。
雷ではありません。
海でもありません。
聞いたことのない音です。
顔を上げると、大きなものが、岩山の横を飛んでいます。
鳥ではありません。
何なのかは、まったく分かりません。
*
「人は?」
どろちゃんが言いました。
フランソワさんも見ます。
砂州。
人。
馬。
荷車。
家畜。
進入するところには、いません。
「大丈夫です」
「うん」
脚を下ろします。
フラップ。
速度を落とします。
翼の上の二つのエンジンが働きます。
「これが、あの配置の意味ですか」
ジョージが言いました。
「はい。低速でも翼の上の流れを助けて、大きな揚力を得るための配置です」
砂州が近づきます。
砂。
低い草。
海。
岩山。
主脚。
接地。
ドン。
少し走ります。
そして。
「再離陸します。少し強く加速します」
どろちゃんが出力を上げました。
ギュワァァァァーン。
一気に推力が立ち上がります。
機体が軽い。
しかも、すでに速度があります。
アン女王の身体が、座席へ押しつけられました。
「……これは!」
王配ジョージも背中を押されます。
「強いな!」
チェブラーシカは、砂州を長く走りません。
前脚が浮きます。
主脚も離れます。
岩山の横を、そのまま上昇。
ギュワーン。
また音が石灰岩へぶつかって返ってきます。
「なるほど」
アン女王は、少し息を整えながら言いました。
「ここまで含めて必要ですね」
「はい。実際にご覧いただくと、岩山だけでは足りないことがお分かりいただけると思います」
「岩山だけでは、確かに困る」
ジョージも窓の外を見ました。
「あの平地は使い道がある」
「はい。岩山にはない平地ですから、残しておく価値があります」
「ずいぶん先まで考えている顔ですね」
「そのように見えましたか?」
「そうです」
アン女王が答えました。
*
チェブラーシカは、そのまま海峡へ出ます。
北にジブラルタル。
湾の向こうにアルヘシラス。
南へ。
モロッコの海岸。
少し西にはタンジェ。
そして東へ。
「セウタ」
どろちゃんが言いました。
半島の一部。
町。
港。
海。
「こちらは、岩山より港として分かりやすい」
ジョージが言いました。
「南側にも置ける」
アン女王も見ます。
「でも、ここだけ」
「はい。セウタと必要最小限の周辺だけで十分です」
「モロッコまで欲張らない」
「はい。モロッコ側へ広げるつもりはありません」
どろちゃんは笑いました。
「あまり広げますと、あとで関係する国が増えてしまいます」
「この話そのものが、十分欲張っている気もしますが」
「それは否定できません。ただ、スペインが約束どおり返済すれば、担保を使う必要はありません」
アン女王は、また少し笑いました。
「それをスペイン王に言ってみたいですね」
「おそらく、かなりお怒りになると思います」
「でしょうね」
*
見るものを見ました。
「帰ろう」
『ロンドン?』
「うん」
チェブラーシカは向きを変えます。
もう一度、高度を取ります。
低いところをいつまでも飛びません。
ギュワーン。
五千。
七千。
九千。
九千メートルを越えました。
その日の圏界面を見ながら、九千から一万メートルの間で、なるべくその上側を選びます。
巡航。
『まっすぐ?』
「うん。お願い」
『はーい』
機体が落ち着きます。
どろちゃんは、また手を離しました。
でも席にはいます。
*
「では」
アン女王が言いました。
「見た上で、整理しましょう」
また始まりました。
ジブラルタル。
岩山。
北の砂州。
アルヘシラスは含めない。
セウタ。
必要最小限の周辺。
タンジェは含めない。
「千年というのは?」
ジョージが聞きます。
「長いですね」
アン女王が答えました。
「千年は長いですが、形式上は永久ではありません」
どろちゃんも言います。
「返済不能になった国が、あとで立て直した時にも、永久割譲よりは説明しやすいと思います」
「しかし千年」
「実際には、ほとんど永久に近い長さではありますが」
「ええ」
アン女王は紅茶を見ました。
「数字の言い方が少しだけ優しい」
「はい。永久割譲とは言わずに済みます」
「悪いですね」
「そうですね。ただ、返済していただければ、この条件を使う必要はありません」
「何も起きない」
三人とも、そこで少し笑いました。
フランソワさんは、右席で計器を見ています。
「楽しそうでございますね」
「聞こえてた?」
「かなり」
「内緒ね」
「国家間の契約のお話を、私が誰に話すのでございますか」
「それもそう」
*
帰りの紅茶も問題ありませんでした。
飛行時間が長いので、女王付きの侍女は帰路でも一度トイレを確認しました。
汚物処理と給水には手を出す必要がありません。
床と洗面台を軽く拭き、備品を整えます。
エルレンフェルトの給仕さんが新しい紅茶を用意します。
女王付きの侍女がカップを受け取り、アン女王陛下へ尋ねました。
「陛下、おかわりはいかがなさいますか」
「いただきます」
「王配殿下はいかがなさいますか」
「私もいただこう」
保温ポットのお湯は、まだ十分熱いです。
「これなら長い飛行でも使えます」
エルレンフェルトの給仕さんが言いました。
「うん」
「ただ、タッチアンドゴーの前には、完全に片づけて正解でございました」
「でしょう」
「あれでカップを出していたら、危なかったと思います」
「わたしもそう思う」
アン女王陛下が口を挟みました。
「私は座席へ押しつけられましたからね」
「かなり強い加速でしたでしょうか」
「かなり」
「燃料を使って機体が軽くなっていましたので、再離陸では特に加速が強く出ました」
『元気だよ』
「『元気だよ』と申しております」
「聞こえないのが、本当に惜しいですね」
*
ロンドン近郊。
ろばーとっち領地。
滑走路。
着陸。
燃料は減っていますが、ここでも短く止める必要はありません。
接地から、およそ六百メートル。
ゆっくり減速して停止します。
エンジンを止めます。
必要な確認。
吸入口カバー。
そして。
滑走路管理のおじさんが、保管小屋から木製タラップを出してきました。
車輪があるので、前よりずっと楽です。
「帰ってきたな」
「うん」
「女王様、どうだった?」
「ちゃんと乗れた」
「階段の話だよ」
「それもちゃんと」
「ならよかった」
機体の左前方へ据え付けます。
アン女王が降りてきました。
「これは、たいへん使いやすい階段でした」
女王が管理人のおじさんへ直接言いました。
管理人のおじさんは、今度こそ完全に固まりました。
「も、もったいないお言葉で」
「車輪を付けたのは、あなたなのでしょう?」
「はい」
「よい工夫です」
アン女王は笑いました。
十八歳ほどの姿で。
管理人のおじさんは、たぶん一生忘れません。
*
馬車が来ます。
アン女王陛下。
王配ジョージ殿下。
女王付きの侍女。
王室の側近。
海軍関係者。
財政関係者。
そのまま研究施設には入らず、帰ります。
「次はロンドンで話しましょう」
女王が言いました。
「はい。改めて資料も持ってまいります」
「今日は、よく分かりました」
「砂州まで含める必要も、お分かりいただけましたでしょうか」
「砂州も。飛行機も。紅茶も」
「紅茶も大事ですね」
「ええ。たいへん大事です」
王配ジョージは最後にチェブラーシカを見上げました。
「これがあれば、地図だけでは分からないことを、一日で見に行ける」
「はい。地図で相談してから、その日のうちに現地を自分の目で確かめられます」
「厄介なものを持ちましたね」
「はい。地図だけでは分からないところを実際に確かめるには、とても便利な子です」
「便利なものは、だいたい厄介です」
「そうかもしれません」
*
女王たちを見送ります。
どろちゃんたちは、燃料を確認しました。
「エルレンフェルトまでは十分」
フランソワさんが言います。
「じゃあ帰る」
「はい」
エルレンフェルトの給仕さんも乗ります。
木製タラップは、また管理小屋へ戻されます。
ここに置いておきます。
次に女王が来ても。
ほかの偉い人が来ても。
ちゃんと使えます。
*
離陸。
ギュワーン。
エルレンフェルトまでの燃料だけなので、南へ出た時より軽くなっています。
それでも急いで浮かせません。
滑走は、およそ八百メートル。
十分な速度を得てから離陸します。
ロンドン近郊を離れます。
高度を取ります。
『今日、女王様どうだった?』
「楽しそうだった」
『砂のところ、びっくりしてた』
「押しつけたからね」
『わたし?』
「チェブラーシカの推力」
『元気だから』
「うん。元気すぎる」
フランソワさんが笑いました。
「陛下も王配殿下も、かなり驚かれておりました」
「でも面白そうだったでしょう」
「はい」
「じゃあよかった」
*
エルレンフェルト。
三千メートル滑走路。
進入。
着陸。
接地から、およそ六百メートルを使って減速します。
三千メートルあるので、STOL性能を見せる必要はありません。
格納庫前。
エンジン停止。
赤い吸入口カバー。
そして清掃。
客室。
ギャレー。
食器。
床。
トイレ。
今日も神様は、パンくずまでは片づけてくれません。
トイレも、汚物の処理と給水はしてくれますが、便器や洗面台や床を磨いてくれるわけではありません。
点検。
吸入口。
翼の根元。
エンジンまわり。
脚。
タイヤ。
砂州へ触れた脚は、特に見ます。
「異常なし」
どろちゃんが言いました。
『だいじょうぶ』
「うん。でも見る」
『知ってる』
「えらい」
*
最後に、今日の記録をまとめました。
エルレンフェルト。
ロンドン近郊。
アン女王と王配ジョージ搭乗。
九千から一万メートルで、なるべく圏界面の上を選んで巡航。
機内食。
紅茶。
ジブラルタル。
低空確認。
砂州。
タッチアンドゴー。
セウタ。
ロンドン近郊。
エルレンフェルト帰還。
全部、一日です。
どろちゃんは記録の最後に、もう一つ書きました。
木製タラップ。
車輪付き。
運用良好。
「そこも書くのでございますか」
フランソワさんが聞きました。
「だって大事でしょう」
「はい」
「女王様、ちゃんと乗れたし」
「管理人さんもたいへん喜んでおられました」
「緊張してたよ」
「女王陛下に直接褒められれば、そうなります」
どろちゃんは、少し笑いました。
格納庫での作業が終わるころには、外はもう夕方です。
「帰ろうか」
「はい」
滑走路側の終点には、朝乗ってきた車両があります。
今日は呼び出す必要がありません。
料理の空箱。
食器。
記録。
どろちゃんとフランソワさん。
給仕さん。
みんな乗ります。
グオーン。
三キロ。
単線の車両は、丘の上の領主館側へ戻っていきました。
朝、車両が反対側にいれば呼ぶ。
帰りにこちら側にあれば、そのまま乗る。
たった一編成でも、呼出ベルと自動回送があれば、日常の足として困りません。
そして、ジブラルタルの航空図をもう一度見ました。
大きな岩山。
北の細い砂州。
今度は、地図の上だけではありません。
アン女王も。
王配ジョージも。
自分の目で見ました。
そして、チェブラーシカの車輪で、ほんの少しだけ触ってきました。
*
小さな説明
エルレンフェルトでは、飛行機だけでなく、地上で働く車両も少しずつ増えています。
まず、昔からいるのが小型履帯式ダンプトラックの
Самосвал(サマスヴァール。ダンプトラック。)君です。
小さな履帯式車両ですが、荷物や人を運ぶだけでなく、タドポール君の台車を引いたり、飛行場の中で航空機をゆっくり動かしたりする仕事もします。
ところが、新しい三千メートル滑走路と大きな格納庫ができると、旧飛行場にいるサマスヴァール君を毎回連れてくるわけにはいかなくなりました。
そこで神様から、同じ系統の車両がもう一台補給されています。
こちらは
サマスヴァール君bis
と呼ばれています。
新滑走路と格納庫側に常駐し、チェブラーシカを格納庫へ出し入れするトーイングカーとして使うほか、吸入口カバー、工具、整備用品、荷物などを運びます。
チェブラーシカはAn-28よりずっと重いので、牽引は平らなエプロンや格納庫周辺で、ごく低速で行います。
土木工事では、
Краб(クラープ。カニ。)君
という五トン級の小型油圧ショベルと、
Плоский(プロースキィ。平たい。)君
という十トン級のロードローラーが働いています。
クラープ君は、掘削、木の根の除去、排水溝、路盤づくり。
プロースキィ君は、滑走路や道路、鉄道まわりの締め固めが仕事です。
三千メートル滑走路が完成しても、領内では道路、排水、鉄道、工場敷地などの工事が続くので、二台とも暇にはなりません。
もう一つ、少し変わった車両があります。
丘の上の領主館・会議棟と、新しい三千メートル滑走路・格納庫を結ぶ、約三キロメートルの単線鉄道を走る小型電車です。
この線は、長距離を大量輸送する本線ではありません。
人、食事、郵便、工具、軽い荷物などを運ぶ構内シャトルです。
しかも、ほぼ平坦で、片道はたった三キロメートル。
そのため、鉄道技術の試験線としても使えます。
本線の初期電車のように、車軸近くへ大きな電動機を置き、平歯車で
バチン、グオーン
と走る必要はありません。
小型車なら、車体や台車側に電動機を載せ、スプロケットとローラーチェーンで車軸を回すような簡単な方式も試せます。
長距離の本線でチェーン駆動を使えば、摩耗、伸び、給油、張力調整などが面倒になります。
でも、たまに三キロ走るだけなら話は別です。
チェーンテンショナーを付け、張りを調整しやすくしておけば、十分に実験できます。
この線なら、壊れても工場からすぐ取りに行けます。
将来は、カルダン駆動、蓄電池駆動、誘導電動機、神様からもしインバーターが来ればVVVF制御なども試せます。
なお、この小型電車は一編成しかありません。
車両が反対側にいる時には、終点の呼出ボタンを押します。
通常は反対側の詰所でベルが鳴り、運転係が車両を持ってきます。
自動回送にしてある時には、リレーが呼出要求を覚え、車両が自分で発車し、三キロ走って、呼んだ側の終点で止まります。
短い鉄道ですが、日常の足であると同時に、エルレンフェルトの鉄道技術を試す小さな実験場にもなっています。




