60貴族令嬢は一万メートルでお昼を食べます。 ロバートフックとアイザックニュートンをつれてジブラルタルへ飛行です。
第60章 貴族令嬢は一万メートルでお昼を食べます
チェブラーシカが来てから、何日かたちました。
地上を走る。
離陸する。
上がる。
水平にする。
降りる。
着陸する。
どろちゃんは、一つずつ確かめました。
Пчёлка(プチョールカ。ミツバチ。)とは重さも速度も違います。
でも、飛行機であることは同じです。
急いで覚える必要はありません。
神様から来た機体だから壊れない、と考えて雑に扱うのも違います。
どろちゃんは飛ぶたびに記録を残しました。
フランソワさんも右席で見ています。
そして、ある日の朝。
「ろばーとっちに知らせよう」
どろちゃんは言いました。
「新しい飛行機のことでございますか」
「うん。ニュートンさんも来られるか聞いて」
「承知いたしました」
電信が送られました。
*
返事は早く来ました。
ロバート・フックは、来るならぜひ見たい。
ニュートンにも知らせる。
滑走路は空けておく。
そんな内容でした。
どろちゃんは、そこで飛行機だけを用意しませんでした。
「これも持っていく」
大きな木製タラップがありました。
幅があります。
両側に手すりがあります。
写真に写っていたような、機体に積まれた細くて急な梯子とは違います。
普通の服でも。
長い裾の服でも。
年を取った人でも。
なるべく無理なく上がれるように作りました。
重いです。
「ずいぶん立派になりましたね」
フランソワさんが言いました。
「女王様に、あの細い梯子はだめでしょう」
「まだ女王陛下をお乗せするとは決まっておりませんが」
「そのうち来るよ」
どろちゃんは、そういうところだけ妙に確信があります。
後部のランプを開けて、タラップを積みます。
固定します。
ほかにも、ホテルのレストランから荷物が来ました。
食事。
食器。
飲み物。
紅茶。
給仕さんも一人。
「今日は試すからね」
「承知しております」
給仕さんは、飛行機に乗ることそのものより、ギャレーの方が気になるようでした。
「お湯は?」
「沸かせるよ」
どろちゃんは電気ポットを見せました。
「こちらは?」
「保温する方」
「では、紅茶は問題ございませんね」
「たぶん」
「たぶん、でございますか」
「飛んでからも確認するの」
紅茶は、四か国会議で出したものと同じです。
神様からいただいた、かなり上等なものです。
*
チェブラーシカは、ロンドン近郊へ向けて離陸しました。
ギュワーン。
大きな二つのエンジンが働きます。
低いところを長く飛びません。
滑走路を離れたら、なるべく早く高度を取ります。
うるさいからです。
『今日は、ろばーとっち?』
「うん」
『どんな人?』
「見るといっぱい聞く人」
『ニュートンさんは?』
「考えるといっぱい聞く人」
『ふたりともいっぱい聞くの?』
「たぶんね」
チェブラーシカから、少し楽しそうな感じが返ってきました。
ロンドン郊外までなら、この機体には近いくらいです。
やがてフックの領地が見えました。
研究施設。
その近くの滑走路。
どろちゃんは普通に進入しました。
低空で周囲を回って見せたりはしません。
その必要がないからです。
着陸。
ギュワーンという音が落ち、機体が滑走路を走ります。
停止。
エンジンを止めます。
大きな吸入口が二つ、翼の上で口を開けています。
地上の人が近づく前に、必要な確認をします。
少し待ってから、赤い吸入口カバーを付けました。
「耳ふさいだ」
『聞こえるよ』
「そっちの耳じゃないよ」
『そうなの?』
「そうなの」
*
最初に降ろしたのは、木製タラップでした。
後部ランプから、何人かで運び出します。
滑走路を管理しているおじさんも手伝いました。
「これは重いな」
「重いでしょう」
「毎回出すのかい?」
「今度から、ここに置いておきたいの」
「それなら小屋へ入る」
管理人さんは、少し持ち上げてみました。
もう一度下ろします。
「車輪を付けた方がいいな」
「できる?」
「このくらいなら。使う時に転がしてきて、最後だけ持ち上げればいい」
「お願い」
「はいよ」
これで木製タラップは、ろばーとっち隣滑走路の備品になりました。
*
ろばーとっちは、もう来ていました。
ニュートンもいます。
「これは……」
フックは、チェブラーシカを正面から見ました。
目線が、翼の上へ上がります。
「なぜ、そこなのです?」
「そこ?」
「エンジンです」
「翼の上に排気を流すの」
どろちゃんは答えました。
「低い速度の時に、翼の上を流れる空気を助ける。だから短いところでも飛びやすい」
フックは、すぐに翼の根元へ目を移しました。
「すると、ここは排気を受け続ける」
「うん」
「熱も」
「うん」
「振動も」
「あるよ」
「それを承知で、この位置へ?」
「短距離で離陸出来るから」
フックは少し黙りました。
「ずいぶん思い切った設計ですね」
「普通なら、ここの点検、大変だと思う」
「普通なら?」
「この子は夜になると、普通に使って傷んだところが戻るから」
「……それを先に言っていただければ、話が少し変わります」
「でも点検はするよ」
「そこは変わらないのですね」
「間違って組んだとか、何か入ったとかは神様のせいじゃないもの」
フックはうなずきました。
納得したのか、諦めたのかは分かりません。
ニュートンは、別のところを見ています。
機体の大きさ。
脚。
翼。
そして、操縦席の方。
「どのくらい飛べますか」
「軽ければ、かなり遠く」
「かなり、とは」
「四千キロくらい」
ニュートンが顔を上げました。
「四千?」
「荷物いっぱいだと、ずっと短くなるよ」
「なるほど。燃料と荷物が同じ重量を取り合う」
「そう」
どろちゃんは笑いました。
*
燃料を入れました。
ここの神様燃料タンクから、減った分を補います。
今日は、ここから長く飛ぶつもりです。
チェブラーシカは、ほぼ満タンになりました。
「それで」
どろちゃんは二人に聞きました。
「行きたいところある?」
フックとニュートンが、同時にどろちゃんを見ました。
「いまから?」
「うん」
「どこまで?」
「二千キロくらいなら、行って帰るの考えられるよ。今日は人も荷物も少ないし」
今度は二人が地図を見ました。
どろちゃんが持ってきたのは、神様の航空図です。
海岸線。
山。
標高。
緯度。
経度。
いろいろ書いてあります。
人工物の印には、この時代には存在しないものもあります。
そこは使いません。
磁気に関する値は、この時代に合うように直されています。
「これは?」
フックが地図の南を指しました。
「ジブラルタル」
「分かりやすい地形ですね」
ニュートンも覗き込みました。
「海峡。岩山。位置の確認には向いている」
どろちゃんはうなずきました。
「じゃあ、そこ」
「本当に行くのですか」
「行きたいって言ったでしょう」
「伯爵が先に聞いたのですよ」
「そうだった」
どろちゃんは、もう一つ指しました。
「せっかくだから、こっちも」
「セウタ?」
「うん。海峡渡って、そこまで行って帰る」
ニュートンは距離を見ました。
もう一度、チェブラーシカを見ました。
「今日のうちに?」
「今日のうちに」
*
出発前に、慣性航法装置を合わせました。
「最初に、いまいる場所を入れるの」
どろちゃんは説明しました。
現在位置。
緯度。
経度。
そして目的地。
ジブラルタル。
「ここから、外の目印をずっと見ているわけではない?」
ニュートンが聞きました。
「見てもいいけど、今日はなるべくこの機械だけで計算させる」
「どうやって位置を知るのです」
「動きを測るの。どちらへ、どれくらい加速したか。それをずっと足していく」
「速度を求め、その先に位置を求める」
「うん」
「誤差も積み上がる」
「それも、うん」
ニュートンの顔が少し変わりました。
「地球の回転は?」
「入ってるよ。緯度も使う」
「……それを機械が?」
「ずっと」
ニュートンは、しばらく黙りました。
たぶん頭の中では、もう別のことが始まっています。
「今日は、その誤差を見るの」
どろちゃんは続けました。
「ジブラルタルで地形と比べる。セウタでも見る。戻ってきたときに、ここの位置とどれくらいずれたかも見る」
「理論上の誤差は?」
「このくらい」
どろちゃんは数字を示しました。
「その範囲に収まるはず」
「収まらなければ?」
「調べる」
「故障を疑う?」
「まず設定を疑う。次に使い方。それから機械」
ニュートンは笑いました。
「順番がたいへんまともですね」
「まともじゃないと困るよ」
*
全員が乗りました。
今日はVIP輸送モードです。
フック。
ニュートン。
給仕さん。
フランソワさん。
どろちゃん。
後部には荷物。
客室にはゆったりした座席。
ギャレーには食事と紅茶。
左前方の乗降口を閉めます。
木製タラップはもう降ろしてあります。
エンジン始動。
赤い吸入口カバーは、もちろん外してあります。
ギュワーン。
「この音は、ずいぶん大きい」
フックが言いました。
「だから低く飛び回らないの」
「それは賛成です」
チェブラーシカは滑走路へ出ました。
離陸。
速度が上がります。
機体が軽く浮きます。
そのまま上昇。
一千。
二千。
三千。
町や村の上を低く飛びません。
さらに上がります。
五千。
七千。
九千。
「一万」
どろちゃんが言いました。
巡航高度、一万メートル。
水平飛行へ移ります。
『まっすぐでいい?』
「うん。お願い」
『はーい』
チェブラーシカが自分で高度と針路を保ちます。
普通の自動操縦装置もあります。
でも、どろちゃんにとっては、それだけではありません。
この子には心があります。
どろちゃんとつながっています。
だから操縦桿から手を離しても、不安はありません。
ただし、今日は席を立ちません。
「練習だからね」
フランソワさんが横を見ました。
「はい」
「まだ、わたしここにいる」
「その方がよろしいかと」
「うん」
*
一万メートルでも、客室の中は普通です。
普通という言葉がおかしい気もします。
外は、人がそのままでは長くいられない高さです。
でも、中には空気があります。
温度も保たれています。
フックが前へ来ました。
操縦席の後ろから、計器を見ます。
「外の空気は薄いのに、ここは苦しくない」
「中の圧力を保ってるから」
「完全に外と同じではない?」
「うん。低いところとまったく同じにはしてない。でも、人が普通にいられるくらい」
「機体の内側から、外へ押していることになりますね」
「そう」
「すると胴体は、飛ぶたびに膨らもうとする」
「うん」
「それも疲労になる」
「なるよ」
フックは、また黙りました。
「この飛行機は、ずいぶんいろいろなところを疲れさせますね」
「そうだね」
『わたし元気だよ』
「うん。チェブラーシカは元気」
「何か言いましたか?」
フックが聞きました。
「この子が元気って」
「……そうでした。あなたには聞こえるのでしたね」
「うん」
*
給仕さんが、前まで来ました。
「お食事をお出ししてよろしいでしょうか」
「揺れてない?」
「客室では問題ございません」
「じゃあお願い」
どろちゃんとフランソワさんの分は、操縦席へ運んでもらいます。
二人とも席を離れません。
後ろでは、フックとニュートンにも食事が出ました。
温かい料理。
パン。
果物。
飲み物。
そして紅茶。
電気ポットで沸かした湯を使います。
保温ポットも問題なく働いています。
「香りがいいですね」
フックが言いました。
「四か国会議のときのだよ」
「なるほど。外交を続けたくなる紅茶です」
「紅茶のため?」
「少なくとも、悪い紅茶よりは会議が長続きします」
ニュートンは、紅茶より前の計器の方が気になるようでした。
「食べながら考えないでくださいませ」
給仕さんに言われました。
「考えることは止められません」
「では、こぼさないようお願いいたします」
「それは努力します」
給仕さんの勝ちでした。
*
しばらくして、ニュートンも前へ来ました。
「位置は?」
「ここ」
どろちゃんはINSの表示を指しました。
「外を見て合わせていない?」
「今日はしてない」
「それでも、この位置」
「うん」
「誤差は」
「まだこのくらい」
どろちゃんは数字を見せました。
「想定の中」
「当たり前のように言いますね」
「神様からもらった機械だもの」
「それでも、確かめる」
「確かめるよ」
ニュートンは少し笑いました。
「そこは譲らないのですね」
「神様のものでも、わたしが使うんだから」
*
長い巡航のあと、海が変わりました。
大西洋。
そして、その先に狭いところ。
「そろそろ」
どろちゃんは言いました。
高度を少し下げます。
でも、今日は低空へは行きません。
地形を確認できれば十分です。
前方に、大きな岩山が見えてきました。
「いた」
どろちゃんが言いました。
ジブラルタル。
航空図の位置。
INSの位置。
実際の海岸線。
岩山。
比べます。
「ずれは?」
ニュートンが聞きます。
「このくらい」
どろちゃんは記録しました。
「理論値の範囲」
「やはり」
「うん。当たり前」
「伯爵にとっては、当たり前なのですね」
「神様のだからね」
フックは窓の外を見ました。
「図にある、この印は?」
どろちゃんも見ました。
「今はない」
「ない?」
「人工物の印は、ないものもあるの。だから地形を見る」
「では、あの岬には?」
「赤い灯台もないね」
「灯台?」
「ないから気にしないで」
フックは、また一つ質問を増やした顔をしました。
どろちゃんは、先に言いました。
「今ないものの話は、今日はしないよ」
「そう言われると余計に気になります」
「だめ」
「分かりました」
分かっていない顔でした。
*
そのまま海峡を渡ります。
北側。
ジブラルタル。
湾の向こうにアルヘシラス。
南側。
モロッコ。
その海岸。
そして少し東へ。
「セウタ」
どろちゃんが言いました。
半島の形を見ます。
航空図と比べます。
INSも見ます。
「ここも、だいたい合ってる」
「誤差は増えましたか」
「少しね。でも範囲内」
ニュートンは数字を記録しました。
ろばーとっちは地形を見ています。
「ずいぶん狭い海峡ですね」
「だから大事なんだよ」
「船はここを通る」
「うん」
「北と南に港があれば」
フックがそこまで言って、どろちゃんを見ました。
「それ、別の会議で話した」
「そうなのですか」
「うん」
「では今日は飛行機の話だけにしておきましょう」
「それがいいよ」
*
帰ります。
もう一度高度を取ります。
ギュワーン。
チェブラーシカは一万メートルへ戻りました。
『帰る?』
「帰るよ」
『ろばーとっちのところ?』
「うん」
『ニュートンさん、ずっと書いてる』
「そういう人」
『ろばーとっちもずっと見てる』
「そういう人」
帰路も、INSに余計な位置修正は入れません。
どろちゃんは計器を見ます。
フランソワさんも見ます。
チェブラーシカは自分で飛びます。
給仕さんは、客室を片づけました。
「紅茶は?」
どろちゃんが聞きました。
「問題ございません。電気ポットも保温ポットも使えます」
「食事は?」
「温かいものも出せます。ただ、降下に入る前に片づける時間を、もう少し長く取っていただけると助かります」
「分かった」
「食器の固定も、少し変えた方がよろしいかと」
「それも帰ったら」
「はい」
こうして、飛行機の試験なのに、料理の試験も進みます。
*
ロンドン近郊へ戻ってきました。
フック領地。
研究施設。
滑走路。
INSが示す位置を見ます。
「最後」
どろちゃんが言いました。
既知の滑走路位置と比較。
ずれ。
記録。
「範囲内」
ニュートンが先に言いました。
「うん」
「出発からここまで、ずっと」
「うん」
「では、この機械は理論どおり働いた」
「そう」
「伯爵は嬉しくないのですか」
「嬉しいよ。でも、そうなると思ってた」
「神様から来たから?」
「うん」
「便利な信頼ですね」
「だからって点検しないのはだめだよ」
「そこへ戻るのですね」
「戻るよ」
着陸しました。
*
エンジンを止めます。
フックとニュートンが降りました。
「今日は、たいへん勉強になりました」
フックが言いました。
「また聞く?」
「もちろんです」
「やっぱり」
ニュートンは、まだ紙を持っています。
「慣性航法について、もう少し」
「今日はもう帰るよ」
「では次回」
「次回ね」
滑走路管理のおじさんが、あの木製タラップを見せました。
「車輪、付けとくよ」
「お願い」
「手すりのところも少し補強しておく」
「ありがとう」
「誰が使うんだい?」
どろちゃんは少し考えました。
「たぶん、えらい人」
「壊れないようにしとくよ」
「それがいい」
*
燃料を入れます。
出発前にほぼ満タンにしたので、神様タンクの中身は減っています。
帰ってきた分を全部戻せるほどは、まだありません。
「満タンにはならないね」
「エルレンフェルトへ戻るには十分でございます」
フランソワさんが確認しました。
「じゃあ帰ろう」
給仕さんも乗ります。
食器。
残った食事。
記録。
全部確認します。
離陸。
ギュワーン。
ロンドン郊外を離れ、また高度を取ります。
帰りは、もう長距離試験ではありません。
どろちゃんは席に座ったまま、今日の記録を見ました。
「INS、よし」
「はい」
「ギャレー、直すところあり」
「はい」
「紅茶、よし」
「そこも記録なさるのでございますか」
「大事でしょう」
「四か国会議でも好評でございましたから」
「でしょう」
*
エルレンフェルトへ帰りました。
三千メートルの滑走路へ、チェブラーシカが降ります。
着陸。
減速。
格納庫の前まで来ました。
でも、すぐには入れません。
まず掃除です。
客室。
ギャレー。
床。
座席まわり。
神様は、パンくずまで消してくれません。
トイレも、汚物そのものは残らなくても、床や便器や洗面台は人が掃除します。
給仕さんは、今日使った食器とギャレーの配置を確認しました。
「こちらへもう一つ固定具があると便利です」
「付けられる?」
「工場へお願いすれば」
「じゃあお願いしよう」
「降下前の片づけ時間も、次は少し早めにいたします」
「うん」
料理長さんにも、あとで報告します。
何が出しやすかったか。
何が温めやすかったか。
何が揺れたとき危ないか。
紅茶はどうだったか。
飛行機の運航は、操縦席だけでは終わりません。
*
機体の点検もします。
吸入口。
エンジンまわり。
翼の根元。
排気を受けるところ。
後部胴体。
脚。
タイヤ。
今日は長く飛びました。
異常なし。
通常の熱。
通常の汚れ。
通常の使用。
「ここ、やっぱり大変だね」
どろちゃんは翼の根元を見ました。
『わたし元気』
「知ってる」
『明日も元気』
「それも知ってる」
『じゃあいい?』
「点検はするの」
『はーい』
最後にINSの記録をまとめました。
出発。
ジブラルタル。
セウタ。
帰着。
誤差は、全部想定された範囲の中です。
「当たり前」
どろちゃんは言いました。
「それでも、確認できました」
フランソワさんが答えます。
「うん。それが大事」
掃除が終わりました。
点検も終わりました。
チェブラーシカは、大きな格納庫へ戻っていきます。
今日だけで。
ロンドンへ行きました。
ろばーとっちとニュートンを乗せました。
一万メートルでお昼を食べました。
ジブラルタルを見ました。
海峡を渡りました。
セウタも見ました。
そして帰ってきました。
どろちゃんは、格納庫の中の大きな機体を見上げました。
「遠くまで行けるね」
『行けるよ』
「次は、誰を乗せようかな」
チェブラーシカは、まだ知りません。
どろちゃんには、もう次のお客さんがだいたい決まっていました。
*
小さな説明
チェブラーシカのもとになっているAn-72は、アントノフ設計局が作った短距離離着陸のできるジェット輸送機です。
開発されたのは1970年代で、試作機は1977年に初飛行しました。量産は少し遅く、ハルキウの航空機工場では1984年から1992年までに114機のAn-72が作られています。
もともと、設備の整っていない飛行場へ人員や貨物を運ぶことを強く意識した軍用輸送機です。旅客機のように立派な空港設備を前提にせず、短い滑走路や未舗装の飛行場でも使えるように作られました。そのため、変わった姿ではありますが、実験だけをする特殊な飛行機ではありません。実際に人と荷物を運び、何度も離着陸して使うための実用機です。
全長は約28.1メートル。
翼幅は約31.9メートル。
高さは約8.65メートル。
巡航速度はおよそ時速540キロメートル。
実用上昇限度は約10,100メートルです。
ですから、この章で一万メートルを巡航しているのは、かなり上の方まで上がって飛んでいることになります。
An-72の目立つ特徴は、何よりも翼の上に載った二つのジェットエンジンです。
エンジンの排気を翼とフラップの上へ流し、低速時にも大きな揚力を得られるようにしています。
メーカー資料では、未整備の滑走路を含む約600メートル級の飛行場での運用を念頭に置いた機体とされています。
そのため、機体の大きさに比べると、かなり短い距離で離陸・着陸できます。
その代わり、翼の上に大きなエンジンを載せるという、かなり変わった形になりました。
正面から見ると、二つの吸入口が頭の左右に付いた大きな耳のように見えます。
チェブラーシカという愛称がよく似合う形です。
航続距離については少し注意が必要です。
An-72の資料には四千キロメートルを超える数字もありますが、これはどんな荷物を積んでも同じだけ飛べるという意味ではありません。
燃料と貨物は同じ機体重量の余裕を使います。
燃料を多く積めば遠くまで飛べますが、その分だけ貨物を減らす必要があります。
反対に、重い貨物を積めば航続距離は短くなります。
本作のチェブラーシカが、ろばーとっちの滑走路からジブラルタルとセウタまで往復できたのは、VIP仕様で乗員と乗客が少なく、貨物も軽く、長距離飛行用に十分な燃料を積めたからです。
An-72が生まれた時代は、衛星測位に頼って飛ぶ時代でもありませんでした。GPSの最初の衛星が上がったのは1978年で、24機による実用的な全地球規模のシステムが完成するのはずっと後です。したがって、この世代の飛行機は、最初から「衛星が見えなければ飛べない」という作りではありません。
本作のチェブラーシカには、1980年代後半相当の航空図や慣性航法装置があります。出発地点を正しく与えれば、機体の動きを測り続けて自分の位置を計算できます。もちろん誤差は少しずつ積み上がりますから、地形、既知の地点、磁針、無線など、使えるものがあれば確認します。しかし、衛星から現在位置を教えてもらわなければ長距離を飛べない機体ではありません。今回どろちゃんがロンドン近郊からジブラルタル、セウタまで飛んでINSのずれを調べたのも、その性格を確かめるためです。
操縦についても、An-72は一機だけ作って限界性能を試す実験機ではなく、軍の部隊で人員や貨物を運ぶための実用輸送機です。軍用機では、すでに操縦技量を持つパイロットが機種転換訓練を受け、部隊で実際に使えるところまで、現実的な時間で到達できなければ困ります。
戦時になれば、負傷や戦死、異動、機種転換でパイロットは常に入れ替わります。新しい機体へ移るたびに、民間の大型旅客機のような長大な乗員養成体系を最初から全部やり直さなければ飛ばせないようでは、部隊の補充が追いつきません。もちろん「ほとんど訓練なしで誰でも飛ばせる」という意味ではありません。基礎的な操縦技量を持つ軍用パイロットが、標準化された手順で機種を覚え、比較的短い転換訓練で実務へ入れることが重要です。
本作のどろちゃんは、すでにタドポール君、みつばちちゃん、コウノトリちゃんなどで飛行経験を積み、アントノフの技師さんたちからも教わっています。さらに神様機とは心が通じています。ですからチェブラーシカでも、地上走行、離着陸、上昇、巡航、降下を一つずつ練習し、必要な感覚と手順を確かめてから実用飛行へ移っています。これは現代の民間航空会社で一人の大型旅客機乗員を養成する時間を、そのまま1703年へ持ち込んでいる、という意味ではありません。
本作のチェブラーシカは、An-72系列のVIP・行政輸送型であるAn-72Sをもとにした神様機です。
後部の貨物ランプを残しているので、人だけでなく荷物や地上設備も運べます。
今回、重い木製タラップまで持っていけたのも、この機体を選んだ理由の一つです。




