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58おじいさまの鉄道と、誰もいない駅    一部区間の先行開業です 全線開業用の車両はライデン大学で試験中

第58章 おじいさまの鉄道と、誰もいない駅


 秋になっても、どろちゃんの朝はあまり暇にはなりませんでした。


 新しく買った土地では、三千メートルの滑走路を造っています。


 地面をならして、排水を作って、路盤を締めて、セメントを入れて安定させ、その上へアスファルトを敷きます。


 夏よりは、ずいぶん楽になりました。


 暑さで作業員さんがへばることも減りましたし、どろちゃん自身も現場を歩き回りやすくなっています。


 お昼にはホテルのレストランからお弁当が届きます。


 貴族令嬢が毎日スコップを持って真っ黒になるわけにはいきませんが、どろちゃんは毎日のように現場へ来ていました。


 測量を見る。


 築堤を見る。


 転圧を見る。


 路盤を見る。


 排水を見る。


 アスファルトの仕上がりを見る。


 そして、ときどき機械にも乗ります。


「今日は見るだけ、とおっしゃっていましたが」


 フランソワさんが言いました。


「見てるよ」


「ローラーの上からでございますね」


「よく見えるから」


 フランソワさんは、それ以上は言いませんでした。



 旧飛行場と新しい滑走路予定地の間には、もう三キロほど鉄道が通っています。


 こちらはフランスの鉄道とは違って、第三軌条の六百ボルト。


 単線です。


 本当なら複線にしてもよかったのですが、ストラスブールから西へ伸びる鉄道ですらレールが足りません。


 そこから分けてもらっている身で、エルレンフェルトだけ二本も敷くのは、さすがに少し気が引けました。


 だから、いまは一本。


 将来はぐるりと周回する予定で、路盤だけはその先まで出来ています。


 道路も用水路も低くしていません。


 鉄道の方を築堤で持ち上げ、その下を大きめのボックスカルバートで通しました。


 道路は元の高さ。


 用水路も元の高さ。


 電車なら勾配には強いので、その方が簡単です。


 まだレールのないところにもカルバートだけはあります。


 農家の人たちはもう使っていました。


 雨が降れば雨宿り。


 晴れていれば、風通しのよいところで藁や農産物を少し乾かす。


 作業の途中で座って休んでいる人もいます。


 鉄道はまだ来ていないのに、鉄道の下だけ先に生活へ入っていました。



 そんな日の午後、屋敷へ戻ると、パリから手紙が来ていました。


 いつもの人からです。


 トルシー侯。


 どろちゃんは封を切って、読み始めました。


 途中で止まりました。


「なにこれ」


 フランソワさんが紅茶を置きます。


「何かございましたか」


「スペインの王様が、鉄道ほしいって」


「陛下のお孫様でございますね」


「うん。おじいさまの鉄道ができたから、自分のところにもほしいって」


 そこまでは、よく分かります。


 ストラスブールからファルスブールまで、本当に電車が走りました。


 王様自身が乗りました。


 午後三時からは普通のお客さんも乗っています。


 それを聞けば、ほしくなる王様がいても不思議ではありません。


 問題は、その次でした。



 フェリペ五世の側近の一人が、こう言ったというのです。


 軍事を見ている人でした。


 もし戦争になり、鉄道を敵に奪われたとき、フランスと同じ軌間なら、奪った側は自分たちの車両をそのままスペインへ入れられる。


 ならば最初から幅を変えておけばよい。


 スペインだけ、もっと広い軌間にする。


 国境を越えたところで車輪が合わなくなるなら、鉄道を奪われても敵はすぐには使えない。


 軍事だけを考えれば、理屈はありました。


 その人はかなり真面目にそう考えているようでした。



「出た」


 どろちゃんが言いました。


「何がでございますか」


「変な幅」


 フランソワさんには分かりません。


 当然です。


 この世界には、まだ鉄道の軌間問題そのものがほとんど存在していません。


 本格的な営業鉄道が、まだフランスに一つあるだけだからです。



 手紙には、ルイ十四世も少し困っていると書かれていました。


 孫から相談されたので、まずトルシー侯たちが考えた。


 戦時には確かに意味があるのかもしれない。


 でも、フランスの鉄道が将来スペイン国境まで延びたらどうするのか。


 そこで、どろちゃんの意見も聞きたい。


 そんな内容でした。



 どろちゃんは、すぐ返事を書きました。


 戦争のときには、違う軌間が敵に使いにくいことはあるかもしれません。


 でも、戦争ではない日の方がずっと多い。


 フランスとスペインの国境へ来るたびに、人を降ろして乗り換えさせ、荷物を全部積み替える。


 石炭も鉄も食料も郵便も、全部です。


 せっかく大量に早く運ぶための鉄道なのに、国境へ来るたび荷物を持ち上げ直すのでは、毎日の損失が大きすぎます。


 敵に使わせないための工夫が、平時には自分たちの鉄道を毎日使いにくくする。


 どろちゃんには、その方がずっともったいなく思えました。



 数日後、また手紙が来ました。


 ルイ十四世は納得したそうです。


 そして孫にも、


 フランスと同じ規格にしておいた方がよい。


 将来つながったとき、そのまま列車を通せる。


 と伝えました。



 でも、孫は聞きませんでした。



「聞かないの?」


 どろちゃんは手紙を見ながら言いました。


「王様でございますから」


 フランソワさんが言います。


「おじいさまも王様だよ」


「それでも、別の国の王様でございます」


「そうだけど」


 どろちゃんは、もう一度手紙を読みました。


 フェリペ五世側では、やはり軍事顧問の意見が強いらしいのです。


 戦時の備えとして、独自の広い軌間にしたい。


 おじいさまが何と言っても、そこはスペインで決める。


 そういうことでした。



 どろちゃんは、しばらく考えました。


 そして言いました。


「ロンドン行こう」


「アン女王陛下のところへ、でございますか」


「うん」


「鉄道のお話を?」


「鉄道と、お金のお話」


 フランソワさんは、少しだけ嫌な予感がした顔をしました。



          *



 Пчёлка(プチョールカ。ミツバチ。)でロンドンへ行くこと自体は、もう難しい仕事ではありません。


 ただし、その先は無理です。


 地図の上ならジブラルタルもセウタも見えます。


 でも、今ある飛行場と今のみつばちちゃんで、ロンドンからそのまま地中海の入口まで飛んで見せるようなことは出来ません。


 航続距離が足りません。


 だから今日は、地図を持っていきました。



 ロンドンで迎えてくれたアン女王は、以前とはまるで違う足取りで歩いてきました。


 四か国会議へ来たときの女王は、三十八歳でした。


 病気と浮腫と痛みを抱え、歩くことそのものが負担になる日もありました。


 でも、会議の途中でエリクサーを飲んでから、身体だけは結婚したころ、十八歳前後まで戻っています。


 顔も。


 体つきも。


 歩き方も。


 いま目の前にいるのは、見た目だけなら、どろちゃんとほとんど年の違わない若い女性でした。


 もちろん、中身まで十八歳へ戻ったわけではありません。


 記憶も。


 経験も。


 女王としての立場も。


 三十八年生きてきたアン女王のままです。


 最初は服まで合わなくなって、どろちゃんの旅行用の服を借りたくらいでしたが、さすがに今では新しい身体に合わせた衣装が揃っています。


 それでも、こうして軽い足取りで部屋を横切る姿には、まだ周囲の人が一瞬目を止めることがありました。



「伯爵、今日は何を持ってきたのです?」


 アン女王は、待たずに地図のある長机まで歩いていきました。


「スペインの借金」


「ずいぶん景気のよい挨拶ですね」


 女王が笑いました。



 その横にいた王配ジョージも笑っています。


 彼は、若返ったアンを見ても妻だと分かった人でした。


 なにしろ、十八歳だったころのアン本人を知っています。


 それでも、まだ完全には慣れていないようでした。


「あなたがあの速さで部屋の端まで歩いていくのを見ると、私はいまだに結婚したころへ戻されたような気がしますよ」


 ジョージが言いました。


「あなたまで若返ったわけではありませんよ」


「ええ。立ち上がるたびに膝が教えてくれます」


 アン女王は声を立てて笑いました。


 その笑い方まで軽くなっています。



 今日は英国側の財務を扱う人たちと、海軍関係者も呼ばれていました。


 王配ジョージ自身も海軍に関わる立場ですから、海峡の話になれば黙っている理由がありません。



「それで、スペインの借金とは?」


 アン女王が椅子へ座りながら聞きました。


 どろちゃんも向かいへ座りました。


「スペインの王様が、鉄道ほしいって」


「ルイ陛下の鉄道を見て?」


「うん。おじいさまのと同じのがほしいみたい。でも、同じ幅は嫌なんだって」


「なぜでしょう」


「戦争になって取られても、敵がそのまま使えないように」


 アン女王は少し考えました。


「軍人らしい考えではありますね」


「わたしも戦争のときだけなら分かる。でも、普段が困る」


 どろちゃんは地図の国境を指でなぞりました。


「ここへ来るたび、人は乗り換え。荷物は全部積み替え。毎回」


 財務担当の紳士が、地図へ目を落としたまま言いました。


「戦争に備えて国境へ税関を置くのは理解できますが、戦争に備えて平時の貨物を毎日いったん床へ降ろす、というのは少々高価な用心でございますな」


「そう。それ」


 どろちゃんが言いました。


「鉄道で早く持ってきても、ここで全部止まる」


 別の紳士が静かに付け加えました。


「スペイン王国が独自の規格をお選びになる自由は、もちろん尊重いたしましょう。ただし英国の資金を用いて、英国の債権価値まで不便にする規格をお作りになる自由まで、我々が費用を負担して尊重する必要はございませんな」


 どろちゃんは、その人を見ました。


「それ、わたしより言い方が英国っぽい」


「お褒めいただいたものと理解しておきましょう、伯爵閣下」


 どろちゃんは少し笑いました。



 アン女王は地図の上へ両手を置きました。


「ルイ陛下は、お孫様へ同じ規格にするよう勧めたのですね」


「うん。でも聞かない」


「ならば、祖父の忠告ではなく、貸し手の条件にすればよいのではありませんか」


 どろちゃんは顔を上げました。


「そう思った」


「それで私のところへ来たのですね」


「うん」


「なるほど」


 アン女王は、すぐ財務担当者の方を向きました。


「英国が資金を貸すことは出来ますか」


 尋ね方は軽いのに、部屋の空気が少し変わりました。



「条件次第でございます、陛下」


「慈善ではありませんよ」


「もちろんでございます」


「鉄道が利益を生むのなら、その利益から返済させる。フランスには機材を売らせる。スペインは鉄道を得る。そして英国は利息を受け取る」


 アン女王は一つずつ指で数えました。


「これなら、少なくとも誰かが鉄道を欲しがったという理由で戦争を始めずに済みます」


「たいへん好ましいことでございます」


 財務担当者が答えました。


「そして、もし返済されなければ?」


 アン女王が聞きます。


 紳士はわずかに笑いました。


「その場合のために、契約書には担保という実に文明的な仕組みがございます」


 どろちゃんは思いました。


 やっぱり英国の人の方が、自分より一枚上です。



 財務担当者は続けました。


「スペインが予定通り返済なされば、我が国は利息を頂戴するだけです。返済が滞れば、契約に従って担保をお預かりする。どちらの場合も、英国の納税者にはたいへん説明しやすい案件でございます」


 王配ジョージが肩を少しすくめました。


「スペインのための鉄道で、フランスの工場が働き、英国の金が増えるわけですか」


「スペインにも鉄道が残ります」


 アン女王が言いました。


「皆に利益があるのなら、長続きするでしょう」


「返せればね」


 どろちゃんが言いました。


「返せなければ?」


 アン女王が聞きました。


 どろちゃんは、地図を南へずらしました。



「ここ」



 指したのは、地中海の入口でした。



「ジブラルタル」



 もう一方も指します。



「こっちはセウタ」



 地図で位置を確かめると、二つの場所の意味は分かりやすくなります。


 ヨーロッパ側では、ジブラルタルの大きな岩山が海へ突き出しています。その西側、湾を挟んだ向こうがアルヘシラスです。


 海峡を渡ったアフリカ側にはセウタがあります。そこから西へ行けばタンジェ。その先は大西洋です。


 つまり、ジブラルタルとセウタは海峡の両側にあります。


 どろちゃんが欲しいのは、アルヘシラスでもタンジェでもありませんでした。



 アン女王の目が変わりました。


 今度は王配ジョージが先に身を乗り出しました。



「伯爵、ここを担保に?」


「うん。でも、わたしはまだ見に行けない」


「飛行機で?」


「距離が足りない。だから、海のことは教えてほしい」


 ジョージは海軍関係者へ目をやり、それから自分でも地図を引き寄せました。


「大西洋から地中海へ入る船は、結局ここを通ります。逆も同じです。ここに補給のできる港があれば、艦隊はかなり楽になります」


 海軍の担当者も続けます。


「北側のジブラルタルだけでも有用です。南側にセウタまであれば、さらに選択肢が増えます。ただ、海峡そのものを閉じるような扱いをすれば、フランスもオランダも、ほかの通商国も黙っておりますまい」


「閉じないよ」


「ならば、港と補給地としては非常に価値があります」


 ジョージが地図の北岸を指しました。


「この岩山は守りやすい。港もある。広い土地ではありませんが、我々がここで農業を始めたいわけでもない」


 どろちゃんはうなずきました。


「いる?」


「海軍としては、あれば嬉しいですね」


「じゃあ担保」



 財務担当者が咳払いしました。


「伯爵閣下。その二か所をそのまま譲渡せよ、と申せば、スペイン側は席を立つでしょうな」


「売ってもらわないよ」


「では?」


「借りるの。返せなくなったら、千年」


「……千年」


 今度は部屋の何人かが黙りました。



 アン女王が最初に笑いました。


「永久と書くよりは、たしかに短いですね」


「でしょう」


「九百九十九年目の財務担当者には、返還準備を忘れないよう申し送らなければなりません」


 さっきの紳士が真顔で言いました。


「担当者の引継ぎが少々長期になりますな」


 ジョージが笑いました。


「私は返還式には出られそうにない」


「私も難しいでしょうね」


 アン女王が答えました。



 財務担当者は、そこで一度、どろちゃんとアン女王を見比べました。


 見た目だけなら、十七歳の伯爵令嬢と十八歳ほどの女王が、地図を挟んで座っています。


 話しているのは、スペイン王国の借金と、地中海の入口にある二つの港です。



「どうしました?」


 アン女王が聞きました。


「いえ、陛下。十七歳の伯爵閣下と、十八歳にしか見えない女王陛下が、これほど楽しそうに一国の債務と海峡の担保を相談しておられる会議へ出席するとは、数年前には想像いたしませんでした」


「私は三十八歳ですよ」


「存じ上げております」


「わたしは十七だよ」


「そちらも存じ上げております、伯爵閣下」


「じゃあいい」


 ジョージは声を出して笑いました。



          *



 担保の範囲は、もう少し細かく考える必要がありました。


 どろちゃんはジブラルタルの岩山だけを指していたわけではありません。


 岩山とスペイン本土のあいだには、低い砂地があります。


 細いところです。


 ずっと後には、この低い砂州の上へ飛行場が造られます。岩山だけを借りて、この細い接続部をスペイン側へ残したら、その飛行場を置く場所まで別の国になってしまいます。


 どろちゃんが、妙にここだけ細かく気にしていたのには理由がありました。



「ここも」


 どろちゃんは、その砂地まで指で囲みました。


 アン女王が見ます。


「岩山だけではなく?」


「うん。つながってるところまで」


「ずいぶん細い土地にこだわりますね」


「こういうところ、あとで大事になるから」


 どろちゃんは、それ以上は言いませんでした。


 港と岩山を借りたのに、その入口だけ別の管理になっているのも面倒です。


 それだけでも説明はつきます。



 ジョージも地図を見て、


「少なくとも、要塞と港へ陸から入るところが別の扱いでは不便でしょう」


 と言いました。


 そこで英国側の案には、ジブラルタルの岩山、港、城砦だけでなく、本土へつながる低い砂州までを一体の租借範囲として入れることになりました。


 アルヘシラスは入れません。


 スペイン本土の大きな港町まで欲しがれば、話がまるで違ってしまいます。



「アルヘシラスはいらない」


 どろちゃんが言いました。


「そこまで取ったら、スペインも怒るよ」


「ジブラルタルなら怒らないと?」


 アン女王が聞きました。


「怒ると思う」


「でしょうね」


「でも、担保だから」


「返済すればよいのですものね」


「うん」


 二人とも、そこで少し笑いました。



 セウタも同じです。


 モロッコ全部へ英国が手を出す必要はありません。


 セウタはアフリカ側でも東寄りです。タンジェはそこから西、海峡の大西洋側の入口に近い町でした。


 この世界では、のちにモロッコはフランス側が持つことになります。


 だから英国がタンジェまで欲しがれば、これはもう「スペインの借金の担保」では済みません。フランスが将来使う場所へ英国が入り込む話になります。


 タンジェまで口を出せば、フランスとの関係がおかしくなります。


 スペインが持っているセウタと、港、防御、補給に必要なごく周囲だけ。


 面積を増やすことが目的ではありません。


 海峡の両側に、使える場所があればいい。



          *



 話は、その日のうちに全部決まったわけではありません。


 英国側で金額を計算する人がいます。


 返済期間を考える人がいます。


 スペインの債務を調べる人も必要です。


 フランス側には、どれだけレールや電車や電気設備を供給できるか確認しなければなりません。


 それでも方向は決まりました。



「では、英国から正式に条件を作らせましょう」


 アン女王が言いました。


「標準の軌間。返済は鉄道収入から。返済が滞ったときの担保として、ジブラルタルとその砂州、セウタと必要な周辺地」


「千年」


「ええ。千年」


 女王はまた笑いました。


「フランスには機材を売っていただく。スペインには鉄道を造っていただく。私たちはお金を貸す」


 ジョージが言いました。


「こうして聞くと、たいへん穏やかな相談に聞こえますね」


「穏やかでしょう?」


 アン女王が答えました。


「誰も砲撃していません」


「今のところは」


「今後もしない方がいいよ」


 どろちゃんが言いました。



 財務担当者は書類をまとめながら、


「返済が順調なら、英国は利息を得ます。順調でなければ、海軍が喜ぶ。たいへん結構な分散投資でございます」


 と言いました。


 どろちゃんは、また思いました。


 自分が考えてきたときより、英国へ持ってきた後の方が、話が少し怖くなっています。



          *



 それから、話はパリへ戻りました。


 ルイ十四世は、英国が資金を出すという話を聞いて、かなり早く賛成しました。


 フランスにとって悪い話ではありません。


 スペインの鉄道がフランスと同じ規格になる。


 しかも、その建設に使うレール、電車、電気設備、締結具、その他の機材をフランス側から供給できる。


 鉄道を造れば造るほど、フランスの工場にも仕事が来ます。



 英国側からスペインへ示された条件は、分かりやすいものでした。


 英国が建設資金を貸す。


 スペインは鉄道の営業利益から返済する。


 機材は主にフランス側から購入する。


 軌間その他の基本規格は、ストラスブールからファルスブールへ走っている鉄道と同じものにする。


 返済が大きく遅れた場合に備え、ジブラルタルと本土へつながる砂州、セウタ、その必要最小限の周囲を担保に入れる。


 担保が実行された場合には、英国が千年間の租借権を得る。



 フェリペ五世のところでは、また議論になりました。


 あの広い軌間を勧めた軍事顧問もいました。


 彼は標準軌の条件には最後まで不満そうでした。


 しかし、担保の地図を見ると、少し考え方が変わりました。



「アルヘシラスは渡しません」


 最初にそう言ったそうです。


 英国側の使者は、


「要求しておりません」


 と答えました。



 軍事顧問はジブラルタルを指しました。


「ここだけなら、土地の多くは岩です。農地として大きな価値があるわけでもない。返済出来れば何も起こらないのでしょう」


「その通りです」


「セウタも、周囲を際限なく広げない」


「必要な範囲のみです」


「ならば、鉄道のためなら考えられます」



 そこで英国側が、もう一つ確認しました。



「ジブラルタルには、岩山と本土をつなぐ砂地も含みます」



 軍事顧問は地図を見ました。


「ここまでですか」


「ここまでです」


「アルヘシラス側へは?」


「参りません」


「ならばよい」



 どろちゃんが後でその報告を読んだとき、


「よし」


 と言いました。



 フランソワさんには、何がそんなに大事なのか分かりませんでした。


「その細い砂地が、そんなに重要なのでございますか」


「うん」


「港ではございませんが」


「あとで使うかもしれない」


「何に?」


「まだ内緒」


 どろちゃんは答えませんでした。



 フェリペ五世は、最後まで軌間のところでは少し不満だったようです。


 でも、鉄道は欲しい。


 おじいさまの国では、もう走っている。


 自分の国にはない。


 そして、自分だけの別規格にすると、英国はお金を貸してくれません。



 結局、まとまりました。



 資金は英国。


 機材はフランス。


 規格は同じ。


 建設はスペイン。



「お金って強いね」


 エルレンフェルトで正式な知らせを読んだどろちゃんが言いました。


「お嬢様が、それをおっしゃいますか」


 フランソワさんが答えました。


「わたし、軌間変えたくなかっただけだよ」


「そして海峡の両側を担保にされました」


「念のため」


「千年間」


「念のため」


「砂州まで」


「そこ大事」


 フランソワさんは、そこで諦めました。



          *



 スペインで工事が始まりました。


 いきなりマドリードとリスボンの全区間が完成するわけではありません。


 出来るところから造ります。


 それは、エルレンフェルトでもフランスでも同じでした。


 道路を直す。


 築堤を造る。


 水路を通す。


 橋を造る。


 駅を造る。


 レールがまだ来ていなくても、出来るものは先に出来ます。



 駅については、フェリペ五世がたいへん分かりやすい注文をしました。


 おじいさまのところと同じもの。



 つまり、ストラスブール駅です。



 市街の真ん中へ無理に押し込まない。


 郊外へ大きな土地を取る。


 長いホーム。


 たくさんの線路。


 大きな駅前。


 将来の貨物ヤード。


 まだ使わない場所まで先に確保する。



 マドリードの駅は、大きくなりました。


 途中の駅も、大きくなりました。


 かなり小さな町の駅まで、大きくなりました。



「そこ、そんなに大きくしなくてもいいんじゃない?」


 どろちゃんは図面を見たとき、一応言いました。


 でも、返ってきた答えは、


 将来増えるから。


 でした。


 どこかで聞いた言葉です。



 ストラスブール駅を大きくした本人も、特に反対しませんでした。


 ルイ十四世です。


 むしろ、


 後から狭いと言って造り直すよりよい。


 という返事でした。



「おじいさまと孫だ」


 どろちゃんは言いました。



          *



 全部の線路が完成する前に、最初の区間が走れるようになりました。


 部分開業です。


 まだマドリードからリスボンまで行くことは出来ません。


 でも、完成した区間だけでも営業すれば、運賃が入ります。


 借金の返済にも使えます。


 完成するまで全部寝かせておく理由はありません。



 開業した駅の一つは、町から少し離れたところにありました。


 駅舎は立派です。


 ホームは長い。


 将来もう何本か線路を増やせる場所まであります。


 駅前広場も広い。


 馬車が何十台来ても困らないでしょう。



 でも、来ません。



 一日に止まる電車は数本。


 町の人口も、まだそんなに多くありません。


 列車が来る少し前になると、人がぽつぽつ集まってきます。


 馬車も何台か来ます。


 荷物を持った商人もいます。


 そして電車が来ます。



 バチン。



 床下で大きな電磁接触器が動きます。



 グオーン。



 モーターと平歯車の音を響かせながら、電車がホームへ入ってきます。


 何人か降ります。


 何人か乗ります。


 荷物も少し動きます。



 そして、また。



 バチン。


 グオーン。



 電車が出ていきます。



 その後です。



 駅が、ものすごく静かになります。



 長いホームに、人がほとんどいません。


 大きな待合室にも、ほとんどいません。


 駅前広場も、広いままです。



 売店はありました。


 最初は開いていました。


 パン。


 飲み物。


 少しのお菓子。


 新聞のようなものも置くつもりでした。



 でも、お客さんが来ません。



 一日中開けていても、売れる量が少なすぎます。



 とうとう、列車が来る時間だけ開けるようになりました。


 それでも合わないところは、戸を閉めました。



 立派な駅。


 長いホーム。


 閉まった売店。


 誰もいない待合室。



 次の電車が来るまで、風だけが通ります。



 鉄道そのものが失敗したわけではありません。


 貨物は運べます。


 人も速く運べます。


 営業している区間では、お金も入ります。



 ただ、駅が大きすぎました。



 需要より先に、駅だけが将来へ行ってしまったのです。



 その報告を読んだどろちゃんは、しばらく黙っていました。


「どうかなさいましたか」


 フランソワさんが聞きます。


「売店、閉まったって」


「お客が少ないのでございますか」


「うん」


「では、必要なときに開けばよろしいのでは」


「そうなんだけど」


 どろちゃんは、もう一度報告書を見ました。


 巨大な郊外駅。


 一日数本。


 長いホーム。


 閉まっている売店。



「なんか、知ってる感じがする」


「何を、でございますか」


「ううん。なんでもない」



 駅の外には、まだ空き地がたくさんあります。


 いつか町が伸びてくるかもしれません。


 列車も増えるかもしれません。


 貨物も増えるでしょう。


 そのときには、大きすぎる駅がちょうどよくなるかもしれません。



 でも、いまはまだ。



 次の電車が来るまで、誰もいませんでした。




【小さな説明 ジブラルタル海峡の地図】


 この章は、場所を少し知っていると何を相談しているのかが分かりやすくなります。


 現在のジブラルタルは、イベリア半島の南端にある英国の海外領土です。目印になる巨大な岩山「ザ・ロック」があり、その西側にはジブラルタル湾が広がっています。湾の反対側、スペイン本土にある大きな港町がアルヘシラスです。本作で英国が担保に求めているのはジブラルタルであって、アルヘシラスではありません。


 ジブラルタルの岩山は、北側の細い低地でスペイン本土とつながっています。いわゆる地峡、砂州の部分です。現在のジブラルタル空港の滑走路はこの低地を横切るように造られ、海側へも延びています。そのため本作のどろちゃんは、岩山と港だけでなく、この接続部分まで租借範囲に含めることを妙に気にしています。ここを外すと、ずっと後に飛行場を造りたいとき困るからです。


 海峡を渡ったアフリカ側にあるセウタは、現在もスペイン領です。ジブラルタルの真向かいというより少し東へずれた位置にあり、地中海側の入口に近い港です。そこから西へ海岸をたどるとタンジェがあり、さらに西は大西洋です。タンジェは現在のモロッコにあります。


 つまり英国がジブラルタルとセウタを押さえると、地中海の入口の北岸と南岸にそれぞれ補給拠点を持つことになります。ただし、それだけで海峡を自由に閉鎖できる、という意味ではありません。多数の国の船が使う国際的な通商路なので、拠点を持つことと海峡全体を支配することは別です。


 なお、史実ではジブラルタルは1704年、スペイン継承戦争中に英蘭側の軍によって占領され、その後1713年のユトレヒト条約で英国領となりました。この物語では戦争がすでに終わっているため、その方法は使えません。そこで「鉄道建設資金を英国が貸し、返済が大きく遅れた場合の担保として千年間の租借権を設定する」という、ずいぶん金融国家らしい回り道をしています。


 セウタはこの時代にもスペイン側の領土です。一方、タンジェは少し前の1661年から1684年までイングランド領だったことがありますが、維持費などの問題から撤退しました。本作ではさらに将来、モロッコ本体がフランス側へ入る予定なので、英国がタンジェまで要求するとフランスとの利害がぶつかります。そのため、英国はセウタとそのごく周辺だけにとどめます。


 軌間が違えば、国境を越えて列車をそのまま走らせることはできません。平時には旅客や貨物の積み替えが大きな不便になりますが、戦時には逆に、敵が自国の車両をそのまま持ち込めないという軍事上の利点にもなります。スペインの軍事顧問が広い軌間を勧めたのは、まさにこの点を重く見たからです。史実のスペイン広軌の成立事情には技術面や制度面など複数の要素がありますが、「軌間差が軍事輸送の障害になる」という考えそのものは十分に意味があります。この章では、その利点よりも、毎日の物流を止めないことをどろちゃんと英国側が優先しました。


 モロッコ側の地理も、この相談では重要です。セウタはスペイン側の拠点ですが、その西にあるタンジェまで英国が求めると、話は単なるスペイン債務の担保ではなくなります。後にモロッコはフランスの強い影響下に入り、本作の世界でもフランス側の領域となっていきます。そこで英国が取るのは、海峡の南側ではセウタと必要最小限の周囲まで。タンジェやモロッコ本体へは手を伸ばしません。北側でも同じで、ジブラルタルは求めても、湾の反対側にあるアルヘシラスまでは求めません。英国に必要なのは海峡両岸の使える拠点であって、スペインやモロッコの土地を広く切り取ることではないからです。



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